秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡り。シリーズ最終回では、潜伏の終わりから、その後の日本におけるキリシタン信仰について紹介していきます。

 

潜伏の終わり

時代は幕末、日本とフランスの間で日仏修好通商条約が結ばれると、長崎にはフランス人が居住するようになりました。彼らが祈りの場所を求めた為に1864年に建てられたのが、世界遺産にも登録されている大浦天主堂です。正式名称を日本二十六聖殉教者聖堂と言い、1596年に十字架にかけられた二十六聖人の殉教地・西坂の丘に向かって建てられています。フランス人のためにつくられた教会なので、当時は「フランス寺」と呼ばれていました。

大浦天主堂の献堂式から一ヶ月後、歴史的な瞬間が訪れます。浦上の潜伏キリシタン15人が天主堂を訪れ、堂内にいたプティジャン神父に「ワタシノムネ、アナタトオナジ」と囁き、信仰を告白したのです。厳しい禁教令と宣教師がいないという状況が250年間も続いたにもかかわらず、信仰が受け継がれているということが、このとき初めて外国人に対して明らかになりました。

この劇的な事件は「信徒発見」と呼ばれ、弾圧によって日本に信徒がいなくなったと考えていたヨーロッパの人々に強い衝撃を与え、また五島や外海の潜伏キリシタンにも口伝えで広まりました。

大浦天主堂

浦上四番崩れと高札の撤廃

「信徒発見」後、精神的支柱を得た浦上のキリシタンは、葬式を仏式でなくキリスト教によって執り行ないました。これをきっかけに、信徒とみなされた68人が捕らえられ、拷問によって21人が棄教するという事件が起きました。その後も自葬による入牢者が続いたことから再び拷問が行われるようになり、明治政府は浦上キリシタンを西日本各地に分散し3,000人以上を流罪にします。これが信徒発見後に起きた悲劇、「浦上四番崩れ」です。

 

また、久賀島での迫害を始めとし、明治元年には五島列島で「五島崩れ」が始まりました。久賀島の牢屋の窄では静かな湾に面したわずか6坪の牢屋に約200人のキリシタンが収容され、43名が命をおとしています。多くは幼い子どもや老人たちで、みなキリシタンの教えに従い、抵抗することなく死を受け入れたと言われています。現在は、「牢屋の窄殉教記念聖堂」と隣接して、43名の墓碑が残されています。

牢屋の窄殉教記念聖堂

 

そのころ、明治政府は使節団を欧米諸国に派遣していましたが、キリシタン弾圧のニュースはすでに欧米に知られていました。使節団は訪問先で予想以上の厳しい抗議を受け、軽蔑されたといいます。キリシタン弾圧が平等な条約を結ぶための障害になっていることに気づいた政府は、ようやくキリスト教禁制の高札を撤去することにしました。これが1873年2月24日、江戸時代に入って以来、二百数十年続けられてきたキリスト教禁教政策に終止符が打たれました。

 

 

禁令解除後のキリシタン信仰

信教の自由が認められると、潜伏していた多くのキリシタン信徒たちは改めて宣教師から洗礼を受けてカトリックに復帰しました。一方で、カトリックに復帰せずに先祖代々の信仰形式を守った人たちもいます。彼らは「かくれキリシタン」と呼ばれ、「禁教が解かれたあともカトリックに戻らず独自の信仰を続けている人々」を指します。仏教や神道の宗教への改宗や、信仰の希薄化などで信徒の数は減っていますが、世界遺産の構成資産が集中する、平戸島・生月島・外海地区・五島列島などで伝承が継続されてきました。外海地区のように、同じ地域や集落の中で同じ信仰を受け継いでいてもカトリックに復帰した者とかくれキリシタン信仰を堅持した者が混在している例もあります。

また、「潜伏キリシタン」は、約250年の禁教期間の潜伏教徒を指す言葉で、「かくれキリシタン」とは区別されています。

 

 

かくれキリシタン信仰

元々はヨーロッパからの伝来したキリスト教を起源としている「かくれキリシタン信仰」ですが、カムフラージュであったはずの仏教や神道の信仰が強くなって、キリスト教の信仰からは変容していると言われています。生月島の博物館・島の館のホームページでは、下記のように解説がされています。

 

禁教時代の信者は須く(並存の形で)カトリックの枠組みから外れる事によってキリシタン信仰を守ったと、ありのままに捉えた方が良いと思います。しかし「(潜伏も含めた)かくれ信者はキリスト教徒か」という問いに対しては、広義の捉え方に立つと否定は出来ないのではないかと思います。

 

カトリックに復帰せずにかくれキリシタン信仰を続けたかくれキリシタンたちは、本来のキリスト教からは変化していても、先祖が伝えてきたキリスト教起源の祈りや行事を絶やすことなく継承していくことが務めと考えていると言われています。

 

日本と西洋が融合した多様な教会堂

宣教師たちは潜伏キリシタンの指導者である水方たちを再教育し、彼らの住まいを教会堂の代わりに祈りの場とすると同時に、各地の集落で信徒の協力のもと、教会堂を次々と建設しました。

 

初期の教会堂は、ヨーロッパ人宣教師の指導のもと日本の大工たちによって建設されましたが、やがて自らによって日本と西洋の技術や材料を組み合わせた素朴ながらも優れた教会堂がつくられるようになります。外観はヨーロッパの形式やデザインを基本とし、内部は日本の伝統的な民家建築の特色を活かして日本的な習慣に合うように設計されており、人々は入口で靴を脱ぎ、床や畳に座って祈りを捧げたのです。

 

1873年にキリシタン禁制の高札が撤去された後につくられた、現存する代表的な教会を紹介します。

 

 

▮ 旧五輪教会(久賀島)

1881年、久賀島で最初の教会堂として建立したのが浜脇教会でした。1931年の建替えのとき、島内の仏教徒の助言によって価値が再確認され、潜伏キリシタンの集落であった五輪集落に寄贈されました。この地区は久賀島の中でいまだに直接車で行くことができない陸の孤島とも言われています。現存する木造教会堂としては最古の部類もので、国の重要文化財にも指定されています。

 

旧五輪教会

旧五輪教会内部・コウモリ天井

▮ 江袋教会(中通島)

1882年、ブレル神父の指導の下に建設された、木造瓦葺き平屋建ての教会です。天井はコウモリ天井、窓は洋式のアーチ型で、外に鎧戸、内にフランス製の色ガラスをはめた扉がありました。実際にミサ等に使用されている最古の木造教会でしたが、2007年に火災のため全焼しています。2010年3月に修復を完了し、同年9月10日に長崎県指定文化財に指定されました。

木造の江袋教会

▮ 出津教会(外海地区)

1879年にド・ロ神父が出津に赴任し、信者と力をあわせ1882年に出津教会を完成させました。強い海風に耐えられるように屋根を低くした木造平屋で、漆喰の白い外壁で清楚なたたずまいが美しい教会堂です。外国人神父の設計による初期の教会として、2011年に国の重要文化財に指定されました。

出津教会

▮ 大野教会(外海地区)

出津教会の巡回教会として1893年にド・ロ神父の設計施工により建立され、一見民家のような佇まいです。近隣で採れる玄武岩で作られた印象的な壁は「ド・ロ壁」と呼ばれています。こうした石壁造りの教会は珍しく、国の重要文化財に指定されました。創設当時は26世帯あった信徒数も過疎化により1980年代には15世帯に減少し、現在は年に一度ミサがあげられるのみとなっています。

大野教会とマリア像

▮ 堂崎教会(福江島)

フレノー、マルマン両神父が五島を訪れ布教にあたり、1879年にマルマン神父によって、禁教令解禁後の五島における初めての天主堂として建てられました。その後着任した、ペルー神父によって1908年に、現在の赤レンガのゴシック様式の教会堂に改築され、建築の際には資材の一部がイタリアから運ばれたと言います。内部は木造で色ガラス窓、コウモリ天井などの教会堂建築となっています。1974年に、県の有形文化財に指定されました。

レンガ造りの堂崎教会

▮ 黒島教会(黒島)

黒島に最初に常駐したマルマン神父が1902年に完成させた荘厳な教会です。信徒と協力して島特産の御影石を積み、40万個のレンガを使い、祭壇の下には1,800枚の有田焼磁器タイルが敷き詰められています。明治期のレンガ造の教会としては規模が大きく、ロマネスク様式の簡素な構成と、リブ・ヴォールトの内部空間は、その後の周辺の教会建築に大きな与えた影響を与えたといわれています。1998年に国の重要文化財に指定されました。マルマン神父は1912年に没するまで黒島で過ごし、今も黒島のキリシタン墓地に眠っています。

黒島天主堂 外観 ※写真はSASEBO港町Dairyホームページより

黒島天主堂 内部 ※写真はSASEBO港町Dairyホームページより

 

その他、日本人大工による設計も始まります。上五島出身の鉄川与助は、小学校を出て大工修業中にフランス人神父から西洋技法を取得し、27歳で鉄川組の棟梁として自立。バラエティに富んだ建築を次々と生み出し、青砂ヶ浦教会の他、世界遺産の12の構成資産のうち、4教会を手掛けています。日本における「教会建築の父」として知られています。

 

▮ 青砂ヶ浦教会(中通島)

1910年建立の現教会は、信徒が総出でレンガを運びあげて建設した3代目の教会です。最初の教会は、1879年頃に建てられたと言われています。コウモリ天井の曲線や色彩豊かなステンドグラスが荘厳な雰囲気を醸し出しています。2001年に国の重要文化財に指定されました。

青砂ヶ浦教会

▮ 野首教会(野崎島)

1882年に木造の教会堂に続き、1908年にレンガづくりの野首教会が完成します。集落に住む17世帯が、本格的なレンガづくりの教会建築の費用を捻出するために共同生活を始め、生活を切り詰めて資金を蓄えました。教会は完成したものの、1966年、小値賀島は無人の地となってしまいます。その後、小値賀町が重要な文化財として1985年に改修し、1989年には長崎県指定有形文化財に指定されました。

斜面に佇む野首教会

▮ 江上教会(奈留島)

19世紀以降、長崎に建てられた木造教会堂の中で、最も整った形式と言われています。1918年、40~50戸あまりの信徒が共同し、キビナゴの地引網で得た資金で建てられました。湿気の多い立地に対応して床を高くするため、煉瓦ではなく、床組に日本式の床束が用いられており、内部では窓の位置が低く感じられます。クリーム色の外壁や水色の窓枠がアクセントで、コウモリ天井や、柱に描かれた手描きの木目の文様、花の絵の窓ガラスになど、信徒の苦労の結晶を見ることができる文化財としても価値の高い建築様式です。

江上教会

▮ 頭ヶ島天主堂(中通島)

1887年には木造教会が建てられ、1919年に鉄川与助の設計施工で現在の石造り教会が完成しました。近くの島から切り出した石を、信者らが船で運び組み立てました。内部は船底のような折上天井で、随所にツバキをモチーフにした花柄文様があしらわれ、「花の御堂」の愛称で親しまれています。珍しい石造で重厚な外観を持ち、華やいだ内部が特徴的な教会として、2001年に国の重要文化財に指定されました。

石造りの頭ヶ島天主堂

▮ 﨑津教会(天草市)

1934年、鉄川与助の設計施工で現教会堂が建てられました。禁教時代に潜伏キリシタンの取り締まりのため、「絵踏」が行われた﨑津村庄屋宅跡に立地しています。尖塔の上に十字架を掲げた重厚なゴシック様式ですが、屋根は瓦屋根で、堂内は国内でも数少ない畳敷きになっています。前方の外壁はコンクリートですが、途中で建設資金が不足し、後方は木造となっています。祭壇はかつて絵踏みが行われていた位置に当たります。

コンクリート造りの﨑津教会

 

これまで、日本にキリスト教が伝来してから、禁教期を経て信仰の自由を得るまでの歴史を辿ってきました。時代に翻弄されてきた日本のキリスト教の歴史はあまり知られていないかもしれませんが、天草・長崎には世界遺産に登録されている箇所をはじめ、信者たちが歩んできた道を物語る歴史的資産が多く残されています。

 

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ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡りシリーズ第3弾では、第2弾に引き続き「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されている構成資産についてご紹介いたします。

 

歴史の流れに沿って分けられている4段階のうち、3・4段階を解説していきます。

 

1:宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ

2:潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み

3:潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み

4:宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり

 

 

第3段階:潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み

 

18世紀の終わりになると、外海地域の人口が増加し、五島列島などへ開拓移住が行われました。移住するにあたり、外海地域出身の潜伏キリシタンは自分たちの共同体を維持するために、移住先の社会や宗教と折り合いをつけることを考慮して移住地の選択を行いました。藩の牧場の跡地利用のため再開発の必要があった黒島へと入植したのをはじめ、神道の聖地であった野崎島、病人の療養地として使われていた頭ヶ島、藩の政策に従って未開発地だった久賀島にも移住し、それぞれ集落を形成しました。潜伏キリシタンたちは、移住先の社会や宗教と関わり、折り合いをつけながら自分たちの共同体のもとで信仰を続けることができました。

 

▮黒島の集落

九十九島で一番大きな黒島は、現在も島民の約8割がカトリック信者の「祈りの島」と言われています。

もとは、軍馬の飼育を主とする島でしたが、外海などから移住した潜伏キリシタンが開墾を進め、人が住める島へと発展しました。この島の潜伏キリシタンは、表向きに所属していた仏教寺院から信仰を黙認されつつ、組織的に信仰を継続させました。現在の黒島には、2年の歳月をかけて建設した黒島天主堂があります。国内でも大型の煉瓦造りの教会堂で、1897年に来島したフランス人のマルマン神父の設計で1902年に完成しました。

 

マルマン神父の墓

 

▮野崎島の集落跡

外海地域から海を渡った潜伏キリシタンは、五島列島一円から崇敬を集めていた沖ノ神嶋神社の神官と氏子の居住地のほかは未開拓地となっていた野崎島に移住し、氏子となることにより在来の神道への信仰を装いながら自らの信仰を続けました。外海から移住してきた潜伏キリシタンは、島中央部の野首と南端の舟森で集落を営みました。険しい斜面に開拓された集落跡には、屋敷跡、耕作地跡、墓地、里道などが残されています。

野首集落跡

野首には、わずか17世帯で建設費用を工面して1908年に完成させた野首教会堂が残されています。1960年代初め、島に野崎、野首、舟森と三つの集落があり、約760人が住んでいましたが、現在は島内の宿泊施設の管理人が籍をおくだけでほぼ無人島となっています。

 

野首教会堂

 

▮頭ヶ島の集落

病人の療養地として使われていた島でしたが、19世紀半ば仏教徒の開拓指導者のもとに外海地域の潜伏キリシタンが移住してきました。表向きは中通島に所在する仏教寺院に属して仏教徒を装う一方、無人島で閉ざされた環境の中でひそかに潜伏キリシタンとしての信仰を継承しました。キリシタン弾圧「五島崩れ」の際には、頭ヶ島でも信者が拷問を受け、島民全員が島を一時脱出したと言われています。

頭ヶ島集落の遠望

その後、鉄川与助の設計施工で、近くの島から切り出した石を信者らが船で運び組み立てて建てた石造りの「頭ヶ島天主堂」が1919年に完成します。白浜と呼ばれる遠浅の海水浴場には、キリシタン墓がずらりと並んでいます。

頭ヶ島集落のキリシタン墓地

 

▮久賀島の集落

福江島の北に位置する久賀島では、禁教令で一度キリシタンは途絶えましたが、外海からの移住によって1797年以降に再びキリシタン集落ができました。信徒発見後の「五島崩れ」のきっかけとなった島で、信仰を表明した200人余が6坪ほどの牢屋に8ヵ月間閉じ込められ、子どもを含む42人が死亡しました。この迫害で命を落とした43人の名前は、墓碑に記されて残されています。

牢屋の窄殉教地の墓碑

禁教が解かれると、各地に教会が建てられました。1881年建立の旧浜脇教会が1931年に建替えられることになった際、五輪地区に移築された「旧五輪教会堂」は、初期の木造教会建築の代表例として保護されることになりました。1999年には、国の重要文化財に指定されています。

旧五輪教会堂

 

第4段階:宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり

 

▮奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)

外海からの農民移住が開始し、奈留島にも移住者が渡り始めると、江上地区にも禁教期の潜伏キリシタンが住み着きました。海に近い狭い谷間に居を構え、わずかな農地や漁業で生計を営み、自らの信仰を組織的に続けたと言われています。1918年には、潜伏キリシタンがキビナゴ漁によって蓄えた資金を元手とし、谷間に開けたわずかな平地を利用して江上天主堂が建てられました。長崎・天草に建てられた数々の木造教会堂の中でも、工法に基づく潜伏キリシタン集落としての風土的特徴と、カトリック教会堂としての西洋的特徴との融合がもたらした教会堂の代表例となっています。信徒がカトリック教会堂として求めた西洋的特徴が、潜伏が終わりを迎えたことを最も端的にあらわす教会堂として、世界遺産に登録されました。

 

ひっそりと佇む江上天主堂

 

▮大浦天主堂

大浦天主堂は、開国にともなって造成された長崎居留地に、在留外国人のために建設されたゴシック調の教会で、現存するものでは国内最古となります。建立直前に殉教した日本二十六聖人に捧げられた教会で、天主堂の正面は殉教の地である西坂に向けて建てられています。

1864年の完成直後、浦上村の潜伏キリシタン10数人が訪れ、信仰を告白したことにより、世界の宗教史上にも類を見ない「信徒発見」の舞台となりました。この歴史的な出来事はただちに各地の潜伏キリシタンへと伝わり、各地の潜伏キリシタン集落に新たな信仰の局面をもたらしました。宣教師の指導下に入ることを選んだ人々は、公然と信仰を表明するようになったため、「潜伏」が終わるきっかけとなる「信徒発見」の場所として登録されています。

 

大浦天主堂

潜伏キリシタンの里巡りシリーズ2回の記事に渡り、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の12資産を紹介いたしました。
次回はシリーズ第4弾、「信徒発見」によって潜伏が終わってから、日本のキリスト教が真に解放されるまでの歴史をたどります。

 

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2020年10月下旬~11月上旬「プライベートロッジに泊まる紅葉の信州」ツアーにて、紅葉のベストシーズンに訪れた現地の様子をお伝えします。ツアーでは主に、秋深まる6つの湖沼を中心に訪れました。今回はその6つの湖沼をご紹介いたします。

 

1.御射鹿池

2020年10月31日 9:00頃撮影(晴れ)

標高1,500mの山の中にある風光明媚な池。静かな水面には背景の山々の風景が逆さに映り込み、幻想的な光景を創り出します。その姿は多くの人のインスピレーションを呼び覚まし、日本を代表する画家、東山魁夷氏の有名な作品《緑響く》のモチーフにもなったことでも知られています。

訪れたときの時間帯や天気、季節によって全く異なる姿を見ることができるため、何度でも訪れたい場所の一つです。

2020年11月2日 9:00頃撮影(曇り)

2020年9月12日 17:00頃撮影(晴れ・視察時)

御射鹿池から10分ほど歩いて脇道を下っていくと「おしどり隠しの滝」があります。横谷渓谷・渋川の最上流に位置する滝で、渓流瀑ならではの長い距離、色々な角度から違った表情が楽しめる滝でもあります。

おしどり隠しの滝

 

2.白駒池

標高2,115mにある神秘的な湖で、標高2,000m以上の湖としては日本最大の天然湖です。湖までの歩道の回りは樹齢数百年の時を刻んだコメツガ、トウヒ、シラビソの原生林が広がっています。485種類のもの苔が生息しており、これは日本国内で見られる4分の1程度にあたります。

ひっそりとした「苔の森」の中を片道20分程度歩いていき、池の畔に佇む「白駒荘」にて昼食をとりました。

原生林を20分程歩いていく

485種類もの苔が生息している

白駒荘の食堂

白駒荘の野菜カレー

 

3.松原湖

 

標高1,123m、長野県南佐久郡小海町に位置する湖。猪名湖(いなこ)、長湖(ちょうこ)、大月湖(おおつきこ)の3湖の総称が松原湖ですが、一般的に最大の猪名湖単体を松原湖と呼んでいます。

ここでは「もみじ回廊」があり、黄、橙、赤の色鮮やかなもみじの絨毯を見ることができました。

もみじ回廊

色鮮やかなもみじの絨毯

 

4.蓼科湖

水面に映る紅葉

グラデーションが美しいもみじ

標高1,250m、1952年に農業用温水ため池として誕生した人造湖。シラカバ、カラマツ林に囲まれ、赤いもみじが湖面に映る美しい景色に出会えました。

 

5.女神湖

 

標高1,540m、赤沼平の湿原をせき止めた人造湖。明治から昭和初期にかけて、蓼科周辺には多くの文化人が集まりました。ほとりに佇む女神像の台座には、詩人、伊藤左千夫の詩が刻まれています。

黄色いカラマツの紅葉と立ち込める霧が織り成す神秘的な光景が見れました。

 

6.白樺湖

 

標高1,460m、白樺の木に囲まれた周囲4kmの人造湖。農業用水を確保するために建設された温水ため池で、周辺には美術館やレジャー施設などが数多くあります。西側からは、蓼科山が見えます。

 

上記6つの湖沼のほか、ツアーでは周辺のダイナミックな紅葉や大自然を体感できるスポットも訪れました。

 

富士見パノラマリゾート

紅葉広がる斜面をゴンドラで上がる

ゴンドラ山頂駅・八ヶ岳展望台での朝焼け

秋の時期、週末や祝日限定で早朝から運行される「プレミアム雲海ゴンドラ」に乗り、標高1,780mへ上がり、雲海を狙い待機しました。

雲海は見れなかったものの、大変天気が良く富士山やご来光をはっきりと拝むことができました。雲海は来シーズンに期待です。

 

ビーナスライン

ビーナスライン上の展望ポイントより

霧ヶ峰富士見台より

長野県の国道152号、県道40号・194号の一部区間の通称。蓼科高原、白樺湖、車山高原、霧ヶ峰、美ヶ原高原など、日本有数の景観を誇る地を結びます。霧ヶ峰周辺では、春から秋にかけての早朝、雲海となることがあります。

白樺湖からツアー解散地の茅野駅へ向かう際、ビーナスラインを経由し途中の霧ヶ峰富士見台から富士山を眺めてから向かいました。

 

横谷観音展望台

横谷観音展望台から渓谷を望む

駐車場につながる道路

渋川上流に広がる横谷渓谷はダイナミックな紅葉が見れるスポットで、美しい渓流や滝をつなぐ遊歩道が整備されています。駐車場から徒歩5分程度にある横谷観音展望台からは、渓谷の斜面に広がる色鮮やかな紅葉を一望できました。また、駐車場につながる道路の左右も鮮やかな紅葉が広がり、ここも隠れた見どころの一つです。

 

乙女滝

 

横谷渓谷の入り口にある滝で、横谷観音展望台やおしどり隠しの滝と遊歩道でつながっています。江戸時代に造られた農業用水路、大河原堰(おおかわらせぎ)の一部で、その落差は15m。写真で見るよりも迫力があります。こちらも駐車場から徒歩5分程度と簡単にアクセスできます。

 

* * *

 

10月下旬から11月初旬にかけて、八ヶ岳周辺はご紹介した湖沼だけでなく、どこも黄色いカラマツの美しい紅葉が続き、どの道を走っても秋の素晴らしさを体感できます。

ツアーではそれぞれの見どころを効率良く巡ることができますので、ぜひご参加をご検討ください。

 

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ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡りシリーズ第2弾では、2018年にユネスコ世界遺産に登録された 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」についてご案内いたします。

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、キリシタンが潜伏するきっかけ、宣教師が不在のなかどのように信仰を継続したか、そして潜伏の終焉を物語る証拠、それらを物語る12の資産が登録されています。

資産は、下記の通り歴史の流れに沿って大きく4段階に分けられていますが、今回はそのうち1・2段階を解説していきます。

 

1:宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ

2:潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み

3:潜伏キリシタンが共同体を維持するための試み

4:宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり

 

 

第1段階:宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ

 

▮原城跡

キリシタンが「潜伏」し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる「島原天草一揆」の主戦場跡が原城跡です。前回の記事・潜伏キリシタンの里巡り①「潜伏のきっかけとなった島原・天草一揆」にて詳しく書いておりますので、そちらをご覧ください。

原城跡入り口

島原天草一揆」以降キリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を実践し、移住先を選択するという試みを行っていくことになりました。潜伏の始まりから、明治6年にキリスト教が解禁となるまでひそかにキリスト教由来の信仰を続けようとしたキリシタンは、学術的に「潜伏キリシタン」と呼ばれています。

 

 

第2段階:潜伏キリシタンが信仰を実践するための試み

日本各地の潜伏キリシタン集落は途絶えていくなか、キリスト教の伝来期に最も集中的に宣教が行われた長崎と天草地方においては、ひそかに伝統が引き継がれていきました。16世紀以来、潜伏キリシタンは集落ごとに根付いた共同体で「組」を維持し、信仰維持のために共同体内の仕組みを変えていきました。宣教師に代わって洗礼を授ける「水方」や、教会暦をつかさどる「帳方」などの役職を担当する指導者をつくり、キリスト教由来の儀礼・行事などをとり行ったのです。

日本の伝統的宗教のようにみえるように、儀礼・行事や日々の祈りを実践する方法を模索するなかで、次第に独自の形態が育まれていくことになります。土着の宗教や一般社会と関わりながら信仰を継続した証として、4の集落が登録されました。

 

▮春日集落と安満岳(平戸の聖地と集落)

春日集落と安満岳は、禁教期にキリシタン信仰を継続した集落と、その信仰の対象となった山のことです。集落は平戸島の西岸にある人口70人ほどの小さな集落で、16世紀から禁教期を経て、現在にいたるまで集落の景観はほぼ変わらずに維持されていると考えられています。古くからの神仏や山、川などの自然崇拝と並列してキリシタン信仰形態を育みました。解禁後もカトリックには復帰せずにかくれキリシタン信仰を継続しましたが、現在では信仰は途絶えたと言われています。なお、春日集落の棚田は大変美しく、2010年に「平戸島の文化的景観」として国の重要文化的景観にも選定されています。

平戸島の文化的景観・春日の棚田

安満岳は春日集落の東側に位置し、標高536mの平戸地方における最高峰です。かつてはキリシタンと対立していた安満岳の神社仏閣ですが、禁教期になると、在来の神道、仏教に基づく宗教観と潜伏キリシタンの信仰とが重なり、3つの信仰が並存する聖なる山となりました。頂上には、寺跡、神社、キリシタンの石碑が存在し、禁教期の潜伏キリシタンの信仰のあり方に関係する遺構が今も残っています。

 

山腹にある一の鳥居

 

▮天草の﨑津集落

下天草地方のキリシタンは情報が少なかったことも幸いして「島原・天草一揆」は加担せず、難を逃れました。﨑津集落には、当時は海路でしか行くことができなかったため、キリシタンたちはこの地を潜伏の場所に選び、仏教徒を装って信仰を実践しました。漁業を生業とする集落のため、豊漁の神様デウスとして崇拝したり、アワビの貝殻の模様を聖母マリアに見立てるなど、生業である漁業と密接に結び付けて信仰を守りました。

アワビ貝の信心具

表面上は神仏を敬っていたため、﨑津諏訪神社へお参りをしていましたが、その際には指をクロスにしたり、ひそかにオラショを唱えたなどと言われています。﨑津集落の水方の子孫の住居には、現在もメダイや海にかかわる信心具が保管・展示されています。

崎津集落の全景

 

▮外海の出津集落

出津集落では、聖画や教義書、教会暦などを密かに伝承することで、教徒たち自身で信仰を続けた集落です。集落内には、16世紀にヨーロッパから伝わったとされる聖母マリアをかたどった青銅製の大型メダル「無原罪のプラケット」をはじめとし、1603年に編さんされた「こんちりさんのりゃく」(罪を報いて赦しを求める祈り)の写しなどの日本語の教理書も伝承されていました。集落の潜伏キリシタンは、祈りの言葉であるオラショを口承で伝えており、日常的に各自が無音か小声で唱えていました。

出津集落ではキリスト教の解禁直後、カトリックに復帰したのは約3,000人だったのに対し、引き続き禁教期の信仰を実践し続けたかくれキリシタンは約5, 000人でした。現在では、多くが仏教徒またはカトリック信徒へと移行していますが、今もかくれキリシタン信仰を続ける方がいます。

ド・ロ神父の旧出津救助院

 

▮外海の大野集落

大野集落では、表向きは仏教徒や集落内の神社の氏子となり、在来宗教と信仰の場を共有することで信仰を実践しました。もともとキリシタンも含む様々な神がまつられていた門神社や、古来の自然信仰に基づく山の神をまつった辻神社に、自分たちの信仰の対象をひそかに祭神としてまつり、祈りの場として利用していました。開国後は約30戸がカトリックに復帰していますが、当時の潜伏キリシタンは200名を超えていたとも言われています。18世紀末からの五島への開拓移住の際には、この地域から多くの潜伏キリシタンが離島部へと移住し、彼らの共同体が離島各地へと広がることになりました。

陰で信徒がオラショ(祈りの言葉)を唱えた「祈りの岩」

解禁後、潜伏キリシタンは「外海の出津集落」にある出津教会堂に通っていました。しかし、出津教会までお祈りに来ることができない信徒もいました。出津教会完成の11年後、ド・ロ神父が大野集落にいた26世帯のために信徒と協力して建築したのが巡回教会として建てられたのが大野教会堂です。この地ならではの風合いのある地元の石を積み上げ、外壁は神父考案の「ド・ロ壁」と言われる技法で、その後もこの地区の建築に活かされました。

出津教会堂

 

▮中江ノ島(平戸の聖地と集落)

春日集落からのぞむ海上には、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島があります。生月島と平戸島の間にある無人島で、1622年と1624年に多くの信者の血が流されました。殉教者たちは白波立つ岩の上で首を切られたり、袋に詰められ海に突き落とされたといわれています。潜伏キリシタンたちは禁教期、この殉教地を最高の聖地として崇拝してきました。

中江ノ島の遠望

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に登録されている12の資産のうち、6つご紹介しました。人里離れた場所で、厳しい禁教下でも信仰を守り、繋ごうとしてきた人々の努力と知恵は、今なお各地域に残されています。

 

次回は、残りの構成資産について解説します。

 

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西遊旅行の「潜伏キリシタン」の世界遺産を巡るツアーは、これまでに2019年に3ツアー、2020年と2021年にそれぞれ1ツアー、催行しています。ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡りシリーズでは、日本ではあまり知られていない日本のキリスト教伝来から今なお続く隠れキリシタンの信仰についてまとめました。

 

禁教期、表向きは仏教徒を装いながら、ひそかにキリスト教を信仰し続けたカトリックの信徒のことを潜伏キリシタンと呼びます。バテレン追放令で宣教師が不在のなか、2世紀以上にわたる禁教政策の下で弾圧にも屈せず密かに信仰を子孫へとつないできた事は世界史上に例がありません。潜伏キリシタンが信仰を継続する中で育んだ独特の宗教的伝統を物語る証拠として、12の資産がUNESCOの世界遺産に登録されています。この宗教的伝統は、現在も「カクレキリシタン信仰」として受け継がれています。

 

第1弾では、日本のキリスト教の歴史を辿りながら、キリスト教の禁教、そしてキリシタンが潜伏するに至った経緯をまとめました。

 

 

キリスト教伝来以前の日本の宗教 / 日本人の宗教観

キリスト教が伝わる前の日本では、紀元前に起源をもつ神道と6世紀に伝播した仏教、さらにそれらが自然崇拝と結びついた山岳信仰などの在来宗教が存在していました。日本人の多くは仏教徒であると同時に、地域の神社の氏子を勤めたり、聖地とされた山岳を拝むこともあり、単一の宗教を信仰するよりも、複数の宗教を信仰することが一般的でした。

 

 

キリスト教伝来

日本にキリスト教が伝わったのは、1549年のことでした。イエズス会の宣教師であったザビエルは、1549年に鹿児島に上陸し、キリスト教を広めていきます。上陸した鹿児島から京までの道中の長崎県で多くの信徒を獲得し、平戸・長崎・有馬を中心としてキリスト教は全国的に広まりました。ザビエルが日本に伝えたキリスト教およびその信者のことを、同時代の日本ではポルトガル語由来の「キリシタン」と呼びました。

 

日本二十六聖人記念館内「永遠の巡礼者ザビエル」像

日本人は、東洋とは異なる西洋文化に興味を抱き、教理を学ぶうちに次第にキリスト教への信仰に理解を深めていったといわれています。九州地方の大名の中には、貿易の利益を求めて宣教師を受け入れ、キリスト教に改宗した人たちもいました。「キリシタン大名」と呼ばれた彼らの領地では、領主にならって多くの領民が改宗しています。このような理由から、長崎地方には多くの教会堂が誕生し、浦上や天草にもヨーロッパ文化が広まっていきました。

 

 

キリスト教禁教の始まり

1587年長崎が貿易の中心地として栄える中、バテレン追放令が発令されます。もともとはキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉ですが、キリシタンの結束力を驚異と感じるようになったのが理由ではないかと言われています。1612年には、徳川秀忠が幕府の直轄地と直属の家臣に対してキリスト教の信仰を禁じ、翌年に全国へ広めました。バテレン追放令に続く江戸幕府の禁教令により、すべての教会堂は破壊され、宣教師は国外へ追放されました。

 

1597年、日本最初の殉教事件である「日本二十六聖人の殉教」が起こります。外国人宣教師・修道士、日本人修道士と信者の合計24名が秀吉のキリシタン禁止令によって捕縛され、長崎での処刑という命令を受けて一行は大阪から長崎まで歩いて向かいました。途中、イエズス会の世話役ペトロ助四郎と、フランシスコ会の世話役伊勢の大工フランシスコ2名も捕縛され殉教の列に加わります。到着後、すぐに十字架に掛けられ、26名は長崎の西坂の丘で殉教しました。

 

日本二十六聖人記念碑

この事件は世界中に知られることなり、26名は1627年にカトリック教会より列福を受け、さらに1862年には列聖を受けて日本人関係で初の聖人と認められました。列聖して100年目後の1962年には、二十六聖人等身大の記念碑と記念館が建てられた西坂公園ができてきます。

 

殉教直前に群衆に説教をしたという日本二十六聖人の一人 聖パウロ三木の像

 

潜伏のきっかけとなった島原・天草一揆

1637年、領主の苛政と飢饉などをきっかけに「島原・天草一揆」が勃発します。

2万数千人の百姓などが、長崎県島原半島南部の海に突き出た丘陵を利用した城跡に立てこもりました。幕府軍は約12万人の兵力を動員して一揆軍を攻撃。4ヵ月におよぶ戦いで一揆勢がほぼ全滅したと言われています。

 

原城跡の入り口

全国的に禁教政策が進む中の一揆は江戸幕府に大きな衝撃を与え、宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船の来航を禁止し、鎖国を確立しました。これによってもたらされた、国内宣教師の不在という状況によって、キリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を続けざるを得なくなったのです。

 

発掘調査では、本丸の虎口や櫓台の石垣などの遺構が確認されており、多量の人骨や十字架、メダイなどの信心具が出土しています。

 

ホネカミ地蔵:1766 年に地域の住職等が原城跡の遺骨を敵味方の区別なく拾い集め供養した地蔵塔。

埋門跡:原城本丸二番目の門。一揆後幕府軍により破壊され犠牲者と共に埋められた。

一揆勢の総大将に担ぎ出されたのが、わずか16歳であった天草四郎です。総大将とは言うもののシンボル的な存在であり、実際に指揮を執ったのは、父甚兵衛をはじめとする側近たちであったと言われています。

益田甚兵衛の長男として生まれた天草四郎は、長崎に渡り学問をしたことなどが知られています。ママコス神父が、「今から25年後、東西の雲が赤く焼け、5国中が鳴動するとき、一人の神童が現れて、人々を救うであろう」と予言を残して去ったという話があり、不安を募らせる人々の中で四郎こそが予言にある天の使者に違いないという噂が広まりました。一揆の際には、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着た呪術的な格好で、洗礼を授けたり、説教を行っていたと記録されています。

原城跡には、長崎平和祈念像で有名な北村西望氏の「天草四郎像」が建てられています。

 

原城跡の天草四郎像

原城跡は、「キリシタンが潜伏し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる島原・天草一揆の主戦場跡」として「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産に登録されました。ツアーでは、原城跡や島原・天草一揆を詳しく紹介する「有馬キリシタン遺産記念館」と併せて訪問しています。原城跡は目の前を有明海、背後に雲仙岳を望む小高い丘からなる風光明美なスポットで、晴れた日には見学をしながら景色を楽しむこともできます。

 

原城跡から望む有明海

次回は、潜伏期のキリシタンについて解説いたします。

 

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