秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

10月中旬に添乗させていただいた「秋の東北スペシャル」の様子をお伝えします。毎日異なる温泉旅館に宿泊し、郷土料理に舌鼓を打つ、まさに温泉三昧の贅沢な山旅でした。

ツアーのポイントは3つ、山・ルート・温泉です。宮城から岩手、秋田、青森へ北上して、東北4県を縦断。百名山5座(岩木山、八甲田山、岩手山、八幡平、早池峰山)に加え、紅葉で名高い栗駒山と秋田駒ケ岳の計7座を一度の旅で効率よく登る事。標高差や地形、植生の変化による紅葉の違いや変化に富んだ山岳景観をより一層楽しめるように、早池峰山を除いた6座は、単純往復ではなく、入下山口の異なる縦走コースを歩く事。質の高い温泉が多い東北の中でも、山の名湯・秘湯として名高い温泉地に宿泊する事です。

栗駒山の紅葉

 

1日目「栗駒山」:くりこま高原駅→いわかがみ平→栗駒山(1,627m)→須川温泉泊

くりこま高原駅を出発し、クネクネ道に揺られながら1時間ほどで、いわかがみ平に到着しました。栗駒山には沢山の登山ルートがありますが、中央ルートと呼ばれる最短ルートで山頂を目指します。岩や石がコンクリートで固められた歩き易い登山道で、人がすれ違えるほどの道幅です。登山道の両側は低木で覆われているため風がなく、ゆっくりゆっくりと一定のゆるい傾斜を登ります。

コンクリートで固められた歩き易い道

1時間ほど登り、コンクリートの道が終わると視界が開け、ビューポイントに到着です。10月初旬にピークを迎える頂上付近の紅葉は終わっているものの、山肌を染める紅葉が美しく広がっています。美しい紅葉におもわず、ため息が出ます。

山肌を染める紅葉

ここから、なだらかな傾斜を経て、木製の階段を登りきると30分ほどで栗駒山の山頂に到着です。

山頂直下の階段

この日は曇り空だったのですが、眼下に展望が広がり、美しい紅葉の景色を楽しむことができました。

山頂からの展望

山頂からは北側の産沼コースを下ります。山頂からは急な下りで、産沼からはゆるやかになり、樹林帯の下りが続きます。赤やオレンジ、黄色に色づいたモミジが見事ですが、産沼からは、ドロドロのぬかるみが続く滑りやすい登山道が続き、苦労しました。石伝いに越えることができましたが、川を渡るところもありました。苔花台(たんかだい)と呼ばれる分岐を越え10分も歩くと名残ヶ原(なごりがはら)という湿原に出ました。

名残ヶ原(なごりがはら)

この周辺は、昔、硫黄採掘場になっていたそうで、地面から湯気が上がっているのが見えました。木道を進むと進行方向正面に須川温泉の建物と源泉の白い湯気、大日岩といわれる大岩が見え、薄暗くなりはじめた頃にようやく須川高原温泉に到着しました。

須川温泉を眼下に

須川高原温泉は、エレベーターもある立派な温泉旅館で、内湯は大・中2つあり、さらに離れの露天風呂は、源泉から直接湯を引いており、とても風情がありました。PH2.2の強酸性のお湯で、お肌がつるつるになりました。

須川高原温泉

2日目「早池峰山」:須川高原温泉→小田越→早池峰山(1,917)→小田越→松川温泉泊

須川温泉から登山口の小田越(おだごえ)までは約3時間の行程です。途中の花巻市は宮沢賢治の出生地で、記念館や彼が教鞭を取った校舎など、宮沢賢治にゆかりのある施設が有名です。大迫(おおはさま)を過ぎて、遠野に続く分岐を曲がり、細い山道に入って登山口へと向かいます。河原坊(かわらのぼう)で携帯トイレの購入とトイレ休憩をし、さらに奥に進み小田越に到着です。

河原坊(かわらのぼう)

まずは、アオモリトドマツの樹林帯の登りが一合目の御門口(ごもんぐち)まで続きます。一合目を越えると森林限界を越え、ハイマツやミネザクラの小低木と蛇紋岩の岩がゴロゴロした岩場の道に変わります。振り返ると点在する紅葉と薬師岳の山容が広がっています。風力発電の巨大な風車が連なっているのも遠望できました。ガレ場が続き、落石に注意しながら進みます。

森林限界を越え岩場の道を行く、後方に薬師岳

傾斜が緩くなったころに、五合目の御金蔵(おかねぐら)に到着です。この先はハイマツの斜面が続きます。冷たい強風にさらされ、青空が広がっているものの、とても寒く感じます。

五合目の御金蔵(おかねぐら)

ストックをしまい、なおもガレ場を登ると、岩壁にガッチリ取り付けられた鉄梯子が現れました。梯子の傾斜は強く、落ち着いて一歩一歩確実に登って行きます。

鉄梯子を登る

2段になった鉄梯子を登りきると八合目となり、さらに進むと山頂稜線を望む剣ヶ峰分岐に到着です。ここからは、ほぼ平坦な稜線上を正面に見えている頂上に向かって進みます。木道に沿って進むと、山頂避難小屋と早池峰神社・奥宮の朱色の屋根が見えてきました。

早池峰山の山頂

早池峰山の山頂でランチタイムとしました。下山は往路を戻ります。午後からは雲が多くなり、曇り空の元、慎重に下りました。

山頂避難小屋を後に下山開始

下山中の夕景

小田越を出発し、約2時間30分で松川温泉へ。松川温泉の中で、最も古い松楓荘に宿泊。趣のある温泉宿でした。

 

3日目「岩手山」:松川温泉→馬返し→岩手山・薬師岳(2,038)→焼走り→藤七温泉泊

松川温泉をまだ暗い時間に出発。馬返し登山口に到着後、柳沢コースを登ります。

馬返し登山口から望む岩手山

樹林帯の歩き易い道が続き、半合目で新道と旧道に別れますが、一合目で再び合流となりました。階段を登り、見晴らしの良くなる二合目へ。

階段を登り二合目へ

ここで早池峰山(右)と姫神山(左)が見えました。2.5合目で新道と旧道の分岐になり、眺めの良い旧道を登ります。三合目からは火山岩の岩礫帯の登りになり、ひたすらガレ場を登って行きます。

岩礫帯の登り、後方には早池峰山(右)と姫神山(左)

ひたすら登ります

馬返しから3時間ほどでようやく七合目の鉾立に到着です。ここで新道と合流し、急登が終わりました。山頂の御鉢も見えました。

七合目の鉾立(ほこたて)付近から望む山頂

ここから10分ほど平坦な道を進むと八合目避難小屋に到着。ここでランチタイムとしました。トイレも水場もあり、小屋の内部は2段ベッドが並び、とても立派な小屋でした。

岩手山八合目避難小屋

八合目からさらに平坦な道を30分ほど進むと九合目の不動平へ。九合目から御鉢までは、火山岩の小石の斜面・ザレ場の登りです。

火山岩の小石の斜面・ザレ場の登り

お地蔵様の並ぶ御鉢につくと傾斜が緩くなります。

お地蔵様の並ぶ御鉢

中央火口丘の中にある御釜湖

下山路の平笠不動への分岐を過ぎ、岩手山最高峰・薬師岳に到着しました。雲が多いものの、山頂からは360度の展望が広がっていました。

岩手山最高峰・薬師岳に向かって

下山は、焼走りルートを下ります。お鉢を少し戻って平笠不動への分岐から、ザレ場を下ります。平笠不動避難小屋で休憩後、ダケカンバの樹林帯の道を進みました。ツルハシ分岐からは、富士山の須走ルートのような火山砂利のザレ場を、膝をつかってリズムよく下りました。谷側には八幡平市と広大な盛岡市街の展望が見事でした。

火山砂利のザレ場下り

第二噴出口跡からは、V字になった沢状の下りが滑りやすく、慎重に下ります。下るに従って、傾斜が緩くなり、歩き易くなりました。ひたすら下り続け、焼走り登山口には、薄暗くなりはじめた頃に到着しました。

焼走り登山口から望む岩手山

焼走り登山口を出発。松川温泉を経て、樹海ラインをクネクネ登り、藤七温泉の彩雲荘へ。彩雲荘は、8つもある露天風呂と露天風呂から眺めるご来光と雲海が名物の温泉宿です。確かに野趣あふれる露天風呂群には驚きました。秋の紅葉シーズンは予約困難な宿の一つですが、納得でした。

 

4日目「八幡平」:藤七温泉→八幡平登山口→八幡平(1,613)→黒谷地→国見温泉泊

朝からミゾレまじりの雪が降っていたため出発時間を1時間遅らせて藤七温泉を出発しました。八幡平登山口・駐車場の警備員の方によるとアスピーテラインは、雪のため朝から閉鎖されたそうです。広い駐車場には誰もいません。

雪の降りしきる中、八幡平登山口を出発です。誰もいないコンクリートで固められた石畳の遊歩道を進むと八幡沼を見下ろす八幡沼展望台に到着。ここから眺めるオオシラビソの林に囲まれた湿原と八幡沼、畔にたたずむ陵雲荘の景色は八幡平を代表する風景です。思いがけず、一面の雪景色を見ることができました。

八幡沼を見下ろす八幡沼展望台

さらに進むと頂上です。周囲の木々を超える高さがある木製の立派な展望台がありました。展望台から雪化粧した八幡平の景色を楽しみました。

八幡平の山頂

正面に見えるのが避難小屋の陵雲荘

八幡沼展望台に戻り、避難小屋の陵雲荘に立ち寄った後は、八幡平三大展望地の一つである源太森の小さな山頂へ。

快適な木道を進む

源太森からは、さらに東へ向かいます。雪のため、粘土質の土道は滑り易いところもありましたが、ほぼ平坦な登山道です。安比岳分岐を経て、黒谷地湿原に向かって進みました。雪のため、この先の茶臼岳はあきらめ、黒谷地湿原からバス停のある車道までエスケープすることにしました。

黒谷地バス停を出発

黒谷地バス停を出発し、国見温泉へ向かいます。在所ゲートへの向かう途中の紅葉が見事でした。また、昨日登った岩木山の山頂付近は雪が積もっていました。

在所ゲートへの向かう途中の紅葉

国見温泉の森山荘は、秋田駒ケ岳の登山口にもなっており、秘湯といった雰囲気の温泉宿でした。国内でも数少ないと言われるエメラルドグリーン色の温泉を楽しみました。

国見温泉の森山荘(もりさんそう)

5日目「秋田駒ケ岳」:国見温泉→八合目→秋田駒ヶ岳・男女岳(1,637m)→国見温泉→乳頭温泉泊

昨日の雪から一転、今日は朝から晴れました。国見温泉を出発し、右手に田沢湖スキー場の斜面と秋田駒ケ岳の姿を目にしつつ、九十九折りの車道をぐんぐん登って行き、八合目登山口に到着しました。

秋田駒ケ岳八合目登山口

男女岳を巻くように作られた登山道は、とても緩やかな登りで、かつ歩き易い登山道のため、軽快に歩みを進めます。

振り返ると紅葉が一面に広がる山並み

田沢湖を見下ろす片倉岳展望台から30分弱で阿弥陀池に到着。

田沢湖を見下ろす片倉岳展望台

阿弥陀池の木道

池の周囲に設置された木道を通り、阿弥陀池の避難小屋に到着しました。

阿弥陀池の避難小屋

眺めのよい木の階段をジグザクに20分ほど登り、秋田駒ケ岳最高峰・男女岳の山頂に到着しました。青空の元、気持ちのよい山頂でした。眼下に阿弥陀池、男岳、女岳、横岳が見えています。

秋田駒ケ岳最高峰・男女岳(おなめだけ)へ

往路を戻り、阿弥陀池の避難小屋で休憩後、縦走を続けます。男岳と横岳の分岐点である稜線上からムーミン谷への急な斜面を見下ろします。今日の核心部といっても過言ではない急な下りの始まりです。この下りでは、歩きながらカメラは禁止、落石を落とさないように注意して下ることに集中します。

ムーミン谷への急な下り

下るに従って、女岳(右)と小岳(左)の姿がよく見えるようになりました。

女岳(右)と山頂が窪んだ小岳(左)を眼下に

傾斜のゆるむ水沢コースの分岐までくれば一安心です。ここから進行方向にその美しさからムーミン谷と呼ばれる馬場の小路コースが見通せました。なだらかな谷沿いに1本の木道が走り、駒池も見えます。ムーミン谷の草紅葉は時期的に終わっているものの、春の花咲く時期にもう一度訪れたくなる素敵な谷でした。

ムーミン谷の駒池

木道が終わると大焼走(おおやけばしり)と呼ばれる真っ黒な火山砂利のトラバース道に変わりました。トラバース道からは、秋田と岩手の県境を跨ぐ秋田駒ヶ岳の大カルデラを眺めました。カルデラの左側の縁が横長根、右側が金十郎長根と呼ばれる尾根になります。横長根にパッチ状に広がる紅葉も見事でした。

横長根

横長根の尾根上は、紅葉のトンネルになっており、ブナの低木が多く見られました。そして、横長根の分岐から国見温泉へ下りました。

紅葉のトンネル

ここも紅葉が素晴らしく、急な階段から次第に傾斜が緩くなり、眼下に見覚えのある森山荘の赤い屋根が見えてきました。紅葉に加え、変化に富んだ景色を楽しみながらの素晴らしい登山でした。

森山荘の赤い屋根が見えればゴールは間近

国見温泉からは、一路、乳頭温泉へと向かいます。1時間ほどで乳頭温泉郷の大釜温泉に到着しました。温泉はもちろん、さすが本場の秋田だけあり、きりたんぽ鍋は、これまで食べた中で一番美味でした。

乳頭温泉郷の大釜温泉

6日目「蔦六沼」:乳頭温泉→十和田湖→奥入瀬渓流→蔦六沼→酸ヶ湯温泉

乳頭温泉郷から青森県の十和田湖までは約3時間の行程です。十和田湖に到着すると予報通り、気持ちのよい秋晴れとなりました。十和田湖で遊覧船に乗車してゆっくり湖上からの景色を楽しんだ後は、食堂で昼食、その後、奥入瀬渓流へ向かいました。日程では、紅葉には早いので奥入瀬渓流は車窓見学のみで蔦沼に向かう予定でしたが、奥入瀬渓流をどうしても歩きたいと強いご希望があり、特別に歩くことにしました。有名な観光スポットだけあり、沢山の人が歩いていました。銚子大滝から白糸の滝までの平坦な遊歩道を、途中、九段の滝や双白髪の滝、不老の滝、美しい渓流の流れを見ながら歩きました。

奥入瀬渓流

滝と清流が続く

その後は、ブナの原生林と美しい沼で有名な蔦温泉へ。これまでの登山とは趣が異なり、アップダウンのほとんどないよく整備された散策道でした。次々に現れる沼と美しい紅葉、ブナの美林を愛でながら、蔦六沼の散策を楽しみました。その後、酸ヶ湯温泉へ。

ブナの美林が続く蔦六沼ハイキング

酸ヶ湯温泉は、今回の山旅では最も酸性度の高いPH1.74の強酸性の温泉です。迷路のような大きな旅館でした。有名なヒバ千人風呂(混浴)は女性専用時間があったので、女性の方もゆったりお楽しみいただけたかと思います。

酸ヶ湯温泉旅館

酸ヶ湯温泉のヒバ千人風呂

7日目「八甲田山」:酸ヶ湯温泉→ロープウェイ山頂駅→八甲田山・大岳(1,585m)→酸ヶ湯温泉→嶽温泉

今日も晴れました。本当にお天気に恵まれています。酸ヶ湯温泉を出発し、10分ほどで八甲田山ロープウェイの乗り場に到着です。始発に搭乗することができました。ロープウェイから眺める紅葉は素晴らしく、ため息が出るほどでした。明日登る岩木山の姿も見えました。

ロープウェイから眺める紅葉

左手奥に見える岩木山

ロープウェイ山頂駅を出発。まずはアオモリトドマツの疎林とダケカンバとクマザサのなだらか遊歩道を抜けていきます。厳冬期は、このアオモリトドマツがモンスター=樹氷に変わります。正面に赤倉岳、井戸岳、大岳の三座が聳えています。

左から赤倉岳、井戸岳、大岳の三座

宮様分岐で宮様コース(パラダイスライン)へ向かいます。宮様コースは、滑りやすいドロドロの道でした。45分で毛無岱(けなしたい)側の宮様分岐に到着しました。名の由来は、昭和44年4月に高松宮(高松宮宣仁親王)が現在の宮様コースをお通りになり、これを記念して名付けたそうです。

毛無岱(けなしたい)から望む大岳

その後、樹林帯の登りが続き、大岳避難小屋に到着。この辺りが森林限界となり、ここから約30分で八甲田山最高峰・大岳の山頂です。冷たい風の吹く中、緩やかな階段を登り、大岳に到着しました。東側には高田大岳と小岳。北側には井戸岳と赤倉岳、その奥に陸奥湾。そして西側には岩木山、南側には櫛ヶ峰をはじめとする南八甲田の山々が見えています。

八甲田山最高峰・大岳の山頂から往路を望む

青空の元、山頂で素晴らしい展望を楽しんだ後は、南側へ縦走を続けます。

左手眼下に見えるのが避難小屋の仙人岱ヒュッテ

山頂直下にある鏡池から仙人岱(せんにんたい)と八甲田清水を経て、避難小屋の仙人岱ヒュッテへ到着しました。仙人岱ヒュッテでランチ後は、酸ヶ湯温泉に向かって下ります。硫黄臭の強い地獄湯の沢のガレ場を下り、紅葉の美しい樹林帯を緩やかに下ります。

地獄湯の沢のガレ場

途中、樹林が立ち枯れているところがありました。「火山性有毒ガス注意」と看板があるので、硫化水素で枯れたのかもしれません。なおも下り、鳥居をくぐるとビジターセンターのある酸ヶ湯温泉の上部駐車場に到着しました。さらに舗装道路を歩き、酸ヶ湯温泉へ。

酸ヶ湯温泉の上部駐車場へ

酸ヶ湯温泉から嶽温泉へ向かう途中、道の駅「いなかだて」でリンゴを買い嶽温泉の小島旅館へ。夕食時には、宿の女将さんが一品ずつ料理を説明してくれ、ウドの溜まり漬けやたもだし(ナラタケ)の南蛮漬け、土瓶蒸し、海鮮寄せ鍋、身欠きニシンとフキ、お刺身、根曲竹などとても美味しくいただきました。

嶽温泉の小島旅館

小島旅館の夕食

8日目「八甲田山」:嶽温泉→八合目→岩木山(1,625m)→嶽温泉→青森空港→新青森駅

今日は雲一つない快晴。最終日にふさわしい素晴らしい天気に恵まれました。嶽温泉を出発し、津軽岩木スカイラインの69回のカーブに揺られながら、八合目に到着。目の前には日本海の展望が待っていました。

眼下には美しい紅葉が広がっていました

低木とクマザサの道を40分ほど登ると稜線に出ました。リフト終点からの分岐にもなっています。

リフト終点からの分岐にもなっている稜線と岩木山山頂

九合目の避難小屋・鳳鳴(ほうめい)ヒュッテでストックをしまい、岩がゴロゴロしている急登を山頂に向かって登りました。

九合目の避難小屋・鳳鳴(ほうめい)ヒュッテ

岩木山の山頂に到着。北側に津軽半島、陸奥湾、下北半島。そして、北海道の海岸線も見えています。西側には鰺ヶ沢と日本海、白神山地。東側には八甲田山。南側にはこれまで登ってきた岩手山、早池峰山、秋田駒ヶ岳に加え、鳥海山まで確認することができました。まさに360度の素晴らしい展望でした。

岩木山の山頂直下の登り

岩木山の山頂からの景色はまさに絶景でした。

山頂の岩木神社・奥宮のお参りした後、往路を下山しました。

綺麗に黄葉したブナ林の下り

八合目からはブナの美林の中を約2時間下り、嶽温泉に到着しました。

山麓から望む岩木山の山容

その後は、嶽温泉を出発し、青森空港と新青森駅でそれぞれ解散となりました。

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今回は「壱岐と対馬~実りの島と国境島を巡る~」について壱岐編と対馬編の2回に分けてご紹介します。

まずは最初に訪れる壱岐島からご紹介します。

壱岐の島

博多港から高速船で約1時間で到着する壱岐島。長崎県に属する離島で、九州と対馬の間に位置します。古事記の国生み神話の中で、5番目に生まれ「伊伎島」として記された壱岐島。島内には150社以上も由緒ある神社が点在しており、神々の島とも呼ばれています。また、中国の三国志時代に書かれた「魏志倭人伝」にも「一支国」として登場しています。長崎県にある約450基の古墳のうち約6割にあたる280基が壱岐にある事からも古くから交易の拠点としても栄えていたことがうかがい知れます。

車で2時間もあれば回ることができる島ですが、歴史や自然、多くの魅力がある島です。

猿岩

黒崎半島の先端にある壱岐のシンボル猿岩。自然によって造られた高さ45m奇岩は「そっぽを向いたサル」にそっくりです。

辰の島遊覧

辰の島

蛇が谷

壱岐島最北端「勝本港」の沖に浮かぶ無人島辰ノ島。約45分のクルーズですが、エメラルドグリーンに輝く海と、玄界灘の荒波が造った奇岩・断崖・絶壁を堪能することができます。

壱岐市立一支国博物館

黒川紀章設計 卑弥呼か?

壱岐島は、弥生時代に「一支国(いきこく)」と呼ばれ、中国の歴史書『魏志』倭人伝にも登場する重要なクニでした。拠点として栄えたのが、一支国博物館から一望することができる 原の辻(はるのつじ)遺跡です。常設展示室では、この原の辻遺跡をはじめ、島内に点在する遺跡や古墳から出土した貴重な実物資料を約2000点展示し、一部の資料は持ち上げて重さを体感することができます。弥生時代の交易の様子を紹介したビューシアターや表情豊かな160体のフィギュア(すべて実際の壱岐市民の顔です)が弥生時代の原の辻の暮らしを伝える巨大ジオラマなどをつうじて、壱岐の歴史を学ぶことができます。

原の辻遺跡

鳥居の原型

中国の歴史書『魏志』倭人伝に記された「一支国」の拠点として栄えたのが国指定特別史跡 原の辻(はるのつじ)遺跡です。現在は、弥生の原風景を残す公園として整備され、17棟の復元建物を間近に見学することができます。紀元前2~3世紀から紀元3~4世紀(弥生時代~古墳時代初め)にかけて形成された大規模な多重環濠集落で、東西、南北ともに約1km四方に広がっています。登呂遺跡(静岡県)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)と同じく“史跡の国宝“といわれる国の特別史跡に指定されています。写真2枚目は柱の上にトリに見える飾りがあり、鳥居の原型とも言われています。

小島神社

普段は海に浮かぶ島にある小島神社。干潮時の前後、2時間だけ海から参道が現れて歩いて参拝することができるため、「壱岐のモンサンミッシェル」とも呼ばれています。

はらほげ地蔵

名前にある「はらほげ」とは方言で「お腹が丸くえぐられている」ということです。写真からはわかりにくいですが、6体あるお地蔵さんにはいずれも穴が開いており、ここからはらほげ地蔵という名前がつけられています。

壱岐の食事

うに丼 鯛のかぶと煮

壱岐には玄界灘にもまれた身の引き締まったイカやブリやウニ、日本一にも輝く壱岐牛など様々な特産品があります。中でも有名なウニは採れる時期が決まっています。

ぜひこの機会にご賞味ください。

 

②の対馬編に続きます!

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熊本県を流れる菊池川は、阿蘇の外輪山を源とし有明海に注ぐ一級河川です。菊池市、山鹿市、玉名郡和泉町、玉名市を流れるこの川の流域には、九州内でも多くの装飾古墳が残る地域です。有明海や八代海の沿岸部に伝わった古墳築造や装飾の技術、文化は、この菊池川を遡って時間とともに九州内陸部へと伝播しました。

【遠くに阿蘇をのぞむ菊池川の空撮】

菊池川流域の山鹿市に残るチブサン古墳は、古墳時代後期の6世紀に造られた古墳で熊本はもとより日本の装飾古墳を代表する古墳の一つとされています。チブサン古墳は全長約45mの前方後円墳で、後円部径約23m、高さ約7m、前方部幅約16m、高さ約6mの大きさです。墳丘からは葺石・埴輪のほか武装した石人1体が見つかっています。

【前方部、後円部とも丘になったチブサン古墳】

 

古墳内部には割り石を積み上げて作られた石室が造られています。その石室の奥に石屋型の石棺が配置されています。石屋型の内壁には赤、白、黒の三色で、丸や三角、菱形などの装飾文が描かれていています。

【石屋型の壁画のレプリカ 熊本県立装飾古墳館蔵】

「チブサン」という名前は、正面の二つ並んだ円が女性の乳房に見えることからこの名がついたと言われています。現在も「乳の神様」として地域の人たちに信仰されており、江戸時代には母乳の出がよくなるよう、この古墳に甘酒をお供えしたそうです。

【チブサン古墳近くにある壁画のレプリカ】

内壁の下段には、三本角の冠をつけ両手、両足を広げた人物像が描かれています。三本角の冠は、古墳時代に朝鮮半島南部で使われていた冠と同じ形で、この地との交流があったことがうかがえます。

【朝鮮半島南部と同じ三本の角の冠を被った人】

チブサン古墳の近くには、直径約22m・高さ約5mの円墳・オブサン古墳が残っています。

【オブサン古墳石室入り口】

埋葬施設は南に開口する横穴式石室で全長約8.5m、玄室・前室・羨道からなる複室構造で、現在でも内部に入ることができます。ここからは、玉類や金環、武具、馬具、須恵器などが出土しました。

【石室内部】

オブサンは、産(うぶ)さんが訛ったもので、古くから安産の神様として古くから地域の人たちに信仰されています。この名前は、石室入り口を中心として両足を開いた女性の出産の姿に見えることから「産さん」になったとのことです。

【妊婦が足を広げたように見えるオブサン古墳】

次回は、玉名市の石貫ナギノ横穴古墳と石貫穴観音古墳をご紹介します。

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広川町の南側に、耳納(みのう)山地から伸びる狭長の丘陵があり、八女丘陵と呼ばれています。八女丘陵には30弱の古墳が点在し、八女古墳群と呼ばれています。これらの古墳の多くは、古墳時代にこの一帯を治めた筑紫国造の一族の墓と言われています。八女郡広川町には、八女古墳群を代表する二つの古墳が残っています。

石人山古墳

全長約120メートルの前方後円墳。前方部と後円部のくびれのところに、被葬者が眠る石棺を背にして守る、ガードマンの役割の武装石人が立っています。石人は、熊本県の有明海一帯で採掘される阿蘇溶結凝灰岩製です。石人の身長は約2メートルで「短甲(よろい)」と「かぶと」を身につけ、背には矢を入れた矢筒の「靫(ゆぎ)」を背負っています。

【石人が祀られている現代の祠】
 
石人は主に江戸時代に、自分の体の悪い部分をさすると癒されるという俗信により、体中をさすられてしまったので、現在顔はのっぺらぼうになり、上半身の模様は不鮮明になっていますが、江戸時代に描かれた石人の模写図には、目・鼻・口の他、短甲の文様までが描かれ、往時をしのぶことができます。

【体中をさすられてしまった石人】

 

石棺もまた阿蘇溶結凝灰岩製で、長さは約2.8メートルの「妻入り横口式家形石棺」という形状です。この石棺の棺蓋には、二重丸の文様の「重圏文」と、直線と帯状の弧線が組み合わされた「直弧文」が彫られており、かつては石棺全体が赤色に塗られていたと言われています。

【阿蘇溶結凝灰岩製の石棺】

 

【広川町古墳公園資料館に展示されている石棺のレプリカ】
 

被葬者は特定されていませんが、八女古墳群は西から東に向かって古墳築造の年代が新しくなっていく傾向があり、石人山古墳は八女丘陵の西の端にある一番古い前方後円墳であることから、初代の筑紫国造の墓とも比定されています。

 

弘化谷古墳

石人山古墳とは谷をはさんで同じ八女丘陵の上に築かれている、直径約39メートル、高さ約7メートルの大形円墳。現在は、外提を含めて、直径55メートルにもなる当時の姿を復元しています。

【弘化谷古墳】
 

石室正面奥に造られた石屋形の内壁には、壁画が描かれていました。

【石室入り口。年2回内部の一般公開が行われていますが、現在は中止しています】

 

石屋形奥壁には、薄く赤を地塗りした上に濃い赤や石材の緑色で三角文・円文・双脚輪状文が描かれ、靫(ゆぎ)は輪郭が線刻されています。双脚輪状文は、福岡県の王塚古墳、熊本県の鎌尾・横山の二つの古墳と合わせて日本で4例しかない珍しい文様です。

【双脚輪状文と靫が描かれた壁画のレプリカ 広川町古墳公園資料館蔵】
 

【王塚古墳の双脚輪状文と靫の壁画のレプリカ】
 

また、石室内の遺体を安置する石屋型は、肥後(熊本県)で盛行したもので、福岡県では弘化谷古墳の他4例しかありません。

弘化谷古墳は前方後円墳ではなく円墳ですが、筑紫君一族が眠る八女古墳群の中でも最大の円墳で、筑紫君磐井が眠る岩戸山古墳のそばにあることから、筑紫君磐井を支えた有力者の墓と考えられます。

次回は、熊本県山鹿市のチブサン古墳とオブサン古墳をご紹介します。

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五郎山古墳は、直径約35メートルの装飾壁画を持つ6世紀後半の円墳です。昭和22(1947)年に発見され、のちに国史跡に指定されました。

 

【五郎山古墳の空撮】

全長約11mの横穴式の石室を持ち、石室はほぼ完全な形で残っています。石室内の羨道(せんどう)(遺体を安置した部屋への通路)は長さ3.6m、幅1m程で、羨道の中ほどから入り口部分に向かって天井が低くなっています。羨道を抜けると、幅2m、奥行き1.6m程の前室があり、その奥に玄室があります。

写真は、五郎山古墳の模型で矢印が玄室です。

【内部がわかる五郎山古墳の模型】

前室と玄室には、赤、緑、黒の3色を用いた壁画が描かれていますが、玄室奥壁に最も多くの絵が描かれています。壁画は、人物、動物、船、家など多くの具象画で構成されています。写真はすべて、五郎山古墳館に展示されてる壁画のレプリカです。

【玄室奥壁の装飾壁画】

 

下の腰石(石室の壁に使われている石のうち一番下にあるもの)には、右端に鞆や靱、弓などの武具が描かれています。中央部には、上から緑色の鳥、同心円文、靱、舟が描かれ、右端と中央の絵の間には、冠を被った人物や矢が刺さった動物、スカート状の着物を着た人物などが見られます。この冠の形状は、下の写真の熊本県にあるチブサン古墳の壁画と同じ三本の角がある冠で、朝鮮半島南部の冠と同じ形です。

【三本の角の冠を被った人物】

【チブサン古墳の冠を被った人物の壁画のレプリカ】

壁画に描かれた緑色の線状の形は、この棺を乗せた舟を黄泉の世界へ導く「鳥」を表現していると言われています。鳥の左には動物が描かれ、この動物を狙うように右下に矢を構えた人物がいます。その下には鎧兜を身につけ、太刀を持った騎馬人物、その左上に動物が上下に描かれています。祈るようなポーズの人物、さらにその左下には両手両足を広げた人物が描かれています。これらの最下段には、はしご状の旗か盾を持った騎馬人物が見られます。左端には、切妻造りの屋根を持つ家、動物が上下に描かれています。

【上:古墳館にある弓を射る人の模型  下:実際の壁画】

 

 

【上:古墳館にある祈る人の模型  下:実際の壁画】

 

腰石の上に置かれた方形の石には同心円文、その右側に左手を腰にあて、右手を上げたポーズをとる力士と思われる人物、その下には動物と人物が描かれています。右側には旗をなびかせ、矢をつがえた騎馬人物があり、その右上の石には円文が描かれています。

【腰石の上の石に描かれた壁画】

【上:古墳館に展示されている旗をなびかせた騎馬上の人の模型  下:実際の壁画】

 

玄室側壁では西側奥の腰石に、船と16個の小さな丸、東側奥の腰石とその上の石にそれぞれ船が描かれています。舟の中央にある四角い物体は、遺体を安置した棺を表現しており、16個の小さな丸は、星を表現していると言われています。この中央に棺を置いた舟の形は、エジプトの太陽の舟と同じ形なのが興味深いです。

【中央に棺を置いた舟と16個の星】

【エジプト・カイロに展示されている太陽の舟】

 

五郎山古墳が造られた時期は、古墳や石室の形体や出土物から6世紀後半と考えられ、当時のこの地域の豪族の墓と言われていますが、被葬者は特定されていません。ただ、五郎山古墳の近くには古代の文献にも登場する筑紫神社があり、この神社がヤマト王権に反抗し「磐井の乱」を起こした古代九州最大の豪族・筑紫野君磐井と関係を持つことが想定されており、五郎山古墳に葬られた人物は、筑紫君と関わりがある人物とも言われています。筑紫野君磐井の墓は、福岡県八女市にある岩戸山古墳で、八女丘陵には磐井一族の古墳が多数残っています。

【巨大な岩戸山古墳内に残る神社】

【岩戸山古墳で発掘された人や動物の石像】

 

筑紫野君磐井は、筑紫と国交のあった新羅に出兵しようとしたヤマト王権に立ち向かいました。写真は、八女丘陵の古墳から出土した耳飾りで、朝鮮半島南部のものと同じ形をしており、磐井と新羅との交流があったことが伺えます。

【新羅と同じ形の金製垂飾付耳飾 岩戸山歴史文化交流館蔵】

また、短甲も出土しており、どちらも岩戸山歴史文化交流館に展示されています。墳長135メートルの巨大古墳に葬られた筑紫君磐井は、今でもこの地の英雄として慕われています。

【短甲 岩戸山歴史文化交流館蔵】

次回は、八女古墳群の石人山古墳と弘化谷古墳をご紹介します。

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