インドの商業と娯楽の中心地:ムンバイ

ナマステ!

 

西遊インディアの岡田です。今回はインド最大の都市・ムンバイの歴史と主要な観光地をご紹介いたします。

古くは16世紀からポルトガル、そしてその後はイギリスの植民地として外へ開かれ、自由な空気の漂うコスモポリタンとして巨大都市へ成長してきたムンバイ。現在はインドのビジネスの中心地として、また西インドの観光の拠点としても国内外から多くの人々が訪れます。

 

2011年の国勢調査では、ムンバイ市の人口は約1,250万。隣接するムンバイ新市街として建設されたナビムンバイやムンバイの衛星都市として発展してきたターネーも含めると、都市圏人口は、約2,300万人となります。まさに、アジアを代表する巨大都市。ムンバイの街中は常に人が溢れており、活気が溢れ、並々ならぬパワーを感じることができます。

 

また、ムンバイはインド映画の中心地・ボリウッドとしても有名です。アメリカの映画産業の中心地・ハリウッドのインド版として、「Bombay」の頭文字「B」をとりボリウッドと呼ばれています。年間2000本近くの映画が撮影されているインド映画界を牽引する存在です。

 

現在は一大都市となっているムンバイですが、かつては小さな漁村でした。16世紀、当時のスルタンより7つの島々を獲得したポルトガルはこの地に要塞と教会を建て、ポルトガル語で「良い港」を意味するボンバイアと名付けました。後にポルトガルは1661年にポルトガル王女とイギリスの王子の婚姻の際に贈り物としてこの地をイギリスへと委譲。東のコルカタ・西のボンベイ(ボンバイアは英語名でボンベイと表された)を拠点にインド支配を着実に進めていったイギリスは、国内に張り巡らせた鉄道網で各地の産品をボンベイへ送って集め、スエズ運河を通してヨーロッパへ輸出していきました。これにより、イギリスはさらにインドでの支配力を増していきました。

 

1900年代に入り、インドの反イギリス支配の声が大きくなり始めた頃、ムンバイではインド独立運動が盛んに行われました。インド建国の父マハトマ・ガンディーも頻繁に訪れ「クイット・インディア(インドを立ち去れ)」運動が繰り広げられました。

インドの分離独立後は、ムンバイはグジャラートのエリア一帯も含むボンベイ州の州都となりましたが、後に言語の違いによりさらにムンバイ州がグジャラート州とマハーラーシュトラ州に分割され、マハーラーシュトラ州の州都となりました。州都の公式名称がボンベイからマラーティー語のムンバイと変更されたのは、1996年のことです。

ムンバイは植民地時代から、インド国内外の貿易拠点としてお金が集まり、そのお金を目指して人間が集まり、徐々に巨大都市へと発展していきました。現代でもその流れは止まらず、多くの人が地方から職を求めてムンバイへやってきています。

 

それでは、ムンバイの見どころを簡単にご紹介します。

 

■チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅

 

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チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅外観

インド貿易の要となった鉄道網ですが、そのアラビア海側の終着駅がヴィクトリア・ターミナス駅です。もともとは当時のヴィクトリア女王に因んでこの名がつけられましたが、現1988年に現:チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅に改称されました。ヴィクトリアン・ゴシック様式を基本としつつ、尖塔に代わってドーム屋根を使用し、各所にアーチを施す等インド的・オリエンタルな要素で装飾されているのが特徴です。イギリス植民地時代のインドの代表的な建築物の一つです。

新名称として採用された「チャトラパティ・シバージー」は、ムガル帝国、そしてイギリスに抵抗してマラーター同盟を結成した17世紀の英雄:シヴァージーの名をとったもの。チャトラパティは王の称号を意味します。インド独立運動の際にも反英運動の一つの象徴として人気を持ち、勇敢な「戦うヒンドゥー教徒」として、各地にその像が建立されています。

1887年に完成した駅舎は現在でも利用され、インド国内でも最大級の乗降者数を誇っています。駅の目の前の交差点には写真撮影用のスペースが確保されており、駅舎を眺めることができます。

 

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駅のすぐ横に建つムンバイ市庁舎

■エレファンタ島石窟寺院

 

エレファンタ島の3面のシヴァ神像
エレファンタ島の3面のシヴァ神像

ムンバイの一大観光/巡礼の名所となるのがエレファンタ島の石窟寺院群です。6~8世紀に開窟されたこの石窟群にはもともと複数の石窟が開かれたものの、16世紀にポルトガル人によって発見された際に多くが破壊されてしまい、現在一般に公開されているのは第1窟のみとなっています。

 

エレファンタ島、第1窟の外観
エレファンタ島、第1窟の外観

 

エレファンタ島、第1窟の内部
エレファンタ島、第1窟の内部

第1窟はエレファンタ島最大の石窟寺院で、シヴァ神を祀るための寺院です。内部には中心部のシヴァリンガを囲むように回廊が設けられており、壁には様々なシヴァ神話のシーンが見事なレリーフで表されています。パールヴァティをはじめとするシヴァの親族、またヴィシュヌやブラフマーなど他の主神も登場しますが、やはりシヴァとパールヴァティが主役となるシヴァ派ヒンドゥー教の世界観を生で感じることができる場所です。

 

エレファンタ島 核心部のシヴァリンガ
エレファンタ島 核心部のシヴァリンガ

 

■インド門

エレファンタ島へのボートの発着地となるのがインド門です。かつて1911年にイギリス国王ジョージ5世夫妻の来印を記念して建立され、その後1924年に完成しています。玄武岩製、高さ26mのインド門は当時はイギリス帝国の権威と権力の象徴でしたが、現在ではムンバイ市のシンボルとなっています。

 

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インド門
インド門広場に面して建つタージ・マハル・ホテル
インド門広場に面して建つタージ・マハル・ホテル

 

海から見たタージマハルホテルとインド門。手前にはエレファンタ島行の船が見えています。
海から見たタージマハルホテルとインド門。手前にはエレファンタ島行の船

インドの伝統的な家庭では男性が外に出てお金を稼ぎ、女性が家庭内の仕事を行いますが、ムンバイでは女性の就労率が国内の他の都市と比べて比較的高く、現市長も女性のキショリ・ペドネカール氏が就任するなど女性の社会進出も進んでいます。一方で格差の拡大や人口の過集中など、他の大都市が抱える問題も同様に抱えており、スラム街を見下ろすように聳える高層ビル群は格差社会を象徴するような風景です。スラムの住人は主に漁業を生業とする人々でしたが、現在では職を求めてムンバイへ移住してきた出稼ぎの労働者等が、家賃の安いスラムでの生活を始めることが多いそうです。

 

また、映画の街ボリウッドとしても名高いムンバイは様々なインド映画のロケ地となっています。ムンバイに暮らす様々な境遇を生きる男女4人の姿を描いた映画「ムンバイ・ダイアリーズ」(2011年)では全てのロケがムンバイ市内で行われており、ムンバイの雰囲気、またインド人にとってのムンバイのイメージを存分に感じることができる一作です。またこちらはインド映画ではありませんが、ムンバイのスラム出身の少年を主人公とした「スラムドッグ$ミリオネア」(2008年)は、アカデミー賞はじめ数々の映画賞を受賞し日本でも大きな話題となりました。

 

インドの伝統と自由な思想が大都市の中で混ざり合うムンバイ。
世界遺産のより詳細なご案内や他の見どころについては、また別の記事でも紹介いたします。

 

 

 

カテゴリ:■インド西部 , インドの世界遺産 , インドの街紹介 , ムンバイ
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インドの紅茶の歴史とマサラチャイ

ナマステ!
現在、インドの土産物と言えば紅茶、というほどインドを代表する特産物になっている紅茶ですが、インドでの紅茶の栽培や流通の歴史は、意外なことにそこまで古くなく、比較的新しいものです。

今回はインドにおける紅茶栽培へと至る道のりと、マサラチャイへの発展の歴史をご紹介していきます。

 

土産物屋で売られる紅茶
土産物屋で売られる紅茶

■茶がヨーロッパへ至るまで

茶は中国南西部の雲南省からミャンマー、チベット高原当たりの山岳部に自生していたものが原産で、中国では有史以前から薬として飲用されていました。その後、6世紀頃から飲み物として一般化していきます。朝鮮半島や日本には古くから伝わっていたものの、ヨーロッパへと伝わるのは17世紀頃になってからでした。

 

中国雲南省 ペー族の三道茶
中国雲南省 ペー族の三道茶

初めてヨーロッパへ運ばれた茶は、1610年にオランダ船によって長崎からアムステルダムへ運ばれた茶と言われています。このころのオランダは中国やインドネシア等のいわゆる「東洋貿易」において支配的な立場にあり、始めはオランダ東インド会社によって日本や中国の茶がヨーロッパへ運ばれました。イギリスはオランダを経由して茶を輸入していました。

 

特に西ヨーロッパではそもそも水が硬水であって飲用に適さず、都市で清潔な水を入手することが困難だったため、生水を飲むということがほとんどなく、食事以外では喉を潤すためにビールやワインなどのアルコール、また牛乳などが飲用されてきました。17世紀に入って国内に茶が流通し始めると、まずは非常に高価な輸入品の「東洋の秘薬」として飲用されるようになります。その後、高価な茶に同じく高価な砂糖を入れて飲むのが貴族層の間で流行し、17世紀後半から喫茶習慣が根付き始めます。

 

この頃、ヨーロッパでは茶に少し先行する形でコーヒーの飲用が始まっていました。17世紀後半から各地にコーヒーハウスが生まれており、紅茶もここで一般に飲まれるようになっていきます。イギリス国内での需要に伴い、イギリスは中国から大量の茶を輸入することになりますが、これを自国の植民地で賄うためにインドでの茶栽培が始まっていきます。

 

収穫を控えた茶葉
収穫を控えた茶葉

 

■インドでの紅茶栽培の始まり

従来、中国以外での栽培は難しいとされていた茶ですが、1823年にイギリス人冒険家ブルースによって北東部のアッサム州で自生種が発見され、「アッサム種」として品種改良が始まります。イギリス国内でも高い評価を受けたアッサム茶はインド国内でも栽培が拡大され、また1841年にはダージリン地方で中国種の栽培が始まります。1845年には緑茶と紅茶の違いは製法の違いにあり、原料となる茶葉は同じ樹種であることが発見され、中国種とアッサム種の交配からさらに品種改良が進み、インドで研究された紅茶栽培法は同じくイギリスの影響下にあったスリランカやバングラデシュで適用されていきます。

 

茶摘み風景(インド:ダージリン)
茶摘み風景(インド:ダージリン)

 

茶摘み風景(インド:ダージリン)
茶摘み風景(インド:ダージリン)

 

茶摘み風景(スリランカ:ヌワラエリヤ)
茶摘み風景(スリランカ:ヌワラエリヤ)

 

■マサラチャイの誕生

一般的にインドでは、チャイと言えば茶葉を濃く煮出し牛乳と砂糖を入れたミルクティーを差し、それにさらにジンジャー、カルダモン、シナモン等のスパイスも加え一緒に煮出したものをマサラチャイと言います(ちなみにヒンディー語での発音ではチャーエです。また、チャイとマサラチャイを特に区別せずに、スパイス込みでもチャイということもあります)。

 

現在では「インドといえばチャイ」と言っていいほど国民的な飲み物になったチャイですが、そこに行き着くまでにはちょっとした歴史があります。
インドで茶葉の栽培が始まったころ、紅茶はイギリス国内では高価な嗜好品でした。そのため、インド国内で作られた紅茶も高品質なものはヨーロッパへ輸出していましたが、低品質な茶葉やブロークン、ダストと呼ばれる砕けて粉末状になった茶葉などは、輸送コストを抑えるためにもインド国内での消費を生む必要がありました。

イギリスは当初はこれらの茶葉をストレートで煮出したものを普及させようとしましたが、あまりにも苦みが強く受け入れられませんでした。植民地内での需要を生むために色々と試し、またインド人のアレンジが加わった結果、スパイスと牛乳と砂糖で濃く煮出したマサラチャイが生まれました。これもすぐに受け入れられた訳ではありませんでしたが、もともとインドではスパイスを湯や乳で煎じて飲む習慣があり、それを紅茶と砂糖で風味付けした飲みやすいものとしてインド国内で徐々に習慣化されていきました。

 

チャイ
レストランのチャイ

その後、チャイ(マサラチャイ)が一般にも急速にに普及していきますが、そのきっかけとなるのがCTC製法の確立です。

CTCとは、Crush(砕く)・Tear(裂く)・Curl(丸める)の3段階の製造工程の頭文字をとった製法名です。収穫後茶葉を押しつぶし、細かく引き裂いてから、丸めて粒状へと加工します。短時間でしっかりとした茶葉の味を抽出できるように開発された、現在最も世界で生産量が多い製法です。ティーバック用、またはアッサム茶葉、ケニア茶葉用に広く取り入れられています。茶葉の粒のサイズは目的によって砂のように細かいものから数ミリ程度の粒まで調節することができます。

 

インドのチャイにはこのCTC製の茶葉がぴったり合います。牛乳や砂糖、スパイスに負けない強い紅茶の香りを簡単に出せるようになったことで、マサラチャイの人気は広まり、インド(特に北インド)の一般的な飲み物となっていきます。

 

観光客や旅行者、インドの富裕層を中心にストレートティーも飲まれていますが、現在では庶民の飲み物と言えば何といってもマサラチャイです。街のどこでもマサラチャイの売り子や屋台を見ることができ、今や生活に欠かせないものとなっています。オフィスで働いていても午前に1回、午後に1回のチャイブレイクタイムが設けられ、チャーエ・ワーラー(お茶売りの男性)が登場します。

 

路上のチャイ屋台(バラナシ)
路上のチャイ屋台(バラナシ)では素焼きのカップが使われているところも。飲み終わったカップはそのまま土に還るエコなシステム

チャイの基本材料は牛乳・紅茶・スパイスですが、砂糖の有無の他、それぞれの分量やスパイスの種類などは自由に組み合わせ可能ですので、各家庭や店ごとに異なる味わいを見せています。

 

インドのマサラチャイ、最初に飲んだ時はその甘さにびっくりしたものですが、毎日飲むうちに今では深く煮出された茶葉の味と甘さが逆に落ち着く様になりました。

 

旅行中でも、チャイ屋で沸騰させて煮出した熱々がもらえるため、屋台のものでも安心して飲むことができます。インドの愉しみとして、ほっと一息つけるチャイをぜひ各地で飲んでみてください。

 

Text by Okada

 

 

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南国ケーララでハウスボートクルージング①

ナマステ!

インド西南部に位置するケーララ州(Kerala)。皆様はどのようなイメージをお持ちでしょうか。ケーララ州へは日本からの直行便がないため、あまり馴染みがないかもしれませんが、アーユルベーダ発祥の地として、あるいは南インド料理のレストランなどで、耳にされたことがあるかもしれません。

 

ケーララはアラビア海と西ガーツ山脈に挟まれた縦に細長い州です。その独特な気候・地形が齎す、水と緑豊かな大自然、そして南国的な暖かく穏やかな空気は、人々を魅了し、「楽園」 「桃源郷」などと形容されてきました。

 

魅力たっぷりのケーララ。実際に訪問した際のレポートも交えつつ、数回に渡ってご案内していきたいと思います。

まずは、ケーララの旅行と言えば欠かせない、バックウォータークルーズについてです。

 

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水郷地帯を行くハウスボート
Kerala
ハウスボートに乗船!

バックウォーターとは、湖や川などの下流の水位が上がり、下流から上流に向かって水が逆流する現象のことを言います。

ケーララ州の海岸線、特に港町・コーチン(Kochi)の南側では無数の川と入り江が網目のように入り組んでおり、このバックウォーターエリアが広がっています。

 

ケーララは古くから香辛料の産地、集積地として知られ、かつてはこの水路を利用し、ボートにて香辛料をアラブやヨーロッパへと輸出していました。

 

現在では、そのバックウォーター(水郷地帯)のヤシの木が生い茂る美しい風景を、ボートに乗ってゆったりと楽しむ「バックウォータークルーズ」が旅行者の間で人気となっています。

 

 

クルーズには、いくつかタイプがあります。大きなボートに混載で乗るタイプ、ハネムーンボートと呼ばれる貸切りハウスボート、小舟で船頭が漕ぐタイプなどです。所要時間や利用料金が異なるため、船旅の目的や予算によって選ぶ事が出来ます。

 

今回は貸し切りハウスボート1泊2日のクルーズをご紹介します。

クルーズのスケジュールは次のとおりです。

 

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[1泊2日の場合のハウスボートでのスケジュール]

1日目
12:00    ハウスボートにチェックイン。アレッピーを出発
12:30 昼食
16:00   ティータイム
18:30 夕食

 

2日目
07:00 朝食
09:00 アレッピー到着。ハウスボートをチェックアウト

 

⛴ ⛴ ⛴ ⛴ ⛴

 

※貸し切りハウスボートの場合は、食事のタイミングなど若干の変更は可能です。

 

ハウスボートの発着地はいくつかありますが、今回はアレッピー(Alleppy) という村発着です。アレッピーはコーチン空港から約80km、車で約2時間の位置にあります。

フォートコーチンエリアからですと1時間半ほど。到着が早すぎるとチェックインできず、待つことになるため、早くても船着き場に11時半ごろの到着を目安にすると良いかと思います。

 

ケーララのハウスボートは、一つのボートに客室が1~3室(トイレ、シャワー付き)、ダイニング&サロンが付いています。貸し切りでご予約の場合、人数にあったボートのご用意となります。

 

今回乗船したのはXandariのハウスボート。ラグジュアリークラスのハウスボートです。

船着き場に到着後、オフィスに立ち寄り、チェックインの手続きを行います。ホテルのチェックイン手続きと同様、パスポートの提示とフォーマットへの記入があります。手続きが完了すると、いよいよ乗船です。乗船後、ウェルカムドリンクのサービスがありました!

 

フレッシュココナッツウォーターです。
こちらを飲みながら、昼食まで少々休憩。

 

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ウェルカムドリンク

お部屋はこのような感じです。アンティーク調の家具などこだわりが見え、「動くブティックホテル」のよう。

コンパクトな造りですが、最低限の設備は整っており、清潔感もあるので申し分ないです。

 

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ラグジュアリークラスのボートの客室内(Xandari のWEBページより)
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Xandariボートではないですが、ラグジュアリークラスのボートのバスルーム例

 

ハウスボートのデザイン、内装や設備(エアコンの有無含む)は、ハウスボートのカテゴリー、またはボートの新旧によって異なります。もちろん全てのカテゴリーのボートで、トイレ・シャワーは各個室毎に完備されております。

お気を付けいただきたいのは、シャワーについて。こちらは全てのクラスで温水でないことが多いです。ただケララの気温は年中30度~35度前後ととても温かく、個人的には温水シャワーはなくても大丈夫でした。温水シャワーがない場合でも、スタッフがキッチンでお湯を沸かし、配ってくれるので、(手酌にはなりますが)お湯を浴びられます。

 

(※ハウスボートは、クラスの指定は予約時に可能ですが、実際のボートの割り振りは出発の直前となるため、事前に設備面も含めたボートの確約はできません)。

 

 

昼食は南インドの定食ミールス。
(※バナナリーフでのミールスは事前予約が必要です)。

 

ハウスボート専属のコックさんが準備してくれます。ミールスは基本的におかわり自由です。野菜たっぷりでヘルシーな南インド料理を思う存分楽しめます!

辛さはご希望に応じて調節可能なので、辛い物が苦手な方や、ご家族での旅行の場合も助かります。

 

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大きなバナナの葉
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バナナの葉のお皿にたくさんのカレーとライスを盛ってくれます
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ケーララのライスは丸っこいかたちをしています

 

昼食後は自由時間です。心地よい風に吹かれながら、ゆったりと移り行く南国的な景色、そして人々の生活風景を眺めていると自然と時間が経っていきます。

 

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ボートからの風景。ボート移動中は風がとっても気持ち良いです!
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デッキから

途中、フィッシュマーケットへ寄り、夕食用に海老を購入しました(通常メニューには含まれていないので、実費を支払います。お好きなシーフードをお好きなだけどうぞ!)。

購入した海老等は、コックさんに希望を伝えて、夕食時に調理してもらいます。

 

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新鮮なシーフードを購入

味付けは、何も言わないとスパイスをかけられ、漏れなくカレー風味になってしまいますので要注意です!

シンプルに味わいたい方は、忘れずにコックさんにノーマサラ(No Masala) とお伝えください。

 

16時頃、ティータイム。
風景をのんびり楽しみながらいただくチャイは格別でした。

 

17時頃、船を岸に寄せてそのまま停泊。地元の漁業の妨害にならないよう、ハウスボートを動かしてよい時間帯は日の出~日の入りとケーララ州の法律により決まっています。

 

ボートが停まってからは、夕陽を眺めたり、別の船のスタッフたちが釣りをしている姿を眺めたりしました。

また今回の停泊地は少し歩けるスペースがあったので、ボートを降りて散策もしました。※停泊場所はボートやルートにより異なります。

 

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夕刻、ボートを岸に寄せて停まった場所にて釣り
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近くに村があると少し覗かせてもらえることも
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夕陽

夕食は南インド料理+魚屋さんで購入した海老のグリルです!

海老は身が詰まっていてとても美味しかったです。

 

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立派な海老!
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地元の野菜をたっぷり使ったカレー

食後にゆっくりとお茶をいただき、1日目は早めに終了しました。

 

就寝時、ボートは岸辺に打ちつけられるような若干の揺れがありましたが、そこまで気にならず、朝までゆっくり休むことができました。

 

ハウスボート2日目の紹介は次の記事へ続きます!

 

 

Text    : Saiyu India

カテゴリ:■インド南部 , ケーララ州 , バックウォーター
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バラナシ② ガンガーのガート群 / 仏教聖地サールナート

■「ガンジス川で沐浴をすれば、全ての罪が洗い流される」

ヒンドゥー教徒が一度は巡礼を願うガンジス川。特に早朝、朝日に清められた沐浴はさらに効果があると考えられ、多くの巡礼者が早朝の沐浴へ出かけます。旅行者に対しては早朝のガンジス川を巡るボートが用意されており、朝のガンジス川の雰囲気をゆったりと感じながらガートを見学することができます。

 

早朝のボートツアー
夜明け前、ガンジス川をボートにて遊覧
Ganga
ガンジス川対岸より朝日が昇ります
Ghat
早朝のガート

「ガート」は川辺や湖畔などに作られた広場を指し、多くの場合は水位の高低に関わらず利用できるように階段状・テラス状になっています。単純に水辺の作業場を指すこともありますが、特に沐浴の場・またバラナシでは火葬場として利用されています。

 

バラナシには84のガートが並び、その中央に毎晩プジャの行われるダシャーシュワメード・ガートが位置しています。全てのガートはガートは川の流れの西側に位置しており、朝日を浴びながら沐浴をする人々の姿をあちこちで見ることができます。寄進や運営の母体によってさまざまなガートがあり、インド国内外からの巡礼者が訪れています。

 

朝のガート
朝のガート インド全国から集まったヒンドゥー教の巡礼者でいつも大変な賑わい

バラナシで火葬場として利用されているガートはマニカルニカー・ガート、ハリシュチャンドラ・ガートの二つ。火葬のための薪が大量に積み上げられたガートでは、ドームと呼ばれるカーストの専門職能集団が火葬場を運営し、作業にあたっています。バラナシで死を迎え、遺灰をガンジス川に流せば輪廻から解放されるという信仰に基づき多くの人がバラナシでの火葬を望み、死を迎えるためにバラナシを訪れる信者もいます。一般の信者は火葬されますが、子供と出家者はそのまま川へ流されます。

 

聖なる水であるガンジスの水は腐ることがないと言われ、バラナシ土産として水を持って帰る巡礼者の姿も多く見えます。容器としてペットボトルやポリタンクが土産屋に並んでいる風景はバラナシならではのものです。

 

 

■初天法輪の地:サールナート

ダメーク・ストゥーパ
ダメーク・ストゥーパ

ヒンドゥー教の聖地としてのイメージが強いバラナシですが、バラナシ郊外のサールナートは釈尊が悟りを得た後に初めて説法を行った場所「初転法輪の地」として仏教の聖地となっており、ここにも多くの巡礼者が訪れています。

5人の仲間と共に苦行に励んでいた釈尊は苦行という修行の限界を理解し、一人仲間の下を離れてナイランジャラー川での沐浴を行い、近くの村の娘スジャータから乳粥を施されます。その釈尊の姿を見た5人の仲間たち苦行を諦めた釈尊は堕落してしまったと軽蔑しブッダガヤを離れますが、釈尊はブッダガヤの菩提樹の下、「悟りを開くまでここから動かない」と」覚悟を決めて瞑想に入り、遂に悟りを開き、仏陀(目覚めた者)と呼ばれることとなりました。真理を悟ったあと、なぜ彼が布教や説法への道へ向かおうとしたのかという問題は仏教最大の謎とも言われています。ヒンドゥー教的な解釈では最高神のひとつブラフマーが説法でその教えを広めるよう仏陀に勧めたという話が一般に知られていますが…。

 

Mulgandha Kuti Vihar
サールナート内にあるムールガンダ・クティ・テンプルの内壁には、日本人画家・野生司香雪氏作の「仏陀の生涯」が描かれています

仏陀は説法のために共に苦行に励んだ5人の仲間を追い、サールナートにて説法を行います。はじめは理解を示さなかった仲間たちも説法の中で仏陀の教えに導かれ、後に阿羅漢(悟りを得た者)として仏教を広めていく仲間となります。

 

Sarnath
サールナート 鹿公園

 

サールナートは鹿野苑とも呼ばれ、以降の仏教美術の中ではこのサールナートでの初天法輪のモチーフは鹿や法輪をシンボルとして各地に描かれていきます。また紀元前3世紀にはアショカ王がストゥーパを建設し、紀元後6世紀のグプタ朝期に現在の形に増築されました。現在のサールナートは遺跡公園として整備され、併設の博物館に出土品が展示されています。

 

Sarnath
博物館内に安置されている仏陀像(左)と、アショーカ王石柱の頂上に置かれていた四方を向いたライオン像(右)
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バラナシ ①ガンガー神話とプジャ

ナマステ!!

 

西遊インディアの岡田です。インドと言えばヒンドゥー教、ヒンドゥー教と言えばガンジス川、ガンジス川と言えばバラナシ。本日はヒンドゥー教の一大聖地:バラナシの街をご紹介します。

 

ガンガー(ガンジス川)とガート群
ガンガー(ガンジス川)とガート群

日本人にとっても知名度が高く、いつかはバラナシに行ってみたい、という方も多いのではないでしょうか。今回は「バラナシ前編:ガンガー神話とプジャ」としてご紹介します。「ガンガー」はヒンドゥー語での名称、後に英語ではガンジス川と表現されていきます。

バラナシの都市としての歴史は非常に古く、紀元前6世紀頃にはカーシー王国が都をバラナシに置き、ガンジス川中流域の経済・文化的な中心地として発展していました。紀元後5世紀頃のグプタ朝の下では政治的な安定のもとヒンドゥー教・仏教ともに大きく文化的に発展し、その中でバラナシはシヴァ信仰の中心地としての地位を確立していきます。ヒンドゥー教の隆盛に従い以降多くの寺院やガートが整備されていきますが、11世紀以降のイスラム王朝の侵略の結果寺院は徹底的に破壊されてしまいます。

 

しかし16世紀以降、ムガル帝国の凋落期には南部のマラーター同盟による寄進などにより寺院の再建が進み、現代のバラナシのガート群の姿が形作られていきました。現在でも聖地として、インド国内外から多くの巡礼者が訪れます。

 

18世紀前半にバラナシを統治したバルクント・シンの居城:ラームナガル城
18世紀前半にバラナシを統治したバルクント・シンの居城:ラームナガル城

 

■プジャ(礼拝)へ

インド全国から巡礼者が集まるバラナシでは、ガート群の丁度中央にあるダシャーシュワメード・ガートにて毎日プジャ(又はアルティ)と呼ばれる礼拝儀式を行っており、ヒンドゥー教徒以外でも参加することができます。夕刻、ガートにたどり着くと階段にはびっしりと巡礼者が詰めかけて座っており、会場は静かな熱気に満ちています。

 

プジャの会場:ダシャーシュワメード・ガート
プジャの会場:ダシャーシュワメード・ガート

この礼拝ではまず「ガンガーの降下」の神話で知られる聖者バギーラタへの礼拝が捧げられます。バギーラタは祖先の霊を浄化するために天上の聖なる河であったガンジス川を地上へ流そうと苦行に励んだ聖者。苦行の結果、川の女神ガンガーにその願いを認められますが、もしガンガーがそのまま地上へ流れてしまえばその衝撃で世界が壊れてしまい、その衝撃を受け止められるのはシヴァ神のみであると告げられます。

 

シヴァはこれを了承し、自らの髪でガンガーの流れを受け止めることを承諾しました。ついに地上へガンガーが流れるかと思いきや、その衝撃でシヴァに自らの強さを見せつけようと目論んでいたガンガーはその野望をシヴァに見破られ、怒ったシヴァはその髪にガンガーを封じ込めてしまいます。

 

これに困ったバギーラタはさらに苦行を重ね、シヴァの心を開いてようやくガンガーは地上へ流れることとなりました。そのため、今でもシヴァ神の肖像では彼の髪の間からガンガーが流れ出ています。この神話に由来し、プジャではバギーラタ、ガンガー、そして最後にシヴァ神への礼拝が行われます。

 

プジャの儀式
プジャの儀式

プジャの儀式はガートの先端部、川辺の部分で行われます。参加者はガートの階段部に座りますが、川の上のボートから参加している人もいます。団体の観光客の場合はガートに面したテラスから椅子に座って儀式を見ることのできる有料席を利用できる場合もあります。

 

プジャはまず7人の僧の礼拝席にヒンドゥー教のシンボルであるサフラン色のマリーゴールドの花びらを撒くことから始まります。準備が整うと両面太鼓や手押しオルガン、鐘による演奏に合わせて礼拝の祝詞が歌われ、バギーラタ、ガンガー、シヴァの順に3神に対してランプ、香炉、燭台を掲げ、礼拝をおこないます。

 

合計で1時間ほど続くプジャの最中では、会場の参加者が僧侶に合わせて祝詞をあげたり、拍手をしたりという場面もあります。会場が一体となって礼拝に向かう光景はまさに聖地のイメージそのものであり、まさに旅のハイライトにふさわしいような荘厳さを感じさせます。

 

 

 

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