ヴィシュヌの化身② クールマ(亀)と乳海攪拌 日食と月食のはじまり

みなさまこんにちは。
今回もヴィシュヌ神の10の化身とそれにまつわる神話等について、引き続きご紹介いたします。今回は、②クールマ(亀)です。

前回の記事>> ヴィシュヌ神の化身①マツヤ

 

ヴィシュヌの化身に関する神話の中でも重要な神話に「乳海攪拌」の神話があります。いわゆるヒンドゥー教における天地創造神話ですが、神々と魔人アスラがその所有を巡って争った不死の霊薬「アムリタ」が登場する神話であり、また女神・ラクシュミーが生まれヴィシュヌの妻となったりと、ヒンドゥー教神話のなかでも様々なポイントが盛りだくさんのストーリーです。もちろんヴィシュヌも登場し、今回はクールマ(亀)として活躍します。

 

2)クールマ(亀)

亀(クールマ)の化身像
亀(クールマ)の化身像 (出典:長谷川 明 著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

乳海攪拌のお話

 

不死の薬・アムリタを得るために神々がヴィシュヌに相談すると、大海をマンダラ山を棒にしてかき混ぜればよいと教えられます。神々はアスラ(魔人)たちと仲良く協力して、引き抜いたマンダラ山に蛇王・ヴァースキを巻き付け、片側を神々、反対側からアスラ達がそれぞれ引っ張ることで海を攪拌します。あまりに強く攪拌したために海の底に穴が開き山が沈みそうになってしまいます。そこでヴィシュヌは亀(クールマ)に姿を変え、マンダラ山の軸受けとなって海の底を守りました。

 

乳海攪拌のシーン
(出典:長谷川 明 著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

 ▲乳海攪拌のシーン。軸となるマンダラ山を支える土台として亀(クールマ)が描かれています。右側に神々、左側がアスラが位置し、蛇王ヴァースキを引っ張りながら大海を攪拌しています。

 

その後攪拌が進み、あらゆる海中生物が死に、マンダラ山の樹木は燃えてしまいます。生き物たちの残骸、山火事の後の灰が大海に流れ出て混ざり合い、海は乳色に変わっていきました。そして、その中から太陽と月、後にヴイシュヌの妻となるラクシュミー等、次々と生まれました。
(ラクシュミーは、その美しさから多くの神々が求めましたが、ラクシュミーが自らヴィシュヌを選び、夫婦となりました)。

 

富と幸運と豊穣の女神・ラクシュミー  (出典:長谷川 明 著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

ようやく最後に、医学の神タスヴアンタリがアムリタの入った壷を持って現れます。
しかしながらアムリタの所有権をめぐり、神々とアスラ(魔人)たちの間で戦いが起きます。大体の分は戦いの最中に神々が獲得し飲み込みましたが、アスラの一人・ラーフが神々に化けて、アムリタを飲みはじめてしまいます。

 

その様子を見ていた太陽と月は、急いでヴイシュヌの所へ行って、知らせます。ラーフが飲み込んだアムリタは喉まで達していましたが、ヴィシュヌは武器の円盤で攻撃し、その首を切り落としました。切り落とされた首は、空彼方宇宙へと飛んでいきました。

 

頭だけ不死となってしまったラーフは、それ以来、告げ口をした太陽と月を恨むようになり、今でも太陽と月を追いかけて飲み込みます。ですがラーフは首までしかないので太陽と月はすぐに首から出てきます。これがヒンドゥー神話的日食と月食のはじまりです。

 


 

ちなみにアムリタの入った壺は神々が所有・安置していましたが、ヴィシュヌの乗る神鳥ガルーダが母親の呪いを解くために奪うエピソードがあったりと、このアムリタを巡る神話はいくつか存在します。

 

この「乳海攪拌」のお話は、東南アジアのクメール王朝の遺跡(アンコールワット等)でも、よくレリーフにて表現されています。その他、タイのバンコク・スワンナプーム国際空港内で蛇を引っ張り合う大きなモニュメントをご覧になったことがある方は多いのではないでしょうか? まさに攪拌の最中を表現しているものです。

 

乳海撹拌(アンコールワット)
乳海撹拌のシーン(アンコールワット)

「乳海撹拌」のお話でいろいろ捕捉します。

まず、混ぜる道具にされてしまったマンダラ山ですが、もともとヴィシュヌ神の住む山であり、インドラ神の住むメール(またはスメール)山の付近にある(方角や位置には諸説あり)とされています。メール山はインドラ神のみならず神々の住む地として考えられ、後に仏教に伝わり世界の中心を表す須弥山となりました。

 

「アムリタ」ですが、中国へ伝わった仏教ではアムリタは「甘露」と漢訳され、須弥山ではアムリタの雨が降るためにそこに住む天(ヒンドゥー教由来の仏教の神的存在)は不死であるとされています。

 

また、蛇王ヴァースキが綱として使われることの苦しさに耐えかねて体内の毒を吐き出してしまい、あまりに強い毒で世界が滅びてしまいそうになったためにシヴァがその毒を飲み干し、そのためにシヴァの肌は毒で青色になった、というエピソードもこの神話に含まれています。

 

シヴァ
毒を飲んだシヴァは、ニーラカンタ(青黒い頸)と呼ばれるように(出典:長谷川 明 著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

 

なお、実はこのお話も元々は他の独立した亀の神の神話でしたが、ヒンドゥー教の発展の中でヴィシュヌの化身によるものとしてヒンドゥー教の中に取り込まれていったものです。マンダラ山を支えた神は、インド叙事詩『マハーバーラタ』ではアクーパーラという別の独立した存在で、ヴィシュヌの化身ではありませんでした。

 

ヴィシュヌが化身として神と神話、そしてその功績と人気を吸収していったことがわかります。

 

 

参考:インド神話入門(長谷川明著・新潮社)

Text by Okada, Hashimoto

 

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インドの口琴:モールシン!

ナマステ!
前回の音楽ネタに関連して、今回は一つの楽器を紹介します。

インドの口琴・モールシンです!

 

 

 

モールシンと呼ばれるこの楽器、日本語では口琴と呼ばれますが、珍しい楽器のためあまり一般的ではありません。楽器を歯に押し当てて中央の弁を指ではじき、その振動を口の中で共鳴させて音を出すという、なんとも不思議な楽器です。

 

日本では江戸時代に江戸で大流行したという記録が残されていますが、現在ではほとんど知られていません。北海道ではアイヌ民族の竹製口琴・ムックリが知られています。通常日本で口琴の音を耳にする機会はあまりありませんが、テレビ番組の効果音などで稀に用いられることもあり、テレビアニメ「ド根性ガエル」の主題歌の中でもビヨーンというその独特の音が使われています。

 

さてこの口琴、ルーツは非常に古く、つい昨年中国で4000年前の骨製の口琴が出土し最古のものと考えられています。日本でも埼玉県で平安時代の金属製口琴が出土しており、金属製の口琴としては世界最古級のものと考えられます。

 

 

埼玉県さいたま市 氷川神社東遺跡出土の平安時代の口琴
埼玉県さいたま市 氷川神社東遺跡出土の平安時代の口琴(画像出典:さいたま市教育委員会)

口琴は東は日本から西はイタリアのシチリア島まで、ユーラシア大陸の多くの地域に存在しており、中央アジアからシベリア、またインド・パキスタン地域で現在でも広く演奏されています。その中でも音楽的に最も発展しているのがインドの口琴・モールシンです。

 

世界の様々な口琴左からロシア、トルクメニスタン、タジキスタン、日本(アイヌのムックリ)
世界の様々な口琴:左からロシア、トルクメニスタン、タジキスタン、日本(アイヌのムックリ)

 

多くの地域に分布する口琴ですが、インド、また中央アジアやシベリアの一部を除いては伝統的な楽器として演奏がされている場所は少なくなってしまいました。中央アジアやシベリアにおいては、ほとんどの場合単純に音楽的というよりは宗教的な用具として用いられており、多くの場合は口琴単体で演奏されています。対して、インドの場合モールシンはリズム楽器として他の楽器とともに演奏され、非常に独特な使われ方をしています。

 

インドではラジャスタン地方と南インドの楽器として知られ、ラジャスタンのものはモルチャン、南インドのものはモールシンと呼ばれます。南インド古典音楽の中で用いられるものが特に有名です。インドは南北で音楽の伝統も異なり、南インド音楽は複雑なリズム体系がその大きな特徴の一つです。両面太鼓のムリタンガムや、打楽器として調音された素焼きの壺太鼓・ガタムなどとあわせ、複雑なパズルのようなリズム体系の中でソロの演奏を回して行きます。最後に全員でリズムをあわせての演奏は、まさにパズルのピースがはまったような気持ちよさ!

 

現代的な音楽の中でこのように口琴が他の楽器とあわせて演奏されることはありますが、伝統音楽の中でこれだけリズムや奏法が確立している口琴はインドのモールシンだけかもしれません。

 

なかなか現物を見る機会はありませんが、お土産屋などではごく稀に売っていることもありますので、珍しいお土産として買ってみるのも面白いかもしれません。

 

Text by Okada

 

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北インド古典音楽

近年、インド映画などを通して耳にする機会も多くなったインド音楽。中でも古典音楽はインド国外でも愛好家が多く、日本でも多くのインド音楽イベントがあり、またプロの日本人奏者が活躍しています。

 

インド古典音楽は主に北インドのヒンドゥスターニー音楽と南インドのカルナーティック音楽に分かれますが、今回の記事では主に北インド古典音楽について紹介していきます。

 

 

ハルモニウム(左)とドーラク(両面太鼓、右)の演奏(ラジャスタン)
ハルモニウム(手漕ぎオルガン、左)とドーラク(両面太鼓、右)の演奏 (ラジャスタンのホテルにて)

 

■北インド古典音楽の成立

いわゆる「インド古典音楽」の成立は、インド各地で継承されてきた様々な芸能を取り入れて発展させた16世紀のムガル帝国の時代でした。インド各地、またペルシア世界や中央アジア世界との関係も深かったムガル帝国では、各地からの客人と音楽を共有するため、宗教的・言語的に異なる相手にも理解されやすいように宮廷音楽として文化が開いていきました。そのためインド古典音楽では明確な歌詞がうたわれる部分は少なく、「あぁ~」と声を伸ばしたり、音階やリズムを口ずさんで歌い上げたりするものがほとんどとなっており、インド音楽の大きな特徴となっています。

 

土地や宗教、民族によっても大きくバリエーションのあるインド音楽ですが、16世紀のムガル帝国の宮廷音楽を引き継いだ北インドの古典音楽はもともと演劇に付随するもので、音楽として単体で楽しまれるものというよりは演劇とセットで考えられました。現在では音楽単体でも楽しまれるようになり、インド国内外へ大きく広がりを見せています。

 

■北インド古典音楽の特徴

インド音楽のもっとも特徴的なものは「ラーガ」と呼ばれる概念の存在です。西洋音楽に対応して音階(スケール)、あるいは旋法(モード)として捉えられることがありますが、実際のラーガはもっと多くの要素を含んでおり、インド音楽の懐の深さを生んでいると言えます。

 

実際のラーガはその一つ一つが、音階・旋法に定められるような音の上下行や、一つ一つの音の扱い方や特徴的な旋律(テーマ)・音の運びなどに加え、そのラーガで表現すべき感情、そのラーガを演奏する時間帯・季節などを要素として持っています。インド音楽には数千のラーガが存在すると言われますが、正確な数は誰にも分りません。

 

インド音楽の演奏の際には、このラーガという概念に加え、「ターラ」と呼ばれるリズムに関する決まりに則って、即興での演奏が行われます。そのため同じ奏者・同じラーガであっても一回一回異なる音楽が生まれ、それがインド音楽の魅力にもなっています。

 

他にも様々な特徴のあるインド古典音楽ですが、大きな特徴の一つはドローン音と呼ばれるものです。これは演奏中にそのBGMの様に背後で一貫して流れる基準音のことで、タンプーラという専用の弦楽器を用いて、蜂の羽音のような独特な音を奏でています。メインとなる弦とその共鳴弦の響き、また弦を微妙に触れさせて独特の音を出す「ジャワリ」の機構など、楽器自体に独自の工夫がされています。ジャワリは日本の三味線でいうところの「サワリ」にあたり、三味線の成立自体もインドの楽器からの影響が強いと考えられています。

 

インド音楽でメインとなるのは声楽、つまり歌ですが、弦楽器や管楽器がこのポジションを担うことも多くあります。冒頭でも紹介した弦楽器のシタールは日本でも有名なもので、7本のメインの弦に加え沢山の共鳴弦が張られ、メインの弦の振動に共鳴して深みのある音を奏でています。また管楽器としてはクリシュナ神のシンボルでもある竹製の横笛:バーンスリーなどが用いられます。

 

バーンスリーを携えるクリシュナ神
バーンスリーを携えるクリシュナ神(出典:長谷川 明  著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

 

また、メインの歌を支えるリズム楽器。2つの太鼓をセットで使うタブラという太鼓が日本でも多く知られています。木製・金属製の胴に皮を張った楽器ですが、皮の中央に鉄粉や穀物の粉から作られたスヤヒと呼ばれるものが塗られており、独特の倍音を生んでいます。その他、両面太鼓のパッカワージもよく用いられるリズム楽器です。

 

インドの様々な打楽器(インド国立博物館)
インドの様々な打楽器(インド国立博物館)

 

楽団は基本的にはこのような旋律・伴奏・リズムの3つから構成されますが、他にも有名なのは弦楽器のシタールです。北インドの代表的な楽器であり、ビートルズが楽曲に用いるなど広く知られています。

 

タブラ(左)とシタール(右)による演奏
タブラ(左)とシタール(右)による演奏

 

他にも手でふいごを操って音を出すオルガンのハルモニウム、また日本から伝わった大正琴(インドではバンショーと呼ばれる)…など様々な楽器が加わっていきます。インドの音楽で用いられる伝統的な楽器は非常に種類が多く、地域ごとに様々な楽器が用いられます。ラーガに則っていれば、新しい楽器を積極的に取り入れるのもインド音楽の特徴です。バイオリンやエレキベースなどが用いられる場合もあります。

 

今回は北インドの古典音楽を紹介しましたが、北インドと南インドでは大きくスタイルが異なっています。イスラム勢力の影響が少なかった南インドでは土着的な音楽伝統が色濃く残り、北インドのヒンドゥスターニー音楽に対してカルナティック音楽と呼ばれ、複雑なリズム体系に則ったスタイルで、素焼きの壺でできた太鼓:ガタム、金属の弁の振動を口で共鳴させる口琴:モールシン、トカゲ皮製のフレームドラム:ガンジーラ等、楽器も独特のものが使われます。

 

南インドの金属製口琴:モールシン
南インドの金属製口琴:モールシン

 

 

基本的なテーマに則りながら、即興で演奏が行われるインド音楽ではやはり生演奏を見たいものです。複雑なリズムを奏でる中、最後にピタリと一致する瞬間には鳥肌が立ちそうになるほど。なかなか生演奏に立ち会える機会は少ないですが、ホテルやレストラン、時には街頭で楽団に出会うこともあります。一度体験すると癖になるような魅力を持つのがインド音楽です。

 

■インド音楽と西洋音楽

インド音楽は、根本的にいわゆる西洋音楽とは全く異なりながら、西洋の楽器や音楽を取り入れて今もなお発展し続けています。また、西洋音楽側もインド音楽に出会い、大きな影響を受けています。1950年代以降、インド音楽を西洋世界に広めた第一人者とも呼べる音楽家がラヴィ・シャンカールです。

 

ラヴィ・シャンカール(1920-2012)はバラナシ出身のシタール奏者です。1940年代からインド国内で高く評価され、また1950年代以降は積極的に海外での演奏、西洋の音楽家との交流を行いました。クラシック楽団に参加し、ビートルズのジョージ・ハリスンにシタールを教え、ジャズではジョン・コルトレーンに教えを請われるなど、多岐にわたるジャンルの音楽家と交流しています。西洋音楽とインド音楽の出会いを生んだ音楽家であり、当時の西洋の音楽シーンに大きな刺激を与えた存在です。

 

ビートルズの1965年のアルバムRubber Soulの中のNorwegian Wood (This Bird Has Flown)ではインド古典楽器のシタールがロックミュージックとしては初めて使われ、大きな反響を呼びました。この翌年にジョージ・ハリスンはラヴィと出会い、ラヴィを師としてシタールを学んでいます。ビートルズではこれ以降もシタールを利用した楽曲が作られています。

 

 

 

Text by Okada

 

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アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ⑤

ナマステ! 西遊インディアです。

エローラ石窟寺院群について、前回は第1~12窟の仏教窟を紹介しました。

今回はエローラの目玉!カイラーサナータ寺院をはじめとするヒンドゥー教窟、ジャイナ教窟についてご紹介します。

 

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エローラ 第16窟 カイラーサナータ寺院 正面出口

やはりエローラといえば第16窟のカイラーサナータ寺院。こちらの見学にじっくり時間を割きたい方が多いと思います。

 

エローラ石窟寺院群は第13~29窟がヒンドゥー教窟です。開窟年代は、6~9世紀で、インドで仏教の勢いが減退していくなか、代わってヒンドゥー教が勢力を増してきた頃です。

ヒンドゥー教窟は全部で17窟ありますが、仏教窟と違って特徴的なのが全てがチャイティヤ窟(僧院)であることです。仏教窟のように、僧房は併設されておりません。

 

それではエローラの最大の見どころ・第16窟のご紹介です。カイラサナータはヒンドゥー教の破壊の神であるシヴァの寺院であり、シヴァの住まいとして考えられているカイラス山の姿を現しています。間口46m・奥行80m・高さ34mの巨大な寺院は全て岩体を掘り下げて作られており、世界最大の石彫建築です。その完成には1世紀以上の歳月が費やされたと考えられています。当時のインド人の寿命が30~35歳であったことを踏まえると、何世代にも渡る一大事業であったことが分かります。巨大な寺院そのものの迫力に加え、随所に施された神々の彫刻はまさに圧巻です。

 

 

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エローラ 第16窟 カイラーサナータ寺院 横から眺める
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エローラ 第16窟 ラクシュミー像
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エローラ 第16窟 ドゥルガー神

門を入るとまず正面にヴィシュヌの妻ラクシュミー。2頭の像が左右から水をかける「ガジャーラクシュミー」という吉祥をあらわす姿です。右手にはシヴァの妻パールヴァティの化身で力の象徴であるドゥルガー、左手にはシヴァの息子ガネーシャの彫像が私たちを迎え入れます。ちなみにガネーシャは物事の始まりを司る神でもあり、多くの寺院で門番として入り口に描かれています。現代でもお店やホテルの入り口にガネーシャ像を置いている場面を見たことのある方もいるのではないでしょうか。

 

ガネーシャ像
16窟 ガネーシャ像

寺院の外壁、またそれを取り囲む回廊にも様々な神話や、「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」のインド二大叙事詩のシーンが丁寧に彫刻されています。寺院本体に施された彫像は本来は彩色されていたものもあり、一部にその基層となる漆喰が残されてるのも見ることができます。

 

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エローラ 16窟 細かく施された浮彫はマハーバーラタのシーンを表す
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16窟 ラーマーヤナの浮彫り
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16窟 本殿外部
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16窟 本殿を支える象たち

 

寺院内部、手前にはシヴァの乗り物である牡牛・ナンディーのための寺院(ナンディー堂)があります。そしてその奥に位置するのが本殿です。
本尊には、本尊であるシヴァリンガが安置されています。リンガは男性の象徴であり、同様に女性の象徴であるヨーニの上に置かれ、お香や乳、香油などが捧げられています。現在では観光地として世界的に人気のある寺院ですが、ここでは多くの敬虔な巡礼者たちが祈りを捧げています。

 

本殿のシヴァリンガ
16窟 本尊のシヴァリンガ

カイラーサナータ寺院の内部見学が終わりましたら、寺院横の小道より坂を上がり、カイラーサナータ寺院が見下ろせるポイントまで移動することをおすすめします(※雨期は、通行不可となっていますのでご注意ください。また、2019年冬現在、後ろまで回り込むルートは閉鎖されています)。
上から見下ろすと、カイラーサナータ寺院のその大きさを改めて実感するとともに、掘り出した石の途方もない量に言葉を失います。

 

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16窟を上から見下ろす
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16窟 僧院の天井にも美しい浮彫が施されています

 

第16窟・カイラーサナータ寺院は、その大きさ、内部の造りの精巧さ、浮彫彫刻の美しさ等、全てのポイントにおいて現代では再現不可能な、まさに偉業と呼べるにふさわしいものではないでしょうか。

 

最後に、ジャイナ教石窟群の紹介です。
エコバスに乗って5分程移動すると、ジャイナ教の寺院が見えてきます。ジャイナ教寺院群は一番北側にあり、ヒンドゥー教窟とは約1キロ程離れています。開屈は9世紀頃で、当時この地を治めていた王がジャイナ教を保護していたため、ジャイナ教の寺院も造られることになりました。

 

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ジャイナ教石窟群 遠景

 

インド全国的にジャイナ教寺院は僅かしかなく、エローラの寺院は貴重な資料となっています。ジャイナ教と聞くと不殺・不所持をはじめ簡素な生活を思い浮かべますが、そのイメージを一変させるような精緻できらびやかな内部装飾には驚かされます。それまでの仏教、ヒンドゥー教窟と比べて最も装飾が細かく美しい石窟です。

 

ジャイナ教ではその24代にわたる修行者の像が信仰の対象となっています。ヒンドゥー教の神々と比べ動きが少なく、直立したままの聖者像が多いです。また、ジャイナ教の教えである「無所有」を象徴する裸体で表現されています。

 

 

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エローラ 第32窟 正面入り口
第32窟のジャイナ教寺院
エローラ 第32窟 ジャイナ教寺院
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第32窟 柱の透かし彫りがなんとも豪華な印象

 

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第32窟 獅子に乗る女神像

 

 

アジャンタとエローラの石窟寺院を数回に渡って紹介してきました。アジャンタとエローラは、インドの宝です! ぜひ訪問して、実物をご覧になっていただきたいと思います。

 

このシリーズの冒頭で書きました通り、アジャンタ、エローラ有するデカン高原にはこのような素晴らしい石窟がまだまだありますので、またの機会に紹介したいと思います。

 

 

 

 

Text  by    Hashimoto,  Okada
Photo  by Saiyu Travel

 

 

 

 

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アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ④

ナマステ!!
インドの宝、アジャンタ・エローラを紹介するシリーズ、その④です。

過去のご紹介記事はこちら!
アジャンタ・エローラ①
アジャンタ・エローラ②
アジャンタ・エローラ③

 

■エローラ石窟

カイラサナータ寺院
エローラ石窟 第16窟 カイラサナータ寺院

 

オーランガバードから30Kmほど離れたところにある小さな村のひとつエローラ村。ここに世界的に有名な石窟寺院群が残っており、エローラ石窟といわれています。
エローラには、全部で34の石窟があり、6世紀から10世紀の間に造られました。仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の3つの宗教の寺院や僧院・僧坊などから構成されています。

 

1~12窟    :仏教寺院。石窟寺院群の南端
13~29窟 :ヒンドゥー教寺院。中央に位置する
30~34窟 :ジャイナ教寺院。北端

 

30~34窟のみ少し離れた場所に位置しておりますが、基本的には全ての石窟は近接している上に作られた時期も重なっています。当時インドではお互いの宗教に対して非常に寛容であったことが分かります。

 

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エローラ石窟 第1-6窟 遠景

まずは、仏教窟からご紹介します。仏教窟は全部で12窟あり、第10窟以外は全て僧院(ヴィハーラ)窟です。

 

石窟群の最南端に位置する第1窟は、僧院というよりは穀物や食料を貯蔵していた場所と考えられています。

 

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エローラ 第1窟 仏教窟 入口
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エローラ 第2窟 仏教窟 入口

第2窟も僧院址です。内部の回廊には多くの仏像が並んでおり、柱の装飾も細かく施されています。

第3-4窟は未完成です。エローラ石窟寺院の仏教パートは7-8世紀ごろの、インドでの仏教が衰退へと向かっている時期の開窟であったこともあり、未完成であったり作業途中である部分も多いです。

 

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エローラ 第5窟 僧院址

7世紀に開窟された第5窟は、奥行き53.28m、幅36.63mと非常に広く、エローラでも最大の室内面積をもつ僧院です。巨大な柱には、かつては美しい装飾画が施されていたといいます。この僧院址は、かつては講堂、僧侶たちの食事場所、そして宗教的な儀式の際に使われていました。

 

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エローラ 第7-8窟 仏教窟

 

第10窟は仏教のチャイティヤ(礼拝堂)建築の最高峰とも呼ばれ、ストゥーパを覆うように配置された仏像や細かい内部装飾が特徴です。2階建てですが吹き抜けの様になっています。造りは外観だけではなく音響効果も考えられており、祈りの声が深く響き渡る様に設計されています。

ガイドと一緒に訪問した際はガイドにお経の一説を詠むようリクエストしてみてください。声の響き方にきっと驚かれると思います!

 

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エローラ 第10窟 仏教窟
第10窟のストゥーパと仏陀
エローラ石窟 第10窟 本尊は、ストゥーパに仏陀が取り込まれているかたち
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エローラ 第10窟 入口正面 バルコニーから中の仏塔を見おろすことができます
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エローラ 第11窟 仏教窟

第11窟は僧院址で、なんと3階建てです。1~2階は僧房、3階は講堂として作られています。石窟の開削は上部から始まるため、通常の建築とは逆方向に、上から下へ向かって作業が進んでいきます。講堂と僧院という性格の違いはあるものの、開窟資金や資源の豊富だった初期に作業が行われた上階は精密に作られ、下の階へ行くにつれて装飾が減りシンプルな造りになっており、その変遷は見ていて面白いです。

第12窟も第11窟と同じ3階建ての造りの僧院址です。こちらは、全体的に非常にシンプルな造りとなっています。

 

 

エローラ石窟寺院群ですが、その入り口のほとんどが西側を向いています。そのため、エローラ訪問は日差しが内部まで差し込む午後の訪問がおすすめです(エローラ石窟はアジャンタとは異なり内部に照明は設置されていません)。ただ、酷暑期の訪問だと午後2-3時頃は一番暑い時間帯…。観光中の体力を考えて午前中の涼しい時間帯の訪問でもいいかもしれません。

 

 

次回の記事ではエローラの目玉・ヒンドゥー教窟をご紹介します!

 

 

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アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ③

ナマステ! 西遊インディアの橋本です。
アジャンタとエローラを紹介する第3弾です。

過去のご紹介記事はこちら!
アジャンタ・エローラ①
アジャンタ・エローラ②

 

アジャンタ石窟ご紹介の続きの前に、アジャンタ、エローラ訪問に適した時期についてご案内します。

アジャンタ、エローラが位置するオーランガバード周辺は、近隣のムンバイとほぼ同じ具合で、3~5月は酷暑、6~9月後半頃までは雨期、その後9月後半から2月頃までが乾期となります。ムンバイは沿岸部にあるため、内陸のデカン高原にあるオーランガバードは、ムンバイよりも雨量が少なく乾燥しています。

 

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8月のエローラ石窟
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4月のアジャンタ 年間で一番暑い時期。草木の色も雨季後とは全く異なります

アジャンタ、エローラはともに1年中観光はできますが、4~5月は45度近くの酷暑のなかの観光となり、遺跡の見学中は相当の体力を奪われます。時期を選べるのであれば、9月後半~11月くらいがベストです。乾期に入りほとんど雨の影響を受けませんし、暑さも落ち着く時期です。また、遺跡の雰囲気も結構違います。上の写真を見比べていただいて分かる通り、雨期以降すぐはフレッシュな緑色が美しい時期です。

 

ちなみに、各石窟内に入る時は入り口で靴を脱いで入ります。石窟内は意外ときれいで足が汚れることはありません。素足で中へ入ると、ひんやりとした岩の感触も感じることができおすすめです。石窟内は、色々なものが混じった、独特のにおいがこもっています。石窟の奥に進めば進むほど、この石窟群の造成に費やされた途方もない時間と労力を想像し、残された壁画の美しさだけではない、この遺跡の凄さを改めて実感します。

 

それでは、石窟の続きのご紹介です。
第11窟です。

 

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アジャンタ 第11窟 天井の壁画

第11窟は後期に造られたヴィハーラ(僧院)窟です。この11窟の前後は、前期窟が並んでおります。最初に建てられた前期窟は、いずれも正面の渓谷を見渡せるよい位置に造られていますが、この11窟は10窟と12窟の間に無理やり造られており少しいびつな形です。見どころは、素晴らしい天井の装飾画です。

 

続いて第17窟。こちらもアジャンタ第1窟同様、素晴らしい壁画が多数残る石窟です。まずは17窟に残る、2つの大猿本生(ジャータカ)。

 

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大猿本生

 

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アジャンタ 第17窟 大猿本生
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アジャンタ 第17窟 上写真の右側アップ。背後から近寄る農夫と(左)、殴られ倒れてしまった大猿(右)

猿は、崖下に落ちてしまった農夫を見つけ背負って這い上がり、助けます。しかし、農夫はその猿を殺して食べようと背後から忍び寄り石で殴り倒してしまいます。その後農夫は地獄に落ちます。
(ここでは大猿=釈迦を表します)。

 

※17窟には、もうひとつの大猿本生があります。川辺のマンゴーを取って食べているときに国王軍に見つかってしまった猿群でしたが、猿王は自らの身体を橋の一部とし、仲間たちを先に逃がした、という内容のものです。

 

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シンハラ物語

 

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アジャンタ 第17窟 羅刹女を退治に行くシンハラ王の軍隊

人を食らう「羅刹女」がいる島に漂着してしまった商人・シンハラは、仲間とともに島からなんとか脱出することに成功しました。しかしその後羅刹女は美女となってシンハラの国に乗り込み、城内の人間を食い殺してしまいます。シンハラは民衆に請われ王となり、軍を率いて羅刹女を追い払っただけでなく、羅刹女たちを教化するのでした。

 

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また、第17窟は内部だけでなく、外側の装飾画も見事です。
こちらは、入り口の装飾。扉の上には過去七仏が並んでいます。また、向かって左側の外壁には、六道輪廻の図が残っています。今やインド北部・ヒマラヤを越えたラダックエリアとその周辺でしかほとんど見ることができない六道輪廻の図がここアジャンタで見ることができるとは…! 感激です。

 

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アジャンタ 第17窟 入口の装飾
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アジャンタ 第17窟 六道輪廻

第19窟です。後期のチャイティヤ(僧院)窟で、中央には仏塔と仏像を合体させた本尊と、両側には丹念に施された彫刻が残っています。また、石窟内部自体が馬蹄形となっています。

 

仏塔(ストゥーパ)とは、お釈迦様が荼毘に付された後、残された灰や遺骨(仏舎利)を納めた塚が起源です。 仏教が各地へ広まると、ストゥーパが建てられ、お釈迦様のシンボルとして祀られるようになりました。
仏塔は3部分から構成されています。①基壇(下の写真では、仏像が組み込まれています)、②丸い部分の卵塔、③一番上に乗っている平頭です。もともとは②の部分のみでしたが、尊いものとして基壇と傘が施されるようになりました。

 

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アジャンタ 第19窟  内部

アジャンタ石窟寺院の見学の最後は、第26窟です(第27窟は未完成、28-30窟は位置的に訪問不可)。後期のチャイティヤ窟で、内部にはインドで最大級の大きさである涅槃仏(全長7.3m)が横たわっています。涅槃仏の周りや列柱に施されている彫刻も素晴らしく、見ごたえのある石窟です。

 

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アジャンタ 第26窟 正面入り口
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アジャンタ 第26窟 作成途中の仏像(右)

 

第26窟は概ね出来上がっているものの、完成はしておりません。上の写真の左部分のように、製作途中で放棄されてしまっている部分もあります。未完部分をみると、まずは大枠でかたどりされ、その後彫り進める、という石窟内での作業の進め方が分かります。

 

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アジャンタ 第26窟 インド最大級の涅槃仏
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アジャンタ 第26窟 涅槃仏 正面から

横たわる涅槃仏は、少し微笑んでいるようにも見えます。この写真では分かりにくいですが、釈尊の台座には、その死を悲しむ弟子や在家の姿が彫られています。また上部分には、天人が舞っています。

 

 

 

アジアの古代仏教美術の源流ともいわれているアジャンタ石窟寺院。何度訪問しても飽きません。じっくりと時間をかけて訪問して欲しいと思います。

 

エローラは次の記事でご紹介します!
アジャンタ・エローラ④

 

 

 

Text by Hashimoto

 

 

 

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アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ②

ナマステ! 西遊インディアの橋本です。
インドの宝・アジャンタとエローラ石窟の紹介、第二弾です。

 

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9月のアジャンタ 緑が綺麗な時期です

アジャンタ・エローラ紹介記事①にて、いきなりアジャンタのハイライトである第1窟の蓮華種菩薩、金剛手菩薩を紹介しましたが、アジャンタの見どころはまだまだあります!

 

第2窟のご紹介の前に、アジャンタ、エローラ石窟群を見学するに欠かせない「ジャータカ」についてお話いたします。
「ジャータカ」とは仏陀の前世の功徳を伝える物語です。本生譚(ほんしょうたん)ともいい、仏陀の死後に多くのジャータカが生まれました。様々な動物(ゾウ、猿、鴨、うさぎ 等々)やある特定の人物として生まれた仏陀による、自己犠牲や利他の行いがテーマとなっています。仏陀はその前世においても修行を続けており、だからこそ悟りを得るに至ったという考えに由来しています。

(本来は仏教と関連のない土着の民話や寓話をジャータカとして吸収していったとも考えられています)。

 

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ジャータカのご紹介 ~六⽛⽩象本⽣~

 

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アジャンタ 第17窟 六牙白象本生

ヒマラヤの山中に8000頭の象の群があり、6本の牙を持った真っ白な象が王としてそれを束ねていました。王には二人の夫人がいましたが、第二夫人は第一夫人に激しく嫉妬をし、王を恨みながら自害します。その後とある国の王妃として生まれ変わった第二夫人は、六牙象のことを聞き、猟師にその象の牙を持ってくるように命令します。猟師は罠をはり象王を捕えますが、象王は自ら牙を抜き、その後絶命します。猟師の持ってきた牙を見た夫人は、象王がかつての夫であったことを思い出し、後悔し死んでしまいます。

 

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アジャンタ石窟には、ジャータカの内容を示す壁画が複数残されており、特に第17窟には「六⽛⽩象本⽣」「⼤猿本⽣」などが良好な状態で保存されています。これらジャータカのストーリーを予め予習しておくと、アジャンタ石窟の見学がより一層楽しめます。

 

それでは、第2窟のご紹介です。
アジャンタ第2窟も第1窟と同様、後期窟です。美しい壁画、彫刻が素晴らしく、保存状態も良いです。

 

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アジャンタ 第2窟 本堂 美しい天井の装飾も必見です
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アジャンタ 第2窟 杯を交わすペルシャ人 / 青い靴下の異邦人

こちらは第2窟に残る「杯を交わすペルシャ人(青い靴下の異邦人)」の天井画。2人の周囲には豊穣を表す蓮華蔓草や果実が描かれています。

壁画は、牛糞や粘土、石灰を下地に塗り、アフガニスタンから持ち込まれたといわれるラピスラズリや黄土など、全て自然の顔料で描かれています。この靴下の青色もラピスラズリで着色されていますが、今もなお鮮明にその青さが美しく残っています。

 

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アジャンタ 第2窟 「玉座に腰かけた菩薩」

長い輪廻のあと最後に兜率天上に生まれた釈迦が、王者風の姿で天人に説法する様子が描かれています。

 

他に第2窟で必見の壁画は「釈迦誕生」の壁画です。生まれたばかりの仏陀(スィッダールタ王子)を抱えるブラフマーとインドラ神、そして優しく見つめるマーヤー夫人が描かれています。

 

 

アジャンタは全部で1~30窟ありますが、作業途中で放棄され、未完で終わった窟もいくつかあります。

第4窟も未完で終わった窟のひとつです。第4窟はアジャンタでも最大の規模のヴィハーラ(僧院)窟でしたが、断層が横切っていたため作業が難航しその後放棄されてしまいました。もしこの僧院窟が完成していればアジャンタ最大かつ壮大な僧院窟が完成していたのでは…と言われています。

 

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アジャンタ 第4窟 外観
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アジャンタ 第4窟 内部はアジャンタ最大規模で広い

続いて第9窟です。これまでは、全て後期に開屈されたものを見てきましたが、9、10、12、13窟は前期窟(紀元前2世紀~紀元後1世紀ごろに開窟)のものです。

第9窟は、簡素なチャイティヤ(僧院)窟となっており、中央にストゥーパ(仏塔)が建つのみで彫刻などの装飾はありません。柱には一部壁画が残っていますが、これは後期に描かれたものです。

 

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アジャンタ 第9窟 チャイティヤ窟

第10窟です。
こちらも前期窟で、中央にストゥーパがあるシンプルな造りです。ここ第10窟で注目すべきは、右13番目の一本の柱の落書きです。このアジャンタ石窟を最初に発見したイギリス人士官ジョン・スミス(John Smith)が、発見した時に思わず自分の名前と日付を柱に刻み付けてしまい、その落書きが今でも残っています。

盛んに開窟が続けられたアジャンタ石窟ですが、インドでの仏教の衰退に伴い作業されなくなり、8世紀には完全に放棄されました。その後アジャンタ石窟は1000年以上忘れ去られましたが、偶然こちらにトラ狩りに来ていたジョン・スミスによって1819年に発見されたのです。

 

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アジャンタ 第10窟 ストゥーパ(仏塔)
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アジャンタ 第10窟 ジョン・スミスの落書きが残る柱 よく見ると名前が確認できます

ジョン・スミスの落書きは、柱の高さ3mの位置に残っています。結構見上げて目を細めないと確認できません。これは、ジョン・スミスが長身の大男であったわけではなく、発見当時アジャンタは密林のなかに埋まっており、各石窟の内部にも1.5m程泥が積もっている状態だったためです。

 

この第10窟を訪問した時、偶然この遺構を見つけたジョン・スミスの気持ちを想像してみました。密林のなか本来あるはずのない人工物を自分が最初に見つけ、世紀の大発見を予感したとき、思わず名前を刻みたくなるのでしょうか。

 

 

 

アジャンタ・エローラの記事その③へと続きます!

 

 

Text by  Hashimoto

 

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アジャンタとエローラ インド2大石窟寺院群を行く! ①

ナマステ!西遊インディアです。

今回はインド観光のハイライト! インドの宝! 絶対お勧めのアジャンタ、エローラの2大石窟寺院をご紹介します。

 

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エローラ 第16窟カイラーサナータ寺院

インドの石窟寺院ですが、現在では大小合わせおよそ1,200の寺院が確認されています。そして、その多くはアジャンタやエローラが位置するデカン高原周辺に存在しています。理由は石窟に適した岩体の存在です。

 

加工しやすく安定している玄武岩質の岩体が多く分布するため、この地域に多くの石窟寺院が残されています。また玄武岩は、加工もしやすいですが大変硬く、木材等に比べて保存が長期に渡って可能なこともポイントです。現存している石窟寺院は、前1世紀頃から後9世紀頃にかけて開鑿されたものですが、石窟全体がそのまま残っているばかりか、一部はその美しく施された彫刻も細部まで残っています。

 

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エローラ 第32窟 ジャイナ教石窟群 柱に残る美しい装飾
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エローラ 16窟 カイラーサナータ寺院  寺院外壁にびっしりと描かれている「ラーマーヤナ」の場面を表した彫刻

今回ご紹介するアジャンタ、エローラ両遺跡の観光の拠点となるのはオーランガバードという街です。マハーラーシュトラ州内にあり、州都ムンバイから約350㎞、内陸側に移動した位置にあります。車両移動で約7-8時間かかりますが、ムンバイからは国内線も運行されており、フライトだと約1時間です。なお、国内線はデリー、ハイデラバードからも運行があります。

そのオーランガバードからエローラ石窟までは約30km、アジャンタ石窟までは100km程度です。街には観光用のホテルも多くあり、秋~冬の観光ハイシーズンには多くの観光客が滞在し混みあっています。

 

アジャンタ、エローラのご紹介の前に、オーランガバードの街と見どころを軽くご紹介。

オーランガバードの街の名前は、ムガル帝国第6代皇帝のアウラングゼーブ帝が滞在したことに由来しています。

街の見どころですが、まずは、ミニ・タージマハルとも呼ばれるビービーカ・マクバラ廟。「ビービー(Bibi)」というのはヒンディー語で”wife” や”Laday”、「マクバラ(Maqbara)」はお墓を指します。つまりこの地に滞在したオーラングゼーブ帝の妻・ディラルース・バーヌー・ベーガムのために建てられた廟です。

 

ビービーカマクバラ
ビービーカマクバラ

一見、アグラにのタージマハルにも似たビービー・カ・マクバラ―ですが、タージマハル程の財源がなかったため、使用している大理石の量はかなり制限されています。

墓廟の前には庭園が広がっており、地元のファミリーの憩いの場所ともなっています。

 

他にも、街の北側にあるのがオーランガバード石窟群。5~7世紀に仏教徒の手によって造られた石窟群で、全部で13窟あります。菩薩像や女神像の彫刻は、エローラに先行する仏教美術の貴重な作例として知られています。

 

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オーランガバード石窟群 第7窟の入り口

 

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オーランガバード石窟 第7窟

またオーランガバードでは、ヒムロー織りと呼ばれる金糸を織り込んだ美しい織物も全国的に有名です。工場件展示即売所が街にいくつかありますので、お時間に余裕のある方は立ち寄ってみてください。

 

■アジャンタ石窟

オーランガバードから100㎞、車両で2時間半程行きますと、アジャンタ石窟見学者用の駐車場に到着します。そこから、専用のシャトルバスに乗り換え、石窟入口まで移動します。
入口には、遺跡のチケットカウンター、トイレ、軽食屋等が並んでいますので、ここで最終準備を整え、遺跡へと出発です!

 

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石窟入口までは、石段が続きます

ワーグラー川の流れに沿って30の石窟が並ぶアジャンタ石窟群。これらは全てが仏教窟です。開かれた時代は下記2期間に分かれます。

①紀元前2世紀~紀元後1世紀
②紀元後5世紀後半~7世紀初頭頃まで

 

前者が初期仏教(上座部仏教)の時代、後者が大乗仏教の隆盛期にあたります。

 

アジャンタ石窟群
アジャンタ石窟群

アジャンタ石窟を特徴づけるのは何といっても内部に描かれた見事な壁画の数々です。壁画は多くが大乗仏教期に描かれたもので、主に仏伝、ジャータカ(本生)と呼ばれる仏陀の前世譚、また宮廷の様子などが彩り豊かな顔料で描かれています。この壁画群は日本の飛鳥時代の美術に影響を与えたと考えられており、法隆寺金色堂の壁画にもその影響を見て取れると言われてます。

 

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アジャンタ 第1窟 蓮華手菩薩

中でもアジャンタを象徴する壁画が第1窟の蓮華手菩薩。インド古代仏教美術の最高傑作とも謳われ、右手に蓮華の花を持っています。

⾝体を⾸、胴、腿の3つに曲げた「トリバンガ(三曲法)」という手法を使って描かれ、白い肌と目を伏せた表情が印象的です。蓮は泥中に根を張りながら水上に美しい花を咲かせることから煩悩に溢れた俗世に対しての清浄な心や悟りの象徴として考えられ、仏教美術の中に頻繁に登場します。仏教、またヒンドゥー教の中でも同様に用いられる象徴的な花です。

 

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アジャンタ 第1窟 蓮華手菩薩

これと対を成すのが右手に描かれた金剛手菩薩。こちらは蓮華手菩薩とは対照的に褐色の肌で描かれ、力強い印象です。金剛杵(ヴァジュラ)という仏具、または金剛(ダイアモンド)を持つとされる菩薩像です。

 

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アジャンタ 第1窟 金剛手菩薩
金剛手菩薩
アジャンタ 第1窟 金剛手菩薩

※近年では、こちらの両菩薩は、菩薩ではなく「守問神」とする説も有力とされています。

 

上記両菩薩(守門神)の奥には本尊の仏陀像が転法輪印(説法印)を結び、座しています。転法輪印は、教えを説いて迷いを粉砕することを表す印です。また、第1窟の天井と壁は様々なお花、果物、植物等の装飾で彩られており、柱には美しい浮彫が施されています。まさに豪華な宮殿のような雰囲気です。

 

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アジャンタ 第1窟 本尊の仏陀像
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アジャンタ 第1窟 壁画
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アジャンタ 第1窟 外国からの使節団が描かれている天井画

 

石窟寺院群は、実際に僧侶たちが雨季の間に生活し修業の場となった僧院(ヴィハーラ)と、礼拝の為に用いられた礼拝堂(チャイティヤ)の2種によって構成されています。

 

アジャンタの場合、礼拝堂は5つのみ、残りは全て僧院です。

前期(紀元前2世紀~紀元後1世紀) に造られた礼拝堂は、中央にストゥーパ(仏塔)が建つのみで装飾は特になくシンプルなものでした。初期仏教では仏陀を直接的に彫刻、絵画等で表すことは憚られており、まだ仏陀をかたちとして表現する、ということが無かったためです。

 

逆に後期(紀元後5世紀後半~7世紀初頭頃)開窟分は、仏陀の姿が仏像として実際に表されるようになった1世紀以降のことですので、仏陀の姿が絵画や彫刻で表現されています。また紀元後5世紀ごろは、インド仏教美術が花咲いた時期でした。当時中央インドを支配していたヴァータータカ帝国はあつく仏教を信仰していたこともあり、当時の最新の技術や流行を取り入れ、美しい彫刻や絵の装飾もふんだんに施し豪華な石窟の造営に力を入れたのでした。

 

後期の礼拝堂:19窟
アジャンタ 第19窟 後期の礼拝堂

ちなみに、当時の僧侶は普段は諸国を遊行し雨季の間は僧院で修業を積む生活が基本でしたが、僧院に定住する者も多かったようです。
アジャンタでは実際に彼らが生活した僧院の部屋にも入ることができます。

 

 

 

アジャンタ・エローラの記事、まだまだ続きます!

NEXT>>>アジャンタ・エローラ②

 

 

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イギリス植民地時代の首都コルカタ

ナマステ!!西遊インディアの岡田です。

今回は古くイギリス植民地時代の首都であり、現在では東インドの中心都市となっている、コルカタをご紹介します。

 

コルカタはバングラデシュと国境を接する西ベンガル州の州都です。ガンジス川の支流の一つであるフグリー川沿いに街が広がっており、都市圏人口ではインド3位ですが、市域での人口密度はインド1位の巨大都市です。

 

1640年にイギリスが商館を建て活動を開始した時点では、ここは3つの村が水辺に点在する程度の未開地でした。このうちの一つ・カーリカタ村の名をとって、イギリス時代からはカルカッタと呼ばれるようになります。イギリスは西海岸のボンベイ(現ムンバイ)、東海岸のマドラス(現チェンナイ)とカルカッタを中心に商館を要塞化し、さらに1757年にはプラッシーの戦いでベンガル太守とフランスを退けてインド貿易を独占。カルカッタはイギリスのインド統治の中心となり、イギリスはここを拠点にインドの侵略を進めていくこととなります。

 

カルカッタは、都市化とともに文化の成熟・教育の充実が進み、アジア初のノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールを輩出しています。またインド人の知識階層の集う場ともなり、民族運動の発信地としても機能していきます。

 

1911年、カルカッタでの民族運動の煽りを受けイギリスの拠点がデリーへ移されましたが、その後も経済的には発展を続けました。インド独立後はパキスタンとの分離による政治的・経済的な影響を受け他の都市圏に抜かれていきますが、現在でも東インドに置いてはその中心であり、最大の都市であることは変わりません。

 

 

■カーリー寺院

カーリーガート
カーリーガート

神々とアスラ(悪魔)の戦いの中でシヴァ、ヴィシュヌ、アグニ等の神の怒りから軍神の女神:ドゥルガーが生まれますが、アスラへの怒りによってドゥルガーの額から生まれた戦闘の女神がカーリーです。争いと血を好み、手に生首を掴み腰に切り取った敵の手足を提げるという荒々しい姿で知られています。

 

カーリーの姿で人気があるのは夫であるシヴァを踏みつぶしながら踊るシーン。流血してもその血から分身を生んで無限に増え続ける力を持つラクタヴィージャというアスラとの戦いを終えた後の勝利のダンスのシーンです。カーリーはラクタヴィージャの血を全て飲み込むことでアスラを倒し、歓喜して踊り始めますが、あまりにも激しい踊りによって大地が砕けてしまいそうになったためシヴァがその衝撃を和らげるためにカーリーに踏まれているという場面です。やがて夫を踏みつけていることに気づいたカーリーは我に返り踊りを止めたので大地は砕けずに済んだ、という神話が伝えられています。

 

コルカタのカーリー寺院ではカーリーへの犠牲礼拝が盛んで、現在でも毎日のようにヤギを犠牲に捧げています。ヒンドゥー教徒以外は寺院内部へ入ることは出来ませんが、運が良ければ柵越しに犠牲の儀式を見ることができます。

 

■花市場

花市場
花市場

血を好むカーリーへ捧げるための赤いハイビスカス、ヒンドゥー教で好まれるオレンジ(サフラン)色のマリーゴールド等多くの生花が取引される広大な市場です。いつも多くの人でごった返しており、海岸沿いの湿った空気とともにコルカタの街の熱気を感じる場所です。コルカタ港に繋がるフグリー川に沿って広がっており、川辺のガートでは沐浴する人の姿も見られます。ここからフグリー橋を越えて行くハウラー橋はコルカタのシンボルにもなっています。

 

■インド博物館

インド博物館
インド博物館

植民地時代の1817年に開館したインド最古の博物館です。バールフットの塔門や仏舎利、また豊富な仏教・ヒンドゥー教の彫刻群などに加え、絵画や絹織物、動植物などの展示も充実しています。さらに収蔵品は5万点を越え、1日では巡りきれないほどの見応えのある博物館です。

 

バールフットの塔門
バールフットの塔門

 

■マザー・テレサ・ハウス

マザー・テレサの彫像
マザー・テレサの彫像

1929年からインドで活動したマザー・テレサ。コルカタでは1948年から1997年まで活動を行っており、彼女が晩年を過ごした場所は今でも修道女たちの活動の場として利用されています。マザー・テレサの廟もここに置かれており、現在でも多くのキリスト教徒が巡礼に訪れます。建物の一部は展示室として公開されており、マザー・テレサの活動の記録や生前に使っていた様々な道具が展示されている他、実際に彼女が暮らしていた部屋も公開されています。

 

 

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バーブルの生涯とムガル帝国建国

ムガル帝国」は、北インドを観光中、1日に一度ならず何度も何度もガイドの口から出てくるワードの一つです。

 

インドはイギリス植民地として支配下に置かれるまで、ムガル帝国によって支配されてきました。その支配力は常にインド全域に渡っていたものではありませんでしたが、特に北インドにおいては、広く諸勢力を支配下に置き、北インドは長い間ムガル帝国の基礎・拠点となってきました。

 

デリー、アグラを中心とする北インドエリアでは帝国の統治下において、インド・イスラーム文化が華開き、現代にも多くの遺産が受け継がれ、大切にされています。

 

今回は、その「ムガル帝国」建国までの歴史と、創立者であるバーブルについて紹介します。

 

バーブル(左)と息子フマユーン(右)
バーブル(左)と息子フマユーン(右) (出典:間野 英二 著 「バーブル―ムガル帝国の創設者 」山川出版社 2013年)

■生誕とサマルカンド奪還の野望

1483年、バーブルは現在のウズベキスタン東部に位置するフェルガナ地方にティムール朝の王子として生まれました。

父親は14世紀末に中央アジアに覇権を唱えたティムールの血、母親はモンゴル帝国のチンギス・ハンの血を継いでおり、バーブルは輝かしい出自であったと言えます(バーブル自体はティムールの5代目の子孫でした)。
フェルガナの領主の息子として育ったバーブルですが、1494年、父親の突然の事故死により、僅か12歳でフェルガナの領主となります。

 

当時サマルカンドを都としていたティムール帝国(1370-1507)は既に凋落の一途を辿っていました。諸勢力がサマルカンド獲得を巡って攻防を続けていましたが、バーブルもこの攻防に参加し、ティムール帝国の再興をもくろみます。

バーブルは1497年には従兄のバイスィングル、1500年にはウズベク系のシャイバーニー朝、また1511年には再度シャイバーニー朝を破って計3回のサマルカンド入城を果たしましたが、どれも短命政権に終わり、サマルカンドを後にすることとなりました。

 

現在のサマルカンド レギスタン広場
現在のサマルカンド  レギスタン広場(正面の神学校はティムール朝第4代君主ウルグ・ベクによって建てられました)

 

■インド支配への道

3度にわたるサマルカンド支配に失敗したバーブルは、サマルカンドから南部へと路線を変更します。アフガニスタンのカーブルに最初の拠点を築いたバーブルは、同じくアフガニスタンのカンダハール、パキスタンのペシャワール、そしてインドのパンジャーブへと進軍し、徐々にインド方面へ目を向けるようになっていきました。
1520年にはタジキスタン南部のバダフシャンを占領し、2年後の1522年にはさらに南下してカンダハールを占領。カーブルを拠点として、インド方面へと支配力を広げていきます。

 

また、バーブルはインドへ6度に渡って遠征を繰り返しています。カブールは大帝国の都としては十分な土地ではなく、始めは単に財貨の略奪を主目的としてインドへの遠征を行っていました。北西インドでは10世紀頃からイスラーム勢力の侵入が激しくなってきますが、このような財貨の略奪を目的とした遠征は当時としても珍しいことではなかったようです。

 

しかしインドへの遠征の中でバーブルはその豊かさに驚き、次第にインドを拠点とした建国を目指すようになります。徐々に力を増したバーブルは、当時の北インドのイスラーム勢力の内部抗争を好機とみて本格的な侵攻へ向かいます。1526年、第6次の遠征で、バーブルはデリーから北西に約90kmのパーニ―パットにてローディー朝を破り、デリー・アグラヘ入城。ここから、単なる略奪ではなく、インドに拠点を置いての本格的な支配へと移行していきます。

 

第一次パーニーパットの戦い
第一次パーニーパットの戦い(画像出典:パーニーパット県公式Webサイト)

 

若くから各地を転々とし建国の野望を秘めていたバーブルは、43歳にしてようやくムガル帝国の建立に至りました。「ムガル」とは、ペルシャ語でモンゴルを意味する語が変化したもの。バーブルがティムールの子孫であり、モンゴル系の血統を継いでいることに由来しています。実際はムガル帝国という名は自称していたものではなく、自称としてはヒンドゥスターン(ペルシャ語で「インダス川の土地」を意味)と名乗っていたようです。

 

当初はデリーとアグラ周辺を支配する小国に過ぎなかったムガル帝国ですが、バーブルは息子で後に第2代ムガル皇帝となるフマユーンとともに、ガンジス川沿いに東方のビハール、そしてベンガル地方へ遠征を繰り返して勝利を治め、インドでの支配基盤を整えていきました。

 

■バーブルの最期

1530年、病に倒れ遠征から帰ったフマユーンのため、バーブルは自らの命を捧げてフマユーンの回復を祈る儀式を行います。フマユーンは無事回復しますが、それからほどなくした1530年12月26日、バーブルはアグラにてその47年の生涯を閉じました。

 

諸国を遍歴し、ムガル帝国の建立後も僅か4年でその生涯を終えたバーブル。文学と書物を愛し、詩人でもあった彼は、その自伝を『バーブル・ナーマ』(バーブルの書)として書き記しており、まさに波乱万丈の生涯を窺い知ることができます。

 

バーブル・ナーマ
バーブル・ナーマの一部

 

バーブルは、自らの死後は初めて自分が拠点としたアフガニスタンのカーブルに葬ることを遺言として残していました。しかし、バーブル死後の戦乱のためにカーブルへの埋葬は叶わず、まずはヤムナー川沿いのラーム・バーグ庭園に葬られることとなります。バーブルの治世は僅か4年でしたが、このラーム・バーグ庭園はその中でバーブルが命じて建造した数少ない建築物でした。

 

その後、バーブルの棺はカーブルに移され、現在にまで伝えられています。

 

 

バーブルの墓
バーブルの墓(アフガニスタン カーブル)

 

Text by Okada

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