秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

究極のK2展望トレッキング
バルトロ氷河からゴンドゴロ・ラ越え

  • パキスタン

2012.06.01 update

2012年6月に同行させていただいた、ゴンドゴロ・ラ(峠5,680m)越えの記録をご紹介します。


ゴンドゴロ・ラの頂上にて

ゴンドゴロ・ラ(峠5,680m)越えのルート

世界第2位峰K2。その堂々たる雄姿はバルトロ氷河を歩き切った者だけが辿りつけるカラコルムの核心部コンコルディアより仰ぎ見る事が出来ます。しかし、実は世界中のトレッカーを魅了するこのカラコルムの王道ルートはコンコルディアまででは無く、更に奥へと続きます。それが雪壁登りの技術(クライミング技術4級)を要するゴンドゴロ・ラ(峠5,680m)越えのルートです。このルートは1986年に、コンコルディアとフーシェ谷を繋ぐルートとして開設されました。ゴンドゴロ・ラ越えのベースキャンプは、最初に峠越えをしたアリ・ムハマンド氏の名前を取り、アリ・キャンプと名付けられています。ルートがオープンしているのは毎年6月下旬から8月中旬にかけてで、その間アリ・キャンプとフーシェ側のベースキャンプのフスパンには、レスキューチームが常駐します。毎年ルートがオープンすると彼らがロープをフィックスし安全の為、峠越えのグループに同行してくれます。今回、我々は雪解けが進むとフーシェ側への下りで落石の危険があるので、雪が多く残っている6月下旬に照準を絞りました。


K2を間近に望むコンコルディアのテント場

ロープワークの練習

バルトロ氷河をゆく

まずバルトロ氷河を進んでいきます。コンコルディア(4,650m)まで、徐々に標高を上げる行程です。K2展望とポーターやスタッフの休養の為に、コンコルディアでは連泊し、高度順応は万全。コンコルディアでは大きなセラック(氷柱)にアイススクリューにてロープをフィックスし、実際にアッセンダー・ディッセンダーを使用したクライミングを反復練習しました。

コンコルディアからアリ・キャンプへ

コンコルディアを出発すると、起伏の激しいアッパーバルトロ氷河を上流へ。時々振り返って遠ざかるK2とブロードピークを見ながら、チョゴリザ方面へと進みます。しばらく行くと、チョゴリザ手前で左岸に流れ込むヴィーネ氷河へとルートを取ります。ヴィーネ氷河はモレーンの堆積の無い平らな氷河。太陽の照り返しも強く、道中の通過したキャンプ地がミクサス(目の痛みを意味するそう)と呼ばれているのも納得できます。徐々にルートは一面の雪原に変わり、アリ・キャンプ(5,010m)に到着。寒々しい景観ですが、キャンプ地はサイドモレーン上となる為、氷河上のコンコルディアよりも暖かく感じます。最大4日間の予備日を設けてあるので、衛星電話で下界とも通信し、天気をチェック。幸いにも今晩晴れとの事で、迷わず今晩未明のアタックとしました。


  • K2・ブロードピークを背に歩く

  • ヴィーネ氷河をアリ・キャンプへ

深夜1時、アタック開始

23時30分に起床。簡単な食事を胃に流し込み、1時に出発。暗い中の行動となるので出発時にハーネス等を装着。
月明かりとヘッドランプを頼りにゴンドゴロ峠の取り付きを目指します。取り付きに到着するとアイゼンを装着。フィックスロープにセルフビレイ。アッセンダーを引っ掛け、平均傾斜50度の雪壁登攀が始まります。ポーターは既に我々を抜き去り、丸腰でどんどん登って行きます(彼らはアイゼンも装着しない。靴に靴下を被せて滑り止めとしている。)。アッセンダーの引っ掛りが悪いので、あまり頼らずに縦走用ピッケルを片手にバランスよく登って行きます。傾斜はずっと続くのでは無く、数カ所に分かれていますが、毎年ルートやコンディションは変わります。今回は登り始めが最も傾斜が急だった様子。空が白み始めてきた頃、振り返ると尾根の上にK2、ガッシャーブルムⅠ峰・Ⅱ峰が顔を出し始め、そして5時20分ゴンドゴロ・ラの頂に到着。
カラコルムを制覇したような満足感と絶景に包まれました。


  • ゴンドゴロ・ラへの雪壁登攀

  • ゴンドゴロ・ラの頂上から望むK2

フーシェ谷への下山

フーシェ谷への下山は登りよりもタフなアルバイト。落石の心配があるのでヘルメットを装着し、フィックスロープにディッセンダーを装着。しかし、滑りが悪いのでディッセンダーは外し、カラビナの簡易ビレイのみで平均傾斜50度の雪壁を慎重に下って行きます。一息付くポイントは無く、雪と岩のミックスの箇所もずっとアイゼンを装着したまま一気に下りきりました。
キャンプ地のフスパンはこれまでとは別世界。高山植物咲き乱れる光景にこれまでの緊張もほぐれ泥のように眠りこみました。この後、我々は4日間の予備日を消化するためにK1(マッシャーブルム)B.C.へトレッキング。手厚くサポートしてくれたスタッフやポーター達の為に山羊を一頭購入し振舞い、改めて全員でお互いの検討を讃え合いました。


  • フーシェ側の壁を下る

  • 緑豊かなフスパンへ

関連ツアーのご紹介

究極のK2展望トレッキング
バルトロ氷河からゴンドゴロ・ラ(5,680m)越え

K2、GⅠ、ブロードピーク、GⅡ、カラコルム8,000m峰四座展望の高みへ。バルトロ氷河を歩きゴンドゴロ・ラの氷壁へ。カラコルム究極の展望地、コンコルディアとゴンドゴロ・ラを目指す。

グジャラート・カッチ地方の手仕事をたずねて

  • インド

2012.05.01 update

染め・織り・刺繍 伝統の技が息づくテキスタイルファン憧れの地へ

右:軒下でおしゃべりをしながら刺繍をする少女たち。母から娘へとその技術が伝えられていきます。 左:精緻なミラー刺繍が特徴のムトワ刺繍。この地方の棘のある植物を表現したバワリヤ刺繍やチェーンステッチなどで隙間がびっしりと埋められています。
右:軒下でおしゃべりをしながら刺繍をする少女たち。母から娘へとその技術が伝えられていきます。
左:精緻なミラー刺繍が特徴のムトワ刺繍。この地方の棘のある植物を表現したバワリヤ刺繍やチェーンステッチなどで隙間がびっしりと埋められています。

インド最西端・手工芸の里カッチ地方へ

ギラギラと照りつける太陽の下、ターバンを巻いた男性がヤギの群れを追い、民族衣装に身を包んだ女性たちが家財道具一式を積んだラクダとともに後をついていきます。太陽に反射してキラキラと輝く女性たちの衣装には小さな鏡が縫いつけられ、細かな刺繍が施されていることがわかります。

一見のどかな田舎町に見えるグジャラート州のカッチ地方。実はこの地方の刺繍や染めなどの手工芸技術は海外でもトップクラスに入り、世界中のテキスタイルファンを魅了しています。インダス文明の時代から続くと言われるカッチ地方の手工芸の歴史と魅力をご紹介します。

民族衣装体験
ラクダに家財道具を積み、遊牧生活をするラバリ 族。衣服だけでなく、ラクダの背飾りや布団など も刺繍やパッチワークで飾っています。

富の象徴として発展した手工芸

グジャラート州は南をアラビア海に接し、いにしえから西アジアとの交易の重要な拠点となってきました。藩王や貴族、そして貿易で富を蓄えた商人たちは、自分の権力を誇示するために多くの職人を雇い、金に糸目をつけずに豪華な手工芸品を作らせました。このようなパトロンたちの金銭的支援のもとで発達した手工芸のひとつが「モチ刺繍」です。 モチ刺繍とはシルクやサテンの生地にアリと呼ばれる鈎針と絹糸で細かなチェーンステッチを施すもので、イスラム美術から影響をうけた幾何学模様や花、果物などがデザインさ れています。
「ローガンペイント」と呼ばれるオイルペインティングもまた、パトロンの支援の元、発展した手書き更紗の一種です。赤、青、緑などに染めたヒマ油を手のひらの上で混ぜ、ガム状になったものを針の先端につけて、布の上に下書きなしで描いていきます。モチーフは「生命の木」や「花」「ペイズリー」など。半分描いたあとで布を二つに折ることでイン クが移り、シンメトリーのデザインが完成します。この技術はシリアを起源とし、イラン、アフガニスタン、パキスタンをへてインドに伝わったと言われています。
1947年にインドが英国から独立し、藩王制が解体されると、パトロンたちは財力を失い、多くのモチ刺繍やローガンペイントの職人たちも職を失いました。現在、数家族の みがこの技術を後世に伝えています。

パトロンの庇護のもと発展したモチ刺繍。1ミリ程度のチェーンステッチを刺すもので、現在は数家族のみがその伝統を受け継いでいます。
パトロンの庇護のもと発展したモチ刺繍。1ミリ程度のチェーンステッチを刺すもので、現在は数家族のみがその伝統を受け継いでいます。
 ローガンペイントで綿布に描かれた「生命の樹」。シンメトリーのデザインが特徴です。
ローガンペイントで綿布に描かれた「生命の樹」。シンメトリーのデザインが特徴です。

人々が祈りを託したミラー刺繍

高価な一部富裕層のための手工芸に対して、一般的な家庭で作られていた手工芸もあります。その代表が、細かく割った鏡を布に縫いつけていく「ミラー刺繍」や木製の判子 を布に押して染める型染め更紗「アジュラク」などです。
このような家庭で発展した刺繍には、人々の生活の知恵や祈りの気持ちが詰まっています。たとえば、ラバリ族のミラー刺繍を裏返してみると、裏にはほとんど糸が通っていないことがわかります。これは、貴重な糸を無駄にしないための生活の知恵です。また、女性たちは糸や布の端切れも決して捨てず、大切に保管しています。それらの端切れを利用して房飾りを使ったり、パッチワークにして布団を作ったりするのです。いくつもの小さな鏡がキラキラと光るミラー刺繍は、他人からの妬みや嫉みの視線を退ける「邪視避け」の役割があると言われ、婚礼衣装や子どもの衣服にも使われています。

裏の始末も美しいミラー刺繍。貴重な糸を無駄にしないため、豪華な表の刺繍とはうらはらに裏には糸がほとんど通っていません。
裏の始末も美しいミラー刺繍。貴重な糸を無駄にしないため、豪華な表の刺繍とはうらはらに裏には糸がほとんど通っていません。
イスラムの幾何学模様をもとに発展したブロックプリント・アジュラク。藍や茜など天然染料による染色技術は近年復活・発展しました。
イスラムの幾何学模様をもとに発展したブロックプリント・アジュラク。藍や茜など天然染料による染色技術は近年復活・発展しました。
職人宅で使われていたベッドカバー。シルクの絣の端切れで作られたものです。糸くずや端切れも捨てずに再利用する生活の知恵です。
職人宅で使われていたベッドカバー。シルクの絣の端切れで作られたものです。糸くずや端切れも捨てずに再利用する生活の知恵です。

伝統技術の復興〜アジュラクの復活〜

これらの美しい手工芸は、今までに何度か絶滅の危機に瀕したことがあります。グジャラート州は年間降水量が極端に少なく、今まで地震や飢饉など多くの自然災害に見舞われてきました。生活に困った人々は刺繍や染め物などの作品を二束三文で売って生活の足しにするようになり、多くの貴重な作品が失われてしまいました。18世紀に英国でおこった産業革命後、安易な機会織りの製品が入ってくるようになり、手間暇のかかる手織り、手染めをやめる人もでてきました。グジャラートの手工芸品は質・量ともに衰退の一途を辿っていったのです。

アジュラクはグジャラート州からパキスタンのシンド州にかけて制作されている型染め更紗です。アジュラク製作で有名な村のひとつ・ダマルカ村は、今も昔ながらの天然染料を使っています。しかし、実はこの天然染料による染色の技術は1970年代に一度完全に廃れてしまいました。このアジュラク復活のきっかけになったのが、グジャラート州手工芸開発公社のバシン氏と更紗職人モハマド氏の出会いでした。偶然モハマド氏の作品を見たバシン氏は、貴重な技術が失われていくことに危機を感じ、デザインの描き方や都市向けの商品開発を教えました。一方、ムハマド氏はすでに行われなくなっていた天然染料による染色方法を再開しました。藍、茜、ターメリックなどで染めた素朴な色合いのアジュラクは海外の消費者に歓迎され、現在では世界中から染色関係の研究者が訪れるまでになっています。

世界中で愛されるグジャラートの手仕事

インド政府やNGO、製作者たちの努力により、高度な伝統技術を現代風の用途やデザインに活かした製品を作ることで、グジャラート州の手工芸品は世界中で爆発的な人気を誇るようになりました。

日本にもグジャラートテキスタイルのファンは多く、アンティークの更紗を着物の帯や袱紗に仕立てるなど和のファッションにも取り入れられています。

グジャラート伝統の技に現代風のデザインを取り入れたバッグや小物入れは、日本でも普段使いできるものばかりです。(アジアンギャラリー季節風)
グジャラート伝統の技に現代風のデザインを取り入れたバッグや小物入れは、日本でも普段使いできるものばかりです。(アジアンギャラリー季節風)
参考図書
小笠原小枝監修(2005)
『別冊太陽 更紗』平凡社 金谷美和(2007)
『布がつくる社会関係 − インド絞り染め布と ムスリム職人の民族誌 − 』思文閣出版  三尾稔、金谷美和、中谷純江編(2008)
『インド 刺繍布のきらめき』昭和堂

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ベトナム最北の地を行く ディエンビエンフーからハジャンへ

グジャラート テキスタイル紀行

織物・染物・刺繍に徹底的にこだわった特別企画。染織文化の中心地ブジを拠点に村や工房を巡り、村訪問やワークショップで職人と直にふれあい、NGOを訪問し伝統技術の保護活動について学ぶ。

黄金の棚田と少数民族の旅

  • ベトナム

2012.05.01 update

右:軒下でおしゃべりをしながら刺繍をする少女たち。母から娘へとその技術が伝えられていきます。 左:精緻なミラー刺繍が特徴のムトワ刺繍。この地方の棘のある植物を表現したバワリヤ刺繍やチェーンステッチなどで隙間がびっしりと埋められています。
左:ドンバンの日曜市 右:手に鎌を持ち稲の収穫をするザオ カウ族の女性。背に子を背負った まま作業をする。

織りもの・刺繍

北部ベトナムでは特徴のある様々な民族衣装が受け継がれ、女性を中心に普段着として着用されています。この地域を旅すると道中、まず目にするのは「庭に干された洗濯物」と「軒下で刺繍をする女性」。刺繍がたくさん施されたプリーツ・スカートや藍染の衣類がざっくりと洗われて干されています。白いスカートが干されていれば、白モン族のお宅。色鮮やかな刺繍の衣装なら、花モン族のお宅と遠くから見ても一目瞭然です。そして、農作業や家事の合間に日の当たる明るい場所で衣装をつくるため刺繍をする姿はよく見られる光景です。その手作業は母から子へと脈々と受け継がれ、民族の伝統として守られています。

家の軒下で糸車を使い、慣れた手つきで糸を紡ぐルー族の女性
家の軒下で糸車を使い、慣れた手つきで糸を紡ぐルー族の女性
細かな刺繍が施された花モン族の脚絆
細かな刺繍が施された花モン族の脚絆
スカートのプリーツ加工のためしつけ糸を縫う白モン族の女性。
スカートのプリーツ加工のためしつけ糸を縫う白モン族の女性

収穫の季節

この地方は、一年に一回の収穫を 行う一毛作。山間の狭い土地を有効活用するために、棚田や畑は山 の上まで作りあげられています。一部、中国製の農機具が入ってきている村もありますが、ほとんどの村での作業は機械に頼らず、水牛と手作業の昔ながらの方法。10月にもなると広大な棚田は一面黄金色に染まり、民族衣装を着て作業をする少数民族のあでやかな姿を目にすることができます。棚田が黄金色に染まる10月のハジャン。この時期は、市場の賑やかさとともに収穫期の特別な活気に満ち溢れています。

ランテン・ザオ族の刈り入れの様子。日頃から民族衣装を着ているため、稲穂が黄金に輝くこの季節は金に赤のコントラストが美しい。
ランテン・ザオ族の刈り入れの様子。日頃から民族衣装を着ているため、稲穂が黄金に輝くこの季節は金に赤のコントラストが美しい。
 稲刈り、脱穀をするランテン・ザオ族の女性。水牛がいる光景もよく見ることができる。
稲刈り、脱穀をするランテン・ザオ族の女性。水牛がいる光景もよく見ることができる。

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キーワード

ネパール大紀行

  • ネパール

2012.02.01 update

タサン・ビレッジから望むダウラギリ(8,167m)
タサン・ビレッジから望むダウラギリ(8,167m)

約4,500万年以上前、地球の最高地点は海の中でした。インドプレートが北上しユーラシアプレートと衝突、インドプレートがユーラシアプレートの下に潜り込みながら大陸を押し上げ、8,848mの世界最高峰を創りだしました。 南北約200㎞、東西800㎞の長方形の形をしたネパールは南のタライ平原(最低標高70m)から北はヒマラヤ山脈(最高8,848m)まで、その地形に適応してきた人・動物の生活、美しい自然とその植生が見られる特異な地形を成しています。 世界的な登山ブームが始まった1950年よりネパールには登山客とともに沢山の近代化の波が押し寄せました。都市部では急速な観光地化が続く中、登山客を魅きつけて止まない8,000m峰の高峰群の麓では、現在でも昔から続く晴耕雨読の生活が営まれています。

保護された動物と人々の生活
~チトワン国立公園~

標高1,000mまでの南部に広がるタライ平原を主とする地域は、かつての亜熱帯のジャングルが肥沃な穀倉地帯へと変わり、現在では国土の17%を占めています。数多くの野生保護区もあり、数々の絶滅危惧種の動物をはじめとした野生動物が見られます。ツアーではそのうちの一つ、チトワン国立公園を訪れます。
18世紀初頭から第二次世界大戦後まで王室の狩猟場だったチトワンは、ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハ国王の力によりネパール最大の国立公園に生まれ変わりました。インドサイ(別名:アジアイッカクサイ)、インドガビアル(細く長い顎のワニ)、ガンジスカワイルカ(絶滅危惧種・視力が弱い為に超音波で自らの位置を確認し捕食する)に加え、500種類にもおよぶ鳥類の棲家ともなっています。ジャングルサファリではインドゾウにまたがり、国立公園内を象使いとともに巡ります。5000万年前より進化し続けてきたとされるゾウは44属350種の中から現在ではアフリカゾウ、インドゾウの2種のみが生存しています。古くから皇族の乗り物やインドの王への贈り物として人々に親しまれてきたゾウは現在は手厚い保護の下、国立公園のパトロールや洪水時の人命救助、物資の輸送と、現在も人々の生活に密着に尽力してくれています。

インドゾウにまたがる象使い
インドゾウにまたがる象使い
インドサイ
インドサイ

平原から上部ヒマラヤへ
~変わりゆく景色と人々の暮らしと宗教、仏教とヒンズー教の共存~

国土の68%を占める標高4,000mまでの丘陵地帯と低山ヒマラヤには人口の殆どが集中しています。首都カトマンズをその中心に、数々の観光地を擁します。南に位置する釈迦生誕の地ルンビニでは亜熱帯気候の下今日も巡礼者は後を絶ちません。ティラウラコットでは釈迦が出家するまでの27年間を過ごしたとされるカピラバスティの城址も残ります。
カトマンズ盆地の三大都市カトマンズ・バクタプル・パタンはいずれもネワール文化を残す都市です。18世紀以前、グルカ王の支配下に入るまでカトマンズ盆地を支配していたネワール人は古くからどの他の民族よりも商才・技術・交易に長けており、中世ネパールの繁栄と文化は彼らによってもたらされたものと言われています。人種的にはモンゴロイドとコーカソイドの混血とされ、社会的には他の部族との通婚を嫌い、独自の言語によって独自社会を築き上げてきました。7世紀のはじめ、ネワールの都市は仏教についての学問の中心地として有名でした。そして何世紀にも渡る交易を介しチベット仏教、ヒンズー教との交流を深めていきます。タントラ教の影響を受け始めると神秘的・女性崇拝・犠牲要素が仏教とヒンズー教にも多く取り入れられ、独自の色味がネパールの宗教に加えられてきました。寺院の多くにはその建築過程において途中から別の宗教の要素が取り入れられたものもあり、仏教徒、ヒンズー教徒の両者が参拝するものも少なくありません。そして現在に残る数多くの美しいネワール建築群は多くが17-18世紀、マッラ王朝の時代に建設されています。地震による損壊で数多くの寺院や王宮が建て直されていますが精緻を極めた美しい木彫細工・青銅鋳造等の技術は職人の手により現在にまで受け継がれています。石畳の道を美しい木造彫刻が施された赤レンガの建物の間を歩き、遠くヒマラヤ山群を望む…自然・人・宗教の息づくネパールならではの愉しみがそこにはあります。

釈迦生誕の地ルンビニ
釈迦生誕の地ルンビニ
カピラバスティの城址
カピラバスティの城址
カトマンズに残るネワール建築
カトマンズに残るネワール建築
陶工広場
バクタプルの陶工広場
「美の都」パタン
「美の都」パタン

8,000m峰14座のうちの8座

世界で名立たる8,000m峰14座のうちの8座がネパールにあります。今現在もプレートテクトニクスにより成長を続けるエベレスト山群は刻一刻変わる表情・姿を私達に楽しませてくれます。その厳かな眺望から、昔から現地の人々には高山・またそこの湖は神々の座として信仰の対象であり、汚すことは禁忌とされてきました。年々増え続ける登山者によるごみ問題はネパールの聖なる山々をおびやかしています。
ネパールの中央に位置するアンナプルナ山群のその雄姿はヒマラヤ景勝地ポカラ一帯から望み見る事が出来ます。「豊穣の女神」の意のアンナプルナはその名の通り、その氷河の融け水で付近一帯の山を潤し、緑を育て、私達に恵みをもたらしてくれます。何千万年も前、そこが海の底であった事を物語るようにエベレスト山群道中では今でもアンモナイト拾いが楽しめます。太古からの贈り物探しも旅の一つの楽しみです。

  • ショコンレイクとニルギリ連峰
    ショコンレイクとニルギリ連峰
  • タサン・ビレッジ
    タサン・ビレッジ(※8,167mを誇るダウラギリを目の前にする絶好のロケーションに位置するタサン・ビレッジではホテル屋上から360度山の大パノラマがお楽しみ頂けます。タサン・ビレッジのタサンはタカリの言葉で「タカリ族の住む地域」を意味します。)

タカリ族

塩の街道を呼ばれるジョムソン街道で350万年前以上にこの地に居住を始めたチベット系のタカリ族はチベット交易を営んできた商業民族です。チベットからの岩塩交易を主に、独特で豊かな文化と伝統をこの地に築いていきました。北へ向かう道は冬場雪により閉ざされ、南への道は夏にモンスーンで通行止めになるという自然現象を利用し、南からは穀物を、北からは岩塩を取引していました。
道中のマルファと呼ばれるりんごが名産の小さな街は、かの有名なチベット僧・河口慧海もチベット入域前の準備期間に滞在しています。栄養の乏しい土壌ながら、昨今では海外からの援助も加わり様々な換金作物が栽培されています。厳しい環境の下、山の麓でひっそりと自然と共存する人々の姿は文明社会に生きる私達に忘れかけていた何かを思い出させてくれるような気持ちにさせてくれます。登山家達の野心の対象であり、恵みの源、地球からの贈り物を感じる旅に出かけませんか。

  • ジョムソン街道
    ジョムソン街道
  • ナウリコット村
    ナウリコット村

関連ツアーのご紹介

ネパール大紀行

ヒマラヤからタライ平原までネパールの全てを見る。神々の台座ヒマラヤを仰ぎ、ネワール建築が立ち並ぶ古都を散策。 ゾウの背に揺られジャングル探検。安らぎを求めネパールヘ。

冬のラダックを歩く
氷の回廊チャダル体験とユキヒョウの里

  • インド

2012.01.01 update

厳冬期の1月にチャダルトレッキングに同行させていただきました。
ザンスカール川は、1月半ばから2月末までの間、人が通れるくらいに氷が張ると、チャダル(凍れる川)と呼ばれます。
氷結したチャダルの美しさはまさに大自然のアート。
氷河歩きとも一味、二味も違う、他では決して体験できない氷上トレッキングを体験するため私たちは、ラダックに向かいました。

凍てつく氷上を歩く
凍てつく氷上を歩く

ユキヒョウの里へ

インドの首都デリーより飛行機で出発し、レーの凍りついた滑走路に着陸しました。
到着した日は、スピトク僧院でグストール祭(月のカレンダーの29日目に催される祭)を見学しました。
この祭りは仏の供養と、ダオ(ツァンパで作った人形)の破壊が主題です。
今年も良いことがたくさんありますようにとの願いを込めて、大黒天、吉祥天や墓場の主チティパティ等々、たくさんの尊格が祭りを盛り上げます。地元の人にとっては、このお祭が終わるとチャダルの時期が始まると言われています。

翌日、ユキヒョウの里をトレッキングするため、へミス国立公園に向かいました。
フーシンにキャンプを張り、2日間に渡り、フーシン谷とタルブン谷近辺をユキヒョウ探しに出かけます。
途中、ユキヒョウの足跡や尿の後などたくさんの痕跡に出会いました。
残念ながら今回、ユキヒョウは見れませんでしたが、青羊や鷲など沢山の動物に出会いました。翌日は、ユキヒョウを探しながらルンバク村へ向かいます。今夜は地元の民家に宿泊しました。民族衣装を着させてもらったり、地元のヌードル(トゥクパ)作りにチャレンジしたり、夜は地酒のチャンをいただいたりと、家族の皆さんとのふれあいの中から、ラダックの文化を感じてもらいました。
ユキヒョウトレッキングを満喫した後は、翌日から、いよいよチャダルトレッキングです。

スピトゥク僧院のグストール祭
スピトゥク僧院のグストール祭
民族衣装体験
民族衣装体験

トレッキングに出発

チャダルトレッキングの出発地、ティラドへジープで向かいます。
到着後に、私たちの荷物を運搬してくれるポーターたちと合流し、トレッキングに出発します。
チャダルは氷上トレッキングと特殊なため、ポーターもいつものトレッキングとは違い、ソリに荷物を乗っけて引っ張っていきます。
氷の状態は、今年は気温が低いためとても良いコンディションで氷結していました。
チャダルの氷は常に天候や気候で変化し、様々な色合いや美しい姿を現します。
氷の上はスケーティングして滑ったり、雪の上を歩いたりと同じ氷の上でも色々な歩き方をします。途中、何か所か川が凍っていないため、陸上へ迂回したり、長靴に履き替えて歩くところもありましたが、全てを楽しみながら進んでいきます。

氷上をスケーティングして歩きます
氷上をスケーティングして歩きます
ソリで荷物を運搬するポーター
ソリで荷物を運搬するポーター

チャダルの魅力

チャダルの魅力は、もちろん氷上トレッキングですが、途中、完全に凍った瀑布や、ツォモという鼻の形をした凍らないユニークな滝などを眺めながら歩いていきます。地元の人々は、その滝の流れだす穴には霊が宿ると信じているので、通る時はお祈りを唱えていました。 また、陸上には、青羊や赤羊など野生の動物も時々、顔をだしてくれました。
この時期のチャダルは動物や巡礼、行商、里帰りをするためチャダルを往復するラダッキーの人々との出会いの場でもあります。
そして、復路もチャダルを通りレーへと戻りました。レー着後は、ささやかなパーティーでチャダルトレッキングの疲れを癒しました。

完全に凍った瀑布
完全に凍った瀑布
ユニークな形の滝、ツォモ
ユニークな形の滝、ツォモ
レーへ巡礼の旅に向かうラダッキーたち
レーへ巡礼の旅に向かうラダッキーたち

チャダルとは、真冬のこの時期にしか存在しない氷の回廊です。また近年、地球温暖化の影響も受けて、結氷状態も10年前に比べると、完全氷結する部分は少なくなっています。是非、結氷状態が良い近年の内にチャダルトレッキングを体験していただきたいです。今まで体験したことのないような素晴らしい世界が待っています!

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