シク教の聖地 アムリトサル①

ナマステ!
今回は、シク教の聖地として知られ、隣国パキスタンとも陸路移動可能ということで世界中から多くの旅人が集まるインド北西部パンジャーブ州の都市アムリトサルと、アムリトサルを聖地とするシク教について紹介します。

 

(デリーからアムリトサルへのアクセスは、フライトで約1時間、もしくは列車で約6時間半。デリーからの週末1泊2日旅の行先として人気です)。

 

Golden Temple
アムリトサルの象徴黄金寺院

 

パキスタンと国境を接しインド北西部に位置するパンジャーブ州。「パンジャーブ」とは「5つの水(川)」を意味しインダス川と4つの支流(ジェラム川、シェナブ川、ラヴィ川、サトレジ川)に囲まれていたことがその名の由来となっています。大河に囲まれていたことから肥沃な土地が広がり、古くから小麦、米などの生産が盛んでした。インドに限らずパキスタン側のパンジャーブに置いても、「穀倉地帯」として有名です。

 

イギリスのインド植民地化が始まってから、最後まで植民地化に抵抗したのがパンジャーブ地方でしたが、シク戦争の結果、パンジャーブ地方はイギリスに併合されることとなります。1947年のインド・パキスタン分離独立の際に、パンジャーブは東西に分割され、人口のほとんどがイスラム教徒である西部は、パキスタンの西パンジャーブ県、ヒンドゥー教徒、シク教徒が多い東側エリアはインドのパンジャーブ州となりました。その後、二言語州であったインドのパンジャーブ州は、パンジャービー語地域をパンジャーブ州、ヒンディー語地域をハリヤーナ州として二分され、それぞれ単一の言語州となりました。

 

パンジャーブ州はインドで唯一、シク教徒が大多数を占める州ですが、そのシク教徒の総本山・黄金寺院があるのがアムリトサルです。アムリトサルはサンスクリット語で「生命の水の貯水池」という意味。人口は約100万人でインドの一都市としては大規模というわけではないですが、シク教徒の巡礼者が年中訪れ、街の中心地は常に賑わっています。また西側に約50キロ行くと、隣国パキスタンの都市ラホールが位置していることもあり、冒頭で紹介したように多くの旅行者も集まっています。

 

黄金寺院
黄金寺院を参拝するシク教徒の人々

 

【シク教とは】

シク教は15世紀インドでグル・ナーナクによって興された宗教です。ナーナクは現在のパキスタンのタルワンディーという農村で、ヒンドゥー教徒の家庭に生まれました。彼は、各地を旅しながらヒンドゥー教、イスラム教双方の教義を受容しつつ真理を追究しました。また同時期の宗教改革者カビールの影響も受けたといわれています。

 

信徒数は現在約2400万人。インドでは人口の2%ほどと少数派になりますが、世界では5番目に信者の多い宗教です。パンジャーブ州には、インド国内のシク教徒の約4分の3の人口がいるとされています。

シク教徒の男性といえば、「豊かな髭とターバン」をイメージする方が多いのではないでしょうか。シク教徒は、宗教的に髪を切ることが許されておりません。長い髪のままでは生活のあらゆるシーンで邪魔になってしまうため、ターバンのなかに髪の毛をまとめるようになりました。

 

 

シク教徒の巡礼者たち
シク教徒
シク教徒の巡礼者

シク教徒の男性には、下記の5項目の約束事があります。これらの5つは、すべて頭文字がKであるため、シク教徒の5Kと呼ばれています。

1  ケーシュ (Kes) 髪(体毛)を切らないこと
2 キルパン (Kirpan)  短剣
3 カンガー(Kengha) 木製の櫛
4 カラー(Kara)   鉄の腕輪
5 カッチュ(Kachhu) 綿の短パン

 

一般的なターバンの長さは6mほどです。シク教徒の男性は大変お洒落な方が多く、その日のターバンの色に合わせて、シャツ、ネクタイもコーディネートしています(もしくはシャツに合わせてターバンの色を選ぶことも)。
ちなみに最近では、ターバンを着用していない若い方も多いです。理由は暑い、重い、等々。確かに夏は蒸れて大変そうです。

 

Sikh
ターバンの布サンプル。
ターバンを広げるとお店の中から外まで余裕で届く長さ!

シク教は、成立時に裕福で教育水準の高い層の帰依が多かったことから、成立後長らく社会的にも活躍する人材を多く輩出してきました。職務等で海外に渡航するインド人にシク教徒が多く、頭にターバンを巻いたスタイルがインド人のイメージとして海外で広まったと言われています。

インドに実際来てみると、「ターバンを巻いた人が意外といない?」と思う方も多いと思います(私もそうでした…)。それもそのはず、実際にターバンを巻いて生活しているのは、インドに2%しかいないシク教徒で、そのほとんどがパンジャーブ州に集中していますので、パンジャーブ州以外の地域ではあまり見かけません。

 

 

シク教徒の親子
シク教徒の親子。子どもでも髪をまとめて小さなお団子にしています

 

「ターバンを巻いたインド人」というイメージ通りの人々に出会えるアムリトサル。現地でターバンを購入し、観光をしてみるのもお勧めです。次の記事ではアムリトサルの見どころをより詳しくご案内します!

 

カテゴリ:■インド北部 , アムリトサル , インド・パキスタン国境 , パンジャーブ州
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デリー イスラム王朝の3つの世界遺産

Namaste!! 西遊インディアの岡田です。
今回はインドの首都・デリーで見ることのできる3つの世界遺産をご紹介します。

 

India Gate
第一次世界大戦や第三次アフガン戦争で戦死した兵士たちの慰霊碑であるインド門。現在はデリーのランドマークでありたくさんの方が写真スポットとして訪れます
CP
デリー中心部、コンノート・プレイス周辺。休日・平日の区別なく常にたくさんの人が往来しているエリアです。 デリー市内はたくさんの木々が植えられており緑あふれる都市です。

 

デリーはヒンドゥー教の2大叙事詩の一つ、マハーバーラタでも登場する歴史の深い都市。ヤムナー川河畔の肥沃な土地で、イスラム勢力の到達以前より、ヒンドゥー諸勢力の王都として利用されてきました。

 

12世紀以降はイスラームによる征服を受け、16世紀以降はムガル帝国の支配下となり、19世紀末以降は1947年の独立までイギリスの占領下におかれます。イギリスは当初コルカタに植民地支配の拠点を置いていましたが、コルカタでインドの民族運動が隆盛したこと、そしてインド全土の拠点とするためにはあまりにも東に位置していることから、デリーが1911年にイギリス領インドの首都となりました。

 

デリーの3つの世界遺産はいずれもイスラーム時代に建設されたものです。クトゥブ・ミナールは13世紀の奴隷王朝、フマユーン廟とラール・キラーはムガル帝国時代にそれぞれ建設され、現在まで非常に良好な状態で保存されています。

 

 

■クトゥブ・ミーナール

奴隷王朝の創始者:クトゥブッディン・アイバクがイスラム王朝のヒンドゥー教王朝への勝利を記念して建てた塔。ミーナールはイスラム教のミナレットを指し、「クトゥブッディン・アイバクのミナレット」という意味となります。

 

インド最大のミナレットとして知られますが、本来のイスラムにおけるミナレットとは違い記念塔としての意味を持つものです。クトゥブ・ミナールはイスラームによるインド支配を示すその象徴として建設されており、そのためにもともと存在していたヒンドゥー教寺院を破壊し、建設にはその石材が利用されています。

 

クトゥブ・ミナール
クトゥブ・ミナール

 

塔は高さ72.5mの5層から構成されており、公園内から見上げた姿は圧巻。近づいてよく見ると外面はコーランの文章を図案化した彫刻で装飾されており、繊細な美しさにまた驚かされます。

 

クトゥブ・ミナールの壁面装飾
クトゥブ・ミナールの壁面装飾

 

塔の周りには破壊されたヒンドゥー教寺院の跡が残るほか、この塔よりさらに巨大な塔を建てようとした跡が残されています。アライ・ミーナールと呼ばれるこの塔は建設に着手した後に資金不足等が原因で放棄されてしまい、現在見ることができるのはその巨大な基壇のみです。

 

アライ・ミーナールの基壇
アライ・ミーナールの基壇

 

また園内のもうひとつの名所が「デリーの鉄柱」と呼ばれるグプタ朝時代の3~4世紀に建立された鉄柱。建立から約1500以上を経ているにも関わらず錆びていない鉄柱として知られていますが、なぜ錆びが生じないのかは現在でも判明していないというミステリアスな遺物です。

 

デリーの鉄柱
デリーの鉄柱

 

■フマユーン廟

ムガル帝国第2代皇帝:フマユーンの霊廟。1530年に2代目皇帝となったフマユーンですが、1540年にはアフガン系のシェール・ハンにデリーを奪われシンド地方、またその後にイランへと逃れます。亡命生活の中でイラン系のハミーダ・バーヌー・ベーグムと結婚し、後の第3代皇帝、賢帝として知られるアクバルが生まれています。

 

フマユーン廟外観
フマユーン廟外観

シェール・ハンの死後フマユーンはインド方面へ進軍を続け、1555年に遂にデリーを奪還。しかしその翌年、礼拝に向かう途中の階段で転倒した際の怪我であっけなく亡くなってしまいます。その後、1565年に彼の妻ハミーダ・バーヌー・ベーグムの命によって廟の建設が始まりました。

 

廟の天井装飾
廟の天井装飾

廟はムガル帝国最初のペルシャ系イスラム建築様式の墓廟であり、赤砂岩と白い大理石で建設されています。赤砂岩は権力を、白大理石は清浄さを表すものとしてムガル帝国時代のインド建築では権力者に好まれた素材です。特にシャー・ジャハーンはこれを好み、亡くなった妻:ムムターズのために総白大理石製の白亜の宮殿:タージマハルを建設したことはよく知られています。

前後左右どこから見ても同じ形を見せるフマユーン廟の美しい廟建築は、後にタージ・マハルの建築様式にも影響を与えたといわれています。

 

 

■赤い城:ラール・キラー

ディワニ・アーム
ディワ―ネ・アーム(一般謁見所)

ムガル帝国第5代皇帝:シャー・ジャハーンがアグラからデリーヘと遷都して造営した要塞。新たな都は彼の名をとって「シャージャハナバード」と呼ばれ、これが現在のオールドデリーの基礎となっています。赤砂岩でできているため、ラール(=赤い)・キラー(=城)と呼ばれており、強固な外壁の印象とは対照的に、内部には華麗な装飾の施された豪華な建築が並んでいます。

 

 

シャー・ジャハーンはタージ・マハルを建設した皇帝。園内には彼の妻ムムターズ・マハルの暮らした宮殿をはじめ、かつては数々の宝石で飾られた「孔雀の玉座」を擁する謁見の間など、数々の美しい建築群が立ち並んでいます。

 

左からディワニ・カース(来賓用謁見所)、カース・マハル(ムムターズ宮殿)、ラング・マハル(ハーレム)
白大理石の建築群。左からディワーネ・カース(来賓用謁見所)、カース・マハル(ムムターズ宮殿)、ラング・マハル(ハーレム)

 

ディワニ・カースの内部装飾
ディワーネ・カースの内部装飾

タージ・マハルをはじめとする建築による巨額の出費、また版図拡大やマラーター同盟との戦闘などによりムガル帝国はその力を失い、第6代皇帝アウラングゼーブの死後は急激に弱体化していきます。広大だった支配領域もデリー周辺に限られたものとなり、近隣の王国やイギリスの侵略によって皇帝の権威も名目的なものとなっていきました。

 

1857年のセポイの反乱の際にはムガル帝国皇帝を擁立してインドの諸勢力が挙兵しますが、英軍の圧倒的な軍事力によって制圧され、最後の皇帝:バハドゥール・シャー2世の追放をもってムガル帝国は解体されました。その後はイギリス領インドとしての歴史を歩んでいきます。

 

 

当時は、ここラールキラーはムガル文化の中心地として様々な芸術、文学が栄えました。現在は、一部が軍施設として利用されていますが、ほとんどは美しく整備され広い庭は市民の憩いの場所になっています。

また、毎年8月15日の独立記念日はラールキラーにて首相演説が行われ、1月26日の共和国記念日にはパレードが行われる等、国家規模の主要な行事の舞台となっています。

 

 

今回、デリーの世界遺産3か所を紹介しましたが、歴史的建造物以外にもデリーには見どころが盛りだくさん。その内容はまた追ってご紹介させていただきます!

 

カテゴリ:■インド北部
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ホテル グレリア・コティ<バラナシ>紹介と路地裏散策

Namaste!!
バラナシの街の見どころ紹介が続きましたので、この流れでバラナシのお勧めホテルをご紹介します。

 

前回: バラナシ② ガンガーのガート群 / 仏教聖地サールナート

 

Guleria Kothi
グレリア・コティ

■Guleria Kothi Hotel

 

バラナシの旧市街にあるヘリテージタイプのホテルです。

皆様ご存知かとは存じますが、ガンジス川沿いには84ものガード(沐浴場)が存在しております。その中心的存在でいつも多くの人で賑わっているガートが、ダシャシュワメード・ガート(Dashashwamedh Ghat)。旧市街エリアで一番大きな交差点であるゴードリヤー(Godowlia)からガンジス川に向かって真っすぐ歩けば着くので、バラナシは初訪問という方にも行き着きやすく、散策の際の目印になるような場所です。そのダシャシュワメード・ガードより川沿いに徒歩15分程歩くと、ガネーシュマンディル・ガート(Ganesh Mandir Ghat)が出現しますが、その直ぐそばに建つヘリテージ風ホテルが今回紹介するグレリア・コティホテルです。
(他にもガンガー沿いに建つヘリテージホテルはございますが、このグレリア・コティは、最近リノベーションが完了しましたのでお部屋内はとても綺麗で近代的。また宿泊料金も他のヘリテージホテルに比べややリーズナブルと大変おすすめです)。

 

Guleria Kothi
夜はライトアップされます

このホテルは、もともと18世紀に地元の有力者の邸宅として建てられました。バラナシ旧市街には古めかしい建物が多いものの18世紀の建物はほとんど現存しておらず、大変貴重です。

外壁や柱にはウッタルプラデーシュ州チュナールから切り出した砂岩が使われていいます。このチュナールの砂岩は、赤みがった色をしておりきめが細かく、大変丈夫な石として、アショーカ王の石柱をはじめとするインドの古い文化遺産にも広く使われています。

 

Guleria Kothi
レセプション近く。中は広々、というわけではないですが選ばれた調度品がセンス良く配置されています
Guleria Kothi
お部屋の一例。グレリア・コティは全てのお部屋がダブルベッド仕様です

ホテルの内部は大変雰囲気が良く、内装や調度品も可愛くて素敵です。全室がガンガー・ビューというわけではないですが、ホテルの前庭のカフェ、屋上からはガンジス川がばっちりご覧いただけるばかりか、耳を澄ませば川が流れる音、波立った川の水が岸にやさしく打ち付ける音が聞こえてきます。

ガートの傍なのでホテルの前の通りなど、日中はそれなりに人通りはありますが、基本的にはとても静か。夜と朝は本当に、驚くほどの静寂です。

 

Guleria Kothi
ホテルの前庭のカフェ。川まではやや階段で高低差が設けられているものの、まさにガンジス川の傍! ここで飲むコーヒーは最高です。

ガード巡りのお散歩、旧市街巡り、また早朝のボート遊覧へのアクセスもこちらのホテルでしたらばっちり。時間いっぱいバラナシをお楽しみいただけます。

 

Varanasi
くつろぐ牛をよけながら散策

特に旧市街散策へはホテルの横の道を入っていけば、意図せずとも迷路のような裏路地の散策が楽しめます。バラナシの旧市街エリアは牛や猿、野犬がうろうろとしている他、狭い路地を無理やり走るオートリキシャ、走り回る地元の子供たち等、散策中は身の回り360度を確認しながら歩かないとなりませんが(特に所々に落ちている牛のフンには要注意です)、皆さまがイメージする「これぞインド!」という風景がここにあるのではないかと思います。

 

Varanasi
バラナシ旧市街を散策
Varanasi
歩き疲れたら路面にあるお茶屋さんにて休憩

グレリア・コティは全部で15室と限られており、シーズン中は大変混みあい満室ということも少なくありません。ご検討の際はお早めにご相談下さい。

 

インド支店・西遊インディアではバラナシツアーを取り扱っております。
バラナシ1泊2日

 

Text,Photo : Hashimoto

 

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インドの宝となった「妻への愛」 タージ・マハル

インドを代表する世界遺産・タージマハル。誰もが一度は目にしたことがあると思います。ムガール帝国の5代皇帝シャー・ジャハーンが亡き妻を偲び1632年に着工し、1653年に完成させた巨大な霊廟です。

 

Taj Mahal
タージマハル

シャー・ジャハーンの寵愛を受けた妻ムムターズ・マハルは彼との間に14人もの子供をもうけ、最後の14人目の息子のお産中に36歳の若さで亡くなりました(ちなみに、ムムターズ・マハルの14人の子供のうち、成人したのは男子4人と女子2人のみでした)。
シャー・ジャハーンは彼女を戦にまで連れて行く愛しようで、一説では彼女の死を悼んで、一晩で黒々とした髪が真っ白になったと言われています。
ムムターズが亡くなった翌年にタージマハルの着工が始まり、ラジャスタン地方から約10,000頭もの象で運んだ白大理石、世界各地から運んだ数々の宝石。建設にかかった費用は明らかではありませんが、国の財政を傾けるほどだったと言われています。

 

Taj Mahal
タージマハル 中央

白大理石の壁面は赤サンゴやオニキス、ひすいなどを用いて装飾されています。下から見上げると太陽光を反射した宝石がきらきらと光り大変美しいです。

 

タージマハル完成からわずか4年後、シャー・ジャハーンは病床に臥します。その後、息子たちの間で皇位継承の争いが行われ、勝ち取ったのは第3皇子アウラングゼーブ。彼は成人した兄弟全てを殺害し、その座を奪取しました。
更には実父のシャー・ジャハーンを1658年、タージマハルからほど近くに建つアグラ城に幽閉。亡くなるまでの約8年間、シャー・ジャハーンは幽閉された部屋の窓から明けても暮れてもタージマハルを眺め、妻を偲ぶ余生を送ることになりました。

 

Taj Mahal
アグラ城から望むタージマハル

現在、世界遺産に指定されているアグラ城。シャー・ジャハーンが幽閉されていた小部屋(テラス)も見学することができます。ムガール様式のアーチ状の小窓を覗くと、タージマハルとその傍をゆっくり流れるヤムナー川の風景。シャー・ジャハーンの時代から変わっていないだろうこの風景は、王の悲しみと王妃への強い気持ちを今も伝えてきます。

 

ちなみにタージマハルは、 2015年秋より大規模な修復&クリーニング作業が行われ、ドーム、ミナレット(尖塔)の周りに木組みの作業台が設置されている状態が約4年程続いていました。現在はほぼ完了しておりますので、大気汚染等の影響を受けやや黄ばんでいたタージマハルは今は白くピカピカです。

 

Taj Mahal

 

夕方のタージマハルもおすすめ。こちらは、ヤムナー川を挟んでタージマハルの反対側に位置するマターブ・バーグからの撮影です。夕刻はタージマハルがピンク色に染まります。マターブ・バーグはもともとはシャー・ジャハーン自身の墓・「黒いタージ」の建設予定地でした。三男に皇帝の座を奪われてしまったことで実現には至りませんでしたが、現在は庭園として整備され憩いの場所となっております。

 

Taj Mahal
夕方、マターブ・バーグから眺めるタージマハル

現在、タージマハルには観光シーズンの週末ですと1日6~7万人程が訪れています。今後政府は混雑緩和と施設保護の観点から、1人当たりの観覧時間を最長3時間、インド国民の入場者数を1日4万人に制限することを発表しました(外国人観光客にはこの制限は適用されません)。

 

インドを代表する遺産であり、ムガール帝国時代の栄華を象徴するタージマハル。時間帯によってもその見え方、輝き方が異なります。ぜひ一度と言わず何度か足を運んでいただきたいです。

 

Taj Mahal

 

※この記事は2012年1月のものを修正・加筆して再アップしたものです。

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