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【本の紹介】野鳥の楽園 コスタリカ 「改訂版」

  • コスタリカ

2020.12.23 update

コスタリカで只一人の政府公認日本人ナチュラリストガイドとしても活躍されている下村昌也さんによる、コスタリカの野鳥・写真図鑑が改訂されて登場しました。下村さんはこれまで弊社の「コスタリカバードスペシャル」のツアーの現地ガイドも担当して下さっていました。

 

本書には、コスタリカを代表する242種が掲載されていますが、なんといっても嬉しいのは、解説が日本語であること。一般的な図鑑のものとは異なる下村さんの解説は、目の前で話を聞いているような印象を受けます。図鑑では得られない知識や生態情報、識別のヒントなどが散りばめられており、まるで読み物のような1冊です。

 

 

コスタリカの野鳥の日本語解説としては初めての本です。
バードウォッチングの専門店「ホビーズワールド」で販売しています。

 

>>ホビーズワールドのサイトはこちら

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知られざる島国 マカロネシアの火山諸島 カーボヴェエルデ

  • カーボヴェエルデ

2020.12.11 update

こんにちは大阪支社の高橋です。
今回は、カーボヴェルデの中でも最も火山活動が活発な島「フォゴ島」についてご紹介したいと思います。

 

「カーボヴェルデ」という国名を聞いて、いったいどこなのか・・・そう思われた方が多いのではないでしょうか。まずは、カーボヴェルデという国についてご紹介します。国の正式名称は「カーボヴェルデ共和国」と言い、大西洋の中央、セネガルの首都ダカールがある「カップ・ヴェール岬」より約500km、北アフリカの西沖合のマカロネシアに位置するバルラヴェント諸島(風上諸島)とソタヴェント諸島(風下諸島)からなる共和制の国家です。15世紀~1975年までポルトガル領であった時代もあり、独立に際してアフリカ大陸部のギニアビサウと統合する計画がありましたが、1980年のギニアビサウでのクーデターによって連合構想は破綻し現在に至ります。史跡としてはイギリスのフランシス・ドレークをはじめ多くの海賊や外国の脅威にさらされ、破壊された町シダーデ・ヴェーリャが残っています。

 

カーボヴェルデは、10の島(内9は人が居住。サンタ・ルシア島には定住者がいない)と8の小島で構成され、地質学的にはプレートの運動により大西洋が拡大中に、ホットスポットでマントルの部分融解融で発生したマグマが噴出した玄武岩類が諸島を形成したとされています。現在の島を構成するのは2千万年前から8百万年前の火山岩であると言われています。大小15の火山群島からなるカーボヴェルデ。その中でも最も火山活動が活発な島が「フォゴ島」であり、そのフォゴ島での最大の見所と言えば「フォゴ国立公園」であります。

フォゴ国立公園エリアに入るとすぐ目の前に聳えるカノ火山

 

フォゴ島は、ホットスポットによって形成されたカーボヴェルデ諸島において最も若い火山島で、諸島の西端部に位置しています。ホットスポットで順次作られた活火山がアフリカプレートに乗ってホットスポットの上を東に向かって移動し多島海を形成しています。フォゴ島は1つの火山から成り、島は直径約25キロメートルのほぼ円形というかたちをしています。1995年に起きた噴火活動で、ピコ・レケノという新たなクレーターが出現しました。カルデラは最大9kmの幅があり、外縁は1kmの高さを誇ります。巨大な山頂部はカルデラの中央部にあり、カノ火山(フォゴ山)と呼ばれて、活発な成層火山であり、カーボヴェルデ共和国最高峰の標高2829メートルの山であります。山頂はカルデラの外縁より100mほど高く、火口からの溶岩は、島東海岸に達しました。

中央が「カノ火山(2829m)」 右麓の丘が1995年の溶岩滴丘、その麓が当時の溶岩流跡、左麓、雲の下に小高く広がる丘が2014年の噴火口

 

近年の噴火は2014年11月で、中央火口丘側面での噴火がありました。当時のニュースでは、周辺住民数百人に「コミュニティの人々はチャダスカルディラスを放棄するよう」と、ホセ・マリア・ネベス首相の指示に従うよう避難を呼びかけていました。データによると、噴火は1995年(1995年の噴火は、4月2日から3日にかけての晩に始まり、島は火山灰の噴煙に覆われました)のそれに匹敵するか、それより強大で、物事がさらに悪化する可能性がある、とネベス首相は述べています。

カルデラの外縁、その麓は2014年の溶岩流

 

カルデラ内へ車を走らせ、2014年の噴火の影響で道路が寸断されているポイントまで向かいます。道路上には冷え固まった溶岩流が覆いかぶさっており、黒光りしている溶岩石などをガイドさんが採取してくれました。その後、青空の下、山裾がキレイに広がるカノ山の山容を堪能するため、山麓の散策を楽しみます。

溶岩石を採取するフォゴ島のガイドさん

 

カノ山の麓の散策を楽しむみなさん

 

散策を楽しんでいると、と左右に大小の窪みのあるポイントがいくつも見られました。不思議な窪みのためガイドさんに聞いてみると、これらは以前木が植わっていた跡だったそうです。

不思議な窪み

 

一見溶岩石に覆われているため気付かないのですが、実はこのカルデラ内の土地は肥沃な土地であり、農業が営まれていた場所だったそうです。降水量が極端に少ないカーボヴェルデ、せっかく降った雨を余すことなく木々などのために利用するために考えられた方法で、木や作物をこうして窪みの真ん中に植え込むという方法が取られていたそうです。

窪みの真ん中に植え込まれた苗木

 

カノ火山の麓の散策では、のんびり景色を楽しまれる方々、せっかくのなので小さな溶岩滴丘へと登られる方など、思い思いに楽しまれていました。私も溶岩滴丘に登るグループに同行し、わずか10分ほどで登り切った丘の上からは、カルデラ内部に広がる雄大な景観、また過去の噴火の影響でできた溶岩流跡などを展望することができました。

1995年の溶岩流跡

 

以前は寸断された道路の先にポルテラ村などいくつか村があったそうですが、2014年11月の噴火で村は全壊してしまい、溶岩流はポルテラの村の斜面を下り主要道路のひとつを覆い尽くし、200の家屋やスポーツセンターが溶岩流によって破壊されたとのことでした。噴火当時、カーボヴェルデのホセ・マリア・ネベス首相は数百人の周辺住民に避難をするよう呼びかけたそうで、幸いにも死者はでなかったそうです。

2014年11月の噴火口

 

散策をしていると、数名の男性が廃屋のようになった場所で作業を行っていたり、別の場所では窪みに小さな苗木が植わっていたりもしておりました。いつの日か、この地で農業が、人々の生活が再開される日がくるまもしれない。そう感じさせてくれる場面でもありました。

散策中に目にした農業再生の気配

 

その他、フォゴ島では「フォゴ・ワイン」と「フォゴ・コーヒー」が有名です。フォゴ島の北部に位置するレルヴァ(Relva)という小さな村で「フォゴ産のワイン」の工場見学をさせていただきました。まだ日本では馴染みのない「フォゴ産のワイン」ですが、赤ワイン、白ワイン、スパークリングワイン、何とアイスワインまで生産しており、希望のワインをそれぞれ試飲させていただきました。年間で100,000リットルも生産されているとの情報もあり、日本でたまたま訪れたレストランでカーボヴェルデ産のワインに出会う日があるかも、そんな時レストランで「現地のワイン工房で試飲させてもらったことがありますよ」などと言える日がそう遠くないかもしれません。
※私もフォゴ産の赤ワインを購入しました。


お勧めのフォゴ産赤ワイン

 

さらに東海岸線を北上し、フォゴ島南部に位置するモステイロス(Mosteiros)地区のFeijoal村では、「コーヒー工場」へと訪れます。村周辺の斜面にはコーヒープランテーションが広がっており、コーヒーの木の苗木がたくさん並んでおり、収穫したコーヒーの豆を天日干ししている風景も見られます。ここの工場では、天日干しした実を焙煎前の豆にまで仕上げる作業を行うとの事で、焙煎そのものはカーボヴェルデの別の島であるサンチャゴ島のプライアで行われているとの事でした。フォゴ島のコーヒーは、フォゴ産のワインとともに、お勧めの一品です。
※もちろん、私も購入し、毎朝飲んでいました。

コーヒーの実を選別する女性

 

活発な火山活動を続ける成層火山「カノ火山」をご覧いただけるフォゴ国立公園、さらには、日本でも馴染みの少ないフォゴ産のワインやコーヒーなど。その他さまざまな景観・文化を堪能いただけるカーボヴェルデのフォゴ島はお勧めの島のひとつです。

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シルクロードの食 キルギス料理をご紹介!

  • キルギス

2020.12.03 update


 

今回は「シルクロードの食」をテーマに、キルギス料理をとりあげて記事を書きます。

中央アジアの国、キルギス。古くからシルクロードの中継点として栄えたため、食文化もさまざまです。ソビエト連邦の一部だった時代が長いため、ロシア料理もたくさんありますが、やはり中国・新疆ウイグル自治区と似た食文化が残っています。そして何より、シルクロードを通じて日本とのつながりを感じることができるのです。

 

まず、中央アジアの食事といえばたくさんの前菜です。テーブルには最初からたくさんのお皿が並びます。サラダやナン、さらにはクッキーやデザートの果物が最初から出てくるのも特徴です。

サラダやお菓子や果物が並ぶ前菜

 

そして、キルギスをはじめとした中央アジアの食卓にかかせないのが「ナン」。「ナン」といってもインド料理のナンとは少し異なり、日本でいうパンのようなものです。バザールに行くと、毎日新鮮なナンが手に入ります。

キルギスのナン

そしてこちらは「ラグマン」。日本でいう「うどん」ですね。日本にも多種多様なうどんがあるように、現地にもいろいろな種類のラグマンがあります。一般的なイメージとしては、温かいスープにお肉や野菜の具がたっぷりのったものかもしれませんが、スパゲッティのようにゆがいた麺の上からソースをかけて食べるものもあります。

スープと一緒に食べる一般的なラグマン

スパゲッティのようなラグマン

 

こちらは「マントウ」。日本でいう「肉まん」です。ひき肉、玉ねぎなどを小麦粉でできた生地の中に詰め、蒸し上げます。

マントウ

つづいては「コルダック」という料理。羊肉を炒め、玉ねぎやジャガイモなどの野菜を添えた料理で、こちらは伝統的なキルギス遊牧民の料理です。キルギスではやはり羊肉が一般的です。

キルギス遊牧民の伝統料理 コルダック

お米を使った料理もあります。こちらは「プロフ」とよばれる料理で「ピラフ」のこと。日本でいうところの焼き飯です。少し油が多いので、食べ過ぎには注意が必要です。

プロフ

キルギス料理にはパンの種類がいくつかありますが、なかでも一番人気が高いものが「ボルソック」。小麦粉で作った小さな揚げパンで、ついつい手がとまらなくなってしまいます。

つい手が伸びるボルソック

そして「シシャリク」という肉の串焼き。シシカバブと同じです。独特のにおいから、日本人はラムが苦手な方が多いですが、新鮮な羊がたくさん手に入るキルギスではそれほど臭みもなく、ラムのシシカバブは最高においしいものです。また、キルギスはイスラムの国ですが戒律がそれほど厳しくないため、ポークのシシカバブが出ることもあります。

シシャリク

ほかにも、キルギスの伝統料理のなかで最も重要な「ベシュバルマク」という料理があり、結婚式などの親戚が集まる席では必ず出されます。ベシュバルマクは羊や牛、馬の煮物と手作りの麺から作られます。ベシュバルマクはキルギス語で“5本の指”という意味です。昔のキルギス人は、スプーンを使わずに手でこの料理を食べていました。今でも、ベシュバルマクはスプーンより5本の指で食べたほうが美味しいと言う人もいます。

 

キルギスだけでなく、中央アジアの国々はどこもよく似た食文化をもっています。シルクロードの食文化を味わえる中央アジアの国で、ぜひ実際に味わってみてください。

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探検家が目指した黄金郷・トンブクトゥ(マリ共和国)

  • マリ

2020.11.30 update

今日は前回に続いてマリのトンブクトゥをご紹介したいと思います。

トンブクトゥはもともとトゥアレグ族の宿営地として始まったと言われています。1240年から栄えたマリ帝国の時代、サハラ交易が東に移り、トンブクトゥは北からのラクダの輸送、南から舟で運ばれてくる商品のそれぞれの終着点となり、交易上のとても重要な町となってゆきました。ジェンネと同様に塩と金の交易によってマリ帝国は大きな繁栄を見ることとなったのです。

トンブクトゥへの道中であった塩を運ぶ人々

 

15世紀から16世紀末までマリ帝国に替わってソンガイ帝国が栄えると、トンブクトゥの町はさらに繁栄を極め、交易都市としてだけでなく、宗教都市としても有名になっていったのです。他のイスラム都市から宗教的指導者が招かれ、多くの神学校やモスクが建設されました。

ジンガリベリ・モスク

 

現在、その栄華を今につたえるモスクが残っています。ジンガリベリ・モスクとサンコーレ・モスクです。ジンガリベリ・モスクは14世紀初めに造られたトンブクトゥに残る最古のモスクです。昔は観光客でも中に入ることができましたが、現在はイスラム教徒のみとなっています。

サンコーレ・モスク

 

サンコーレ・モスクはかつてイスラム教の大学の機能を持ち、16世紀までイスラム世界でアラビア語を学ぶ最大規模の大学として有名な場所でした。25,000人以上の生徒が学んでいたと言われています。そんなトンブクトゥの栄華は当時ヨーロッパ各地まで伝わってゆきました。「トンブクトゥの富める王は金でできた杯を数多く持ち、その重量は1300ポンドにもなる、多くの医者や裁判官、司祭、学者がおり、王の財力によって手厚く養われている」というような噂が伝わり、多くの探検家の憧れの場所となってゆくのです。

Tンブクトゥ 探検家ルネ・カイエの家1588年から1853年にかけて少なくとも43人の探検家がトンブクトゥをめざし、4人のみが無事辿りつき、そして3人だけが無事に母国まで帰国したのです。当時、ヨーロッパ人がそのままトンブクトゥに入ることは非常に難しく、見つかると殺害されてしまう可能性が高いため、フランス人探検家ルネ・カイエは出発前に1年間イスラム教とアラビア語を学び、イスラム教徒になりすましてトンブクトゥに入りました。しかし、ルネ・カイエがトンブクトゥに到着した時、既に全盛期を過ぎた町は荒廃が始まり、黄金郷と呼ばれたかつての繁栄はなかったといいます。ルネ・カイエはトンブクトゥに辿りつき、なお無事に帰国した初めての探険家でした。彼がフランスへ戻った後発表した、トンブクトゥについての報告は誰にも信じてもらえず、偽りであると告発されたといいます。


探検家ルネ・カイエの家

 

トンブクトゥに辿りついた探険家が滞在した家々は今でも保存されています。現在は個人の家となっているため、内部は残念ながら見学できませんが、当時彼らが描いた夢の冒険に思いを馳せるのも良いでしょう。

サハラ砂漠の南縁・サヘルに位置するトンブクトゥですが砂漠の波が押し寄せつつあり、当時の栄華は姿を消してしまいました。しかし、かつてヨーロッパまでその名を轟かし、探検家達に夢を与えた町は、これからも訪れる観光客にかつての黄金郷として夢を与えつづけてゆくことでしょう。

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エリトリア人の信仰心にふれる 聖マリア教会

  • エリトリア

2020.11.19 update

今回は、エリトリアの首都アスマラにある聖マリア教会をご紹介します。

エリトリアでは古くからエリトリア正教が信仰されています。エチオピア正教の流れをくみ、1993年のエリトリア独立後、一部がエリトリア正教会として分離しました。現在はカトリック、プロテスタントそれからイスラム教も共存し、様々な宗教を信仰する人々が平和に暮らしています。

聖マリア教会の日曜礼拝

 

この聖マリア正教会のあった場所には7世紀頃から小さな教会がありましたが、現在の建物は1917年~1920年に建てられたもので、正面に描かれる宗教画は1950年代にイタリア人の画家によって描かれました。

教会正面に描かれた宗教画

 

エリトリア正教会では白い服装が正装とされ、人々は白い衣装に身を包み教会に集います。毎週日曜日の朝には礼拝に多くの人々が集い、その敬虔な姿に心を打たれます。

 

祈りを捧げる人々

 

建物は四角形をしており、エリトリア正教の教会内部は3つのセクションに分かれます。観光客も靴を脱いで内部のカディスト(礼拝場所)へと入ることができます。人々の信仰の深さに驚かされるばかりです。

①キナ・マフレット:シンギングプレイスと言われ、ミサの際に歌が歌われる場所です。
②カディスト:人々が礼拝をする場所で、男女別に分かれています。この教会では女性は右側、男性は左側にこのセクションが設けられています。
③カディスタ・カドゥスタン:最奥部に位置する聖室。司祭しか入ることができない、教会でもっとも大切な場所です。

朝、7時過ぎに教会を訪れると、既に司祭による説教が始まっており、多くの人々が集まっていました。

説教する司祭

教会内部にて

 

聖マリア教会を訪れる際には、日曜礼拝の時間に訪れると、建築物としての教会だけでなく、エリトリアの人々の信仰心にも触れることができます。

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