バーブルの生涯とムガル帝国建国

ムガル帝国」は、北インドを観光中、1日に一度ならず何度も何度もガイドの口から出てくるワードの一つです。

 

インドはイギリス植民地として支配下に置かれるまで、ムガル帝国によって支配されてきました。その支配力は常にインド全域に渡っていたものではありませんでしたが、特に北インドにおいては、広く諸勢力を支配下に置き、北インドは長い間ムガル帝国の基礎・拠点となってきました。

 

デリー、アグラを中心とする北インドエリアでは帝国の統治下において、インド・イスラーム文化が華開き、現代にも多くの遺産が受け継がれ、大切にされています。

 

今回は、その「ムガル帝国」建国までの歴史と、創立者であるバーブルについて紹介します。

 

バーブル(左)と息子フマユーン(右)
バーブル(左)と息子フマユーン(右) (出典:間野 英二 著 「バーブル―ムガル帝国の創設者 」山川出版社 2013年)

■生誕とサマルカンド奪還の野望

1483年、バーブルは現在のウズベキスタン東部に位置するフェルガナ地方にティムール朝の王子として生まれました。

父親は14世紀末に中央アジアに覇権を唱えたティムールの血、母親はモンゴル帝国のチンギス・ハンの血を継いでおり、バーブルは輝かしい出自であったと言えます(バーブル自体はティムールの5代目の子孫でした)。
フェルガナの領主の息子として育ったバーブルですが、1494年、父親の突然の事故死により、僅か12歳でフェルガナの領主となります。

 

当時サマルカンドを都としていたティムール帝国(1370-1507)は既に凋落の一途を辿っていました。諸勢力がサマルカンド獲得を巡って攻防を続けていましたが、バーブルもこの攻防に参加し、ティムール帝国の再興をもくろみます。

バーブルは1497年には従兄のバイスィングル、1500年にはウズベク系のシャイバーニー朝、また1511年には再度シャイバーニー朝を破って計3回のサマルカンド入城を果たしましたが、どれも短命政権に終わり、サマルカンドを後にすることとなりました。

 

現在のサマルカンド レギスタン広場
現在のサマルカンド  レギスタン広場(正面の神学校はティムール朝第4代君主ウルグ・ベクによって建てられました)

 

■インド支配への道

3度にわたるサマルカンド支配に失敗したバーブルは、サマルカンドから南部へと路線を変更します。アフガニスタンのカーブルに最初の拠点を築いたバーブルは、同じくアフガニスタンのカンダハール、パキスタンのペシャワール、そしてインドのパンジャーブへと進軍し、徐々にインド方面へ目を向けるようになっていきました。
1520年にはタジキスタン南部のバダフシャンを占領し、2年後の1522年にはさらに南下してカンダハールを占領。カーブルを拠点として、インド方面へと支配力を広げていきます。

 

また、バーブルはインドへ6度に渡って遠征を繰り返しています。カブールは大帝国の都としては十分な土地ではなく、始めは単に財貨の略奪を主目的としてインドへの遠征を行っていました。北西インドでは10世紀頃からイスラーム勢力の侵入が激しくなってきますが、このような財貨の略奪を目的とした遠征は当時としても珍しいことではなかったようです。

 

しかしインドへの遠征の中でバーブルはその豊かさに驚き、次第にインドを拠点とした建国を目指すようになります。徐々に力を増したバーブルは、当時の北インドのイスラーム勢力の内部抗争を好機とみて本格的な侵攻へ向かいます。1526年、第6次の遠征で、バーブルはデリーから北西に約90kmのパーニ―パットにてローディー朝を破り、デリー・アグラヘ入城。ここから、単なる略奪ではなく、インドに拠点を置いての本格的な支配へと移行していきます。

 

第一次パーニーパットの戦い
第一次パーニーパットの戦い(画像出典:パーニーパット県公式Webサイト)

 

若くから各地を転々とし建国の野望を秘めていたバーブルは、43歳にしてようやくムガル帝国の建立に至りました。「ムガル」とは、ペルシャ語でモンゴルを意味する語が変化したもの。バーブルがティムールの子孫であり、モンゴル系の血統を継いでいることに由来しています。実際はムガル帝国という名は自称していたものではなく、自称としてはヒンドゥスターン(ペルシャ語で「インダス川の土地」を意味)と名乗っていたようです。

 

当初はデリーとアグラ周辺を支配する小国に過ぎなかったムガル帝国ですが、バーブルは息子で後に第2代ムガル皇帝となるフマユーンとともに、ガンジス川沿いに東方のビハール、そしてベンガル地方へ遠征を繰り返して勝利を治め、インドでの支配基盤を整えていきました。

 

■バーブルの最期

1530年、病に倒れ遠征から帰ったフマユーンのため、バーブルは自らの命を捧げてフマユーンの回復を祈る儀式を行います。フマユーンは無事回復しますが、それからほどなくした1530年12月26日、バーブルはアグラにてその47年の生涯を閉じました。

 

諸国を遍歴し、ムガル帝国の建立後も僅か4年でその生涯を終えたバーブル。文学と書物を愛し、詩人でもあった彼は、その自伝を『バーブル・ナーマ』(バーブルの書)として書き記しており、まさに波乱万丈の生涯を窺い知ることができます。

 

バーブル・ナーマ
バーブル・ナーマの一部

 

バーブルは、自らの死後は初めて自分が拠点としたアフガニスタンのカーブルに葬ることを遺言として残していました。しかし、バーブル死後の戦乱のためにカーブルへの埋葬は叶わず、まずはヤムナー川沿いのラーム・バーグ庭園に葬られることとなります。バーブルの治世は僅か4年でしたが、このラーム・バーグ庭園はその中でバーブルが命じて建造した数少ない建築物でした。

 

その後、バーブルの棺はカーブルに移され、現在にまで伝えられています。

 

 

バーブルの墓
バーブルの墓(アフガニスタン カーブル)

 

Text by Okada

カテゴリ:■インド北部 , インドの偉人
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ダージリン④:ヘリテージホテル ・ウィンダメア

ナマステ、西遊インディアです!

ダージリンはインド国内外から多数の観光客が訪れる一大観光地となり、現地には多数の宿泊施設が建ち並ぶようになりました。全室ヒマラヤビュー、街の中心地にある、リーズナブル、コロニアル風…等々、様々なこだわりやポイントを打ち出したホテルがあり、選択肢は幅広いです。

 

そんなダージリンでの宿泊ですが、今回は弊社スタッフ一押し「ウィンダメア・ホテル(Windamere Hotel )」について紹介します。

 

Daejeeling
ホテル・ウィンダメアへ!
Darjeeling
コロニアルロイヤルスイーツ ベッドルーム Windamere WEBサイトより

 

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メインハウス内にある暖炉のあるコモンルーム クリスマス前だったのでお部屋は装飾されていました!

 

 

■歴史

ダージリンは、19世紀インドを植民地にしていたイギリスの統治下におかれ、在印英国人の避暑地・学校の街として開発されました。また、今となっては紅茶の最高峰として世界に知られるダージリンティーも、この時代に栽培が始まっています。そんな中、イギリス人の紅茶農園主人の邸宅として1841年に建てられたのがこのホテルの始まりです。後に改築され、1930年代からホテルとしての経営が始まりました。当時の調度品、雰囲気をそのまま残し、サービスもイギリス統治時代のまま受け継がれています。

その後増築もされ、敷地内にはメインハウスの他に、コテージタイプの棟も建てられました。

 

 

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ホテルのコテージ部分

 

 

■ウィンダメア・ホテルでの宿泊

ホテルが位置するのは、ダージリンのランドマークともいえるオブザーバトリーヒル。見晴らしが大変よく、中庭にはルーフトップへの階段も設置されていて、晴れていればヒマラヤ山脈を見渡すこともできます。
ウィンダメアホテルの敷地面積は結構広く、整備されたお庭も広がっていますので、晴れていればお散歩も楽しめます。

街の中心まで徒歩圏ですが、高台にあるため一日中大変静か。静かにゆったりとくつろぐことが出来ます。

 

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12月はマリーゴールドがきれいに咲いていました

 

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見晴らしの良い中庭

ウィンダメアホテルは、イギリス植民地時代の雰囲気をたっぷり残しておりますが、その一助になっているのがホテル内の調度品や設備品の数々。特にお部屋の暖炉が素敵でした。ダージリンは標高があるため朝・夜は冷え込みますが、空調はありません。代わりに、各部屋には暖炉が設置されており、スタッフが火をくべて温めてくれます。

訪問したのは12月でしたが、この暖炉のおかげで朝まで一度も寒さを感じることなく休むことができました。各お部屋は天井が高く、結構な広さがありますが、暖炉の威力ってすごいな…と実感。

 

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暖炉に火を灯してくれました
客室の暖炉の一例

 

 

■ハイティー

ダージリンに来たのであれば美味しい紅茶を味わいたいですよね。ウィンダメアホテルでは、毎日夕方ごろに宿泊ゲスト用にハイティーのサービスがあります。使用されている紅茶は、キャッスルトンという紅茶農園のセカンドフラッシュ。とても香り高い紅茶です。

アフタヌーンティーのメニューは、野菜のサンドイッチ、ビスケットケーキ、クッキー、等々。もちろんハイティーには欠かせないスコーンもあります。ジャムやクロテッドクリームを添えていただきます。

 

英国の雰囲気漂うウィンダメア・バーでゆっくりソファに腰掛けていただくも良いですし、晴れていればテラスで、ダージリンの澄んだ空気とともにダージリンティーを味わいながら過ごすのも素敵です。

 

焼き菓子を提供してくれます
Darjeeling
ウィンダメア・バー
Darjeeling
ウィンダメアの紅茶はホテルで購入可能です!

 

■食事

食事は、ダイニングルームでいただきます。キャンドルの明かりだけで灯されている夕食は、雰囲気たっぷりでまるでタイムスリップをしたよう。コンチネンタル料理とインド料理を楽しむことが出来ます。

 

ダイニングルーム  蝋燭が灯されロマンティックな雰囲気
サーブしてくれました
朝食の例 ダージリンティーと一緒に

 

 

ウィンダメア・ホテルでは、インドの他の場所ではなかなか体験できない優雅な時間を過ごすことが出来ます。

伝統的なホテルに滞在する特別な週末はいかがでしょうか。

 

 

 

 

≪西遊インディアのツアーの紹介≫

■世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

 

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ダージリン③ 世界遺産 ダージリン・ヒマラヤ鉄道

ナマステ、西遊インディアです!
ダージリンを紹介する第3回目の記事では、「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」を紹介します。

「インドの山岳鉄道群」として、インド国内3か所の鉄道が世界遺産登録されていますが、ダージリン・ヒマラヤ鉄道はその中でも1番初めに登録された、アジア最古の登山鉄道です。

  

■ダージリン・ヒマラヤ鉄道とは?

トイ・トレインという愛称で知られるダージリン・ヒマラヤ鉄道は、西ベンガル州の交通の要衝であるシリグリのニュー・ジャルパーイーグリー駅から、ダージリン駅までの約88Km、高低差2000mをつなぐ登山鉄道です。

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は、1999年に世界遺産に登録されましたが、その後、南インドのニルギリ山岳鉄道(2005年登録)、カールカー・シムラー鉄道(2008年登録)も追加となり、現在は世界遺産「インドの山岳鉄道群」として登録されております。

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は、鉄道における世界遺産としては世界で2番目の登録でした(1番目はオーストリアのゼメリング鉄道です)。

 

 

ダージリン・ヒマラヤ鉄道

 

■開通に至るまで

1879年、紅茶の輸送と避暑客の便宜を図るためにイギリス人が建設を開始しました。レール幅を610mmとかなり狭くなっておりますが、これは現地に既に存在していた山道や地形を流用しやすいようにしたためです。

 

機関部分には小回りの利く小型タンク機関車を採用しました。トンネルを掘ってレールを敷くとコストがかかってしまうため、山間を縫うように路線を設定しました。そのため全行程の約70%がカーブ区間となっています。イギリス産業革命により発明された当時の最新技術を駆使して造ったと言われています。

 

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レール幅61センチ! なんとも可愛らしい!

蒸気機関車は、イギリスのグラスゴー製で、最も古いもので130年、最も新しいもので120年経っているとのこと(いずれにしても古いですね)。

お客様用の車両は、1車両約40席ほどですが、古い機関車であまりパワーが無いので、2両までしか牽引できません。

実際に乗ってみると、古い機関車がよいしょ、よいしょと一生懸命坂道を登っていく感じが、なんとも応援したくなります。

 

 

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100年以上使われている蒸気機関
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ダージリン・ヒマラヤ鉄道の車両

 

 

■トイトレインに乗ってみよう!

ダージリン・ヒマラヤ鉄道は本来始発駅から乗車すると7時間程かかりますが、観光客用に、ダージリンから出発する「JOY RIDE」という列車が走っています。このJOY RIDEに乗れば、ダージリン駅からグーム駅までの往復2時間の乗車を楽しむことが出来ます(ご希望であれば片道のみの利用でグーム下車も可能です)。

グーム駅は、標高2,258mと、世界で2番目に標高が高い場所に位置する駅です。

 

ダージリン駅

ちなみにこのJOY RIDEの列車チケットを予約の際に、蒸気機関か、ディーゼルかは予め分かるようになっておりますが、蒸気機関車はよく調子が悪くなり、メンテナンスに入ることもしばしば。そのため折角蒸気機関で予約が取れていても、当日ディーゼルが来た…ということも少なくありません。乗車日当日は、ダージリン駅で蒸気機関が目の前に登場するまでは油断できませんのでご注意ください。

 

乗車していよいよ出発!

 

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街中を走るダージリン・ヒマラヤ鉄道
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街中に敷かれているトイトレインの線路。

 

蒸気機関車は大量の煙と灰を吐き出しながら、ダージリン駅からグーム駅までの8kmを時速約10kmでゆっくりと走っていきます。

駅を出発して前半は、ダージリンの街中を走ります。線路ぎりぎりまで家や商店が建てられていますので、ぶら下がっている売店のスナックや洗濯物にも手が届きそうな距離です。時速10キロというゆっくりなスピードですので、車はもちろん、途中自転車にも追い抜かれました。

こうして人力に近いスピードで、地元の人々の生活風景の一部を見ることが出来るのは他の世界遺産登録されているニルギリ鉄道、カルカ・シムラ鉄道にはなく、独特の面白さがあります。

煙を上げて走っていく間、窓が開いている車内には煙の匂いが漂い、煤が顔にあたり少し黒くなっている人もいました。日本ではなかなか珍しくなってきた機関車の旅、やっぱりいいものですね。

 

列車は街を抜け、標高を上げながら走っていきます。どんどん緑が多くなってきました。

 

 

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グーム駅に向けて走っていきます

 

グーム駅に到着する手前、バタシア・ループで10分程停車します。バタシアは、ネパール語で「風が強い」という意味があり、実際に風の強い場所のようです。ループとは、急こう配の坂を登る際に、高度調整をするために大きく円を描くように線路が回る所のこと。このバタシア・ループは、数か所あるループの中で最も美しいとされている所です。

 

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バタシアループ
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バタシアループの広場。いいお天気でヒマラヤの展望もバッチリ
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グルカ兵戦没記念碑

バタシア・ループはちょっとした広場となっており、ネパールの山岳民族から構成されるグルカ兵の慰霊碑も建てられています。

 

そして天候に恵まれれば、カンチェンジュンガとトイ・トレインのツーショットをカメラに収めることもできます!

 

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白く美しいヒマラヤと青い空と黄色いマリーゴールドの花と鉄道

 

世界遺産の鉄道に乗って、一味違うダージリンの街並み、ヒマラヤの展望を味わってみてはいかがでしょうか。

鉄道好きな方は、ぜひ「インドの山岳鉄道群」の3つ制覇を目指してみてください!

 

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≪西遊インディアのツアー紹介≫

世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

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インドの商業と娯楽の中心地:ムンバイ

ナマステ!

 

西遊インディアの岡田です。今回はインド最大の都市・ムンバイの歴史と主要な観光地をご紹介いたします。

古くは16世紀からポルトガル、そしてその後はイギリスの植民地として外へ開かれ、自由な空気の漂うコスモポリタンとして巨大都市へ成長してきたムンバイ。現在はインドのビジネスの中心地として、また西インドの観光の拠点としても国内外から多くの人々が訪れます。

 

2011年の国勢調査では、ムンバイ市の人口は約1,250万。隣接するムンバイ新市街として建設されたナビムンバイやムンバイの衛星都市として発展してきたターネーも含めると、都市圏人口は、約2,300万人となります。まさに、アジアを代表する巨大都市。ムンバイの街中は常に人が溢れており、活気が溢れ、並々ならぬパワーを感じることができます。

 

また、ムンバイはインド映画の中心地・ボリウッドとしても有名です。アメリカの映画産業の中心地・ハリウッドのインド版として、「Bombay」の頭文字「B」をとりボリウッドと呼ばれています。年間2000本近くの映画が撮影されているインド映画界を牽引する存在です。

 

現在は一大都市となっているムンバイですが、かつては小さな漁村でした。16世紀、当時のスルタンより7つの島々を獲得したポルトガルはこの地に要塞と教会を建て、ポルトガル語で「良い港」を意味するボンバイアと名付けました。後にポルトガルは1661年にポルトガル王女とイギリスの王子の婚姻の際に贈り物としてこの地をイギリスへと委譲。東のコルカタ・西のボンベイ(ボンバイアは英語名でボンベイと表された)を拠点にインド支配を着実に進めていったイギリスは、国内に張り巡らせた鉄道網で各地の産品をボンベイへ送って集め、スエズ運河を通してヨーロッパへ輸出していきました。これにより、イギリスはさらにインドでの支配力を増していきました。

 

1900年代に入り、インドの反イギリス支配の声が大きくなり始めた頃、ムンバイではインド独立運動が盛んに行われました。インド建国の父マハトマ・ガンディーも頻繁に訪れ「クイット・インディア(インドを立ち去れ)」運動が繰り広げられました。

インドの分離独立後は、ムンバイはグジャラートのエリア一帯も含むボンベイ州の州都となりましたが、後に言語の違いによりさらにムンバイ州がグジャラート州とマハーラーシュトラ州に分割され、マハーラーシュトラ州の州都となりました。州都の公式名称がボンベイからマラーティー語のムンバイと変更されたのは、1996年のことです。

ムンバイは植民地時代から、インド国内外の貿易拠点としてお金が集まり、そのお金を目指して人間が集まり、徐々に巨大都市へと発展していきました。現代でもその流れは止まらず、多くの人が地方から職を求めてムンバイへやってきています。

 

それでは、ムンバイの見どころを簡単にご紹介します。

 

■チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅

 

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チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅外観

インド貿易の要となった鉄道網ですが、そのアラビア海側の終着駅がヴィクトリア・ターミナス駅です。もともとは当時のヴィクトリア女王に因んでこの名がつけられましたが、現1988年に現:チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅に改称されました。ヴィクトリアン・ゴシック様式を基本としつつ、尖塔に代わってドーム屋根を使用し、各所にアーチを施す等インド的・オリエンタルな要素で装飾されているのが特徴です。イギリス植民地時代のインドの代表的な建築物の一つです。

新名称として採用された「チャトラパティ・シバージー」は、ムガル帝国、そしてイギリスに抵抗してマラーター同盟を結成した17世紀の英雄:シヴァージーの名をとったもの。チャトラパティは王の称号を意味します。インド独立運動の際にも反英運動の一つの象徴として人気を持ち、勇敢な「戦うヒンドゥー教徒」として、各地にその像が建立されています。

1887年に完成した駅舎は現在でも利用され、インド国内でも最大級の乗降者数を誇っています。駅の目の前の交差点には写真撮影用のスペースが確保されており、駅舎を眺めることができます。

 

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駅のすぐ横に建つムンバイ市庁舎

■エレファンタ島石窟寺院

 

エレファンタ島の3面のシヴァ神像
エレファンタ島の3面のシヴァ神像

ムンバイの一大観光/巡礼の名所となるのがエレファンタ島の石窟寺院群です。6~8世紀に開窟されたこの石窟群にはもともと複数の石窟が開かれたものの、16世紀にポルトガル人によって発見された際に多くが破壊されてしまい、現在一般に公開されているのは第1窟のみとなっています。

 

エレファンタ島、第1窟の外観
エレファンタ島、第1窟の外観

 

エレファンタ島、第1窟の内部
エレファンタ島、第1窟の内部

第1窟はエレファンタ島最大の石窟寺院で、シヴァ神を祀るための寺院です。内部には中心部のシヴァリンガを囲むように回廊が設けられており、壁には様々なシヴァ神話のシーンが見事なレリーフで表されています。パールヴァティをはじめとするシヴァの親族、またヴィシュヌやブラフマーなど他の主神も登場しますが、やはりシヴァとパールヴァティが主役となるシヴァ派ヒンドゥー教の世界観を生で感じることができる場所です。

 

エレファンタ島 核心部のシヴァリンガ
エレファンタ島 核心部のシヴァリンガ

 

■インド門

エレファンタ島へのボートの発着地となるのがインド門です。かつて1911年にイギリス国王ジョージ5世夫妻の来印を記念して建立され、その後1924年に完成しています。玄武岩製、高さ26mのインド門は当時はイギリス帝国の権威と権力の象徴でしたが、現在ではムンバイ市のシンボルとなっています。

 

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インド門
インド門広場に面して建つタージ・マハル・ホテル
インド門広場に面して建つタージ・マハル・ホテル

 

海から見たタージマハルホテルとインド門。手前にはエレファンタ島行の船が見えています。
海から見たタージマハルホテルとインド門。手前にはエレファンタ島行の船

インドの伝統的な家庭では男性が外に出てお金を稼ぎ、女性が家庭内の仕事を行いますが、ムンバイでは女性の就労率が国内の他の都市と比べて比較的高く、現市長も女性のキショリ・ペドネカール氏が就任するなど女性の社会進出も進んでいます。一方で格差の拡大や人口の過集中など、他の大都市が抱える問題も同様に抱えており、スラム街を見下ろすように聳える高層ビル群は格差社会を象徴するような風景です。スラムの住人は主に漁業を生業とする人々でしたが、現在では職を求めてムンバイへ移住してきた出稼ぎの労働者等が、家賃の安いスラムでの生活を始めることが多いそうです。

 

また、映画の街ボリウッドとしても名高いムンバイは様々なインド映画のロケ地となっています。ムンバイに暮らす様々な境遇を生きる男女4人の姿を描いた映画「ムンバイ・ダイアリーズ」(2011年)では全てのロケがムンバイ市内で行われており、ムンバイの雰囲気、またインド人にとってのムンバイのイメージを存分に感じることができる一作です。またこちらはインド映画ではありませんが、ムンバイのスラム出身の少年を主人公とした「スラムドッグ$ミリオネア」(2008年)は、アカデミー賞はじめ数々の映画賞を受賞し日本でも大きな話題となりました。

 

インドの伝統と自由な思想が大都市の中で混ざり合うムンバイ。
世界遺産のより詳細なご案内や他の見どころについては、また別の記事でも紹介いたします。

 

 

 

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南国ケーララでハウスボートクルージング②

ナマステ! 西遊インディアです。
本記事ではケーララ州の水郷地帯で楽しむハウスボートクルーズの2日目の様子をご紹介いたします。

(前回の記事はこちら

 

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2日目の早朝。日の出過ぎに、ハウスボートは動き出します。

こちらは寝室から見えた地元の漁師の方。小さな船に立ちながらバランスよく作業する様はまさに職人技でした。

 

Kerala
早朝小舟をだす村の人
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眩しく輝く朝日

朝食は南インドの定番朝ごはん、イドゥリー(豆と米の粉などから作った蒸しパン)とサンバル(スパイスたっぷりの南インド風スープカレー)。そして搾りたてのパイナップルジュースとたくさんのカットフルーツでした。

 

Kerala
朝食
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南インドの朝食の定番・イドゥリ―

このクルーズはハウスボートでの宿泊がひとつのポイントですが、「バックウォーターの景色」も大きな見どころであり魅力です。

ケーララ州には、総延長1,500kmの運河が広がっております。

このバックウォーターエリアは米作地帯のため、運河の左右には奥まで広がる青々とした稲穂の育つ水田を見ることができます。水田だけだと見慣れた景色ですが、その回りにバナナやヤシの木が生えており、ケーララらしい景色となっています。
また、運河沿いに暮らす人々の暮らしが見られるのも楽しいものです。運河の水で炊事洗濯をするお母さん、水浴びする子どもたち。まさに生活とぴったり密着しています。また、張り巡らされた水路は現在でも地元の人に利用されており、ボートに乗って登校、出勤します。登校用のボートを船乗り場で待つ子ども達をたくさん見かけました。

 

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ヤシの木の奥には水田が広がっています
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洗濯をするお母さん
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登校用のボートを待つ子どもたち
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水浴びする子どもたち。気持ちよさそうです。 羨ましい!

ケーララのハウスボートクルーズは外国人観光客のみならず、今やインド人国内観光客の方にも大人気です。クルーズ中、インド人観光客の方が乗ったボートとたくさんすれ違いました。船着き場では、デリーから来たというファミリーと出会いましたが、内陸のデリーでずっと生活してきた人にとっては、川・海・空が青く、美しい緑がいっぱいに広がるケーララは、まさに南国の楽園そのものなのだと思います。本当に皆さん楽しそうでした。

 

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手を振ってこたえてくれる国内観光客のみなさん

ボートから見ることのできる全てのものを楽しみながら、アレッピーの船着き場まで戻ります。クルーズ終盤は、河口へと近づき、景色も大きく変わります。

 

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河口部分に到着

9時頃、ハウスボートは船着き場に到着。名残惜しすぎて船着き場についてもボートを降りたくない…最後にはそんな気持ちになっていました。南国的な景色に、温暖な気候。お食事も素晴らしく、心も体も癒された1泊2日でした。

 

ハウスボートはまさに動くホテルで、基本的には大変快適に過ごせます。船内は清潔、設備も問題なく、スタッフもフレンドリーでみなさん温かく迎えてくれました。
ただ、よく皆様にご質問いただいている点でもありますが、Wifi設備はボートにはございません。また、インドの携帯SIM(Airtel)を利用していても、クルーズ中は一時的に電波が無くなり、接続ができなくなることがありました。その点だけ注意が必要です。

 

最後に、クルーズを快適に、そして120%満喫するためのお勧めの持ち物をご紹介します。

 

  1. 虫よけグッズ
    ダイニングスペースはオープンエアです。寝室などもハウスボートの造り上、完璧にドアを閉めることはできないので、隙間から入ってきてしまいます。肌に塗るタイプの虫よけスプレーなどお持ちになることをお勧めします。ハウスボートでも対策はしてくれているのですが、結構刺されました。※ケララでは年中蚊がいます。
  2.  洗面用具
    ハウスボートでは基本的にアメニティの設置はありません。
  3.  サンダル
    靴だと暑いので、スリッパやビーチサンダルなどあると快適です。
  4. 酔い止め
    停泊の際は岸に打ち付けられるような横揺れがありました。揺れに弱い方は酔い止めをお持ちになるとよいかと思います。
  5. 自由時間を楽しむアイテム
    貸し切りハウスボートでは、自由時間を思い思いに楽しむことができます。カメラ、本、トランプ、スピーカー、スケッチブックなどなど (ハウスボートが動いている間は他のハウスボートとも距離があるので、個人で楽しむくらいの音量でしたら、音楽もお楽しみいただけます。楽器を持ってきて演奏されている方もいらっしゃいました! ※停泊中や夜間は周りの方に迷惑にならないよう、音量等、十分お気をつけください。)
  6. 日本の調味料
    記事①でも紹介しましたが、クルーズ中魚屋さんに立ち寄ることが可能です。そこで新鮮なシーフードを購入できますので、夕食時にグリルしてもらいお召し上がりください  (No masalaと言い忘れると、カレー味になります。ご注意を)
    塩・胡椒でも十分美味しいのですが、醤油があったらなぁ…と思いました。

 

 

ハウスボートクルーズはゆったりと過ごせる1泊2日が大変お勧めですが、4時間ほどのデイクルーズのアレンジも可能です。また、よりバックウォーターを体感されたい方は、細い水路をカヌーで巡るビレッジツアーなどのアクティビティもおすすめです!!

 

Kerala
かわいく並んだヤシ!

 

西遊旅行の楽園の南インドツアー

西遊インディアのハウスボートクルーズツアー

 

Text  by Saiyu India

 

 

カテゴリ:■インド南部 , ケーララ州 , バックウォーター
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南国ケーララでハウスボートクルージング①

ナマステ!

インド西南部に位置するケーララ州(Kerala)。皆様はどのようなイメージをお持ちでしょうか。ケーララ州へは日本からの直行便がないため、あまり馴染みがないかもしれませんが、アーユルベーダ発祥の地として、あるいは南インド料理のレストランなどで、耳にされたことがあるかもしれません。

 

ケーララはアラビア海と西ガーツ山脈に挟まれた縦に細長い州です。その独特な気候・地形が齎す、水と緑豊かな大自然、そして南国的な暖かく穏やかな空気は、人々を魅了し、「楽園」 「桃源郷」などと形容されてきました。

 

魅力たっぷりのケーララ。実際に訪問した際のレポートも交えつつ、数回に渡ってご案内していきたいと思います。

まずは、ケーララの旅行と言えば欠かせない、バックウォータークルーズについてです。

 

Kerala
水郷地帯を行くハウスボート
Kerala
ハウスボートに乗船!

バックウォーターとは、湖や川などの下流の水位が上がり、下流から上流に向かって水が逆流する現象のことを言います。

ケーララ州の海岸線、特に港町・コーチン(Kochi)の南側では無数の川と入り江が網目のように入り組んでおり、このバックウォーターエリアが広がっています。

 

ケーララは古くから香辛料の産地、集積地として知られ、かつてはこの水路を利用し、ボートにて香辛料をアラブやヨーロッパへと輸出していました。

 

現在では、そのバックウォーター(水郷地帯)のヤシの木が生い茂る美しい風景を、ボートに乗ってゆったりと楽しむ「バックウォータークルーズ」が旅行者の間で人気となっています。

 

 

クルーズには、いくつかタイプがあります。大きなボートに混載で乗るタイプ、ハネムーンボートと呼ばれる貸切りハウスボート、小舟で船頭が漕ぐタイプなどです。所要時間や利用料金が異なるため、船旅の目的や予算によって選ぶ事が出来ます。

 

今回は貸し切りハウスボート1泊2日のクルーズをご紹介します。

クルーズのスケジュールは次のとおりです。

 

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[1泊2日の場合のハウスボートでのスケジュール]

1日目
12:00    ハウスボートにチェックイン。アレッピーを出発
12:30 昼食
16:00   ティータイム
18:30 夕食

 

2日目
07:00 朝食
09:00 アレッピー到着。ハウスボートをチェックアウト

 

⛴ ⛴ ⛴ ⛴ ⛴

 

※貸し切りハウスボートの場合は、食事のタイミングなど若干の変更は可能です。

 

ハウスボートの発着地はいくつかありますが、今回はアレッピー(Alleppy) という村発着です。アレッピーはコーチン空港から約80km、車で約2時間の位置にあります。

フォートコーチンエリアからですと1時間半ほど。到着が早すぎるとチェックインできず、待つことになるため、早くても船着き場に11時半ごろの到着を目安にすると良いかと思います。

 

ケーララのハウスボートは、一つのボートに客室が1~3室(トイレ、シャワー付き)、ダイニング&サロンが付いています。貸し切りでご予約の場合、人数にあったボートのご用意となります。

 

今回乗船したのはXandariのハウスボート。ラグジュアリークラスのハウスボートです。

船着き場に到着後、オフィスに立ち寄り、チェックインの手続きを行います。ホテルのチェックイン手続きと同様、パスポートの提示とフォーマットへの記入があります。手続きが完了すると、いよいよ乗船です。乗船後、ウェルカムドリンクのサービスがありました!

 

フレッシュココナッツウォーターです。
こちらを飲みながら、昼食まで少々休憩。

 

Kerala
ウェルカムドリンク

お部屋はこのような感じです。アンティーク調の家具などこだわりが見え、「動くブティックホテル」のよう。

コンパクトな造りですが、最低限の設備は整っており、清潔感もあるので申し分ないです。

 

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ラグジュアリークラスのボートの客室内(Xandari のWEBページより)
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Xandariボートではないですが、ラグジュアリークラスのボートのバスルーム例

 

ハウスボートのデザイン、内装や設備(エアコンの有無含む)は、ハウスボートのカテゴリー、またはボートの新旧によって異なります。もちろん全てのカテゴリーのボートで、トイレ・シャワーは各個室毎に完備されております。

お気を付けいただきたいのは、シャワーについて。こちらは全てのクラスで温水でないことが多いです。ただケララの気温は年中30度~35度前後ととても温かく、個人的には温水シャワーはなくても大丈夫でした。温水シャワーがない場合でも、スタッフがキッチンでお湯を沸かし、配ってくれるので、(手酌にはなりますが)お湯を浴びられます。

 

(※ハウスボートは、クラスの指定は予約時に可能ですが、実際のボートの割り振りは出発の直前となるため、事前に設備面も含めたボートの確約はできません)。

 

 

昼食は南インドの定食ミールス。
(※バナナリーフでのミールスは事前予約が必要です)。

 

ハウスボート専属のコックさんが準備してくれます。ミールスは基本的におかわり自由です。野菜たっぷりでヘルシーな南インド料理を思う存分楽しめます!

辛さはご希望に応じて調節可能なので、辛い物が苦手な方や、ご家族での旅行の場合も助かります。

 

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大きなバナナの葉
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バナナの葉のお皿にたくさんのカレーとライスを盛ってくれます
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ケーララのライスは丸っこいかたちをしています

 

昼食後は自由時間です。心地よい風に吹かれながら、ゆったりと移り行く南国的な景色、そして人々の生活風景を眺めていると自然と時間が経っていきます。

 

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ボートからの風景。ボート移動中は風がとっても気持ち良いです!
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デッキから

途中、フィッシュマーケットへ寄り、夕食用に海老を購入しました(通常メニューには含まれていないので、実費を支払います。お好きなシーフードをお好きなだけどうぞ!)。

購入した海老等は、コックさんに希望を伝えて、夕食時に調理してもらいます。

 

Kerala
新鮮なシーフードを購入

味付けは、何も言わないとスパイスをかけられ、漏れなくカレー風味になってしまいますので要注意です!

シンプルに味わいたい方は、忘れずにコックさんにノーマサラ(No Masala) とお伝えください。

 

16時頃、ティータイム。
風景をのんびり楽しみながらいただくチャイは格別でした。

 

17時頃、船を岸に寄せてそのまま停泊。地元の漁業の妨害にならないよう、ハウスボートを動かしてよい時間帯は日の出~日の入りとケーララ州の法律により決まっています。

 

ボートが停まってからは、夕陽を眺めたり、別の船のスタッフたちが釣りをしている姿を眺めたりしました。

また今回の停泊地は少し歩けるスペースがあったので、ボートを降りて散策もしました。※停泊場所はボートやルートにより異なります。

 

Kerala
夕刻、ボートを岸に寄せて停まった場所にて釣り
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近くに村があると少し覗かせてもらえることも
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夕陽

夕食は南インド料理+魚屋さんで購入した海老のグリルです!

海老は身が詰まっていてとても美味しかったです。

 

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立派な海老!
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地元の野菜をたっぷり使ったカレー

食後にゆっくりとお茶をいただき、1日目は早めに終了しました。

 

就寝時、ボートは岸辺に打ちつけられるような若干の揺れがありましたが、そこまで気にならず、朝までゆっくり休むことができました。

 

ハウスボート2日目の紹介は次の記事へ続きます!

 

 

Text    : Saiyu India

カテゴリ:■インド南部 , ケーララ州 , バックウォーター
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シク教の聖地 アムリトサル③ 観光編

ナマステ!

今回は、今やアムリトサルの一大名物となっているインド・パキスタン国境で毎夕行われるフラッグセレモニー(国境閉鎖式)と、アムリトサル市内の黄金寺院以外の見どころについてご紹介します。

 

■フラッグセレモニー

「フラッグセレモニー」とは、インドとパキスタンの国境地点(インド側:アターリー、パキスタン側:ワガ)で、毎夕行われている国境閉鎖式の通称です。

アターリー/ワガ国境は、朝9時から午後3時までしか開いておらず、夕方は閉門します(ちなみにこの国境は、この60年来インドとパキスタン間を外国人が越えることのできる唯一の国境です)。

毎日国境を閉める前に、日中掲げている両国の国旗を降ろし丁寧に畳んでしまい、その後ゲートを完全に閉鎖します。その様子を見守るのがこの「フラッグセレモニー」ですが、始まりはなんと1959年。それから毎日ずっと続いています。

 

 

フラッグセレモニー会場・インド側の様子
フラッグセレモニー会場・インド側の様子

 

日没の約1~1.5時間前になるとインド、パキスタン両側ともに観光客や地元の方が集まりスタジアムを埋め尽くします。ボリウッドソングが大音量で流れ、歓声が響き渡る会場では、観客のテンションもMAX。両国ともに、ダンス、掛け声などを披露していきますが、盛り上がりの度合いは愛国心のバロメーターだとでも思っているのか、両陣営ともに必死です。会場は毎日相当な熱気に包まれますが、特に週末はたくさんの方が訪れ、巨大なスタジアムに収まりきらない程の人が殺到しひときわ盛り上がります。
(週末に訪問予定の場合は、かなり時間的余裕を持って現地に到着するよう計画してください)。

 

 

国旗グッズは現地で購入可能です

 

インド側では、観客がインドの国旗を持って走ったり、中央の広場でダンスが繰り広げられたりと、観客が参加するシーンも多くありました。

 

国旗を持って走る参加者

 

国境のゲートで旗を降ろす様子セレモニーが始まると、インド兵、パキスタン兵が登場。国威を示さんばかりに大きく腕や足を振り上げ行進しますが、国旗降納の場面では、両国の旗が常に同じ高さに保たれるように、非常にゆっくり、慎重に降ろされます。

最後は、インドとパキスタンの両軍の兵士が固い握手と敬礼を交わし、終了です。

 

 

行進するインド兵
行進するインド兵
国旗をゆっくりと降ろしています
両方のスピードを揃えて、ゆっくりと降ろしています

 

やはり抱えている人口の違いか、インド側の観客の方が数が多く、インド側にいると、パキスタン側の観客の歓声はかすかにしか聞こえません。しかし、パキスタン側からのセレモニー参加は、会場の参加人数ではやや劣るものの、それに負けじと観客全員が一体となっている印象を受けました。

 

インド側、パキスタン側、いずれにしても見ごたえがあるので、ぜひ両側から見学してみてください!

 

▼こちらは、フラッグセレモニーをパキスタン側から見た動画です!
(奥側がインドです)。

 

 

■ジャリヤンワーラー庭園

1947年の印パ分離独立から現在において、印パ両国間の関係は未だ安定していないというのはみなさまご存知かと思います。アムリトサルはその印パ国境から近い街ということで、訪問に際し治安面を心配されている方もいるかもしれません。確かに、印パ間でいざこざが起こると、即座にアムリトサルの空港が閉鎖になり、緊張感が走ります…。手放しで常に絶対安全! とは言えないエリアではありますが、基本的にはアムリトサルの日常は他の都市同様落ち着いており、大変穏やかです。

 

そんな平穏無事なアムリトサルのほぼ中心地に、緑豊かで大変のどかな庭園「ジャリヤンワーラー庭園」があります。現在は人々が集い寛ぐ庭園ですが、イギリス占領下の時代、この場所で大変悲劇的な事件が起きました。

 

1917年、当時のインドはイギリスの直接統治下に置かれておりましたが、自治要求運動が各地で激化しようとしていた頃でした。イギリスは、インドに第一次世界大戦後に自治を徐々に認めていくという約束をしておりましたが、実際にその約束のために施行されたものは全く意味を成さないもので、自治実現に希望を膨らませていたインド国民は、失望していました。
1919年3月、「ローラット法」が発布されました。ローラット法とは、令状なしの逮捕、裁判手続き抜きの投獄を認める、民族運動に対する法外な弾圧を目的とする法律です。これに対し、1919年4月、アムリトサルを中心してパンジャーブ州内で大暴動が発生し、町中で暴徒に襲われたイギリス人が十数人亡くなりました。すぐさま治安部隊が投入され、集会禁止令が発令されました。

 

事件が起こったのはその年の4月13日、アムリトサルの民族指導者が逮捕され、これに抗議する市民が集会を行いました。集会には女性や子供たちも参加しており、非武装かつ暴力的な行いもありませんでしたが、イギリスのダイヤー准将はグルカ兵(ネパール山岳民族から構成された兵)とイスラム教徒からなるインド軍部隊にいきなり発砲させました。解散の警告も与えられず、逃げ惑う人々の背中に向かって10~15分に渡り弾丸が尽きるまで銃撃が続けられ、379名が亡くなり、1137名の負傷者をだす惨事となりました。
※死傷者の方の数字は諸説あります。

 

銃弾の跡が残る壁

「土民に思い知らせるため(実際の准将の言葉といわれています)」、行われたこの「アムリトサル大虐殺」は、あまりにも凄惨な事件として広まり、これをきっかけに、インドの反英運動は更に強まっていきました。また既に始まっていたマハトマ・ガンディーの非暴力抵抗運動にも大きく影響を及ぼすことになりました。

 

犠牲者追悼の碑
犠牲者追悼の碑
ジャリヤンワラー公園
公園内では銃を構えた人を模したモニュメントも

現在、ジャリヤンワーラー庭園内には慰霊碑が建てられ、当時の銃弾跡や人々が逃げ込んだものの亡くなってしまった井戸等が大切に保存されています。また、ギャラリーも併設されており、なかでは事件の現場を描いた絵画が展示されています。

 

■バザール

アムリトサルへの旅行では、ショッピングも1つの楽しみです。黄金寺院付近には、文房具・ポット・アクセサリーなどが売られるカーティアン(Kathian)バザール、婦人服店が並ぶグル(Guru)バザールなど、多数のバザールがあります。

 

バザールで売られているアクセサリー

たくさんのバザール、ストリートがある中でもメインとなるのは、パーティション博物館のあるアムリトサルの市庁舎から黄金寺院までをつなぐ道。2016年ごろに整備され、ヨーロッパの街並みを思わせる解放感のあるストリートが黄金寺院まで続きます。

 

メインストリート

約500mのこのストリートは、歩行者天国となっていて、黄金寺院に向かう人や、参拝を終えて帰っていく人々がショッピングを楽しんだり、ベンチで休憩しています。また、ところどころに建てられている様々なモニュメント群にも注目してみてください。特に目を引くのが、こちらの大理石の彫刻。

 

犠牲者の顔の彫刻

 

「アムリトサル大虐殺」で亡くなった犠牲者のために、ジャリヤンワラー庭園への入り口付近に建てられました。犠牲者の中でも名の知れた約80人の顔や名前が刻印されています。

このストリートではその他にも、「パンジャーブの虎」と呼ばれたシク王国の君主ランジート・シンの銅像や、シク教の伝統的なダンスを表現した像も見ることが出来ます。

 

ランジート・シンの像

 

アムリトサル訪問の際には、参拝客や観光客で賑わうバザールでの散策もぜひお楽しみください。

 

 

 

≪インド支店・西遊インディアのツアー紹介≫

 

■アムリトサル 1泊2日 黄金寺院とパキスタン国境のフラッグ・セレモニー

■印パ両側から見る国境フラッグ・セレモニー!ラホール・アムリトサル2泊3日

 

 

参考図書:南アジアを知る事典(平凡社)

 

 

カテゴリ:■インド北部 , アムリトサル , インド・パキスタン国境 , パンジャーブ州
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シク教の聖地 アムリトサル② 黄金寺院とグル・カ・ランガル

Golden Temple
黄金寺院の聖堂と四方を囲む聖なる池「アムリタ・サロヴァル」

 

今回は、アムリトサル観光の目玉でもある黄金寺院と、併設されているランガル(食堂)を紹介します。

 

■ハリマンディール・サーヒブ

シク教における寺院はグルドワーラーといわれていますが、そのなかで最も神聖であり、シク教の原典も安置されている寺院が、アムリトサルにあるハリマンディール・サーヒブです。「アムリタ・サロヴァル(不老不死の池)」と呼ばれる聖なる池の中央にその聖堂が建ち、750Kgもの純金で装飾されているため、黄金寺院(Goden Temple)という名前で親しまれています。

 

 

Golden Temple
聖堂

アムリタ・サロヴァルに架かる橋を渡ると、シクの聖典「グル・グラント・サーヒブ」の原典が安置されている聖堂へと進むことがきます。聖堂へはシク教に限定されずどなたでも参拝ができます。聖堂へと続く橋の上は、参拝客で長蛇の列ですが、ハルモニウムやタブラーの伴奏とともに聖典を詠唱する声が響き、神聖な雰囲気に包まれています。また聖堂の煌びやかで美しい装飾も一見の価値ありです。ぜひ時間的余裕を十分に持って、訪れてください。

 

なお、参拝時には①頭を布で覆う②靴、靴下を脱ぎ預ける③洗い場で足を洗い清めてからの入場④たばこ・酒の持ち込みは禁止、等のルールがありますので、入場前によく確認してください。

 

 

並ぶ参拝客

 

聖堂内の美しい装飾

 

夜の黄金寺院訪問もおすすめです。ライトアップされ水面に映る黄金寺院は何とも幻想的。なお黄金寺院内には巡礼宿も併設されており、夜でも参拝客が途絶えません。昼間とは異なる美しさの黄金寺院を味わうことが出来ます。

 

ライトアップされた黄金寺院

 

 

■グル・カ・ランガル

黄金寺院内には「グル・カ・ランガル」という食堂が併設されています。1度に5千人もの人々が同時に食事ができる大きな食堂で、平均して1日に10万人分もの食事が提供されています。この食堂は、シク教のある教義を守り、実践するため500年以上も続いている習わしです。

 

「宗教、カースト、肌の色、信条、年齢、性別、社会的地位に関係なく、すべての人々は平等である」

 

ご存知の通り、ヒンドゥー社会にはカーストという身分制度があり、異なるカーストの人間は食事を共にしてはならない、という掟がありました(現在はカースト制度は憲法で廃止されましたが、その根は深く、影響は未だ残っています)。シク教の開祖グル・ナーナクは、ヒンドゥー教を排除するような思想はありませんでしたが、カースト制度に対しては否定的、批判的でした。その批判の意味も込め、礼拝後に誰もが同じ部屋で、同じ鍋の食事をとる制度<ランガル>を確立させたのです。

アムリトサルの黄金寺院に限らず、全てのシク教の寺院には必ず共同厨房と食堂があります。誰でも自由に入り、無料で食事を食べることができます。

 

 

配布するお皿が大量に積まれています

一体どのようにして、これほどの人数に食事を提供しているのでしょうか。お昼時、実際に食堂へ足を運んでみました。食堂エリアでは、土足と髪の毛を出していることが禁止されていますので、靴は靴番に預け、頭にはバンダナ、スカーフなどを巻いて入場します。

 

中に入ると、まずはお皿や食器を手渡しで受け取ります。学校給食のように担当が分かれていて、それぞれの担当が、順番にお皿・スプーン・コップなどを配っています。

 

その後食堂の部屋の手前で、既に食事中の前のグループの人たちが食事を終えるのを座って待ちます。前のグループの食事が終わると、私たちのグループが部屋の中に呼ばれます。部屋には細長い布が何本も敷かれており、そこに腰掛けます。

 

 

食堂内の様子

 

布の上に座り、食器を置いて食事が提供されるのを待ちます。この日のメニューは、お米と2種類のカレー、チャパティ、お水でした。チャパティを受け取るときは、両手で受けとります。

 

チャパティを配る様子

 

カレーは辛すぎず、素朴な味でした。観光客が行くようなレストランやホテルでは、外国人向けに味がマイルドに調整されていたり、過度にオイリーに仕上がっていることがありますが、ここでは本当にシンプルな味付けの美味しいカレーがいただけます。食事の後は食器を持って食堂階下へ行き、食器をみなで洗い、元の場所に戻します。

 

 

黄金寺院では、毎日約300人の方が調理、給仕などにあたっています。彼ら全員は無償で働くボランティアです。提供される食事の材料費も全て寄付によって賄われています。

 

シク教の考え方に、「世俗の職業に就いてそれを一生懸命励むことを重んじる」というものがあります。神に祈ることや、出家などをして修行をするのではなく、働くことで幸せになれると考えられています。そういった思想もこの厨房と食堂の存続を支えているのかもしれません。

 

 

厨房の様子
Langar
巨大な鍋がいくつも並んでいます
Langar
チャパティ担当のみなさま。手際が良すぎてカメラでは捉えられません
Langar
チャパティを手際よく焼いています。こちらもスピードが速すぎてカメラでは捉えられず

 

食堂でのボランティアは誰でも参加することが出来ます。お腹を満たした後は、少しお手伝いをしてみてもいいかもしれません。

 

 

なお、黄金寺院のグル・カ・ランガルの様子は、ドキュメンタリー映画となって日本でも公開されました。
「聖者たちの食卓(原題:Himself He Cooks)」。監督はパキスタンに行く途中にアムリトサルの黄金寺院をたまたま訪れ、その食堂のシステム、教義に感銘を受けたというベルギー人のヴァレリー・ベルトとフィリップ・ウィチュス。ベルギーでは2012年公開、日本では2014年以降全国で順次公開されました。現在DVDにもなっております。

 

Himself He Cooks
映画「聖者たちの食卓」(原題:Himself He Cooks)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪ツアー紹介≫

■パンジャーブからヒマーチャル・カングラ渓谷へ

 

≪西遊インディアの現地ツアー紹介≫

■アムリトサル 1泊2日 黄金寺院とパキスタン国境のフラッグ・セレモニー

■印パ両側から見る国境フラッグ・セレモニー!ラホール・アムリトサル2泊3日

 

 

カテゴリ:■インド北部 , アムリトサル , パンジャーブ州
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シク教の聖地 アムリトサル①

ナマステ!
今回は、シク教の聖地として知られ、隣国パキスタンとも陸路移動可能ということで世界中から多くの旅人が集まるインド北西部パンジャーブ州の都市アムリトサルと、アムリトサルを聖地とするシク教について紹介します。

 

(デリーからアムリトサルへのアクセスは、フライトで約1時間、もしくは列車で約6時間半。デリーからの週末1泊2日旅の行先として人気です)。

 

Golden Temple
アムリトサルの象徴黄金寺院

 

パキスタンと国境を接しインド北西部に位置するパンジャーブ州。「パンジャーブ」とは「5つの水(川)」を意味しインダス川と4つの支流(ジェラム川、シェナブ川、ラヴィ川、サトレジ川)に囲まれていたことがその名の由来となっています。大河に囲まれていたことから肥沃な土地が広がり、古くから小麦、米などの生産が盛んでした。インドに限らずパキスタン側のパンジャーブに置いても、「穀倉地帯」として有名です。

 

イギリスのインド植民地化が始まってから、最後まで植民地化に抵抗したのがパンジャーブ地方でしたが、シク戦争の結果、パンジャーブ地方はイギリスに併合されることとなります。1947年のインド・パキスタン分離独立の際に、パンジャーブは東西に分割され、人口のほとんどがイスラム教徒である西部は、パキスタンの西パンジャーブ県、ヒンドゥー教徒、シク教徒が多い東側エリアはインドのパンジャーブ州となりました。その後、二言語州であったインドのパンジャーブ州は、パンジャービー語地域をパンジャーブ州、ヒンディー語地域をハリヤーナ州として二分され、それぞれ単一の言語州となりました。

 

パンジャーブ州はインドで唯一、シク教徒が大多数を占める州ですが、そのシク教徒の総本山・黄金寺院があるのがアムリトサルです。アムリトサルはサンスクリット語で「生命の水の貯水池」という意味。人口は約100万人でインドの一都市としては大規模というわけではないですが、シク教徒の巡礼者が年中訪れ、街の中心地は常に賑わっています。また西側に約50キロ行くと、隣国パキスタンの都市ラホールが位置していることもあり、冒頭で紹介したように多くの旅行者も集まっています。

 

黄金寺院
黄金寺院を参拝するシク教徒の人々

 

【シク教とは】

シク教は15世紀インドでグル・ナーナクによって興された宗教です。ナーナクは現在のパキスタンのタルワンディーという農村で、ヒンドゥー教徒の家庭に生まれました。彼は、各地を旅しながらヒンドゥー教、イスラム教双方の教義を受容しつつ真理を追究しました。また同時期の宗教改革者カビールの影響も受けたといわれています。

 

信徒数は現在約2400万人。インドでは人口の2%ほどと少数派になりますが、世界では5番目に信者の多い宗教です。パンジャーブ州には、インド国内のシク教徒の約4分の3の人口がいるとされています。

シク教徒の男性といえば、「豊かな髭とターバン」をイメージする方が多いのではないでしょうか。シク教徒は、宗教的に髪を切ることが許されておりません。長い髪のままでは生活のあらゆるシーンで邪魔になってしまうため、ターバンのなかに髪の毛をまとめるようになりました。

 

 

シク教徒の巡礼者たち
シク教徒
シク教徒の巡礼者

シク教徒の男性には、下記の5項目の約束事があります。これらの5つは、すべて頭文字がKであるため、シク教徒の5Kと呼ばれています。

1  ケーシュ (Kes) 髪(体毛)を切らないこと
2 キルパン (Kirpan)  短剣
3 カンガー(Kengha) 木製の櫛
4 カラー(Kara)   鉄の腕輪
5 カッチュ(Kachhu) 綿の短パン

 

一般的なターバンの長さは6mほどです。シク教徒の男性は大変お洒落な方が多く、その日のターバンの色に合わせて、シャツ、ネクタイもコーディネートしています(もしくはシャツに合わせてターバンの色を選ぶことも)。
ちなみに最近では、ターバンを着用していない若い方も多いです。理由は暑い、重い、等々。確かに夏は蒸れて大変そうです。

 

Sikh
ターバンの布サンプル。
ターバンを広げるとお店の中から外まで余裕で届く長さ!

シク教は、成立時に裕福で教育水準の高い層の帰依が多かったことから、成立後長らく社会的にも活躍する人材を多く輩出してきました。職務等で海外に渡航するインド人にシク教徒が多く、頭にターバンを巻いたスタイルがインド人のイメージとして海外で広まったと言われています。

インドに実際来てみると、「ターバンを巻いた人が意外といない?」と思う方も多いと思います(私もそうでした…)。それもそのはず、実際にターバンを巻いて生活しているのは、インドに2%しかいないシク教徒で、そのほとんどがパンジャーブ州に集中していますので、パンジャーブ州以外の地域ではあまり見かけません。

 

 

シク教徒の親子
シク教徒の親子。子どもでも髪をまとめて小さなお団子にしています

 

「ターバンを巻いたインド人」というイメージ通りの人々に出会えるアムリトサル。現地でターバンを購入し、観光をしてみるのもお勧めです。次の記事ではアムリトサルの見どころをより詳しくご案内します!

 

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ホテル グレリア・コティ<バラナシ>紹介と路地裏散策

Namaste!!
バラナシの街の見どころ紹介が続きましたので、この流れでバラナシのお勧めホテルをご紹介します。

 

前回: バラナシ② ガンガーのガート群 / 仏教聖地サールナート

 

Guleria Kothi
グレリア・コティ

■Guleria Kothi Hotel

 

バラナシの旧市街にあるヘリテージタイプのホテルです。

皆様ご存知かとは存じますが、ガンジス川沿いには84ものガード(沐浴場)が存在しております。その中心的存在でいつも多くの人で賑わっているガートが、ダシャシュワメード・ガート(Dashashwamedh Ghat)。旧市街エリアで一番大きな交差点であるゴードリヤー(Godowlia)からガンジス川に向かって真っすぐ歩けば着くので、バラナシは初訪問という方にも行き着きやすく、散策の際の目印になるような場所です。そのダシャシュワメード・ガードより川沿いに徒歩15分程歩くと、ガネーシュマンディル・ガート(Ganesh Mandir Ghat)が出現しますが、その直ぐそばに建つヘリテージ風ホテルが今回紹介するグレリア・コティホテルです。
(他にもガンガー沿いに建つヘリテージホテルはございますが、このグレリア・コティは、最近リノベーションが完了しましたのでお部屋内はとても綺麗で近代的。また宿泊料金も他のヘリテージホテルに比べややリーズナブルと大変おすすめです)。

 

Guleria Kothi
夜はライトアップされます

このホテルは、もともと18世紀に地元の有力者の邸宅として建てられました。バラナシ旧市街には古めかしい建物が多いものの18世紀の建物はほとんど現存しておらず、大変貴重です。

外壁や柱にはウッタルプラデーシュ州チュナールから切り出した砂岩が使われていいます。このチュナールの砂岩は、赤みがった色をしておりきめが細かく、大変丈夫な石として、アショーカ王の石柱をはじめとするインドの古い文化遺産にも広く使われています。

 

Guleria Kothi
レセプション近く。中は広々、というわけではないですが選ばれた調度品がセンス良く配置されています
Guleria Kothi
お部屋の一例。グレリア・コティは全てのお部屋がダブルベッド仕様です

ホテルの内部は大変雰囲気が良く、内装や調度品も可愛くて素敵です。全室がガンガー・ビューというわけではないですが、ホテルの前庭のカフェ、屋上からはガンジス川がばっちりご覧いただけるばかりか、耳を澄ませば川が流れる音、波立った川の水が岸にやさしく打ち付ける音が聞こえてきます。

ガートの傍なのでホテルの前の通りなど、日中はそれなりに人通りはありますが、基本的にはとても静か。夜と朝は本当に、驚くほどの静寂です。

 

Guleria Kothi
ホテルの前庭のカフェ。川まではやや階段で高低差が設けられているものの、まさにガンジス川の傍! ここで飲むコーヒーは最高です。

ガード巡りのお散歩、旧市街巡り、また早朝のボート遊覧へのアクセスもこちらのホテルでしたらばっちり。時間いっぱいバラナシをお楽しみいただけます。

 

Varanasi
くつろぐ牛をよけながら散策

特に旧市街散策へはホテルの横の道を入っていけば、意図せずとも迷路のような裏路地の散策が楽しめます。バラナシの旧市街エリアは牛や猿、野犬がうろうろとしている他、狭い路地を無理やり走るオートリキシャ、走り回る地元の子供たち等、散策中は身の回り360度を確認しながら歩かないとなりませんが(特に所々に落ちている牛のフンには要注意です)、皆さまがイメージする「これぞインド!」という風景がここにあるのではないかと思います。

 

Varanasi
バラナシ旧市街を散策
Varanasi
歩き疲れたら路面にあるお茶屋さんにて休憩

グレリア・コティは全部で15室と限られており、シーズン中は大変混みあい満室ということも少なくありません。ご検討の際はお早めにご相談下さい。

 

インド支店・西遊インディアではバラナシツアーを取り扱っております。
バラナシ1泊2日

 

Text,Photo : Hashimoto

 

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