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クロワ・デ・アガデス Croix d’Agadez

  • ニジェール

2020.11.12 update

クロワ・デ・アガデス – アガデス十字と呼ばれるトゥアレグ族の銀細工ジュエリー。ニジェール、特にアガデスを訪れると土産物屋として見かけるアクセサリーです。

 

クロワ・デ・アガデスの「クロワ」=「十字」という呼び名は後に西洋人が、キリスト教の「十字架」のモティーフに似ていることからつけた名前。実際には十字ではなく、トゥアレグの部族やエリアを象徴するものであり、アガデスやティミアなど各地域を表すモデルが存在しています。

 

アガデスの鍛冶屋工房にあった「トゥアレグ十字」の表には、トゥアレグの有力な部族・地域を表し21種類記されていました。有名なのは、アガデス、ティミア、イフェロアン、インガルのものでペンダントやピアスなどのアクセサリーにアレンジされています。

 

その起源については諸説あり、かつてのエジプトのファラオの紋章を取り入れた説、イスラム化する以前にキリスト教に触れたトゥアレグ族が「十字架」のモティーフを取り入れたという説など様々。私の最もお気に入りはアガデスで聞いた「恋」にまつわる説。 “ある少女に恋したアガデスのスルタンの息子。その恋を告白するのにどうすればいいか、スルタンお抱えの鍛冶屋に相談しました。トゥアレグの社会において、家事を支える食器や、戦いの武器、そして装飾品の銀細工を作り出す鍛冶屋は大切な存在。鍛冶屋はスルタンの息子の相談を受け、考えました。そこでできあがったのがこの「クロワ・デ・アガデス」。トゥアレグの書き言葉タマシェク語で「愛」を意味する言葉「タルハ」を表すと ○+・。これをタテに書いて並べるとこのアガデス十字のデザインになるのです。果たして鍛冶屋は銀細工で美しくこの「タルハ」を「クロワ・デ・アガデス」の形に仕上げ、スルタンの息子はこの銀細工による「愛の告白」で恋人を手に入れました”、という話です。事実ではなかったとしても、なんとも夢のある話です。

 

トゥアレグの銀細工はカースト(階級)の存在するトゥアレグ社会でにおいて鍛冶屋階級が担当して作っています。まず、ろうでクロワ・デ・アガデスの形を作り、それに粘土をつけてかたどりします。その粘土を火にかけて焼き、ろうがとけたところに銀貨などを溶かした銀を流し込み、冷まし、型をわってでてきた銀を整形・磨いて作ります。現在もアガデスやティミア、イフェロアンには銀細工の鍛冶屋工房があります。中には成功してフランスの有名アクセサリー店に出品している工房も。それでも2007年以降の観光客の減少で、鍛冶屋産の収入も少なくなってしまい、観光客を探して売りに歩いている職人達もたくさんいます。


 
鍛冶屋工房では手作業で銀細工が作られています。ツアー中でもデザインの希望を伝えてオーダーすると砂漠から帰ってくるまでに作ってくれたりします。

アガデスのお店では銀製のクロワ・デ・アガデスのペンダントが大きさにより15~30ユーロ、トァアレグの伝統的な意匠を取り入れた「作品」になると100ユーロを越えるものもあります。もともとはそのトゥアレグ十字を見るだけでその人がどこの地域の出身者がわかり、父から息子へと引き継がれたもの。今ではおしゃれなアクセサリーとして外国人に人気のアイテムになっています。

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おいしいイラン

  • イラン

2020.11.05 update

今日はイランの食事についてご紹介いたします。

 

まず主食として食べられているのが「ベレンジ」というお米で、「チェロー」、「ポロー」とも呼ばれます。日本のもちもちしたお米とは異なり、パサパサしているので油を入れて炊いたりバターをかけて食べることもあります。サフランをかけて、色味を出すことも多いです。

 

もう一つの主食が「ナーン」。厚いものから薄いもの、ゴマが付いているものなど種類は様々です。

 

お米やナンと一緒に食べるのが、日本ではケバブと言われる「キャバーブ」というお肉料理。羊肉でできた「クービーデ」や鶏肉の「ジュージェ」など、こちらも種類が豊富です。イランではお肉料理が多いので、お口直しの為にライムやミント、生の玉ねぎなどがお皿に添えてあることもあります。

 

日本人の口に合うのがトマト煮込み。こちらは、ナスと牛肉の煮込み料理です。

 

また、シチューのような「ホレシュト」というお料理もご飯とナンとの相性は抜群です。

 

また、お魚料理やスパゲッティもイラン人の大好物です。お魚を生で食べることはありませんが、下の写真のようにこんがり焼いて、お米と一緒に食べます。

 

イランのスパゲッティは「マーカーローニー」と呼ばれます。多少薄味なので、ヨーグルトをかけて食べたり、サラダと混ぜたり、食べ方は人それぞれ。

 

メインディッシュの他に、サラダやスープもよく食卓に並びます。日本人に好まれるのが、ジョーという穀物が入ったスープ、「スーペ・ジョー」。さっぱりといただく為にライムを絞って食べるのがおすすめです。

 

果物も豊富です。桃やスイカ、メロン、ぶどう、いちご・・・日本で食べられる果物はもちろん。イランは物価が安いので、一番高級な果物と言われるスイカもまるまる一つで400円ほど。また、なんといってもザクロがおいしいのです。これからの時期は美しい赤色をしたザクロがたくさん出てきます。

 

皆様も是非「おいしいイラン」を体験ください。

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コスタリカのコーヒー

  • コスタリカ

2020.10.29 update

こんにちは、大阪支社の前川です。今回はコスタリカのコーヒーをご紹介します。
 
コスタリカのコーヒー?と思われる方も多いかもしれませんが、実は2008年にはコスタリカにおいてコーヒー生産200周年を迎えるほど古くよりコーヒー生産が行われてきました。中米コーヒーの魅力は、なんといっても『味と香りの豊かさ』だと思います。山岳地帯が多いゆえに『ミクロクリマ』(微気候)も違うことから、同じ国、同じ県産でも農園ごとにバラエティ豊かなコーヒーが生産されています。

 
そんなコーヒー農園の1つ、ドカ農園ではコーヒーの品質を維持するため、100年間豆を取れる木であっても25年しか使用しないそうです。また、コスタリカ政府がロブスタ種の栽培を禁止した為、100%アラビカ種を栽培しています。コーヒー栽培がされている地域は雲霧林帯という気候帯で、年間通して霧の発生しやすいため、寒暖の差もありコーヒー栽培には適した環境です。コスタリカは、世界では小さなコーヒー生産国ですが、ユニークかつ良質のコーヒーを生産する国のひとつです。


 
収穫の行程は、10月~2月の収穫期に赤くなった豆を手摘みをする。大きな水槽で水洗いし、発酵させる。乾燥、天日干しをし、平均5か月寝かせた後、最終工程の焙煎をします。



 
焙煎時間によって異なりコーヒーが生まれます。焙煎時間が長いほど酸味が少なくなり最も長いものがエスプレッソコーヒーとなるそうです。


 
1粒ずつ手摘みをし、水洗い、乾燥をして焙煎されたコスタリカの薫り高いコーヒー。現地で楽しめば味わいはまた格別です。

 

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パミールに残るアリーの伝説

  • タジキスタン

2020.10.23 update

今回は、パミールに残るアリーの伝説をご紹介します。

アムダリヤの源・ゾル・クル

 

タジキスタンのゴルノバダフシャン自治州州都・ホルグからヤン村に向かう途中、パンジ川の対岸のアフガニスタンとヒンドゥークシュ山脈を望む辺りに、一つのさびれた祠(ほこら)が残っています。オストン・シャーヒ・マルドンという名のこの祠は、かつて預言者ムハマンドの従弟、アリーがこの地にやって来たことを記念するものと言われています。

 

   パミールに残るオストン・シャーヒ・マルドン

 

この祠のすぐ近くに、5世紀の要塞跡・カライ・カハカが残っているのですが、この要塞を治めながら、行き交うキャラバンから税金を搾り取った悪い王様を退治したという伝説が残っています。

祠の内部は、パミールの伝統建築であるラテンネル・デッケの屋根で覆われていますが、興味深いのが中に残る祭壇です。まずこの祭壇は、沢山のマルコポーロ・シープの角が乗っています。マルコポーロ・シープは、山の高い地域に生息しているので、それだけ天上の神に近い聖なる動物と言われています。また、狩猟で仕留めたマルコポーロ・シープを、人が生きていくために、ありがたくいただいたという感謝の表れでここに置くのだそうです。

ゴルノバダフシャン自治州の州都・ホルグからヤン村に向かう途中、パンジ川の対岸のアフガニスタンとヒンドゥークシュ山脈を望む辺りに、一つのさびれた祠(ほこら)が残っています。オストン・シャーヒ・マルドンという名のこの祠は、かつて預言者ムハマンドの従弟、アリーがこの地にやって来たことを記念するものと言われています。

マルコポーロ・シープの角が置かれた祭壇とラテンネル・デッケ

 

次に興味深いのが、この祭壇の作りに、かつてこの地で信仰されたゾロアスター教の名残が残っていることです。火を聖なるものとして仰いだゾロアスター教と同じく、今でもお参りに来た人は、この祭壇の上で綿花の油や動物の油で火を付けています。そして、この祭壇の四隅に4つの円形の石がありますが、これはゾロアスター教の4つの聖なる要素「火・水・空気・大地」を表しているとのことです。

 

 四隅に石が置かれ、火がともされる祭壇

 

パミールにアリーが来たという伝説は、ツアーで訪れる「アリ・チュール」という村にも残っています。「アリ・チュール」とは「アリーの怒り」という意味で、かつて多夫多妻で暮らしていたこの辺りの不道徳な人々が、アリーの怒りに触れて滅ぼされてしまったとう伝説が残っています。この町の近くには、「アク・バリク」という聖なる泉があり、この泉の魚は食べてはいけないというお触れもあります。

綺麗な水をたたえたアク・バリク

 

アリーの伝説が残るパミールですが、その絶景は美しいの一言につきます。雪をいただいたヒンドゥークシュを始めとするパミールの山々を眺め、対岸にアフガニスタンを望みながらパミール諸語族の人々の暮らしに触れる旅です。アフガニスタンとの国境をなすパンジ川は、アムダリヤ川となり遙かアラル海まで流れてゆきます。そのパンジ川のさらに上流を流れるパミール川の水源の湖・ゾル・クルが、アムダリヤの源流となります。

 

雪をいただいた大パミール山脈

 

また、イスラム教の聖者アリーの伝説が残る一方、パミールには仏教遺跡も残っています。写真は、ヴァンに残る仏塔の基礎です。シルクロード上にあるパミールは、様々な宗教も行き交った所です。

ヴァンに残る仏塔の基礎

 

ワヒ族の少女

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ウズベキスタンの青の都サマルカンド

  • ウズベキスタン

2020.10.15 update

サマルカンドは中央アジアで最も古くから繁栄した都市で、「青の都」とも呼ばれています。かつて13世紀にはチンギス・ハン率いるモンゴル軍により徹底的に破壊されましたが、その後14~15世紀にはティムール朝の首都となった際に多くの青い建造物が建てられました。


英雄ティムールとその息子たちが眠る「グル・エミル廟」

 


ティムールが愛妃のために建造した「ビビ・ハニムモスク」


かつてサマルカンドの都が築かれ
その後モンゴル軍に破壊された「アフラシアブの丘」

 

何本ものシルクロードが交わり、様々な文明の交差路となっていたサマルカンド。
その中心地となっていたレギスタン広場には3つのメドレッセ(神学校)が配置されています。


3つの神学校があるレギスタン広場

 

メドレッセの1つ「シェルドル・メドレッセ」の入り口に動物と人間が描かれた面白い絵柄があります。これは偶像崇拝が禁止されているイスラム教で、建築家が自分の権力を誇示しようとしたためだといわれています。しかし信者たちから強い批判があり、建築家は責任をとって自殺したという伝説が残されています。


200スム札にも描かれているシェルドル・メドレッセ入口アーチの絵

 

ツアーでは、ティムールの孫で天文学者であるウルグベクが建造した「ウルグベク天文台」にも訪れます。ウルグベクは聡明な学者肌の人物で、詩や音楽の鑑賞も好んだといわれています。


ウルグベク天文台

 

ウルグベクは恒星時1年間を365日6時間10分8秒と計算しましたが、これは現在の精密機器で計算した時間とわずか1分の誤差で、当時の技術でどう割り出したのか詳細には判明していません。


ウルグベク像

 

ティムールやその孫・ウルグベクの人物像や、彼らの建てたブルーの建造物が織り成す世界に魅了されながら、文化・文明・歴史の交差路であったことを肌で実感できるサマルカンド。

ツアーではサマルカンドに2連泊し、じっくりと建造物や町をじっくり見学いたします。
ぜひ青い世界に足を踏み入れてみませんか。

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