アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ①

ナマステ!西遊インディアです。

今回はインド観光のハイライト! インドの宝! 絶対お勧めのアジャンタ、エローラの2大石窟寺院をご紹介します。

 

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エローラ 第16窟カイラーサナータ寺院

インドの石窟寺院ですが、現在では大小合わせおよそ1,200の寺院が確認されています。そして、その多くはアジャンタやエローラが位置するデカン高原周辺に存在しています。理由は石窟に適した岩体の存在です。

 

加工しやすく安定している玄武岩質の岩体が多く分布するため、この地域に多くの石窟寺院が残されています。また玄武岩は、加工もしやすいですが大変硬く、木材等に比べて保存が長期に渡って可能なこともポイントです。現存している石窟寺院は、前1世紀頃から後9世紀頃にかけて開鑿されたものですが、石窟全体がそのまま残っているばかりか、一部はその美しく施された彫刻も細部まで残っています。

 

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エローラ 第32窟 ジャイナ教石窟群 柱に残る美しい装飾
Ajanta-Ellora
エローラ 16窟 カイラーサナータ寺院  寺院外壁にびっしりと描かれている「ラーマーヤナ」の場面を表した彫刻

今回ご紹介するアジャンタ、エローラ両遺跡の観光の拠点となるのはオーランガバードという街です。マハーラーシュトラ州内にあり、州都ムンバイから約350㎞、内陸側に移動した位置にあります。車両移動で約7-8時間かかりますが、ムンバイからは国内線も運行されており、フライトだと約1時間です。なお、国内線はデリー、ハイデラバードからも運行があります。

そのオーランガバードからエローラ石窟までは約30km、アジャンタ石窟までは100km程度です。街には観光用のホテルも多くあり、秋~冬の観光ハイシーズンには多くの観光客が滞在し混みあっています。

 

アジャンタ、エローラのご紹介の前に、オーランガバードの街と見どころを軽くご紹介。

オーランガバードの街の名前は、ムガル帝国第6代皇帝のアウラングゼーブ帝が滞在したことに由来しています。

街の見どころですが、まずは、ミニ・タージマハルとも呼ばれるビービーカ・マクバラ廟。「ビービー(Bibi)」というのはヒンディー語で”wife” や”Laday”、「マクバラ(Maqbara)」はお墓を指します。つまりこの地に滞在したオーラングゼーブ帝の妻・ディラルース・バーヌー・ベーガムのために建てられた廟です。

 

ビービーカマクバラ
ビービーカマクバラ

一見、アグラにのタージマハルにも似たビービー・カ・マクバラ―ですが、タージマハル程の財源がなかったため、使用している大理石の量はかなり制限されています。

墓廟の前には庭園が広がっており、地元のファミリーの憩いの場所ともなっています。

 

他にも、街の北側にあるのがオーランガバード石窟群。5~7世紀に仏教徒の手によって造られた石窟群で、全部で13窟あります。菩薩像や女神像の彫刻は、エローラに先行する仏教美術の貴重な作例として知られています。

 

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オーランガバード石窟群 第7窟の入り口

 

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オーランガバード石窟 第7窟

またオーランガバードでは、ヒムロー織りと呼ばれる金糸を織り込んだ美しい織物も全国的に有名です。工場件展示即売所が街にいくつかありますので、お時間に余裕のある方は立ち寄ってみてください。

 

■アジャンタ石窟

オーランガバードから100㎞、車両で2時間半程行きますと、アジャンタ石窟見学者用の駐車場に到着します。そこから、専用のシャトルバスに乗り換え、石窟入口まで移動します。
入口には、遺跡のチケットカウンター、トイレ、軽食屋等が並んでいますので、ここで最終準備を整え、遺跡へと出発です!

 

Ajanta-Ellora
石窟入口までは、石段が続きます

ワーグラー川の流れに沿って30の石窟が並ぶアジャンタ石窟群。これらは全てが仏教窟です。開かれた時代は下記2期間に分かれます。

①紀元前2世紀~紀元後1世紀
②紀元後5世紀後半~7世紀初頭頃まで

 

前者が初期仏教(上座部仏教)の時代、後者が大乗仏教の隆盛期にあたります。

 

アジャンタ石窟群
アジャンタ石窟群

アジャンタ石窟を特徴づけるのは何といっても内部に描かれた見事な壁画の数々です。壁画は多くが大乗仏教期に描かれたもので、主に仏伝、ジャータカ(本生)と呼ばれる仏陀の前世譚、また宮廷の様子などが彩り豊かな顔料で描かれています。この壁画群は日本の飛鳥時代の美術に影響を与えたと考えられており、法隆寺金色堂の壁画にもその影響を見て取れると言われてます。

 

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アジャンタ 第1窟 蓮華手菩薩

中でもアジャンタを象徴する壁画が第1窟の蓮華手菩薩。インド古代仏教美術の最高傑作とも謳われ、右手に蓮華の花を持っています。

⾝体を⾸、胴、腿の3つに曲げた「トリバンガ(三曲法)」という手法を使って描かれ、白い肌と目を伏せた表情が印象的です。蓮は泥中に根を張りながら水上に美しい花を咲かせることから煩悩に溢れた俗世に対しての清浄な心や悟りの象徴として考えられ、仏教美術の中に頻繁に登場します。仏教、またヒンドゥー教の中でも同様に用いられる象徴的な花です。

 

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アジャンタ 第1窟 蓮華手菩薩

これと対を成すのが右手に描かれた金剛手菩薩。こちらは蓮華手菩薩とは対照的に褐色の肌で描かれ、力強い印象です。金剛杵(ヴァジュラ)という仏具、または金剛(ダイアモンド)を持つとされる菩薩像です。

 

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アジャンタ 第1窟 金剛手菩薩
金剛手菩薩
アジャンタ 第1窟 金剛手菩薩

※近年では、こちらの両菩薩は、菩薩ではなく「守問神」とする説も有力とされています。

 

上記両菩薩(守門神)の奥には本尊の仏陀像が転法輪印(説法印)を結び、座しています。転法輪印は、教えを説いて迷いを粉砕することを表す印です。また、第1窟の天井と壁は様々なお花、果物、植物等の装飾で彩られており、柱には美しい浮彫が施されています。まさに豪華な宮殿のような雰囲気です。

 

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アジャンタ 第1窟 本尊の仏陀像
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アジャンタ 第1窟 壁画
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アジャンタ 第1窟 外国からの使節団が描かれている天井画

 

石窟寺院群は、実際に僧侶たちが雨季の間に生活し修業の場となった僧院(ヴィハーラ)と、礼拝の為に用いられた礼拝堂(チャイティヤ)の2種によって構成されています。

 

アジャンタの場合、礼拝堂は5つのみ、残りは全て僧院です。

前期(紀元前2世紀~紀元後1世紀) に造られた礼拝堂は、中央にストゥーパ(仏塔)が建つのみで装飾は特になくシンプルなものでした。初期仏教では仏陀を直接的に彫刻、絵画等で表すことは憚られており、まだ仏陀をかたちとして表現する、ということが無かったためです。

 

逆に後期(紀元後5世紀後半~7世紀初頭頃)開窟分は、仏陀の姿が仏像として実際に表されるようになった1世紀以降のことですので、仏陀の姿が絵画や彫刻で表現されています。また紀元後5世紀ごろは、インド仏教美術が花咲いた時期でした。当時中央インドを支配していたヴァータータカ帝国はあつく仏教を信仰していたこともあり、当時の最新の技術や流行を取り入れ、美しい彫刻や絵の装飾もふんだんに施し豪華な石窟の造営に力を入れたのでした。

 

後期の礼拝堂:19窟
アジャンタ 第19窟 後期の礼拝堂

ちなみに、当時の僧侶は普段は諸国を遊行し雨季の間は僧院で修業を積む生活が基本でしたが、僧院に定住する者も多かったようです。
アジャンタでは実際に彼らが生活した僧院の部屋にも入ることができます。

 

 

 

アジャンタ・エローラの記事、まだまだ続きます!

NEXT>>>アジャンタ・エローラ②

 

 

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イギリス植民地時代の首都コルカタ

ナマステ!!西遊インディアの岡田です。

今回は古くイギリス植民地時代の首都であり、現在では東インドの中心都市となっている、コルカタをご紹介します。

 

コルカタはバングラデシュと国境を接する西ベンガル州の州都です。ガンジス川の支流の一つであるフグリー川沿いに街が広がっており、都市圏人口ではインド3位ですが、市域での人口密度はインド1位の巨大都市です。

 

1640年にイギリスが商館を建て活動を開始した時点では、ここは3つの村が水辺に点在する程度の未開地でした。このうちの一つ・カーリカタ村の名をとって、イギリス時代からはカルカッタと呼ばれるようになります。イギリスは西海岸のボンベイ(現ムンバイ)、東海岸のマドラス(現チェンナイ)とカルカッタを中心に商館を要塞化し、さらに1757年にはプラッシーの戦いでベンガル太守とフランスを退けてインド貿易を独占。カルカッタはイギリスのインド統治の中心となり、イギリスはここを拠点にインドの侵略を進めていくこととなります。

 

カルカッタは、都市化とともに文化の成熟・教育の充実が進み、アジア初のノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールを輩出しています。またインド人の知識階層の集う場ともなり、民族運動の発信地としても機能していきます。

 

1911年、カルカッタでの民族運動の煽りを受けイギリスの拠点がデリーへ移されましたが、その後も経済的には発展を続けました。インド独立後はパキスタンとの分離による政治的・経済的な影響を受け他の都市圏に抜かれていきますが、現在でも東インドに置いてはその中心であり、最大の都市であることは変わりません。

 

 

■カーリー寺院

カーリーガート
カーリーガート

神々とアスラ(悪魔)の戦いの中でシヴァ、ヴィシュヌ、アグニ等の神の怒りから軍神の女神:ドゥルガーが生まれますが、アスラへの怒りによってドゥルガーの額から生まれた戦闘の女神がカーリーです。争いと血を好み、手に生首を掴み腰に切り取った敵の手足を提げるという荒々しい姿で知られています。

 

カーリーの姿で人気があるのは夫であるシヴァを踏みつぶしながら踊るシーン。流血してもその血から分身を生んで無限に増え続ける力を持つラクタヴィージャというアスラとの戦いを終えた後の勝利のダンスのシーンです。カーリーはラクタヴィージャの血を全て飲み込むことでアスラを倒し、歓喜して踊り始めますが、あまりにも激しい踊りによって大地が砕けてしまいそうになったためシヴァがその衝撃を和らげるためにカーリーに踏まれているという場面です。やがて夫を踏みつけていることに気づいたカーリーは我に返り踊りを止めたので大地は砕けずに済んだ、という神話が伝えられています。

 

コルカタのカーリー寺院ではカーリーへの犠牲礼拝が盛んで、現在でも毎日のようにヤギを犠牲に捧げています。ヒンドゥー教徒以外は寺院内部へ入ることは出来ませんが、運が良ければ柵越しに犠牲の儀式を見ることができます。

 

■花市場

花市場
花市場

血を好むカーリーへ捧げるための赤いハイビスカス、ヒンドゥー教で好まれるオレンジ(サフラン)色のマリーゴールド等多くの生花が取引される広大な市場です。いつも多くの人でごった返しており、海岸沿いの湿った空気とともにコルカタの街の熱気を感じる場所です。コルカタ港に繋がるフグリー川に沿って広がっており、川辺のガートでは沐浴する人の姿も見られます。ここからフグリー橋を越えて行くハウラー橋はコルカタのシンボルにもなっています。

 

■インド博物館

インド博物館
インド博物館

植民地時代の1817年に開館したインド最古の博物館です。バールフットの塔門や仏舎利、また豊富な仏教・ヒンドゥー教の彫刻群などに加え、絵画や絹織物、動植物などの展示も充実しています。さらに収蔵品は5万点を越え、1日では巡りきれないほどの見応えのある博物館です。

 

バールフットの塔門
バールフットの塔門

 

■マザー・テレサ・ハウス

マザー・テレサの彫像
マザー・テレサの彫像

1929年からインドで活動したマザー・テレサ。コルカタでは1948年から1997年まで活動を行っており、彼女が晩年を過ごした場所は今でも修道女たちの活動の場として利用されています。マザー・テレサの廟もここに置かれており、現在でも多くのキリスト教徒が巡礼に訪れます。建物の一部は展示室として公開されており、マザー・テレサの活動の記録や生前に使っていた様々な道具が展示されている他、実際に彼女が暮らしていた部屋も公開されています。

 

 

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バーブルの生涯とムガル帝国建国

ムガル帝国」は、北インドを観光中、1日に一度ならず何度も何度もガイドの口から出てくるワードの一つです。

 

インドはイギリス植民地として支配下に置かれるまで、ムガル帝国によって支配されてきました。その支配力は常にインド全域に渡っていたものではありませんでしたが、特に北インドにおいては、広く諸勢力を支配下に置き、北インドは長い間ムガル帝国の基礎・拠点となってきました。

 

デリー、アグラを中心とする北インドエリアでは帝国の統治下において、インド・イスラーム文化が華開き、現代にも多くの遺産が受け継がれ、大切にされています。

 

今回は、その「ムガル帝国」建国までの歴史と、創立者であるバーブルについて紹介します。

 

バーブル(左)と息子フマユーン(右)
バーブル(左)と息子フマユーン(右) (出典:間野 英二 著 「バーブル―ムガル帝国の創設者 」山川出版社 2013年)

■生誕とサマルカンド奪還の野望

1483年、バーブルは現在のウズベキスタン東部に位置するフェルガナ地方にティムール朝の王子として生まれました。

父親は14世紀末に中央アジアに覇権を唱えたティムールの血、母親はモンゴル帝国のチンギス・ハンの血を継いでおり、バーブルは輝かしい出自であったと言えます(バーブル自体はティムールの5代目の子孫でした)。
フェルガナの領主の息子として育ったバーブルですが、1494年、父親の突然の事故死により、僅か12歳でフェルガナの領主となります。

 

当時サマルカンドを都としていたティムール帝国(1370-1507)は既に凋落の一途を辿っていました。諸勢力がサマルカンド獲得を巡って攻防を続けていましたが、バーブルもこの攻防に参加し、ティムール帝国の再興をもくろみます。

バーブルは1497年には従兄のバイスィングル、1500年にはウズベク系のシャイバーニー朝、また1511年には再度シャイバーニー朝を破って計3回のサマルカンド入城を果たしましたが、どれも短命政権に終わり、サマルカンドを後にすることとなりました。

 

現在のサマルカンド レギスタン広場
現在のサマルカンド  レギスタン広場(正面の神学校はティムール朝第4代君主ウルグ・ベクによって建てられました)

 

■インド支配への道

3度にわたるサマルカンド支配に失敗したバーブルは、サマルカンドから南部へと路線を変更します。アフガニスタンのカーブルに最初の拠点を築いたバーブルは、同じくアフガニスタンのカンダハール、パキスタンのペシャワール、そしてインドのパンジャーブへと進軍し、徐々にインド方面へ目を向けるようになっていきました。
1520年にはタジキスタン南部のバダフシャンを占領し、2年後の1522年にはさらに南下してカンダハールを占領。カーブルを拠点として、インド方面へと支配力を広げていきます。

 

また、バーブルはインドへ6度に渡って遠征を繰り返しています。カブールは大帝国の都としては十分な土地ではなく、始めは単に財貨の略奪を主目的としてインドへの遠征を行っていました。北西インドでは10世紀頃からイスラーム勢力の侵入が激しくなってきますが、このような財貨の略奪を目的とした遠征は当時としても珍しいことではなかったようです。

 

しかしインドへの遠征の中でバーブルはその豊かさに驚き、次第にインドを拠点とした建国を目指すようになります。徐々に力を増したバーブルは、当時の北インドのイスラーム勢力の内部抗争を好機とみて本格的な侵攻へ向かいます。1526年、第6次の遠征で、バーブルはデリーから北西に約90kmのパーニ―パットにてローディー朝を破り、デリー・アグラヘ入城。ここから、単なる略奪ではなく、インドに拠点を置いての本格的な支配へと移行していきます。

 

第一次パーニーパットの戦い
第一次パーニーパットの戦い(画像出典:パーニーパット県公式Webサイト)

 

若くから各地を転々とし建国の野望を秘めていたバーブルは、43歳にしてようやくムガル帝国の建立に至りました。「ムガル」とは、ペルシャ語でモンゴルを意味する語が変化したもの。バーブルがティムールの子孫であり、モンゴル系の血統を継いでいることに由来しています。実際はムガル帝国という名は自称していたものではなく、自称としてはヒンドゥスターン(ペルシャ語で「インダス川の土地」を意味)と名乗っていたようです。

 

当初はデリーとアグラ周辺を支配する小国に過ぎなかったムガル帝国ですが、バーブルは息子で後に第2代ムガル皇帝となるフマユーンとともに、ガンジス川沿いに東方のビハール、そしてベンガル地方へ遠征を繰り返して勝利を治め、インドでの支配基盤を整えていきました。

 

■バーブルの最期

1530年、病に倒れ遠征から帰ったフマユーンのため、バーブルは自らの命を捧げてフマユーンの回復を祈る儀式を行います。フマユーンは無事回復しますが、それからほどなくした1530年12月26日、バーブルはアグラにてその47年の生涯を閉じました。

 

諸国を遍歴し、ムガル帝国の建立後も僅か4年でその生涯を終えたバーブル。文学と書物を愛し、詩人でもあった彼は、その自伝を『バーブル・ナーマ』(バーブルの書)として書き記しており、まさに波乱万丈の生涯を窺い知ることができます。

 

バーブル・ナーマ
バーブル・ナーマの一部

 

バーブルは、自らの死後は初めて自分が拠点としたアフガニスタンのカーブルに葬ることを遺言として残していました。しかし、バーブル死後の戦乱のためにカーブルへの埋葬は叶わず、まずはヤムナー川沿いのラーム・バーグ庭園に葬られることとなります。バーブルの治世は僅か4年でしたが、このラーム・バーグ庭園はその中でバーブルが命じて建造した数少ない建築物でした。

 

その後、バーブルの棺はカーブルに移され、現在にまで伝えられています。

 

 

バーブルの墓
バーブルの墓(アフガニスタン カーブル)

 

Text by Okada

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ダージリン④:ヘリテージホテル ・ウィンダメア

ナマステ、西遊インディアです!

ダージリンはインド国内外から多数の観光客が訪れる一大観光地となり、現地には多数の宿泊施設が建ち並ぶようになりました。全室ヒマラヤビュー、街の中心地にある、リーズナブル、コロニアル風…等々、様々なこだわりやポイントを打ち出したホテルがあり、選択肢は幅広いです。

 

そんなダージリンでの宿泊ですが、今回は弊社スタッフ一押し「ウィンダメア・ホテル(Windamere Hotel )」について紹介します。

 

Daejeeling
ホテル・ウィンダメアへ!
Darjeeling
コロニアルロイヤルスイーツ ベッドルーム Windamere WEBサイトより

 

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メインハウス内にある暖炉のあるコモンルーム クリスマス前だったのでお部屋は装飾されていました!

 

 

■歴史

ダージリンは、19世紀インドを植民地にしていたイギリスの統治下におかれ、在印英国人の避暑地・学校の街として開発されました。また、今となっては紅茶の最高峰として世界に知られるダージリンティーも、この時代に栽培が始まっています。そんな中、イギリス人の紅茶農園主人の邸宅として1841年に建てられたのがこのホテルの始まりです。後に改築され、1930年代からホテルとしての経営が始まりました。当時の調度品、雰囲気をそのまま残し、サービスもイギリス統治時代のまま受け継がれています。

その後増築もされ、敷地内にはメインハウスの他に、コテージタイプの棟も建てられました。

 

 

Darjeeling
ホテルのコテージ部分

 

 

■ウィンダメア・ホテルでの宿泊

ホテルが位置するのは、ダージリンのランドマークともいえるオブザーバトリーヒル。見晴らしが大変よく、中庭にはルーフトップへの階段も設置されていて、晴れていればヒマラヤ山脈を見渡すこともできます。
ウィンダメアホテルの敷地面積は結構広く、整備されたお庭も広がっていますので、晴れていればお散歩も楽しめます。

街の中心まで徒歩圏ですが、高台にあるため一日中大変静か。静かにゆったりとくつろぐことが出来ます。

 

Darjeeling
12月はマリーゴールドがきれいに咲いていました

 

Darjeeling
見晴らしの良い中庭

ウィンダメアホテルは、イギリス植民地時代の雰囲気をたっぷり残しておりますが、その一助になっているのがホテル内の調度品や設備品の数々。特にお部屋の暖炉が素敵でした。ダージリンは標高があるため朝・夜は冷え込みますが、空調はありません。代わりに、各部屋には暖炉が設置されており、スタッフが火をくべて温めてくれます。

訪問したのは12月でしたが、この暖炉のおかげで朝まで一度も寒さを感じることなく休むことができました。各お部屋は天井が高く、結構な広さがありますが、暖炉の威力ってすごいな…と実感。

 

Darjeeling
暖炉に火を灯してくれました
客室の暖炉の一例

 

 

■ハイティー

ダージリンに来たのであれば美味しい紅茶を味わいたいですよね。ウィンダメアホテルでは、毎日夕方ごろに宿泊ゲスト用にハイティーのサービスがあります。使用されている紅茶は、キャッスルトンという紅茶農園のセカンドフラッシュ。とても香り高い紅茶です。

アフタヌーンティーのメニューは、野菜のサンドイッチ、ビスケットケーキ、クッキー、等々。もちろんハイティーには欠かせないスコーンもあります。ジャムやクロテッドクリームを添えていただきます。

 

英国の雰囲気漂うウィンダメア・バーでゆっくりソファに腰掛けていただくも良いですし、晴れていればテラスで、ダージリンの澄んだ空気とともにダージリンティーを味わいながら過ごすのも素敵です。

 

焼き菓子を提供してくれます
Darjeeling
ウィンダメア・バー
Darjeeling
ウィンダメアの紅茶はホテルで購入可能です!

 

■食事

食事は、ダイニングルームでいただきます。キャンドルの明かりだけで灯されている夕食は、雰囲気たっぷりでまるでタイムスリップをしたよう。コンチネンタル料理とインド料理を楽しむことが出来ます。

 

ダイニングルーム  蝋燭が灯されロマンティックな雰囲気
サーブしてくれました
朝食の例 ダージリンティーと一緒に

 

 

ウィンダメア・ホテルでは、インドの他の場所ではなかなか体験できない優雅な時間を過ごすことが出来ます。

伝統的なホテルに滞在する特別な週末はいかがでしょうか。

 

 

 

 

≪西遊インディアのツアーの紹介≫

■世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

 

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ダージリン② 世界三大銘茶のひとつ・ダージリンティー

言わずと知れた銘茶・ダージリンティーは、インド北東部西ベンガル州のダージリン地方で生産される紅茶です。世界最大の紅茶生産国のインドが誇る、ダージリンティーについて紹介します。

 

ダージリンの茶摘みの様子。手で丁寧に摘みます

 

 

■ダージリンティーの始まり

ダージリンでの紅茶の栽培は19世紀のイギリス植民地時代に始まりました。夏の間の保養地確保のため、ダージリンを含むシッキム王国を保護国としたイギリスは、避暑地としてダージリンを開発していきます。1841年、ダージリン地区長官を務めていたキャンベル博士が自宅に茶樹の苗を植えたところ、栽培に成功。そこから茶園が開かれていき、今では87もの茶園でダージリンティーが生産されています。年間の生産量は約12,000トンで、その約80%が国外に輸出されています。

 

 

ダージリンティー

■ダージリンティーの茶樹

キャンベル博士は数多くの苗・茶樹栽培を試みましたが、多くはダージリンの環境に合わずに枯れてしまいました。日中はヒマラヤ山麓の強い直射日光にあたり、夜間は低温となるこの寒暖差こそがダージリンティーのみが持つ上品で芳醇な香りを生み出すのですが、多くにとっては厳しい環境だったのです。幸いなことに生き残った茶樹の子孫は、耐寒性のある中国種のチャイナと呼ばれる茶樹でした。

その後、標高500~2500mにわたる山腹の各所にて茶園の開拓が進められ、現在は先にも紹介した通り87か所の茶園のもと、美しいお茶畑が広がっています。

 

余談ですが、インドの三大紅茶の1つアッサムティーもイギリスの植物研究家によって発見され栽培が始められました。こちらはアッサム地方に自生していたもので、ダージリンの中国種とは別の系統です。高低差のある山腹で作られるダージリンティーとは異なり、標高が低く降水量の多い大平原で栽培されています。こくが強いためミルクティーに向いており、インドではチャイとして国内で多くが消費されています。

インドの紅茶とマサラチャイの記事もご参考ください)。

 

 

ダージリンの茶畑

 

 

■ダージリンティーの特徴

ダージリンティーは「紅茶のシャンパン」とも呼ばれ、セイロンのウバ、中国のキーマンと並び世界三大紅茶と称されています。価格は抜きんでており高級茶として知られ、独特の香りが特徴的です。朝夕の霧、そして日中の強い日差しといった、ダージリンの天候こそがこの独特の香りを生み出しています。

 

中でもその香りがマスカット、あるいはマスカットから造ったワインの香りに似ているものは、マスカテル・フレーバーとして珍重されています。このフレーバーは、「ウンカ」という体長5mmほどの小さな虫が茶園の葉を噛み、茶葉の水分を吸うことで生まれます。水分を吸われた茶葉は黄色く変色し、攻撃に対抗すべく抗体物質(ファイトアレキシン)を作り出します。これがマスカテルフレーバーの香りの正体です。これは、セカンドフラッシュ・夏摘みだけの特別な紅茶です。

 

Darjeeling
マスカテルフレーバーの茶葉は、「Muscatel」のシールが貼られて出荷されます

 

 

■茶葉の種類と飲み方

ダージリンの茶葉

ダージリンティーは、特有の香りを楽しむためストレートで楽しむのに向いています。

3月末~4月頃から、11月頃までが茶摘みの時期に当たり、そのなかでも4月の一番茶(ファーストフラッシュ)、6月の2番茶(セカンドフラッシュ)が最も良質とされています。また、10,11月頃に収穫される茶葉は、オータムナルと呼ばれます。

摘み取るのは、一芯二葉、つまり、まだ開いていない中央の新芽とその下の若葉二枚を摘み取ります。

 

ファーストフラッシュ

3月~4月頃に収穫される春摘みの茶葉です。柔らかな新芽を使い、水色は黄金色の明るい色です。緑茶のような若々しい爽やかな香りが特徴ですが、青臭い、薄いと好みがわかれるものでもあります。ストレートで香りを楽しむ飲み方がお勧めです。

 

セカンドフラッシュ

6月~7月頃に収穫される、夏摘みの茶葉です。ダージリンのクオリティシーズンで、マスカテルフレーバーを有するとされる茶葉はすべてこのセカンドフラッシュです。爽やかな香りと天然の甘みが特徴で、味・コク・香りのバランスがよく日本人に最も好まれる味と言われています。他の収穫期と比べ、高品質とされ高値で取引されています。水色はうすいオレンジ色です。

 

オータムフラッシュ

10月~11月頃に収穫される秋摘みの茶葉です。厚みのある葉を利用し、渋みがある濃いめの味が特徴。水色も深いオレンジ色になります。中級品とされ比較的安価で手に入ります。香りは少々劣るものの、比較的濃厚で丸みを帯びた味が特徴でミルクティーにも合うものとされます。

 

 

お茶の製法は、基本的には「オーソドックス(伝統的)製法」と「アン・オーソドックス(非伝統的)製法」のふたつですが、ダージリンティーは、オーソドックス製法が用いられています。オーソドックス製法は、人手による伝統的な製法を機械で忠実に再現した製法で、主にリーフティーの製造に使われています。
アン・オーソドックス製法で主なのが、現在世界中に広がっているCTC製法(お茶の記事ご参照)です。

 

摘んだ茶葉は工場に集められ、下記のステップを踏みます。

 

①萎凋(温風を送ってしおれさせ、水分を40-60%減少させる)
②蹂躙(茶葉を揉む)
③発酵
④乾燥

途中、ふるいに大きさと見た目による等級分けも行われます。この仕分けによって、同じ茶葉でも味わいの異なる紅茶としてパッケージ分けされることになります。

 

紅茶工場では、このような紅茶の加工の見学も可能です。はっきりとした四季があるダージリンでは、冬は茶樹の手入れの季節となり、工場はお休みですでのご注意ください。

 

ダージリンティー

 

 

■ダージリンでの試飲体験

ダージリンの街のバザールには紅茶屋が並んでおり、各店試飲をさせてくれます。

摘んだ時期や、茶園によってこんなにも色に違いが出ています。香りも味もそれぞれの特徴がありました。

 

Darjeeling
紅茶屋さんにて

 

こちらは最高級と言われるダージリンのホワイトティー。芽吹く直前の若い新芽を使った、希少性の高い紅茶です。紅茶の渋みが全く感じられず、さっぱりとした緑茶に近い風味でした。他では味わえない香り高い紅茶です。

 

ホワイトティー

デリー等の都市部でもダージリンティーの茶葉は手に入りますが、ダージリンで購入された方が種類も豊富ですしお値段も安いです(パッケージはシンプルなものが多いですが…)。

 

また、ダージリンティーは、生産量と市場に出回っている量が大きく異なっていると言われており、粗悪品も一部混ざっているとも言われていますので、購入場所はある程度考慮する必要があります。

 

 

ヒマラヤの麓に広がる紅茶の王様・ダージリンの茶畑の景観を楽しみ、好みの茶葉探しはいかがでしょうか!

 

≪西遊インディアのツアー紹介≫

■世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

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ダージリン① 美しきヒマラヤと紅茶の里 

「ダージリン」という単語は、紅茶の名前として聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。最高級の紅茶として世界中で飲まれているダージリンティーは、その生産地「ダージリン」から名付けられています。

今回は、インド北東部に位置する西ベンガル州ダージリン地方について紹介いたします。

 

 

ダージリン・ヒマラヤ鉄道と美しいヒマラヤ山脈  これぞダージリンという1枚!

 

■成り立ち

ダージリンは、現在西ベンガル州の一都市ですが、もとは隣接しているシッキム州の一部でした。17世紀にチベット人がシッキム王国を建ててからインドに併合されるまで、ネパールとブータンの間に存在したシッキムは、3世紀続いたヒマラヤの小国でした。

19世紀になると、インド亜大陸で植民地支配を広げていたイギリスが進出し、シッキムを保護国にしました。クーラーのなかった時代、日中40度を上回るようなインド平野部の夏の暑さはイギリス人にとっては耐え難く、ダージリンのような涼しい高原が保養地として必要だったのです。

 

イギリスの植民地時代、ダージリンは涼しい山の気候が好まれ、在印英国人の避暑地・学校の街として人工的に開発されました。そのため、今も英国風の建物や街並みが残っています。ダージリンという名も、昔この町にあった「ドルジェ・リン(DorjeLing)」という仏教僧院の名を、イギリス人が呼びやすい呼称にしたと言われています。主要産業である紅茶の栽培を始めたのも、当時ダージリン地区長官を務めていたキャンベル博士でした。

 

1947年にインドがイギリスから分離独立すると、インドがシッキム王国を引き継ぐことになり、一時はインドの保護国となります。しかし、王国の民主化が進む中、選挙制度を巡る暴動をきっかけにインドが軍事介入し、シッキム国会は「民主主義発展の妨害者である国王の廃止と責任感の強い政府であるインドへの併合」を満場一致で決議し、1975年に正式にインドに合併されました。こうしてシッキム州が成立し、ダージリンはインドの西ベンガル州の一都市となりました。

 

茶摘みの様子

 

■ダージリンの民族

イギリスがシッキム王国を保護国とする前、ダージリンはネパールを統一したグルカ王国の支配下にありました。その後、19世紀後半からこの地で紅茶の栽培を始めたイギリス人は、紅茶園で働く安価な労働者が大量に必要となり、ネパールからたくさんの人々を移住させました。このような背景から、現在ダージリン住民の多数をネパール系民族が占めています。

ダージリンは西ベンガル州に属していますが、西ベンガル州の州都・コルカタと北の山間部にあるダージリンとでは位置、言語、歴史的背景、また文化的にも全てがかけ離れています。西ベンガル州の公用語はベンガル語です。一方でダージリンでは学校でもネパール語や英語で授業が行われています。2017年、西ベンガル州政府は州内でのベンガル語の教育を義務化することを決定しました。ダージリンはこの決定に対し「言語、文化の押し付けである」と大反発し、その後大規模なストライキへと発展しました。

現在は、ダージリンを「ゴルカランド」州として西ベンガル州からの独立を望む動きも起こっており、定期的に活発化しています。

 

Darjeeling
ダージリンの街並みとカンチェンジュンガ連山

 

■ダージリンのみどころ

標高2,134mという高地にあるため、夏は日中でも涼しく過ごしやすいダージリン。インド国内外から多くの避暑客・観光客が訪れます。

おすすめの時期は、雨季が明け乾季に入る10月後半から12月上旬頃です。晴天率も上がり、ヒマラヤが展望できる確率もぐっと上がります。ダージリン観光のみならず、カンチェンジュンガ周辺のトレッキングにも多くの人が訪れる時期です。

 

それではダージリンの見どころについて、簡単にご紹介いたします!

 

みどころ①:紅茶工場

 

お土産で買って帰るだけでなく製作工程も見てみたいという方には、紅茶工場の見学がお勧めです(茶葉を摘み終わった冬季は工場は休業します)。

収穫期にあたる4~10月は、茶畑で茶摘みをしている風景も見ることが出来るので、紅茶の王様であるダージリンティーがどのように摘まれ、加工され、紅茶葉として製品になるかを見学することが出来ます。
紅茶工場のなかには、見学不可であったり事前申請制であったりする工場があるので、お目当ての銘柄がある場合は事前にチェックが必要です。

 

Darjeeling
紅茶工場<Happy Valley Tea Factory>
ホテルでのハイティーの様子。美味しい焼菓子とダージリンティーで優雅な時間をどうぞ

11月ダージリン中心部からほど近い、ハッピーバレー紅茶園を訪問しました。工場内での作業は全て終了しており機械は止まっていましたが、まだ紅茶の香りが工場内に立ち込めていて今すぐに美味しい紅茶を飲みたい!という気分になりました(工場に小さな売店があり試飲も可能です!)。

 

 

みどころ②:ダージリン・ヒマラヤ鉄道

 

収穫した紅茶の輸送と避暑客のために開通したダージリン・ヒマラヤ鉄道は、トイ・トレインとして親しまれ、ユネスコ世界遺産にも登録されています。現在は、観光用蒸気機関車もあり、約1時間の乗車を楽しむことが出来ます。

詳しくはダージリン③の記事で紹介します。

 

トイトレイン

 

みどころ③:タイガーヒル
(世界第3位の高峰カンチェンジュンガのビューポイント)

 

ダージリンの街周辺には、たくさんのヒマラヤビューポイントがあります。晴れていれば世界第3位の高峰・カンチェンジュンガをはじめ、美しいヒマラヤの山々を望むことができます。

なかでも一番整備され、よく訪れられているのは標高2,590mの展望台タイガー・ヒルです。天気が良ければ、遠くにエベレストの姿を眺められることも!

なお、ヒマラヤを望むには早朝の時間帯が圧倒的におすすめです。日の出前にダージリンを出発して、タイガーヒルにてご来光と朝日で輝くカンチェンジュンガをご覧ください。

 

 

Darjeeling
タイガーヒルから望むカンチェンジュンガ。朝日が当たり薄く赤く色づいています。
Darjeeling
インドヒマラヤの王者カンチェンジュンガ(8,586m)。「カンチェンジュンガの意味は五つの宝庫をもつ偉大な雪山」

 

みどころ④:ヒマラヤ動物園・ヒマラヤ登山学校

 

Darjeeling
ヒマラヤ動物園・登山学校

同じ敷地内に動物園とヒマラヤ登山学校が併設されています。

ヒマラヤ地方の動物の研究、保護、保存を目的に建設されたヒマラヤ動物園では幻の動物と言われるユキヒョウや、インドではここでしか飼育されていないシベリアン・タイガーを見学することが出来ます。

ヒマラヤ登山学校は、インドの登山家を訓練するために建設され、併設されている登山博物館ではエベレスト登頂者たちの写真、1953年のエベレスト初登頂時に使用された装備等が展示されています。

 

ユキヒョウ
Darjeeling
ヒマラヤ登山学校の正面広場にはイギリスの登山家ジョージ・マロニーとともにエベレスト初登頂したテンジン・ノルゲイの銅像が

 

ダージリン②の記事へ続きます!

 

≪西遊インディアのツアーの紹介≫

■世界遺産トイ・トレインに乗車 ヒマラヤと紅茶の里ダージリン2泊3日 英語ガイド同行

 

 

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ボーパール②<ホテル紹介>ジャハン・ヌマ・パレスと、ボーパールの悲劇

Namaste!! 西遊インディアの岡田です。

 

ジャハン・ヌマ・パレス外観 (出典:ジャハン・ヌマ・パレス公式サイト)
ジャハン・ヌマ・パレス外観 (出典:ジャハン・ヌマ・パレス公式サイト)

ボーパール①の記事でも紹介しました通り、インド中央部のマディヤ・プラデーシュ州の州都であるボーパールは、サンチー仏教遺跡群やビーマベトカ壁画への観光の拠点として多くの旅行者が訪れる街です。

 

今回は、ボーパールの街で一番のおすすめであり、旅行者に大変人気の5つ星ヘリテージホテル・ジャハン・ヌマ・パレスをご紹介いたします。

 

Bhopal
ホテルの正面玄関。いつもスタッフが笑顔で迎えてくれます

 

ジャハン・ヌマ・パレス 夜の庭園
ジャハン・ヌマ・パレス 夜の庭園

ジャハン・ヌマ・パレスは、白い外壁と周囲の緑のコントラストが美しい、歴史あるホテルです。2階建ての低層の造りで、ロビーを抜けると大変広い中庭があり、その周りに客室が並んでいます。中庭は吹き抜けになっており、大変開放的です。

 

先の記事でも述べましたが、ボーパールにおいて1829年から1926年までの107年間、ベーガムと呼ばれる4人の女性指導者たちが統治していたことは大変有名です。

最初の女性指導者であるカドシャ・ベーガムは暗殺された夫の跡を継いでボーパールの統治を進め、その統治は彼女の娘からさらにその娘へと、母子4代にわたりました。その4代目・スルタン・ジャハン・ベーガムの治世の時・1890年に建設された宮殿が、現在のジャハン・ヌマ・パレス・ホテルです。

 

ジャハン・ヌマ・パレスは、完成後藩王族の住まいとして使われてきましたが、上記スルタン・ジャハン・ベーガムの次男(ウバイドゥラ・ハン)が亡くなる1924年以降、宮殿は移転や改築を経ながら様々な用途で用いられるようになりました。
次男の死後、1952年までは事務局として利用され、その後インド政府に接収された宮殿は政府によって宿泊施設として、そして1981年まではインド地理調査局の事務所として利用されました。

 

Bhopal
客室内
ジャハン・ヌマ・パレス 客室
ジャハン・ヌマ・パレス 客室

インド分離独立後、再度藩王一族の元に戻ってきた宮殿は、ウバイドゥラ・ハンの孫が5つ星ホテルとして整備し、1983年の9月に現ジャハン・ヌマ・パレスホテルとしてオープンしました。19世紀の藩王国時代の雰囲気をそのままに引き継いだ高級ホテルとして話題となり、2000年には人気ヘリテージホテルとして選出されるようになりました。レストランも評価が高く、またカフェやスパも併設されています。

 

Bhopal
ホテルのレセプション。正面は広いロビースペースになっており、歴代藩王の肖像画や古い調度品が展示されています

現在でもウバイドゥラ・ハンのひ孫にあたる方が経営しているジャハン・ヌマ・パレス。ホテル内には一族の歴史を示す当時の写真や道具などが飾られており、まさにボーパールの歴史を肌で味わうことのできるホテルです。ボーパールでの滞在に余裕のある場合は、ぜひとも泊まっていただきたいホテルです。

 

是非ご検討ください!

 

 

最後に、ボーパール関連のエピソードで忘れてはならない事故の話です。
ボーパールの街は、今から35年前の1984年12月に大変悲惨な事故に見舞われてしまいました。

 

その事故とは「ボーパール化学工場事故( Bhopal disaster)」。ユニオン・カーバイド社の化学工場で、深夜に起きた事故により強い毒性を持つガスが工場から漏れ出て街へと流入。未明までに約2,000人が命を落とし、その後も死傷者は増え最終的には2万人を超える死者をだした、史上最大・最悪の産業事故です。問題となった物質はイソシアン酸メチルという肺を犯す猛毒でした。
今でも、工場を管理していたユニオンカーバイド社への訴訟や責任問題は未解決とのことです。

 

この他に類をみない惨劇が起こったボーパールは、インド国内では「インドの広島」と呼ばれています。

 

Bhopal
ユニオンカーバイド社工場の跡地

活気溢れるボーパールの街からは、今は事故の影はありません。
ですが、汚染された土壌の回復や、被害者の後遺症との闘いや心のケア、遺族のケア等、まだ問題は残ったままとなっています。

 

 

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ボーパール① サンチー仏教遺跡群とビーマベトカ壁画

 

ナマステ!!西遊インディアの岡田です。今日はサンチー遺跡とビーマベトカ壁画、その拠点となるボーパールの街をご紹介します。

 

インド中央部に位置し、「中央の州」を表すマディヤ・プラデーシュ州の州都・ボーパール。デリーからは南へ800kmほどの位置にあります。18世紀からインド独立まで、イギリス統治の下でボーパール藩王国として栄え、その中でも1829年から1926年までの107年間は4人の女性藩王が治めたことで知られています。

ボーパールは付近の二つの世界遺産・サンチー遺跡とビーマベトカ壁画の観光拠点として多くの旅行者が訪れる街となっていますが、ボーパールの街自体も非常に多くの見どころを有しています。

その一つが、街の中心にあるタージウル・マスジッド。女性藩王の一人・シャー・ジャハーン・ベーガムがデリーのジャマー・マスジッドに勝るモスクを目指して1800年半ばに建設を開始しました。彼女の死後資金難等の問題により何度も建設は中止しましたが、1985年に完成しました。現在はアジア最大級のモスクとして、ボーパールのシンボルとなっております。

 

■サンチー遺跡

サンチー遺跡の第1ストゥーパ
サンチー遺跡の第1ストゥーパ

 

ボパールから北東へ約50km、サンチーの街へ着くと山の上にストゥーパの影が見えてきます。

ストゥーパ(仏塔)は本来は仏舎利(仏陀の遺骨/遺灰)を収めた塚を指し、全てのストゥーパには仏舎利が収められているとされていましたが、現在はその真偽を問わずに信仰の対象となっています。日本では「卒塔婆」あるいは単に「塔」として伝えられ、各地に三重塔や五重塔のような形で残されています。インドでは仏教へ帰依し広く布教を行った紀元前3世紀・マウリヤ朝のアショーカ王によって各地にストゥーパ、そしてアショーカの石柱と呼ばれる石柱が建設されています。

 

メインとなるサンチーの第一ストゥーパはアショーカ王によって建設されたもの。紀元前3世紀の建設の後、その後前2~1世紀にそれを覆うように拡張され現在の姿となりました。最大の見どころは、ストゥーパへの入り口に建てられた門・トラナに施された精緻な彫刻群です。

 

トラナに施された彫刻(北門裏側)
トラナに施された彫刻(北門裏側)

トラナはストゥーパへ至る通路にかかる塔門。日本の「鳥居」の原型はこのトラナにあると言われます。東西南北に建てられたトラナは、その表裏を覆いつくすように仏伝、ジャータカと呼ばれる仏陀の前世譚などをモチーフにした精緻なレリーフが刻まれています。トラナを埋め尽くすレリーフは「石の絵本」とも表現され、美仏陀の生涯やその教えを現代に伝えています。

 

仏陀が生まれる前のマヤ夫人に象が入る夢の場面
釈迦の生母・マヤ夫人(一番上)。天から白象が降りてきて、自分の右わきから胎内に入る夢を見て懐妊したという伝説が伝えられています。

初期仏教では仏陀を直接的に彫刻、絵画等で表すことは憚られました。そのためこの時期は「無仏像時代」といわれています。
仏陀はどの場面でも菩提樹・法輪・足跡・仏塔・傘などでシンボリックに表現されており、レリーフの中にはそれらを組み合わせて象徴的に仏陀の前身を表したものも見ることができます。仏陀の姿が仏像として実際に表されるようになるのは紀元後1世紀以降のことです。

 

仏足で象徴的に表された仏陀
仏足で象徴的に表された仏陀

 

仏教の衰退後は多くのストゥーパが破壊されてしまったのに対し、サンチーのストゥーパは森におおわれていたため発見を免れ、19世紀にイギリス軍により再発見されるまで良好な状態で残っていました。現在は第1~3までの3つのストゥーパに加えて僧院や寺院なども一部が残っており、一大仏教センターとして賑わったであろう当時の様子を伺えます。

 

第3ストゥーパ
第3ストゥーパ

 

■ビーマベトカ遺跡

ビーマベトカ壁画
ビーマベトカ壁画

続いて、ボーパールより幹線道路を南下すること約50kmのところに位置する、ビーマベトカ岩窟群をご紹介します。
ビーマベトカの岩窟群はチークの木が生い茂る小高い丘の上にあり、それぞれの岩陰に最大で約1万5千年前~3000年前の人類が描いた壁画が残されています。初期は単純な動物・人間の姿を写したものが、時代を下るにつれて人と人とが輪になって踊る様子、集団で狩りをする様子、馬に乗って行進する様子等へ変わっていき、当時の様子や社会の形成・発展の過程を知ることができます。

その他、馬は約3,000年前にモンゴルからはじめてインドに来たため、馬が描かれている壁画は3,000年前以降の新しいもの、また人物が三角形で描写されているのは5,000年前のもの、といった壁画の時代の見分け方もありそれぞれの岩全てを大変興味深く見ることができます。

 

この壁画を描くのに使われている染料は全て天然のものです。白は植物の根や石、動物の骨を粉末にしたもの、赤は動物の血や植物の樹液を混ぜたもの。黄色は植物の花等を原料として作られており、色の種類も時代に従って豊富になっていきます。

 

赤色顔料を用いた壁画 (武器を持ち馬に乗る人々)
赤色顔料を用いた壁画 (武器を持ち馬に乗る人々)

 

白色・黄色の顔料を用いた壁画(花)
白色・黄色の顔料を用いた壁画(花)

 

全部で750ある岩のうち、500の岩陰に壁画が施されています(旅行者が観光できるエリアは、15箇所のみです)。なかでも、大きな岩面に様々な時代の壁画が密集して描かれている場所は「Zoo Rock」と呼ばれ、1万年以上もの長期にわたって継続的に人々が生活し、壁画を描き続けてきたことを示す貴重な資料となっています。

 

岩一面に壁画が施されたZoo Rock
岩一面に壁画が施されたZoo Rock
ビーマベトカの岩体
ビーマベトカの岩体

 

描かれた岩絵は、ストーリー性のあるものもあり、大変見応えがあります。上記に述べたこの土地の人々の営みの変遷もそうですし、この岩窟周辺には、今よりも緑が溢れ、牛、鹿、猪、バイソンなど多くの動物が生息していたのが、壁画から伺えます。

世界にはこのような太古の岩陰壁画が残されている場所は数多くありますが、ここビーマベトカではいつ行っても他に観光客もおらず独占的に観光できるのも魅力。この地での人の営みを想像しながら、ゆっくりと見学をお楽しみください。

 

 

<西遊旅行>サーンチー・ビーマベトカを訪問する西インドツアーはこちら

 

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インドの商業と娯楽の中心地:ムンバイ

ナマステ!

 

西遊インディアの岡田です。今回はインド最大の都市・ムンバイの歴史と主要な観光地をご紹介いたします。

古くは16世紀からポルトガル、そしてその後はイギリスの植民地として外へ開かれ、自由な空気の漂うコスモポリタンとして巨大都市へ成長してきたムンバイ。現在はインドのビジネスの中心地として、また西インドの観光の拠点としても国内外から多くの人々が訪れます。

 

2011年の国勢調査では、ムンバイ市の人口は約1,250万。隣接するムンバイ新市街として建設されたナビムンバイやムンバイの衛星都市として発展してきたターネーも含めると、都市圏人口は、約2,300万人となります。まさに、アジアを代表する巨大都市。ムンバイの街中は常に人が溢れており、活気が溢れ、並々ならぬパワーを感じることができます。

 

また、ムンバイはインド映画の中心地・ボリウッドとしても有名です。アメリカの映画産業の中心地・ハリウッドのインド版として、「Bombay」の頭文字「B」をとりボリウッドと呼ばれています。年間2000本近くの映画が撮影されているインド映画界を牽引する存在です。

 

現在は一大都市となっているムンバイですが、かつては小さな漁村でした。16世紀、当時のスルタンより7つの島々を獲得したポルトガルはこの地に要塞と教会を建て、ポルトガル語で「良い港」を意味するボンバイアと名付けました。後にポルトガルは1661年にポルトガル王女とイギリスの王子の婚姻の際に贈り物としてこの地をイギリスへと委譲。東のコルカタ・西のボンベイ(ボンバイアは英語名でボンベイと表された)を拠点にインド支配を着実に進めていったイギリスは、国内に張り巡らせた鉄道網で各地の産品をボンベイへ送って集め、スエズ運河を通してヨーロッパへ輸出していきました。これにより、イギリスはさらにインドでの支配力を増していきました。

 

1900年代に入り、インドの反イギリス支配の声が大きくなり始めた頃、ムンバイではインド独立運動が盛んに行われました。インド建国の父マハトマ・ガンディーも頻繁に訪れ「クイット・インディア(インドを立ち去れ)」運動が繰り広げられました。

インドの分離独立後は、ムンバイはグジャラートのエリア一帯も含むボンベイ州の州都となりましたが、後に言語の違いによりさらにムンバイ州がグジャラート州とマハーラーシュトラ州に分割され、マハーラーシュトラ州の州都となりました。州都の公式名称がボンベイからマラーティー語のムンバイと変更されたのは、1996年のことです。

ムンバイは植民地時代から、インド国内外の貿易拠点としてお金が集まり、そのお金を目指して人間が集まり、徐々に巨大都市へと発展していきました。現代でもその流れは止まらず、多くの人が地方から職を求めてムンバイへやってきています。

 

それでは、ムンバイの見どころを簡単にご紹介します。

 

■チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅

 

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チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅外観

インド貿易の要となった鉄道網ですが、そのアラビア海側の終着駅がヴィクトリア・ターミナス駅です。もともとは当時のヴィクトリア女王に因んでこの名がつけられましたが、現1988年に現:チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅に改称されました。ヴィクトリアン・ゴシック様式を基本としつつ、尖塔に代わってドーム屋根を使用し、各所にアーチを施す等インド的・オリエンタルな要素で装飾されているのが特徴です。イギリス植民地時代のインドの代表的な建築物の一つです。

新名称として採用された「チャトラパティ・シバージー」は、ムガル帝国、そしてイギリスに抵抗してマラーター同盟を結成した17世紀の英雄:シヴァージーの名をとったもの。チャトラパティは王の称号を意味します。インド独立運動の際にも反英運動の一つの象徴として人気を持ち、勇敢な「戦うヒンドゥー教徒」として、各地にその像が建立されています。

1887年に完成した駅舎は現在でも利用され、インド国内でも最大級の乗降者数を誇っています。駅の目の前の交差点には写真撮影用のスペースが確保されており、駅舎を眺めることができます。

 

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駅のすぐ横に建つムンバイ市庁舎

■エレファンタ島石窟寺院

 

エレファンタ島の3面のシヴァ神像
エレファンタ島の3面のシヴァ神像

ムンバイの一大観光/巡礼の名所となるのがエレファンタ島の石窟寺院群です。6~8世紀に開窟されたこの石窟群にはもともと複数の石窟が開かれたものの、16世紀にポルトガル人によって発見された際に多くが破壊されてしまい、現在一般に公開されているのは第1窟のみとなっています。

 

エレファンタ島、第1窟の外観
エレファンタ島、第1窟の外観

 

エレファンタ島、第1窟の内部
エレファンタ島、第1窟の内部

第1窟はエレファンタ島最大の石窟寺院で、シヴァ神を祀るための寺院です。内部には中心部のシヴァリンガを囲むように回廊が設けられており、壁には様々なシヴァ神話のシーンが見事なレリーフで表されています。パールヴァティをはじめとするシヴァの親族、またヴィシュヌやブラフマーなど他の主神も登場しますが、やはりシヴァとパールヴァティが主役となるシヴァ派ヒンドゥー教の世界観を生で感じることができる場所です。

 

エレファンタ島 核心部のシヴァリンガ
エレファンタ島 核心部のシヴァリンガ

 

■インド門

エレファンタ島へのボートの発着地となるのがインド門です。かつて1911年にイギリス国王ジョージ5世夫妻の来印を記念して建立され、その後1924年に完成しています。玄武岩製、高さ26mのインド門は当時はイギリス帝国の権威と権力の象徴でしたが、現在ではムンバイ市のシンボルとなっています。

 

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インド門
インド門広場に面して建つタージ・マハル・ホテル
インド門広場に面して建つタージ・マハル・ホテル

 

海から見たタージマハルホテルとインド門。手前にはエレファンタ島行の船が見えています。
海から見たタージマハルホテルとインド門。手前にはエレファンタ島行の船

インドの伝統的な家庭では男性が外に出てお金を稼ぎ、女性が家庭内の仕事を行いますが、ムンバイでは女性の就労率が国内の他の都市と比べて比較的高く、現市長も女性のキショリ・ペドネカール氏が就任するなど女性の社会進出も進んでいます。一方で格差の拡大や人口の過集中など、他の大都市が抱える問題も同様に抱えており、スラム街を見下ろすように聳える高層ビル群は格差社会を象徴するような風景です。スラムの住人は主に漁業を生業とする人々でしたが、現在では職を求めてムンバイへ移住してきた出稼ぎの労働者等が、家賃の安いスラムでの生活を始めることが多いそうです。

 

また、映画の街ボリウッドとしても名高いムンバイは様々なインド映画のロケ地となっています。ムンバイに暮らす様々な境遇を生きる男女4人の姿を描いた映画「ムンバイ・ダイアリーズ」(2011年)では全てのロケがムンバイ市内で行われており、ムンバイの雰囲気、またインド人にとってのムンバイのイメージを存分に感じることができる一作です。またこちらはインド映画ではありませんが、ムンバイのスラム出身の少年を主人公とした「スラムドッグ$ミリオネア」(2008年)は、アカデミー賞はじめ数々の映画賞を受賞し日本でも大きな話題となりました。

 

インドの伝統と自由な思想が大都市の中で混ざり合うムンバイ。
世界遺産のより詳細なご案内や他の見どころについては、また別の記事でも紹介いたします。

 

 

 

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インドの紅茶の歴史とマサラチャイ

ナマステ!
現在、インドの土産物と言えば紅茶、というほどインドを代表する特産物になっている紅茶ですが、インドでの紅茶の栽培や流通の歴史は、意外なことにそこまで古くなく、比較的新しいものです。

今回はインドにおける紅茶栽培へと至る道のりと、マサラチャイへの発展の歴史をご紹介していきます。

 

土産物屋で売られる紅茶
土産物屋で売られる紅茶

■茶がヨーロッパへ至るまで

茶は中国南西部の雲南省からミャンマー、チベット高原当たりの山岳部に自生していたものが原産で、中国では有史以前から薬として飲用されていました。その後、6世紀頃から飲み物として一般化していきます。朝鮮半島や日本には古くから伝わっていたものの、ヨーロッパへと伝わるのは17世紀頃になってからでした。

 

中国雲南省 ペー族の三道茶
中国雲南省 ペー族の三道茶

初めてヨーロッパへ運ばれた茶は、1610年にオランダ船によって長崎からアムステルダムへ運ばれた茶と言われています。このころのオランダは中国やインドネシア等のいわゆる「東洋貿易」において支配的な立場にあり、始めはオランダ東インド会社によって日本や中国の茶がヨーロッパへ運ばれました。イギリスはオランダを経由して茶を輸入していました。

 

特に西ヨーロッパではそもそも水が硬水であって飲用に適さず、都市で清潔な水を入手することが困難だったため、生水を飲むということがほとんどなく、食事以外では喉を潤すためにビールやワインなどのアルコール、また牛乳などが飲用されてきました。17世紀に入って国内に茶が流通し始めると、まずは非常に高価な輸入品の「東洋の秘薬」として飲用されるようになります。その後、高価な茶に同じく高価な砂糖を入れて飲むのが貴族層の間で流行し、17世紀後半から喫茶習慣が根付き始めます。

 

この頃、ヨーロッパでは茶に少し先行する形でコーヒーの飲用が始まっていました。17世紀後半から各地にコーヒーハウスが生まれており、紅茶もここで一般に飲まれるようになっていきます。イギリス国内での需要に伴い、イギリスは中国から大量の茶を輸入することになりますが、これを自国の植民地で賄うためにインドでの茶栽培が始まっていきます。

 

収穫を控えた茶葉
収穫を控えた茶葉

 

■インドでの紅茶栽培の始まり

従来、中国以外での栽培は難しいとされていた茶ですが、1823年にイギリス人冒険家ブルースによって北東部のアッサム州で自生種が発見され、「アッサム種」として品種改良が始まります。イギリス国内でも高い評価を受けたアッサム茶はインド国内でも栽培が拡大され、また1841年にはダージリン地方で中国種の栽培が始まります。1845年には緑茶と紅茶の違いは製法の違いにあり、原料となる茶葉は同じ樹種であることが発見され、中国種とアッサム種の交配からさらに品種改良が進み、インドで研究された紅茶栽培法は同じくイギリスの影響下にあったスリランカやバングラデシュで適用されていきます。

 

茶摘み風景(インド:ダージリン)
茶摘み風景(インド:ダージリン)

 

茶摘み風景(インド:ダージリン)
茶摘み風景(インド:ダージリン)

 

茶摘み風景(スリランカ:ヌワラエリヤ)
茶摘み風景(スリランカ:ヌワラエリヤ)

 

■マサラチャイの誕生

一般的にインドでは、チャイと言えば茶葉を濃く煮出し牛乳と砂糖を入れたミルクティーを差し、それにさらにジンジャー、カルダモン、シナモン等のスパイスも加え一緒に煮出したものをマサラチャイと言います(ちなみにヒンディー語での発音ではチャーエです。また、チャイとマサラチャイを特に区別せずに、スパイス込みでもチャイということもあります)。

 

現在では「インドといえばチャイ」と言っていいほど国民的な飲み物になったチャイですが、そこに行き着くまでにはちょっとした歴史があります。
インドで茶葉の栽培が始まったころ、紅茶はイギリス国内では高価な嗜好品でした。そのため、インド国内で作られた紅茶も高品質なものはヨーロッパへ輸出していましたが、低品質な茶葉やブロークン、ダストと呼ばれる砕けて粉末状になった茶葉などは、輸送コストを抑えるためにもインド国内での消費を生む必要がありました。

イギリスは当初はこれらの茶葉をストレートで煮出したものを普及させようとしましたが、あまりにも苦みが強く受け入れられませんでした。植民地内での需要を生むために色々と試し、またインド人のアレンジが加わった結果、スパイスと牛乳と砂糖で濃く煮出したマサラチャイが生まれました。これもすぐに受け入れられた訳ではありませんでしたが、もともとインドではスパイスを湯や乳で煎じて飲む習慣があり、それを紅茶と砂糖で風味付けした飲みやすいものとしてインド国内で徐々に習慣化されていきました。

 

チャイ
レストランのチャイ

その後、チャイ(マサラチャイ)が一般にも急速にに普及していきますが、そのきっかけとなるのがCTC製法の確立です。

CTCとは、Crush(砕く)・Tear(裂く)・Curl(丸める)の3段階の製造工程の頭文字をとった製法名です。収穫後茶葉を押しつぶし、細かく引き裂いてから、丸めて粒状へと加工します。短時間でしっかりとした茶葉の味を抽出できるように開発された、現在最も世界で生産量が多い製法です。ティーバック用、またはアッサム茶葉、ケニア茶葉用に広く取り入れられています。茶葉の粒のサイズは目的によって砂のように細かいものから数ミリ程度の粒まで調節することができます。

 

インドのチャイにはこのCTC製の茶葉がぴったり合います。牛乳や砂糖、スパイスに負けない強い紅茶の香りを簡単に出せるようになったことで、マサラチャイの人気は広まり、インド(特に北インド)の一般的な飲み物となっていきます。

 

観光客や旅行者、インドの富裕層を中心にストレートティーも飲まれていますが、現在では庶民の飲み物と言えば何といってもマサラチャイです。街のどこでもマサラチャイの売り子や屋台を見ることができ、今や生活に欠かせないものとなっています。オフィスで働いていても午前に1回、午後に1回のチャイブレイクタイムが設けられ、チャーエ・ワーラー(お茶売りの男性)が登場します。

 

路上のチャイ屋台(バラナシ)
路上のチャイ屋台(バラナシ)では素焼きのカップが使われているところも。飲み終わったカップはそのまま土に還るエコなシステム

チャイの基本材料は牛乳・紅茶・スパイスですが、砂糖の有無の他、それぞれの分量やスパイスの種類などは自由に組み合わせ可能ですので、各家庭や店ごとに異なる味わいを見せています。

 

インドのマサラチャイ、最初に飲んだ時はその甘さにびっくりしたものですが、毎日飲むうちに今では深く煮出された茶葉の味と甘さが逆に落ち着く様になりました。

 

旅行中でも、チャイ屋で沸騰させて煮出した熱々がもらえるため、屋台のものでも安心して飲むことができます。インドの愉しみとして、ほっと一息つけるチャイをぜひ各地で飲んでみてください。

 

Text by Okada

 

 

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