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西遊旅行の「潜伏キリシタン」の世界遺産を巡るツアーは、これまでに2019年に3ツアー、2020年と2021年にそれぞれ1ツアー、催行しています。ツアーレポート・潜伏キリシタンの里巡りシリーズでは、日本ではあまり知られていない日本のキリスト教伝来から今なお続く隠れキリシタンの信仰についてまとめました。

 

禁教期、表向きは仏教徒を装いながら、ひそかにキリスト教を信仰し続けたカトリックの信徒のことを潜伏キリシタンと呼びます。バテレン追放令で宣教師が不在のなか、2世紀以上にわたる禁教政策の下で弾圧にも屈せず密かに信仰を子孫へとつないできた事は世界史上に例がありません。潜伏キリシタンが信仰を継続する中で育んだ独特の宗教的伝統を物語る証拠として、12の資産がUNESCOの世界遺産に登録されています。この宗教的伝統は、現在も「カクレキリシタン信仰」として受け継がれています。

 

第1弾では、日本のキリスト教の歴史を辿りながら、キリスト教の禁教、そしてキリシタンが潜伏するに至った経緯をまとめました。

 

 

キリスト教伝来以前の日本の宗教 / 日本人の宗教観

キリスト教が伝わる前の日本では、紀元前に起源をもつ神道と6世紀に伝播した仏教、さらにそれらが自然崇拝と結びついた山岳信仰などの在来宗教が存在していました。日本人の多くは仏教徒であると同時に、地域の神社の氏子を勤めたり、聖地とされた山岳を拝むこともあり、単一の宗教を信仰するよりも、複数の宗教を信仰することが一般的でした。

 

 

キリスト教伝来

日本にキリスト教が伝わったのは、1549年のことでした。イエズス会の宣教師であったザビエルは、1549年に鹿児島に上陸し、キリスト教を広めていきます。上陸した鹿児島から京までの道中の長崎県で多くの信徒を獲得し、平戸・長崎・有馬を中心としてキリスト教は全国的に広まりました。ザビエルが日本に伝えたキリスト教およびその信者のことを、同時代の日本ではポルトガル語由来の「キリシタン」と呼びました。

 

日本二十六聖人記念館内「永遠の巡礼者ザビエル」像

日本人は、東洋とは異なる西洋文化に興味を抱き、教理を学ぶうちに次第にキリスト教への信仰に理解を深めていったといわれています。九州地方の大名の中には、貿易の利益を求めて宣教師を受け入れ、キリスト教に改宗した人たちもいました。「キリシタン大名」と呼ばれた彼らの領地では、領主にならって多くの領民が改宗しています。このような理由から、長崎地方には多くの教会堂が誕生し、浦上や天草にもヨーロッパ文化が広まっていきました。

 

 

キリスト教禁教の始まり

1587年長崎が貿易の中心地として栄える中、バテレン追放令が発令されます。もともとはキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉ですが、キリシタンの結束力を驚異と感じるようになったのが理由ではないかと言われています。1612年には、徳川秀忠が幕府の直轄地と直属の家臣に対してキリスト教の信仰を禁じ、翌年に全国へ広めました。バテレン追放令に続く江戸幕府の禁教令により、すべての教会堂は破壊され、宣教師は国外へ追放されました。

 

1597年、日本最初の殉教事件である「日本二十六聖人の殉教」が起こります。外国人宣教師・修道士、日本人修道士と信者の合計24名が秀吉のキリシタン禁止令によって捕縛され、長崎での処刑という命令を受けて一行は大阪から長崎まで歩いて向かいました。途中、イエズス会の世話役ペトロ助四郎と、フランシスコ会の世話役伊勢の大工フランシスコ2名も捕縛され殉教の列に加わります。到着後、すぐに十字架に掛けられ、26名は長崎の西坂の丘で殉教しました。

 

日本二十六聖人記念碑

この事件は世界中に知られることなり、26名は1627年にカトリック教会より列福を受け、さらに1862年には列聖を受けて日本人関係で初の聖人と認められました。列聖して100年目後の1962年には、二十六聖人等身大の記念碑と記念館が建てられた西坂公園ができてきます。

 

殉教直前に群衆に説教をしたという日本二十六聖人の一人 聖パウロ三木の像

 

潜伏のきっかけとなった島原・天草一揆

1637年、領主の苛政と飢饉などをきっかけに「島原・天草一揆」が勃発します。

2万数千人の百姓などが、長崎県島原半島南部の海に突き出た丘陵を利用した城跡に立てこもりました。幕府軍は約12万人の兵力を動員して一揆軍を攻撃。4ヵ月におよぶ戦いで一揆勢がほぼ全滅したと言われています。

 

原城跡の入り口

全国的に禁教政策が進む中の一揆は江戸幕府に大きな衝撃を与え、宣教師の潜入の可能性のあるポルトガル船の来航を禁止し、鎖国を確立しました。これによってもたらされた、国内宣教師の不在という状況によって、キリシタンは「潜伏」し、自分たち自身でひそかに信仰を続けざるを得なくなったのです。

 

発掘調査では、本丸の虎口や櫓台の石垣などの遺構が確認されており、多量の人骨や十字架、メダイなどの信心具が出土しています。

 

ホネカミ地蔵:1766 年に地域の住職等が原城跡の遺骨を敵味方の区別なく拾い集め供養した地蔵塔。

埋門跡:原城本丸二番目の門。一揆後幕府軍により破壊され犠牲者と共に埋められた。

一揆勢の総大将に担ぎ出されたのが、わずか16歳であった天草四郎です。総大将とは言うもののシンボル的な存在であり、実際に指揮を執ったのは、父甚兵衛をはじめとする側近たちであったと言われています。

益田甚兵衛の長男として生まれた天草四郎は、長崎に渡り学問をしたことなどが知られています。ママコス神父が、「今から25年後、東西の雲が赤く焼け、5国中が鳴動するとき、一人の神童が現れて、人々を救うであろう」と予言を残して去ったという話があり、不安を募らせる人々の中で四郎こそが予言にある天の使者に違いないという噂が広まりました。一揆の際には、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着た呪術的な格好で、洗礼を授けたり、説教を行っていたと記録されています。

原城跡には、長崎平和祈念像で有名な北村西望氏の「天草四郎像」が建てられています。

 

原城跡の天草四郎像

原城跡は、「キリシタンが潜伏し、独自に信仰を続ける方法を模索することを余儀なくされたきっかけとなる島原・天草一揆の主戦場跡」として「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産に登録されました。ツアーでは、原城跡や島原・天草一揆を詳しく紹介する「有馬キリシタン遺産記念館」と併せて訪問しています。原城跡は目の前を有明海、背後に雲仙岳を望む小高い丘からなる風光明美なスポットで、晴れた日には見学をしながら景色を楽しむこともできます。

 

原城跡から望む有明海

次回は、潜伏期のキリシタンについて解説いたします。

 

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