秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

みなさまこんにちは! 五島列島うち8島を巡るツアーをご紹介させていただいているこのシリーズ、今回は2回目です。中通島(頭ヶ島、若松島)、奈留島、久賀島をご紹介いたします!

 

中通島(頭ヶ島、若松島)

五島列島で2番目の面積を持つ中通島。その中通島の南西には若松島、東には頭ヶ島がそれぞれ橋で結ばれています。中通島は先に述べました通り、五島列島2番目の土地面積を持つ島ですが、平野部は僅かです。海岸にかなり急な傾斜地が突き刺さり、その奥は深い森が広がっています。

中通島、若松島、頭が島には、合計29の教会が建ち、祈りの島々として有名ですが、実は神社・仏閣も多数あり、全国的に有名なビーチや、遣唐使関連の遺物も残されています。今回のツアーでは、これら3島を1日で周りましたが、色々細かく見ようとすると、1日では絶対に時間が足りません。中通島の教会を一部ご紹介します。

 

青砂ヶ浦天主堂

 

「青砂ヶ浦天主堂」は、国重要文化的景観「新上五島町北魚目」地区の小高い丘の上に建つ教会です。1910年建立の現教会は、鉄川与助氏設計施工によるもので、信徒が総出でレンガを運びあげ完成となりました。内部のステンドグラスは大変美しく、見事です。また今回の訪問は午前中だったので実際に見ることは叶いませんでしたが、午後になると、太陽の光が正面の丸窓を照らし、教会内部を美しく照らすそうです。2001年に国指定重要文化財、2010年に献堂100周年を迎えました。

頭ヶ島天主堂

 

頭ヶ島大橋を渡ってしばらく行くと到着するのが「頭ヶ島集落」。ここは、1軒をのぞいて皆キリシタンでした。五島崩れ(明治時代に五島にキリシタンが摘発された事件)の時、信徒は牢から全員逃げ出して島を離れ、迫害が終わってからこの地に戻ってきました。頭ヶ島天主堂は、教会建築の父・鉄川与助の設計施工によって建設され、近くの石を切り出して、1919年に完成。2001年に国の重要文化財に、2018年には世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産「頭ヶ島の集落」に登録されました。

 

若松島では、隠れキリシタン洞窟を海上から見学しました。ここは、若松島の里ノ浦のキリシタンが、明治初めの五島崩れの際、迫害を逃れるために船でしか行けない険しい断崖の洞窟に隠れた場所です。洞窟は奥行50m、高さ5m、幅5mのT字型になっており、沖合からは見つけられないようになっている格好の隠れ場となっていました。3家族12人が約4か月間も息をひそめて暮らしていましたが、ある日焚き火の煙が船に見つかってしまい、捕縛され拷問を受ける結果となりました。この洞窟は後にキリシタンワンドとよばれ、1967年入口に十字架と3mのキリスト像が設けられています。

聖母マリアの姿に見えるという海食洞窟・ハリノメンド

キリシタン洞窟に建てられたキリスト像

昼食は、上五島の名物料理・五島うどんの地獄炊きをお召し上がりいただきました。五島全体でうどんは名物ではありますが、乾麺のうどんを釜でゆで上げ、あごだし(干したトビウオの出汁)のつゆ、そして醤油をさしたとき卵で頂く「地獄炊き」は上五島が特に知られています。上五島にあるうどんの名店「竹酔亭」は、かつてのテレビ番組・テレビチャンピオンで全国2位に輝いた実績もあるそう!あごだしの濃い出汁とコシのあるうどんは本当に美味しがったです!

五島うどん・地獄炊き

 

奈留島

奈留島は、五島列島のほぼ真ん中に位置する島です。複雑な海岸線に囲まれており、あちこちで美しい島景色が目に飛び込んできます。「奈留島の江上集落」が世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として構成資産に組み込まれているほか、松任谷由美さんの「瞳を閉じて」の歌でも有名な島です。

奈留島 「江上天主堂」

国指定重要文化財・江上天主堂の歴史は、1881(明治14)年、西彼杵郡などより移住した4家族が洗礼を受けたことにはじまりました。現教会は、1918年、40~50戸あまりの信徒が共同し、キビナゴの地引網で得た資金で建てられました。日本における教会建築の父・鉄川与助の設計施工です。クリーム色の外壁や水色の窓枠がアクセントの、今では少ない木造建築の素朴な教会です。コウモリが羽を広げたような天井は賛美歌の声を美しく響かせるためのもので、柱に描かれた文様や光を巧みに操る技法など、文化財としても価値の高い建築様式となっています。

奈留千畳敷

 

奈留島では、「千畳敷」も訪問。海岸でサンゴを拾いつつ、引き潮だったので歩いて散策しました。少し歩くと古代サイの足跡(!)が残っていますので、ぜひご覧ください。

 

久賀島

 

久賀島は、今では人口は200人と、過疎化と高齢化が深刻な島です。禁教期には外海から移住した潜伏キリシタンが、仏教集落と互助関係を築きながら自分たちで組織的に信仰を続け、「信徒発見」後の厳しい弾圧を乗り越えてカトリックに復帰し、海辺に教会を建てるまでに至りました。それは久賀島の各集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴しています。

 

 

久賀島キリシタン資料館。館内の展示室には島の信者宅で保管されてきたマリア観音や十字架、ミサの合図に使ったほら貝、廃墟となり朽ちてしまった細石流教会の遺物など約100点が展示されています。

近くに建つ牢屋の窄殉教記念教会は、弾圧時代、20㎡の牢獄に約200人が監禁され42人が亡くなった、殉教の悲劇を伝える場所です。久賀島での「五島崩れ」から100年たった1969年、記念聖堂が建立されました。その後1984年、牢屋の窄殉教事件のあった地に移転のうえ聖堂を新築しました。聖堂内部は、中央部12畳分が灰色のじゅうたんで色分けされています。これは約200名の信徒たちが8ヶ月もの間押し込められた牢屋の広さがひと目でわかるようになっており、かれらの苦しみを雄弁に物語っています。正面にある塔『信仰之礎』には、入牢させられたキリシタンたち190人の霊名と名前が刻まれています。

旧五輪教会


旧五輪教会へは、車両を降りて約15分程歩いて行きました。途中、廃墟跡もちらほら。かつてはこの集落にもたくさんの人が生活していましたが、今では2世帯しか住んでいません。この旧五輪教会ですが、1881年建立の旧浜脇教会が1931年の建替えのとき、五輪地区に移築されました。この旧教会が老朽化で解体される寸前、島内の仏教徒の助言によって価値が再確認され、五島市に移譲される事になり文化財として保存されました。世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産「久賀島の集落」に建つ教会です。

 

 

五島列島シリーズ③へと続きます!

 

[シリーズ記事]
8島巡る五島列島!北から南へ大縦断① 宇久島・小値賀島・野崎島

 

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こんにちは!西遊旅行トレッキング担当の児玉(ビリー)です。

今回は、東京都でも丸1日かけてやっと辿り着く都心部から約1,000km離れた小笠原諸島の4月のレポートをお送りいたします。

 

竹芝桟橋から、高層ビルが立ち並ぶ景色のなか東京湾を出発

24時間の船旅のコツ“おがさわら丸”

11時に竹芝桟橋を出航して、翌日の11時に父島に着きます。

―24時間何したらいいか?退屈ではないか?

意外にも快適に、あっという間に時間が過ぎていきます。レストランや売店、シャワー、給湯器、給水器が完備されているので、忙しい日常から開放されて思い思いの時間を過ごせると思います。天気が良ければデッキに出て太平洋を眺めながら、夕日や朝日を見るのおすすめです。

おがさわら丸の船内の様子

太平洋に沈む夕日を眺めながらもの想いにふける

ただ多くの方が、房総半島を過ぎた頃から波に揺られ船酔いすることが多いので、その場合は横になって寝てしまいましょう(酔止めはお昼過ぎには飲んでおきましょう)。あとコツは、お腹を空腹にしないことです。クッキーとか何かしら入れておくと良いです。船中の大半は電波がなくなってくるので、私みたいなiPhoneがないと生きていけない人にとっては丁度よい携帯(デジタル機器)デトックス期間になります。笑

 

島生活のはじまり!!

長い船旅を終え、たどり着いた父島は亜熱帯の気候が広がる大きな島です。

父島の港近く、商店や宿が立ち並ぶ湾岸通り

なんと海開きは1月1日から。天気が良いと、気持ちいい太陽が待っています。海に囲まれた海洋島なので、島の標高が高い山にはガスがかかりやすいのも特徴。太平洋に浮かぶ暖かい島ですが、スコールのような雨も降ります。雨対策も忘れずに。

 

小笠原諸島の生き物たち

今回のツアーで出逢った生き物たちをまとめてみました。生き物にも季節があるので、毎回このダイジェストに出てくる生き物と出逢えるわけではないのでご了承ください。

 

動植物が観察できるシーズン表

父島と母島のトレッキング

6日間のコースでは、父島ではハートロック、母島では乳房山を登ります。ここでは母島のトレッキングをご紹介致します。乳房山は標高463m。なーんだ高尾山より低いではないか、と思われた方。ここがポイントです。登山口の港は海抜ゼロメートルなのです。よってしっかり450mの標高差があります。

でも大丈夫です。島のトレッキングはスタスタとピークハントだけをしたら勿体ない!

世界自然遺産であるここにしかいない固有種の動植物をしっかり観察しながらガイドさんの自然解説を聞いてこそ味わいが深くなるものです。ゆったりとネイチャーウォーキングをお楽しみください。本当にゆっくり登りますのでご安心ください。

多数の気根をぶらさげるガジュマルの大木

ガイドによる懇切丁寧な母島の説明

母島最高峰・乳房山にて登頂証明書取得のための証拠作成(クレヨン塗り)

小笠原諸島からの帰り便

父島・母島、島民のライフラインを大きく担っているのが、実は「おがさわら丸」なのです。貨物船も運行していますが、日常的な物資や青果、精肉などは本土からの唯一の定期便であるおがさわら丸に揺られて届きます。母島も父島も、出航時の島民の心温まるお見送りも一つの魅力です。乗船して荷物を置いたらカメラを持ち、船の右側デッキで出航を待つのが正解です。また戻ってこいよー!!!と力強い島民の思いが伝わってきます。

母島の島民による心温まるお見送り

父島の島民によるまた来たいと思わせてくれるお見送り

父島の船々による熱のこもったお見送り

おわりに

小笠原諸島に行ってみたくなりましたでしょうか?船便しかないので遠い場所ですが、一度は訪れてみる価値がある場所です。コロナ禍で海外に行けない代わりに行ってみてみるのも良いかもしれません。

歩いた先には島が点在するボニンブルーの海景色のご褒美

以上 、ビリーこと、西遊旅行 児玉がレポートいたしました。

 

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みなさまこんにちは。今回は、2020年秋に五島列島を訪問するツアーを添乗した際の様子をご紹介させていただきます。

西海国立公園九十九島ビジターセンターHPより

まずは五島列島とは…について。五島列島は、九州西方にある列島。長崎港から西に100kmに位置し、北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて152の島々から成ります。その中心となっているのは、最も大きな福江島と、2番目に大きな中通島、そしてその間にある若松島・奈留島・久賀島という五つの島です。

地図の上では、北東の中通島から南西の福江島(および、その周辺の小島)までの区域だけに「五島市(福江島・奈留島・久賀島)」や「五島町(中通島・若松島)」という名前が付けられていますが、一般的には中通島の北の小値賀島と野崎島、さらにその北にある宇久島も五島列島の一部として扱われています。

それでは、五島列島を北から順番にご紹介いたします!

 

 

  • 宇久島(うくじま)

五島列島最北の島、宇久島。190万年前の噴火によって誕生した玄武岩をはじめとする火山岩でできた自然豊かな島で、1187年壇ノ浦の戦いに敗れた平家盛が安住の地を求めて辿り着いた島という伝説が残っています。

宇久島の平港ターミナル前に建つ平(宇久)家盛の銅像。ちょうどこれから島に上陸!というシーン

平氏政権を打ち立てた平清盛一派は壇ノ浦の戦いで滅亡したといわれておりますが、実はその清盛の異母弟である家盛は、壇ノ浦の戦い以降も残党の追い打ちを逃れ、各地を経由しながら最終的に宇久にたどり着いたと言われています。

その家盛氏が宇久島にたどり着いた際に船を隠したといわれる場所が「船隠し」です。家盛は、上陸時あわび漁をしていた村民に助けられ、暖をとり食料を与えられました。そのため、この船隠しの場所は、「火焚崎」ともいわれています。

家盛は、その後性を宇久と名乗り、島にもともといた豪族を次々と制圧し、まとめ、五島藩の始祖として七代目まで、ここ宇久島にてその勢力を維持しました。その後五島氏は福江島へと移動し、福江島にてさらなる勢力・領土を拡大していったのです。まさに宇久島は「五島列島発祥の地」なのです。

 

城が岳の山頂から眺める五島列島宇久以南の島々

宇久のほぼ中心にある城が岳の展望台からは、宇久以南の五島列島の島全域が見渡せます。最北端にある宇久島のみ、五島の島全体を見渡せる唯一のポイントに立つことができます!

 

  • 小値賀島(おぢかしま)

小値賀の人類の歴史は、約2万5000年前後期旧石器時代にはじまったと言われています。五島列島の他の島々は、切り立った山々が連なる地形が多いですが、それに比べ小値賀島は、海底火山の溶岩が流れて作り出したなだらかな地形であり比較的島全体が平坦なため、古代から人々が住む事が出来たそうです。現在は人口2400人の二次離島ではありますが、古民家レストランや古民家宿、昔の小学校を改装し宿泊施設とする等、早くからツーリズム産業に着目し、様々な施策を展開している島でもあります。

 

小値賀町歴史資料館は、築250年の小田家の邸宅を新規増築させるかたちで開館しました。小田家は、江戸初期に壱岐から小値賀に移住し、捕鯨、新田開発や殖産振興、海産、酒造業を営み、地域の経済的な発展に貢献した豪商です。館内には小田家の事跡が紹介されているほか、町内の遺跡から出土した旧石器時代から近代までの考古資料、中世に行われた中国との貿易に関する資料、野崎島のキリシタン関連の展示も行われています。

小値賀島の赤浜海岸

赤浜海岸。砂も砂利も赤く、鉄分を多く含んだ火山島特有色がよく分かる海岸です。この赤色は火山礫によるもので、小値賀島が火山だったことを示しています。

 

地ノ神嶋神社

地ノ神嶋神社。前方湾に向かって立つ神社で、慶雲 元年(704)には対岸の野崎島に沖ノ神嶋神社が分祀されています。遣唐使船団の航路が五島列島経由の南東路に変更された大宝 2 年(702)と創建年が近い事、航海上の要衝に面していることから、遣唐使船団の航海の安全を祈って創建されたとも言われています。

 

神方古墳

神方(かみがた)古墳は前方郷相津と前方後目地区の境にある、ほぼ南に開口する横穴式石室墳です。天井石はほとんど持ち去られていますが、側壁は良好な状態で遺存し、その規模は奥行き約3.5m、幅約2m程度と推測されています。屋外にそのままの状況で置かれていたことにやや驚きましたが…古い遺構が間近で見ることのできるチャンスでもあります!

 

 

  • 野崎島(のざきじま)

野崎島は、小値賀島から町営船で約10分。かつては野崎・野首・舟森の三集落があり、多いときには島全体で650人前後の人々が暮らしていました。現在は宿泊施設の管理関係者以外、ほぼ無人状態の島となっています。

野崎島は、沖ノ神嶋神社周辺に広がる原生林や国指定天然記念物カラスバトなどの鳥類、 希少種蝶類、その他数多くの動植生物種の宝庫でもあります。 島内全域には、野生のニホンジカ400頭前後が生息し、自然のままの姿を観察することができます。

野崎島海岸火口跡

野崎集落跡を歩くと、家屋の土台が残っているだけの場所もあれば、まだ家内に家財道具が残っている箇所もあり、人々が生活をしていた様子がまだ漂っています。島を歩いているといたるところで目にする急斜面につくられた石積みの段々畑の跡からは、この切り立った島を切り開き生活の場としていた人々の知恵と努力を伺い知ることが出来ます。

 

野首集落

野崎集落。全て廃墟ですが、家屋のなかを覗くと昨日まで人がいたかのような雰囲気…

野崎島の旧野首教会は、野崎島のちょうど中心にあたる、小高い丘の上に残るレンガ造りの小さな教会です。教会が建つ「野首集落」は潜伏キリシタンが移り住んだと言われる集落で、野崎島にかつてあった3つの集落のうち、舟森集落と共に信仰が深かった地域とされています。

旧野首教会は、集落に住む17世帯の信者たちが貧しい暮らしを続け、力を合わせて費用を捻出し、数年をかけて建てた本格的なレンガづくりの教会です。教会は外部・内部ともに美しく整備され続け、土地の人々に本当に大切にされてきたことを実感しました。

 

旧野首教会

午後は、野崎島の南端に位置する集落跡・舟森(ふなもり)へトレッキング。急潮の瀬戸を望むその場所は、かつて信仰篤き人々がひっそりと暮らしを営んだ場所です。 今は急斜面に石垣が並ぶのみの、廃墟跡もない場所となりました。この舟森トレッキングのルートは、かつて舟森集落で生活していた小学生たちが通った道です。片道約1.5~2時間。照葉樹が美しい、時に歩くにはちょうど良い具合の行程ですが、子どもたちが毎日往復するにはちょっと大変かな、という印象。近代に入り舟森集落からは徐々に人が離れていったとのことですが、お子さまがいる家庭から集落を離れて行った、とのことでした。

舟森集落跡。今はうっすらと段々畑のあとが分かるくらい

野崎島は、島の持つ歴史もそうですがありのままの自然が残っており、本当に島のどこを切り取っても美しく、非常に印象に残る1日でした。

 

五島列島シリーズ②へ続きます!

 

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ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡り。シリーズ最終回では、潜伏の終わりから、その後の日本におけるキリシタン信仰について紹介していきます。

 

潜伏の終わり

時代は幕末、日本とフランスの間で日仏修好通商条約が結ばれると、長崎にはフランス人が居住するようになりました。彼らが祈りの場所を求めた為に1864年に建てられたのが、世界遺産にも登録されている大浦天主堂です。正式名称を日本二十六聖殉教者聖堂と言い、1596年に十字架にかけられた二十六聖人の殉教地・西坂の丘に向かって建てられています。フランス人のためにつくられた教会なので、当時は「フランス寺」と呼ばれていました。

大浦天主堂の献堂式から一ヶ月後、歴史的な瞬間が訪れます。浦上の潜伏キリシタン15人が天主堂を訪れ、堂内にいたプティジャン神父に「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と囁き、信仰を告白したのです。厳しい禁教令と宣教師がいないという状況が250年間も続いたにもかかわらず、信仰が受け継がれているということが、このとき初めて外国人に対して明らかになりました。

この劇的な事件は「信徒発見」と呼ばれ、弾圧によって日本に信徒がいなくなったと考えていたヨーロッパの人々に強い衝撃を与え、また五島や外海の潜伏キリシタンにも口伝えで広まりました。

大浦天主堂

浦上四番崩れと高札の撤廃

「信徒発見」後、精神的支柱を得た浦上のキリシタンは、葬式を仏式でなくキリスト教によって執り行ないました。これをきっかけに、信徒とみなされた68人が捕らえられ、拷問によって21人が棄教するという事件が起きました。その後も自葬による入牢者が続いたことから再び拷問が行われるようになり、明治政府は浦上キリシタンを西日本各地に分散し3,000人以上を流罪にします。これが信徒発見後に起きた悲劇、「浦上四番崩れ」です。

 

また、久賀島での迫害を始めとし、明治元年には五島列島で「五島崩れ」が始まりました。久賀島の牢屋の窄では静かな湾に面したわずか6坪の牢屋に約200人のキリシタンが収容され、43名が命をおとしています。多くは幼い子どもや老人たちで、みなキリシタンの教えに従い、抵抗することなく死を受け入れたと言われています。現在は、「牢屋の窄殉教記念聖堂」と隣接して、43名の墓碑が残されています。

牢屋の窄殉教記念聖堂

 

そのころ、明治政府は使節団を欧米諸国に派遣していましたが、キリシタン弾圧のニュースはすでに欧米に知られていました。使節団は訪問先で予想以上の厳しい抗議を受け、軽蔑されたといいます。キリシタン弾圧が平等な条約を結ぶための障害になっていることに気づいた政府は、ようやくキリスト教禁制の高札を撤去することにしました。これが1873年2月24日、江戸時代に入って以来、二百数十年続けられてきたキリスト教禁教政策に終止符が打たれました。

 

 

禁令解除後のキリシタン信仰

信教の自由が認められると、潜伏していた多くのキリシタン信徒たちは改めて宣教師から洗礼を受けてカトリックに復帰しました。一方で、カトリックに復帰せずに先祖代々の信仰形式を守った人たちもいます。彼らは「かくれキリシタン」と呼ばれ、「禁教が解かれたあともカトリックに戻らず独自の信仰を続けている人々」を指します。仏教や神道の宗教への改宗や、信仰の希薄化などで信徒の数は減っていますが、世界遺産の構成資産が集中する、平戸島・生月島・外海地区・五島列島などで伝承が継続されてきました。外海地区のように、同じ地域や集落の中で同じ信仰を受け継いでいてもカトリックに復帰した者とかくれキリシタン信仰を堅持した者が混在している例もあります。

また、「潜伏キリシタン」は、約250年の禁教期間の潜伏教徒を指す言葉で、「かくれキリシタン」とは区別されています。

 

 

かくれキリシタン信仰

元々はヨーロッパからの伝来したキリスト教を起源としている「かくれキリシタン信仰」ですが、カムフラージュであったはずの仏教や神道の信仰が強くなって、キリスト教の信仰からは変容していると言われています。生月島の博物館・島の館のホームページでは、下記のように解説がされています。

 

禁教時代の信者は須く(並存の形で)カトリックの枠組みから外れる事によってキリシタン信仰を守ったと、ありのままに捉えた方が良いと思います。しかし「(潜伏も含めた)かくれ信者はキリスト教徒か」という問いに対しては、広義の捉え方に立つと否定は出来ないのではないかと思います。

 

カトリックに復帰せずにかくれキリシタン信仰を続けたかくれキリシタンたちは、本来のキリスト教からは変化していても、先祖が伝えてきたキリスト教起源の祈りや行事を絶やすことなく継承していくことが務めと考えていると言われています。

 

日本と西洋が融合した多様な教会堂

宣教師たちは潜伏キリシタンの指導者である水方たちを再教育し、彼らの住まいを教会堂の代わりに祈りの場とすると同時に、各地の集落で信徒の協力のもと、教会堂を次々と建設しました。

 

初期の教会堂は、ヨーロッパ人宣教師の指導のもと日本の大工たちによって建設されましたが、やがて自らによって日本と西洋の技術や材料を組み合わせた素朴ながらも優れた教会堂がつくられるようになります。外観はヨーロッパの形式やデザインを基本とし、内部は日本の伝統的な民家建築の特色を活かして日本的な習慣に合うように設計されており、人々は入口で靴を脱ぎ、床や畳に座って祈りを捧げたのです。

 

1873年にキリシタン禁制の高札が撤去された後につくられた、現存する代表的な教会を紹介します。

 

 

▮ 旧五輪教会(久賀島)

1881年、久賀島で最初の教会堂として建立したのが浜脇教会でした。1931年の建替えのとき、島内の仏教徒の助言によって価値が再確認され、潜伏キリシタンの集落であった五輪集落に寄贈されました。この地区は久賀島の中でいまだに直接車で行くことができない陸の孤島とも言われています。現存する木造教会堂としては最古の部類もので、国の重要文化財にも指定されています。

 

旧五輪教会

旧五輪教会内部・コウモリ天井

▮ 江袋教会(中通島)

1882年、ブレル神父の指導の下に建設された、木造瓦葺き平屋建ての教会です。天井はコウモリ天井、窓は洋式のアーチ型で、外に鎧戸、内にフランス製の色ガラスをはめた扉がありました。実際にミサ等に使用されている最古の木造教会でしたが、2007年に火災のため全焼しています。2010年3月に修復を完了し、同年9月10日に長崎県指定文化財に指定されました。

木造の江袋教会

▮ 出津教会(外海地区)

1879年にド・ロ神父が出津に赴任し、信者と力をあわせ1882年に出津教会を完成させました。強い海風に耐えられるように屋根を低くした木造平屋で、漆喰の白い外壁で清楚なたたずまいが美しい教会堂です。外国人神父の設計による初期の教会として、2011年に国の重要文化財に指定されました。

出津教会

▮ 大野教会(外海地区)

出津教会の巡回教会として1893年にド・ロ神父の設計施工により建立され、一見民家のような佇まいです。近隣で採れる玄武岩で作られた印象的な壁は「ド・ロ壁」と呼ばれています。こうした石壁造りの教会は珍しく、国の重要文化財に指定されました。創設当時は26世帯あった信徒数も過疎化により1980年代には15世帯に減少し、現在は年に一度ミサがあげられるのみとなっています。

大野教会とマリア像

▮ 堂崎教会(福江島)

フレノー、マルマン両神父が五島を訪れ布教にあたり、1879年にマルマン神父によって、禁教令解禁後の五島における初めての天主堂として建てられました。その後着任した、ペルー神父によって1908年に、現在の赤レンガのゴシック様式の教会堂に改築され、建築の際には資材の一部がイタリアから運ばれたと言います。内部は木造で色ガラス窓、コウモリ天井などの教会堂建築となっています。1974年に、県の有形文化財に指定されました。

レンガ造りの堂崎教会

▮ 黒島教会(黒島)

黒島に最初に常駐したマルマン神父が1902年に完成させた荘厳な教会です。信徒と協力して島特産の御影石を積み、40万個のレンガを使い、祭壇の下には1,800枚の有田焼磁器タイルが敷き詰められています。明治期のレンガ造の教会としては規模が大きく、ロマネスク様式の簡素な構成と、リブ・ヴォールトの内部空間は、その後の周辺の教会建築に大きな与えた影響を与えたといわれています。1998年に国の重要文化財に指定されました。マルマン神父は1912年に没するまで黒島で過ごし、今も黒島のキリシタン墓地に眠っています。

黒島天主堂 外観 ※写真はSASEBO港町Dairyホームページより

黒島天主堂 内部 ※写真はSASEBO港町Dairyホームページより

 

その他、日本人大工による設計も始まります。上五島出身の鉄川与助は、小学校を出て大工修業中にフランス人神父から西洋技法を取得し、27歳で鉄川組の棟梁として自立。バラエティに富んだ建築を次々と生み出し、青砂ヶ浦教会の他、世界遺産の12の構成資産のうち、4教会を手掛けています。日本における「教会建築の父」として知られています。

 

▮ 青砂ヶ浦教会(中通島)

1910年建立の現教会は、信徒が総出でレンガを運びあげて建設した3代目の教会です。最初の教会は、1879年頃に建てられたと言われています。コウモリ天井の曲線や色彩豊かなステンドグラスが荘厳な雰囲気を醸し出しています。2001年に国の重要文化財に指定されました。

青砂ヶ浦教会

▮ 野首教会(野崎島)

1882年に木造の教会堂に続き、1908年にレンガづくりの野首教会が完成します。集落に住む17世帯が、本格的なレンガづくりの教会建築の費用を捻出するために共同生活を始め、生活を切り詰めて資金を蓄えました。教会は完成したものの、1966年、小値賀島は無人の地となってしまいます。その後、小値賀町が重要な文化財として1985年に改修し、1989年には長崎県指定有形文化財に指定されました。

斜面に佇む野首教会

▮ 江上教会(奈留島)

19世紀以降、長崎に建てられた木造教会堂の中で、最も整った形式と言われています。1918年、40~50戸あまりの信徒が共同し、キビナゴの地引網で得た資金で建てられました。湿気の多い立地に対応して床を高くするため、煉瓦ではなく、床組に日本式の床束が用いられており、内部では窓の位置が低く感じられます。クリーム色の外壁や水色の窓枠がアクセントで、コウモリ天井や、柱に描かれた手描きの木目の文様、花の絵の窓ガラスになど、信徒の苦労の結晶を見ることができる文化財としても価値の高い建築様式です。

江上教会

▮ 頭ヶ島天主堂(中通島)

1887年には木造教会が建てられ、1919年に鉄川与助の設計施工で現在の石造り教会が完成しました。近くの島から切り出した石を、信者らが船で運び組み立てました。内部は船底のような折上天井で、随所にツバキをモチーフにした花柄文様があしらわれ、「花の御堂」の愛称で親しまれています。珍しい石造で重厚な外観を持ち、華やいだ内部が特徴的な教会として、2001年に国の重要文化財に指定されました。

石造りの頭ヶ島天主堂

▮ 﨑津教会(天草市)

1934年、鉄川与助の設計施工で現教会堂が建てられました。禁教時代に潜伏キリシタンの取り締まりのため、「絵踏」が行われた﨑津村庄屋宅跡に立地しています。尖塔の上に十字架を掲げた重厚なゴシック様式ですが、屋根は瓦屋根で、堂内は国内でも数少ない畳敷きになっています。前方の外壁はコンクリートですが、途中で建設資金が不足し、後方は木造となっています。祭壇はかつて絵踏みが行われていた位置に当たります。

コンクリート造りの﨑津教会

 

これまで、日本にキリスト教が伝来してから、禁教期を経て信仰の自由を得るまでの歴史を辿ってきました。時代に翻弄されてきた日本のキリスト教の歴史はあまり知られていないかもしれませんが、天草・長崎には世界遺産に登録されている箇所をはじめ、信者たちが歩んできた道を物語る歴史的資産が多く残されています。

 

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ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡りシリーズ第3弾では、第2弾に引き続き「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されている構成資産についてご紹介いたします。

 

歴史の流れに沿って分けられている4段階のうち、3・4段階を解説していきます。

 

1:宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ

2:潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み

3:潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み

4:宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり

 

 

第3段階:潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み

 

18世紀の終わりになると、外海地域の人口が増加し、五島列島などへ開拓移住が行われました。移住するにあたり、外海地域出身の潜伏キリシタンは自分たちの共同体を維持するために、移住先の社会や宗教と折り合いをつけることを考慮して移住地の選択を行いました。藩の牧場の跡地利用のため再開発の必要があった黒島へと入植したのをはじめ、神道の聖地であった野崎島、病人の療養地として使われていた頭ヶ島、藩の政策に従って未開発地だった久賀島にも移住し、それぞれ集落を形成しました。潜伏キリシタンたちは、移住先の社会や宗教と関わり、折り合いをつけながら自分たちの共同体のもとで信仰を続けることができました。

 

▮黒島の集落

九十九島で一番大きな黒島は、現在も島民の約8割がカトリック信者の「祈りの島」と言われています。

もとは、軍馬の飼育を主とする島でしたが、外海などから移住した潜伏キリシタンが開墾を進め、人が住める島へと発展しました。この島の潜伏キリシタンは、表向きに所属していた仏教寺院から信仰を黙認されつつ、組織的に信仰を継続させました。現在の黒島には、2年の歳月をかけて建設した黒島天主堂があります。国内でも大型の煉瓦造りの教会堂で、1897年に来島したフランス人のマルマン神父の設計で1902年に完成しました。

 

マルマン神父の墓

 

▮野崎島の集落跡

外海地域から海を渡った潜伏キリシタンは、五島列島一円から崇敬を集めていた沖ノ神嶋神社の神官と氏子の居住地のほかは未開拓地となっていた野崎島に移住し、氏子となることにより在来の神道への信仰を装いながら自らの信仰を続けました。外海から移住してきた潜伏キリシタンは、島中央部の野首と南端の舟森で集落を営みました。険しい斜面に開拓された集落跡には、屋敷跡、耕作地跡、墓地、里道などが残されています。

野首集落跡

野首には、わずか17世帯で建設費用を工面して1908年に完成させた野首教会堂が残されています。1960年代初め、島に野崎、野首、舟森と三つの集落があり、約760人が住んでいましたが、現在は島内の宿泊施設の管理人が籍をおくだけでほぼ無人島となっています。

 

野首教会堂

 

▮頭ヶ島の集落

病人の療養地として使われていた島でしたが、19世紀半ば仏教徒の開拓指導者のもとに外海地域の潜伏キリシタンが移住してきました。表向きは中通島に所在する仏教寺院に属して仏教徒を装う一方、無人島で閉ざされた環境の中でひそかに潜伏キリシタンとしての信仰を継承しました。キリシタン弾圧「五島崩れ」の際には、頭ヶ島でも信者が拷問を受け、島民全員が島を一時脱出したと言われています。

頭ヶ島集落の遠望

その後、鉄川与助の設計施工で、近くの島から切り出した石を信者らが船で運び組み立てて建てた石造りの「頭ヶ島天主堂」が1919年に完成します。白浜と呼ばれる遠浅の海水浴場には、キリシタン墓がずらりと並んでいます。

頭ヶ島集落のキリシタン墓地

 

▮久賀島の集落

福江島の北に位置する久賀島では、禁教令で一度キリシタンは途絶えましたが、外海からの移住によって1797年以降に再びキリシタン集落ができました。信徒発見後の「五島崩れ」のきっかけとなった島で、信仰を表明した200人余が6坪ほどの牢屋に8ヵ月間閉じ込められ、子どもを含む42人が死亡しました。この迫害で命を落とした43人の名前は、墓碑に記されて残されています。

牢屋の窄殉教地の墓碑

禁教が解かれると、各地に教会が建てられました。1881年建立の旧浜脇教会が1931年に建替えられることになった際、五輪地区に移築された「旧五輪教会堂」は、初期の木造教会建築の代表例として保護されることになりました。1999年には、国の重要文化財に指定されています。

旧五輪教会堂

 

第4段階:宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり

 

▮奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)

外海からの農民移住が開始し、奈留島にも移住者が渡り始めると、江上地区にも禁教期の潜伏キリシタンが住み着きました。海に近い狭い谷間に居を構え、わずかな農地や漁業で生計を営み、自らの信仰を組織的に続けたと言われています。1918年には、潜伏キリシタンがキビナゴ漁によって蓄えた資金を元手とし、谷間に開けたわずかな平地を利用して江上天主堂が建てられました。長崎・天草に建てられた数々の木造教会堂の中でも、工法に基づく潜伏キリシタン集落としての風土的特徴と、カトリック教会堂としての西洋的特徴との融合がもたらした教会堂の代表例となっています。信徒がカトリック教会堂として求めた西洋的特徴が、潜伏が終わりを迎えたことを最も端的にあらわす教会堂として、世界遺産に登録されました。

 

ひっそりと佇む江上天主堂

 

▮大浦天主堂

大浦天主堂は、開国にともなって造成された長崎居留地に、在留外国人のために建設されたゴシック調の教会で、現存するものでは国内最古となります。建立直前に殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会で、天主堂の正面は殉教の地である西坂に向けて建てられています。

1864年の完成直後、浦上村の潜伏キリシタン10数人が訪れ、信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となりました。この歴史的な出来事はただちに各地の潜伏キリシタンへと伝わり、各地の潜伏キリシタン集落に新たな信仰の局面をもたらしました。宣教師の指導下に入ることを選んだ人々は、公然と信仰を表明するようになったため、「潜伏」が終わるきっかけとなる「信徒発見」の場所として登録されています。

 

大浦天主堂

潜伏キリシタンの里巡りシリーズ2回の記事に渡り、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12資産を紹介いたしました。
次回はシリーズ第4弾、「信徒発見」によって潜伏が終わってから、日本のキリスト教が真に解放されるまでの歴史をたどります。

 

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