ヒンドゥー教の新年を祝うお祭り「ディワリ」

毎年10月末から11月初めに、インドの最も大きなお祭りのひとつである「ディワリ」が行われます。

ヒンドゥ教の新年をお祝いするこのお祭りは、ヒンドゥ暦の第7番目の月の初日から5日間にわたって行われます。時期的に「収穫祭」の意味合いもあり、インドの人々にとっては1年で最も重要かつ盛り上がるお祭りです。

ディワリの電飾が光るショッピングモール
スーパーにもディワリ用のギフト商品が並びます

ディワリはもともと「光の祭り」とも呼ばれており、お祭りの期間中は富と幸運の神であるラクシュミーを家に招くために、夜間は無数の灯明などで家の周りを明るく照らす習慣があります。
このお祭りに向けて、人々は家中の隅々まで大掃除をし、新しい洋服を新調したり、壁の塗装などを塗りなおしたり、時には家具一式までも新調したり。気分一新、ディワリを迎えるのです。

約1週間のお祭り期間中は、夜には灯明で家の周りを明るく照らし、家族・親族が集まってお祈りをして、その後みんなでご馳走を囲んで粛々と新年を祝う、というのが昔からのスタイル…なのですが、この伝統のお祭りも、近年の経済発展とともに少し様変わりしているようです。

玄関先に置かれた灯明

ささやかだった「灯明の明かり」は、今や家をピカピカと照らす色とりどりの電飾にとって代わり、各家庭の夕食後のイベントは、夜通し行われる花火と爆竹を家族総出で見学…というのが、近年のディワリのスタイルです。

一番盛り上がるのは、ディワリの最終日。お祭りの本番は暗くなった夜7時~8時くらいから。
家々でラクシュミーに祈りをささげ、豪華な夕食を食べたら、三々五々外に出て花火を打ち上げ、爆竹を鳴らしてお祝いをします。ひとしきり鳴らし終わったら、また家に入ってデザートを食べたり、チャイを飲んでみんなでくつろぎ、家族同士の贈り物の交換などをして過ごします。それが一段落すると、また外に出て花火と爆竹…飽きたらチャイを…飽きたら花火と爆竹…チャイ…花火…これを一晩中繰り返します。

左:ディワリでにぎわう街 右:花火を楽しむ人々

家々を飾る電飾は、ご近所同士で規模やセンスを競争し合っていることもあり、年々派手になってきていて、イルミネーションと言っても過言ではないレベルのお宅も少なくありません。日本のクリスマスシーズンを彷彿とさせます。

そして、もちろん花火の派手さもご近所と競争!
隣近所に負けじと、各家々で競うようにあちこちで打ち上げます。
爆竹も、周りには負けられないとばかりに半端ではない量を一度に鳴らしたりすることも。
目の前で鳴らされると、若干気が遠くなるほどです。

ときには、それどこで買ってきたの…??と思うほど立派な、日本の花火大会で見られそうな(ちょっと大げさですが)豪華できれいな花火が打ち上がることもあります。

きれいに飾られた街で、ひっきりなしにあちこちから打ち上がる花火。
そこにこだまする爆竹の音と人々の歓声。

ディワリはまさに、年に一度の「お祭り騒ぎ」なのです。
 
※この記事は2011年11月のものを修正・加筆して再アップしたものです。

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地上の楽園シュリーナガル ①ハウスボートで優雅な湖上の休日を!

ナマステ、西遊インディアです!

 

「シュリーナガル」みなさまは聞いたことはありますか?インド英領時代の夏の首都であり、広がる湖とそこで楽しむハウスボートでの宿泊が有名で、大変風光明媚な場所です。ですが、定期的に不穏なニュースも流れてくるため、実際に旅行となるとちょっと治安が心配…という方もいらっしゃるかと思います。

 

今回は、そんなシュリーナガルについて、近隣の観光地も含め、ご紹介いたします。

 

早朝、ナギン湖に浮かぶハウスボートと、水上花売り

 

シュリーナガルは、ジャンムー&カシミール州の夏の州都。訪問には、デリーからは毎日直行便が数便運航しており、国内線で約1時間半ほどです(ちなみに冬の州都は、ジャンムーです)。

 

英領時代、なぜシュリーナガルが夏の首都としてイギリス人に重宝されたかというと、シュリーナガルは標高が1,600mほどで、4~6月にインド平野部が酷暑期にあたる時期でも涼しく、大変過ごしやすいためです(4〜6月の平野部・デリーは日中気温40度を越えます)。シュリーナガルでは12月〜2月は例年降雪が見られ 、西に約40km行った場所にあるグルマルグは、インド国内有数のスキーリゾートの場所として知られています。

シュリーナガルはその美しい自然から、「インドのスイス」「東方のヴェニス」と例えられる程で、国内外から多くの観光客がやってきます。一般的な観光シーズンは4月~10月とされておりますが、冬の雪景色もとても美しく、年間を通して旅行できます。

 

シュリーナガルでの滞在先といえば湖に浮かぶハウスボート。空港から車で約30分、総面積22平方キロメートルの「ダル湖」には、たくさんのハウスボートが浮かんでおり、普通のホテル滞在とは違う体験を楽しむことができます。

 

 

私が滞在したハウスボートがあるのはダル湖の隣に位置する「ナギン湖」で、ダル湖ほど大きくはないですが、町の喧騒から離れて静かに過ごしたい方にはおすすめのエリアです。

 

カシミールのハウスボートはイギリス統治時代、イギリス人が湖に豪華な家屋を浮かべて、別荘にしたのがはじまりです。イギリス人は本来土地を買って別荘を建てたかったのですが、時の藩主が外国人の土地の購入を認めなかったため、苦肉の策として湖上に建設しました。「ハウスボート」という名称ではありますが、ボートの半分は岸に上がっており、実際に水の上で動くわけではありません。

 

リビングルームの一例。丁寧に施された木彫りの装飾も大変綺麗です

ハウスボートは、その内部はイギリス式となっており、リビング/サロン(応接間)、ダイニング、ベッドルームと別れております。それぞれのお部屋にはバスルームが付属しており、バスタブがあるお部屋も(お湯はためることはできません)。

 

ハウスボートの内装は豪華なカシミール様式となっており、細やかな木彫りの装飾が施されています。

リビングにて、カシミール・ティーを飲みながらボートに打ち付ける優しい波音を聞きつつ湖を眺めるとなんともいえない優雅な気持ちになります。

 

広々としたダイニングルーム
調度品等、統一感があり素敵です

忙しい毎日から離れて優雅に休日を過ごされたい方におすすめのハウスボート。一度ハウスボートに宿泊し、またリピートする、という方もいらっしゃいます。ぜひ一度、ご滞在されてはいかがでしょうか?

 

シュリーナガルの紹介はまだまだ続きます!

 

Text: Hashimoto
Photo: Saiyu Travel

 

カテゴリ:■インド山岳部・ガンジス源流 , シュリーナガル
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【仏陀の道】釈尊生誕の地 ルンビニー

ナマステ! 西遊インディアです。
今回は、仏教4大聖地のひとつ・仏陀生誕の地ルンビニーを詳しくご紹介します。
(ルンビニーについては、前回少しこちらの記事でも触れました→ 【仏陀の道】入滅の地クシナガル)

 

 

ルンビニーまでのアクセスですが、インドから陸路国境を越えて行くこともできますし、ネパールの首都・カトマンズから車両や国内線にて移動も可能です。

(※2022年4月現在、陸路国境は観光客には開いておりませんのでご注意ください)。

 

■ルンビニー

仏教の開祖釈尊の生誕の地で、父浄飯(じょうぼん)王のカピラバストゥ(迦毘羅城(かぴらじょう))と母摩耶(まや)夫人の郷里デーバダハ(天臂(てんぴ)城)の中間にあった園林の名をルンビニといいます。
摩耶夫人は、出産のための里帰りの途中、この園の無憂樹(むうじゅ)の枝につかまって、釈尊を右わきから出産したといわれています。

 

釈迦は生まれたのち、すぐに七歩あるいて一手を天に向け「天上天下、唯ただ我のみ尊しと為なす」と仰ったとの伝説があります

 

お釈迦様・ガウタマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダッタ)は釈迦族の王であるスッドーダナ王(淨飯王)と后であるマヤ夫人(摩耶夫人・マヤデヴィ)の長男として生まれました。シッダールタ王子が出家するまで過ごした釈迦族の都がカピラヴァストゥです。

カピラヴァストゥがどこなのか、についてはネパール説(ティラウラコット)とインド説(ピプラハワ)の争いがあり、インド説は「聖なる仏舎利、釈迦族の仏舎利」と書かれた壺がピプラハワのストゥーパから発見されたことを根拠としています。しかし、発掘調査の進んだ現在では釈迦族の都はネパールのティラウラコットで、インドのピプラハワはカピラヴァストゥがコーサラ国に滅ぼされた後、生き残った釈迦族が移り住んだ場所である、という説が有力となっているようです。

 

 

ルンビニ園

マヤ・デヴィ寺院とプスカリニ池

マヤ・デヴィ寺院。ここは釈尊が誕生した場所といわれる場所に建てられた寺院です。建物の中には、1996年に発掘された、釈尊がこの地で誕生したことを記すマーカーストーンや、マヤ夫人の像、紀元前 3~7世紀ごろのものと考えられるレンガ造りの礎石が安置されています。

 

寺院の傍らには、紀元前 249 年にマウリヤ王朝のアショカ王がこの地を訪れた際に建てたと言われる高さ 6m の石柱があり、アショカ王が即位 20 年の年にこの地を訪れ石柱を立てたこと、釈尊の生誕地であるこの村は免税され 8 分の1のみの納税で許されることなどが刻まれています。

 

またプスカリニ池は、マヤ夫人が出産の前に沐浴し、釈尊の産湯にも使われたといわれる池です。池のほとりには大きな菩提樹があり、巡礼者が瞑想をしたり、説法をしたりと思い思いに過ごしています。

 

 

ティラウラコット

ルンビニの西 27 キロ、周りはのどかな麦畑が広がっている森の中にあります。後に釈尊となるシャカ族の王子ゴーダマ・シッダールタが、29 歳で出家するまで何不自由なく過ごしていた、カピラヴァストゥ城跡であると考えられています。

 

この遺跡は 1967 年から日本の立正大学によって発掘・城砦跡だと確認され、現在はネパールの人々により管理されています。まだまだ発掘途中ですが、礎をレンガで補修しきれいに整備されています。

 

ここには西門、釈尊が愛馬カンタカに乗りこの地を出発したといわれる東門、城壁お堀跡、かつての宮殿跡、井戸、貯水槽が発見されています。この場所で一番見応えがあるのは遺跡の奥にある東門です。

『ある時、釈尊が東門から外出した際、やせ衰えてふらふらと歩いている老人を見かけた。またある日、南門から外出した際、病人を見かけた。また西門から外出した際、葬儀の列に遭遇した。この出来事から釈尊は「老い」、「病」、「死の悲しみ」を知り、深く思い悩んだ。ところがある日、北門から外出した際、道を求めて托鉢に励む修行者の姿に接し心を打たれ、釈尊は出家を覚悟した』という有名な「四門出遊」という説話が残っている場所です。

 

 

2月頃は、菜の花の時期。車窓からは一面黄色になった菜の花畑が見渡せます

 

お釈迦様の生誕の地だからでしょうか、ルンビニ―はとても静かで穏やかな空気が漂っています。宿等で自転車が借りれますので、自転車での散策もなかなかお勧めです!

 

 

Text: Hashimoto
Photo: Saiyu Travel

 

 

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【仏陀の道】入滅の地クシナガル

皆様こんにちは。今回ご紹介するのは入滅の地クシナガルです。

古代インドの十六大国の一つで、マッラ人の首都。仏典によれば、人々は釈尊の遺体を荼毘に付し、ここに塔を建てて祀ったと伝えられ、法顕や玄奘が訪れたころにはすでにさびれていたが、精舎や塔があり、仏陀の涅槃像が安置されていたようです。

釈尊の故郷ルンビニはクシナガルの北側に位置し、「父・母に足を向ける事はできない」との意味から「頭を北にして」涅槃に入られたとのこと。これが「北枕」の習慣の始まりだといわれます。

 

まずは、大涅槃堂。

インド政府により1956年(釈尊生誕2500年記念事業)に建立されました。内部の涅槃像は、砂岩製で5世紀、グプタ王朝期に作成され、19世紀にアレキサンダー・カニンガム(イギリスの考古学者)らが発見したもの。

大涅槃寺の周囲には、僧院跡の遺構が残ります。

 

涅槃堂からすぐ近くの場所に釈尊が最後の説法を行った場所があります。

小さな精舎の中には11世紀パーラ王朝時代の降魔成道像が安置されています。

 

そして車で5分程移動したところにある荼毘塚(ラーマーバル仏塔)

釈尊の遺体は、荼毘に付されると時、火はなかなか付かなかったが、後継者たる摩訶迦葉が500人の弟子と1週間後に到着して礼拝すると、自然に発火したという説があります。

 

クシナガルとラジギールの間に位置するヴァイシャリ。

商業都市として栄えたリッチャヴィ族の都。ジャングルの猿までが、釈尊にハチミツを供養したのもこの地だそう。

釈尊が最後の旅の途次に立ち寄った地で釈尊の死後、第二結集が行われたといわれています。

 

仏舎利が発見された八分起塔は4回ほど増築されています。発見された仏舎利は現在パトナ州立博物館にあります。

 

アショカ王柱も非常にきれいな状態。三ヶ月後に涅槃することを修行者たちに宣言された場所という説もあります。

 

柱頭の獅子像は、現存する獅子像では最古の様式です。

 

西遊旅行のツアー「仏陀の道」では、クシナガルから国境を越えて生誕の地ルンビニへと向かいます。

釈尊が誕生した場所といわれる場所に建てられたマヤ・デヴィ寺院。建物の中には、1996年に発掘された釈尊がこの地で誕生したことを記すマーカーストーンやマヤ夫人の像、紀元前3~7世紀ごろのものと考えられるレンガ造りの礎石を見ることができます。

目の前のプスカリニ池は、マヤ夫人が出産の前に沐浴し、釈尊の産湯にも使われたといわれる池です。

 

 

現在(2022年2月)、国境が開いていないので陸路での移動は難しいですが、クシナガル周辺での仏跡周遊の際は、是非お隣のネパールまで足を運んでみてください。

 

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【仏陀の道】晩年を過ごしたラジギール

今回は、お釈迦様が仏陀になってから過ごしたラジギールのご紹介です。

 

「目覚めた人」という意味をもつ「仏陀」。

29歳で出家した後は様々な仙者を訪ね、教えを請いながら修行を続けるも、なかなか悟りを開くまでに至りませんでした。

そこから苦行が始まりますが、苦行像はインドではあまり創られなかったようです(苦行像はパキスタンのラホール博物館やペシャワルの博物館にあるものが有名ですね。尚、ルンビニに行くと、仏像は右手を上に指した「誕生仏」スタイルが多いです)。

80歳で涅槃に入るまで教えを説き続けた仏陀は、当時としてはかなりの長寿、まさに奇跡の人だったのではないでしょうか。

 

 

 

■ラジギール

ラジギールは、出家したシッダールタが修行した場所であり、晩年滞在して説法を重ねた場所です。インド最初の統一王朝マガダ王国の首都ラージャグリハ(王舎城)があった所だといわれています。

 

お釈迦様が苦行したといわれる前正覚山。

 

ブッダガヤからラジギールに向かう途中にあります。

車で麓まで行き、坂道を上がること約15分。(籠屋もいます)洞窟の入り口に到着です。

 

どのくらいの期間苦行をしていたかは定かではありませんが、苦行だけでは悟りの境地に至らないと判断した後

尼連禅河で沐浴をし、すぐ近くの村でスジャータから乳粥の供養を受けたといわれています。

 

少しずつ体力を戻しながら、成道の境地に達し「仏陀」となったのが35歳のこと。

そう、出家をしてからわずか6年程の修業期間なのです。

 

 

ラジギールに滞在する際には是非訪れていただきたいのが霊鷲山。

 

 

サンスクリット語でグリドラクータといい、音写して耆闍崛山(ぎじゃくっせん)ともいいます。釈尊時代、インドのマガダ国の首都王舎城を取り巻く五山のなかの一つで、その名は山頂が鷲の嘴(くちばし)に似ているからとも、山頂に鷲がすんでいたからとも伝えられています。釈尊はしばしばここにとどまり、多数の経典を説いたとされる。現在の石畳は「ビンビサーラ王の道」と呼ばれ、王が説法を聞くために整備したと言われています。

 

訪問するなら、是非早朝に。朝焼けが望めます。

霊鷲山の麓、すぐ近くにはビンビサーラ王が寄進した竹林精舎と温泉精舎(現在、大半はヒンドゥー教寺院)もあります。

 

そして、外せないのがナーランダ大学址です。

 

 

ナーランダは、5世紀頃に創設された最大の仏教の学院(大学)があった町。学生1万人以上、教師も1,000人を数えたといわれ、階建ての校舎の他、六つの寺院、七つの僧院があったそうです。

古代世界では最大の教育施設だった大学は、12世紀イスラーム勢力のインド征服により完全に破壊され、それと共にインドでの仏教の衰退が始まりました。

釈尊が最後に旅をしたルートでもあり、マガダ国の王舎城(ラジギール)から多くの弟子を従え、パータリガーマに至るまでの旅の立ち寄り地点と言われています。

(隣接している博物館は金曜日が休館となります)。

 

ラジギールの近くには釈尊亡きあと最初の仏典結集が行われた「七葉窟」があります。

七葉窟とは、当時、洞窟の入口に七葉の木(ジタノキ)が立っていたので、そう名付けられたと日本では言われていますが、現地の地名の意味は、「七つの川」だそうです。

 

岩山の中腹に白いペンキで塗られた七葉窟

 

ラジギールはブッダガヤやバラナシとセットで訪問する方が多いですが、行くなら最寄りはパトナ空港(ビハール州)になります。

 

※この記事は2011年7月のものを修正・加筆して再アップしたものです。

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【仏陀の道】初転法輪の地サールナートとブッダガヤ

皆様こんにちは。

 

インドの宗教といえば、圧倒的大多数を占めるのがヒンドゥー教ですが、その他にもイスラム教、キリスト教、ジャイナ教、シク教等々多くの信仰が混在しています。

 

仏教もその一つです(2011年の調査では信者はインド全体人口の約0.7%)。

仏教は、紀元前5世紀頃にインドで生まれ、13世紀以降に衰退していきますが、その聖地と呼ばれるスポットはインド国内に点在しています。

 

今回から数回に分けて、インド・ネパールに点在する仏跡をご紹介していきます。

インド国内で仏教徒の多い地域は、ラダックエリアとマハラシュトラ州を中心としたインド中央部ですが、仏跡はビハール州(インド東部)の辺りに多くあります。

 

一般的に4大仏跡と呼ばれているのが、下記の場所です。

・降誕の地 ルンビニ(ネパール)

・初転法輪の地 サールナート

・成道の地 ブッダガヤ

・入滅の地 クシナガル

 

 

■サールナート

インドといえばバラナシのガンジス川を思い浮かべる方も多いと思いますが、そのバラナシ郊外にあるのが、釈尊が初めて説法をした地サールナートです。

 

仏教はここから各地に広まっていきました。

ブッダガヤで悟りを開いた釈尊はかつて苦行を共にした5人の修行者に会い行きます。乳粥の供養を受けた釈尊を「苦行を捨てた者」とし、口をきかないようにしていましたが、近づいてきた釈尊の威厳に打たれ説法を願い出ます。

またここは『鹿野苑』という名でも知られていますが、これは当時ここにたくさんの鹿が住んでいたことに由来しているとの説があり、仏陀の最初の説法もこの5人の弟子と森に住む鹿に対して行われたと言われています。

 

アショカ王(前3世紀中頃)の頃から12世紀までの遺址と多数の彫刻が出土し、グプタ時代に最も栄えたことが明らかになった場所。また東方に現存するダメーク・ストゥーパは、高さ約42m、基部の直径約28mあり、グプタ時代の貴重な例です。現在、公園のようにきれいに整備され、中心には仏舎利を収めたダメーク・ストゥーパが堂々とそびえます。

 

 

バラナシ見学といえば、ガンジス川のボート遊覧がメインになりがちですが、

世界遺産として登録されているサールナートも外せません。

あまり大きくないですが、博物館には初転法輪のレリーフがあります。非常に美しいので、残念ながら撮影は禁止されている博物館なので、バラナシ見学の際には是非訪れてみてください。

(博物館は金曜日が閉館ですが、バラナシ市内から近いので前後のお日にちで訪問スケジュールも調整可能です)

 

 

■ブッダガヤ

釈尊は、人間の4つの苦しみ「生・老・病・死」の答えを求めて出家をします(四門出遊)。

それから6年間、苦行を続け、尼連禅川を渡った村でスジャータという娘からの乳粥供養を受けます。そして、苦行が悟りをひらくための道ではないことを自覚します。

その後、ウルベーラの森(現在のブッダガヤ)に辿り着き、大きな菩提樹の木の下で、深い瞑想の後、悪魔(マーラ)の数々の誘惑を退けます(降魔成道)。そして、悟りをひらき仏陀となりました。

 

 

ブッダガヤには、全ての仏教徒にとってとても重要なマハーボディ寺院(世界遺産)があります。

アショカ王が紀元前3世紀に建てた寺院が起源と言われていますが、現在の寺院は、総レンガ製の南インド・トラヴィダ様式でグプタ朝(5~6世紀)建立のもの。

高さ55mで現存する最古の仏教寺院のひとつです。

 

菩提樹(5代目だそう)のもと金剛宝座で成道された後、釈尊は、第1週目は同じ金剛宝座で禅定を続けられました。

 

釈尊成道後、第6週目は豪雨が荒れ狂い、ムチリンダ竜王に守られながら禅定に入っと言われています。

 

※本物のムチリンダ池はブッダガヤ郊外にあります。

 

夜間はライトアップされているので、是非ブッダガヤで一泊した際には夜も訪れてみてください。

 

 

次回は、ラジギールをご紹介します。

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グジャラートの魅力【6】 ジャイナ教の聖地 シャトルンジャヤ山

ヒンドゥー教徒が大多数を占めるインドの中で、ジャイナ教徒の占める割合は約0.4%。非殺生、非暴力の思想を徹底的に追求し、厳しい戒律のもとで生活をしているジャイナ教徒が一生に一度は訪れたいと願う聖地の一つがパリタナにあるシャトルンジャヤ山です。

3750段の階段を登り切った場所から見る863もの寺院群はまるで要塞の様です。

一番古い場所は11~12世紀の間に建てられており、今の形になるまでに900年近くの年月を要したと言われています。

 

 

■ジャイナ教とは・・・

紀元前6世紀頃にインドに興ったジャイナ教。現在では、おもにインドに数百万人の信者がいます。ジャイナ教は厳格な苦行、禁欲、不殺生を重んじ、大きく分けて裸衣派と白衣派があります。裸衣派は特に厳しく、生まれた時の赤ん坊の姿を最も神聖とし、僧は糸一本も身に着けずに修行をします。神はなく、代々の出家者を信仰します。また、彼らは究極のベジタリアンで、肉や卵を食べないどころか、植物の生を絶つ、にんじん等の根菜も食べません。また、僧職者は道を歩いている虫も殺さないよう、自分の行く道をほうきではきながら歩いたり、また飛んでいる虫を誤って飲み込まないよう、マスクをつけて歩くほど徹底している僧もいます。

 

 

早朝、麓の入り口からスタート。

 

食習慣も厳しいジャイナ教徒。登山中の飲食は禁止となっており、参道や頂上には食堂やお店はありません。

 

禁止事項を書いている看板。

お水も、道中に水飲み場がたくさんあります。

(ただ、ペットボトルの水を持っている人は沢山いました。)

 

麓にはカゴ屋もたくさん。

 

3750段と聞くと、体力が不安な方もいらっしゃるかと思いますが、

一段毎の幅は低く、約2時間ほどで山頂に到着できます。

 

山頂寺院は靴を脱いで見学しましょう。※寺院内部の撮影は禁止されています。

シャトルンジャヤ山頂は南北に分かれていてTonkと呼ばれる壁で囲まれた要塞のような寺院群で構成されています。

 

南北の別れ目↑

 

↑北側エリアから眺める南の寺院群

 

■パリタナへの行き方

ベストシーズンは11~2月頃。

モンスーン時期にはクローズしている場合もあります。

 

シャトルンジャヤ山での宿泊は禁止されているので、日没には閉まります。その為、ゆっくり見学するなら早朝出発がマスト。

麓のパリタナにはホテルはほぼ無く、巡礼者向けの施設が中心なので、パリタナから1時間半ほどの場所にあるバブナガルに宿泊して、早朝に移動するのがお勧めです。

(アーメダバード~バブナガル間は約5時間。)

 

12~1月頃だとそれほど暑すぎず、快適に見学できる時期です。

魅力満載のグジャラート、絶景好きな方は是非一度訪問してみてください。

 

 

 

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グジャラートのサファリ 最後のアジア・ライオンの暮らす森、ササン・ギル国立公園

今回はグジャラートでのサファリ、アジアライオンに出会えるササンギル国立公園をご紹介します。

 

ササンギル国立公園は1965年に設立されたグジャラート南部の国立公園で広さは1,412平方キロ。そのうちの258平方キロは国立公園として完全保護下にあり、1,153平方キロは保護区となっています。 ギル野生動物保護区は最後のアジア・ライオンが生息することで知られています。学術名Panthera leo percicaと呼ばれるライオンは、古くはメソポタミア、古代ペルシャ文明のレリーフにも登場し、現在のイラン・イラク・パキスタン・インドの南部地方に広く生息していましたが、現在はこのギル野生動物保護区にのみに残る貴重な存在となってしまいました。

 

ギルの森林は1900年代初頭にジュナーガルの王族が保護区とされ、そのころにはトロフィー・ハンティングによる乱獲のためアジア・ライオンの数は15頭にまで激減していました。その後の政府の森林局やNGOの人々の努力により、このギルの多様性ある落葉樹の森でアジア・ライオンはその数を増やし、2015年の調査では523頭に、そして2020年の調査では674頭にまで回復しています。

 

ギル国立公園は乾燥したチークと広葉樹林の森、東部にはアカシアの林とサバンナが広がり、その中を7つの川が流れ4つの貯水池を作っています。300カ所ほどの動物の水場となる場所があり、暑気にはこの水が野生動物たちの命をつないでいます。国立公園の東部と西部でも気候・降水量が大きく異なり、アカシアの林やサバンナの広がる東部では年間降水量が650ミリですが、西部では1000ミリを超えます。

 

↑ゲート入り口。

 

ジープに乗っていざサファリへ!!

ササン・ギルで観察できる主な野生動物をご紹介します。

アジア・ライオン Asiatic Lion、キンイロ・ジャッカル Golden Jackal、インド・マングース Indian Mongoose、チータル Chital、ニルガイ Nirgai(Bluebull)、サンバー Sambar、ワイルド・ボアー Wild Boar、マーシュ・クロコダイル Marsh Crocodile そのほか、たくさんの野鳥。

 

まずは、アジアライオン。結構ジープの近くまで来ることもあります。

ただ、観察のベストシーズン、というとやはり2月下旬~5月。乾期は水場に動物が集まるので観察しやすいですが、暑すぎてライオンがだらけていることも(もともと夜行性の動物ですから、日中は寝ています)。

 

 

その他、ササンギルの森で出会える動物たちの一部をご紹介します。

 

Nilgai ニルガイ
体の大きな鹿でBluebullと呼ばれ、オスはグレー色の大きな体をしています。鹿とは思えないほど大きな子もいます。

 

 

Sambar サンバー
水場に多く集まり「水鹿」とも呼ばれます。丸い耳が特徴的。

 

 

Chital(Spotted Deer)アクシスジカ
インドの森で最も一般的な鹿

 

 

Golden Jackal キンイロ・ジャッカル

 

Marsh Crocodile マーシュ・クロコダイル
そして水場にはワニも。乾期の水の少ない時期には観察しやすいです。

 

 

■ササン・ギルへのアクセス

アーメダ―バードから車両移動で7~8時間です。

フライトは少ないですが、ディウ(約2時間)、ラージコット(約4時間)などその他のグジャラートの都市からもアクセス可能です。

サファリはジープの事前予約が必要です。国立公園内に入ることが許されるジープの数に制限がありますのでインドの祝祭日が重なる時期など早めの予約が必要です。

是非、アジア最後の貴重な存在であるライオンたちの住む森を訪問してみてください。

 

※この記事は2013年11月のものを修正・加筆して再アップしたものです。

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グジャラートの魅力【5】 絞り染めと伝統を受け継ぐ経緯絣パトラ織り

グジャラートのテキスタイルを巡るうえで、外せないのがパトラ織。今回はナショナルアワードも受賞したムハンマドさんの絞り染めと今や数家族のみが受け継いでいるパトラ織をご紹介します。

 

■絞り染め

 

インドで絞りの産地はグジャラートとラジャスタンがあげられますが、グジャラートでは絞り染めのことを「バンダニ」と呼びます。

ムスリムのコミュニティで作られるバンダニは吉祥の意味があり、婚礼用のヴェールや祭礼、結婚式に参列するときの晴れ着として、特に女性に好まれてきました。また、アメリカ在住の日本人アーティストであるワダ・ヨシコさんが絞り染めの技法を用いたアート作品を1983年に出版した「Shibori」という本で紹介し、「シボリ」が世界中で有名になりました。また国際絞りシンポジウムも開かれ、第2回はグジャラート州のアーメダーバードで開催されました。

これをきっかけにカッチの人々も「シボリ」という言葉を使うようになりましたが、カッチの人は今までの伝統的な布をくくって染めるものは「バンダニ」、針を使って波縫いをきゅっと縮めて染める方法を「シボリ」と呼んでいるようです。

 

小さな絞りの作業はまさに職人技!!

括ったら染めの作業です。

 

 

糸が括られた状態

この状態から、この様に引っ張ると「ブチブチッ」という音とともに糸が取れていきます。

 

広げるとこんな感じ↓

 

 

■パトラ織

 

パトラ織の産地、パタンで今もパトラを織り続けている僅かな家族の中でも、最も有名なサルヴィ氏。博物館も併設しています。

パトラ織の起源は諸説ありますが一説には、12世紀、パタンを治めていたソランキ王朝の王様の招へいで、ジャルナ(現ムンバイより東へいったところ)からパトラ織をする700家族がパタンに移動し、ここにパトラ織りが定着したと言われています。サルヴィ家もそのうちの1家族だったそうです。インドでは、その後も宮廷や富裕層の間でサリーとしてパトラが織られ、特に結婚式用として使われました。また、海を渡り、各地の織物に影響を与えました。特に東南アジアや、日本でも江戸時代に織られ、今でも九州の「久留米絣」がこの技法を持ちます。パトラは「経緯絣(たてよこがすり・ダブルイカット)」で織られます。予め、経糸、緯糸それぞれの部分部分を糸でくくり、色で染めます。これを何回も繰り返し、複数の色で染めるこの作業は長い時間がかかり、この作業だけで、全体の7割近くを占めます。

 

その後、織り機で、経緯の柄を併せながら織っていきます。少し織ると、鉄のピンを使って柄をしっかり合わせる作業をします。

細かい作業のため、1日に約15㎝程度しか織れないそうです。このため、長さ6mのサリーを1枚織るためには5~6か月もかかります。経糸、緯糸どちらもそれぞれ染めるのがダブルイカット、経糸もしくは緯糸のどちらかのみを染めるのがシングルイカットと呼ばれています。

 

絞り染め、ダブルイカット、どちらも素晴らしい職人技。

 

作業を見ているだけでもあっという間に時が過ぎていきます。パトラ織の工房は博物館も兼ねており、ランチも食べられるので、グジャラートを旅行される際には是非お立ち寄りください。

 

次回はアジアライオンに出会える、国立公園をご紹介します。

 

※この記事は2012年6月のものを修正・加筆して再アップしたものです。

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グジャラートの魅力【4】 テキスタイルの聖地ブジに息づく手工芸

グジャラートの最西端、ブジの町には本当に多くの手仕事が存在します。

〈人々が祈りを託したミラー刺繍〉

高価な一部富裕層のための手工芸に対して、一般的な家庭で作られていた手工芸もあります。その代表が、細かく割った鏡を布に縫いつけていく「ミラー刺繍」や木製の判子 を布に押して染める型染め更紗「アジュラク」などです。

家庭で発展した刺繍には、人々の生活の知恵や祈りの気持ちが詰まっています。

 

 

たとえば、ラバリ族のミラー刺繍を裏返してみると、裏にはほとんど糸が通っていないことがわかります。これは、貴重な糸を無駄にしないための生活の知恵です。

また、女性たちは糸や布の端切れも決して捨てず、大切に保管しています。それらの端切れを利用して房飾りを使ったり、パッチワークにして布団を作ったりするのです。いくつもの小さな鏡がキラキラと光るミラー刺繍は、他人からの妬みや嫉みの視線を退ける「邪視避け」の役割があると言われ、婚礼衣装や子どもの衣服にも使われています。

 

 

ブジを訪れた際は是非、バザールにも足を運んでみてください。

野菜や果物を扱う一般的なお店だけでなく、ミラー刺繍に使う大小さまざまなサイズのミラーやカラフルな刺繍糸、様々なデザインのリボンまで、本当にたくさんの手芸用品を目にすることが出来ます。

 

 

〈伝統技術の復興〜アジュラクの復活〜〉

これらの美しい手工芸は、今までに何度か絶滅の危機に瀕したことがあります。グジャラート州は年間降水量が極端に少なく、今まで地震や飢饉など多くの自然災害に見舞われてきました。生活に困った人々は刺繍や染め物などの作品を二束三文で売って生活の足しにするようになり、多くの貴重な作品が失われてしまいました。18世紀に英国でおこった産業革命後、安易な機会織りの製品が入ってくるようになり、手間暇のかかる手織り、手染めをやめる人もでてきました。グジャラートの手工芸品は質・量ともに衰退の一途を辿っていったのです。

アジュラクはグジャラート州からパキスタンのシンド州にかけて制作されている型染め更紗です。アジュラク製作で有名な村のひとつ・ダマルカ村は、今も昔ながらの天然染料を使っています。

 

しかし、実はこの天然染料による染色の技術は1970年代に一度完全に廃れてしまいました。このアジュラク復活のきっかけになったのが、グジャラート州手工芸開発公社のバシン氏と更紗職人モハマド氏の出会いでした。偶然モハマド氏の作品を見たバシン氏は、貴重な技術が失われていくことに危機を感じ、デザインの描き方や都市向けの商品開発を教えました。一方、ムハマド氏はすでに行われなくなっていた天然染料による染色方法を再開しました。藍、茜、ターメリックなどで染めた素朴な色合いのアジュラクは海外の消費者に歓迎され、現在では世界中から染色関係の研究者が訪れるまでになっています。

 

※この記事は2012年6月のものを修正・加筆して再アップしたものです。

 

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