ラホール博物館 Lahore Museum

始まりは1865年という歴史を持つラホール博物館。1894年に現在の位置で開館し、その建物自体の建築も展示方法も間違いなくパキスタン一の博物館です。

 

この博物館が建築されたのはイギリス領インド帝国時代。ヴィクトリア朝のゴシック・リヴァイヴァル建築とインドの伝統的建築の要素を持つ「インド・サラセン様式」の建物で、ラホール出身の建築家ガンガ・ラムによる作品です。

「インド・サラセン様式」の体表的な建物と言えばインドのムンバイにあるチャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅(旧ヴィクトリア駅)がありますが、パキスタン国内の古い町でも同様の建物をみることができます。

 

イギリス領インド帝国時代の1875 – 1893年には「ジャングルブック」で知られる作家ラドヤード・キップリングの父がラホール博物館の館長を務め、その後のキップリングの作品「少年キム」には当時のラホールが描かれています。

 

ラホール博物館のエントランスです。スワート渓谷の木彫ドアの展示から始まります。

この博物館はパキスタンの歴史ごとにギャラリーが設けられ、インダス文明(閉鎖中のこともあります)、ガンダーラ美術、ムガル帝国時代、英国領インド時代など多岐にわたる展示があるのが特徴です。

 

この博物館が、いやパキスタンが世界に誇る名宝がこれ、「菩薩苦行像」「 断食するシッダールタ像」「Fasting Siddhartha」。シクリ(カイバル・パクトゥンクワ州)の伽藍跡から出土した2~3世紀ごろの作品です。

 

”シッダールタは出家後、各地を遍歴して道を求めたが、最後には山林にこもって6年間の苦行を行った。彼の身はやせ衰えてしまったが、どうしても悟りを開くことができなかった”(引用:「ガンダーラの美神と仏たち」樋口隆康著)

 

落ち窪んだ眼、血管や助骨まですけて見える体。厳しい修行をやりぬいた神々しいまでの精神力を表現し、この苦行像はガンダーラ美術の神髄とも言われています。

「仏陀苦行像」はラホール博物館以外ではペシャワール博物館にも展示があります。

 

「仏陀苦行像」のそばに展示されている、同じシクリの遺跡から出土した石造のストゥーパ。

 

これはハーリーティー、鬼子母神の彫像です。これもシクリ出土のもの。

 

人の子をさらう人食い鬼だったハーリーティー。釈迦により子供を奪われて苦しむ親の気持ちを知り、我が子も他人の子も愛すようになり「子供の守護神」となりました。また、ハーリーティーは500人とも1,000人とも言う多産だったため「安産の守護神」ともされ、「多産」のシンボルでもある柘榴(ざくろ)の花を髪につけています。

 

このハーリーティー、ギリシャの女神のようですよね、ギリシャの運命の女神テュケーなのです。ギリシャの神々がガンダーラの仏教美術に現れた東西文明の融合を見る作品です。

 

そしてこちらはインドギャラリー。ツアーで訪問すると、ガンダーラギャラリーでほぼ時間を使い(忙しい時は「仏陀苦行像」を中心)、他のギャラリーはあまりゆっくり見る時間がないのですが、ムガル帝国時代のミニアチュール等、みどころいっぱいの博物館です。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

(Photos are from a trip in Oct 2019 – Feb 2020)

Location : Lahore Museum, Lahore, Punjab

カテゴリ:ガンダーラ遺跡 > ■パンジャブ州 > ラホール > ◇ パキスタンの博物館
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タキシラ博物館 Taxila Museum

タキシラ一帯の遺跡からの出土品が展示されているのがタキシラ博物館 Taxila Museum。パキスタンがイギリス領インド帝国の時代に建てられ、1928年に開館した大変古い博物館です。

 

館内には遺跡から運ばれてきた化粧漆喰(ストゥッコ)によるガンダーラ仏、奉献ストゥーパの台座、かつてはストゥーパの基壇を飾っていたであろう片岩に彫刻された仏伝図などが展示されています。

 

これはモーラモラドゥにある奉献ストゥーパのレプリカです。この7層の傘蓋を持つ小型ストゥーパ、実物は遺跡の僧院区の僧房に残されています。

 

これはインドのサンチー仏塔の頂部にあるものと非常に似ています。四角い「平頭」があり、その上に「傘蓋」。その周りを木柵を石に置き換えた「欄楯」が囲んでいます。

 

展示品のストゥーパの一部には装飾を飾った石が見られます。

 

奉献ストゥーパの台座です。仏陀像、各パネルの間にはギリシャ様式の柱、そして台座を支えるアトラス神の姿が。

 

東西文化の融合を象徴する展示品もたくさんあります。これは花綱模様。波状に展開する花綱を若い青年がかかえているモティーフで、ギリシャ・ローマを起源としますがガンダーラでも大いに流行りました。

 

花綱の上がったところをキューピッドが背負い、下がった所には葡萄の房やリボンが装飾されています。

 

そしてこれは仏陀像のわきに立つ、明らかに異国の人。ジョウリアン遺跡を飾っていた見事なストゥッコ像で、解説には「おそらく奉献者とその妻」と。帽子の形からサカ族でしょうか。

 

そしてもっと異国情緒あふれるこのボデイ、ガンダーラに現れたギリシャの愛の女神アフロディーテーです。

 

Photo & Text : Mariko SAWADA

(Photos are from a trip in Feb2020)

Location :  Taxila Museum, Taxila, Punjab

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参考図書:パキスタンのガンダーラ遺跡と博物館を訪問する方にお勧めの一冊!「ガンダーラ美術の見方」監修:奈良康明監修、著:山田樹人著、写真:高倉一太(里文出版)、「ガンダーラの美神と仏たち、その源流と本質」著:樋口隆康(NHKブックス)

カテゴリ:ガンダーラ遺跡 > タキシラ > ■パンジャブ州 > ◇ パキスタンの遺跡・世界遺産 > ◇ パキスタンの博物館
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タフティバーイ – ガンダーラ仏教寺院

ガンダーラの遺跡にはタキシラのシルカップのような都市遺跡と人里離れた山中にある仏教寺院があります。その仏教寺院の代表的なものがタフティバーイ Takht-i-Bahi。日本語の読み方がいろいろあり、タフテ・バヒーだったり、タフティ・バイだったりします。ペシャワールから北西に80キロ、マルダーンの町から15キロのところにあるガンダーラの山岳仏教寺院で、早くから調査され保存状態の良い遺跡です。

 

紀元後1~7世紀に栄えた仏教寺院遺跡で、ガンダーラ美術はクシャーナ朝で最盛期を迎えます。この時代の(冬の)都はプルシャプラ、現在のペシャワールでした。

 

タフティバーイの仏教遺跡は平地から150mほど登った山の上に築かれました。入口からよく整備された階段を上っていくと遺跡の入り口、奉献塔区の入口へと到着します。

 

入口の遺跡の壁の写真です。上部は修復していないガンダーラ時代の壁、白いラインから下は修復されたもので、『A.S.I 1946』と刻まれています。A.S.I.とはインド考古調査局 (Archaeological Survey of India)のことで、時代はインドとパキスタンが分離独立する前の1946年、イギリス領インド帝国時代に考古学チームによって発掘と修復が行われました。

 

タフティバーイの遺跡は主塔院区(メインストゥーパ)、奉献塔群区、僧院区、瞑想室、その他の建物からなるガンダーラ仏教寺院の構成をよく残しています。

 

歩いてきて最初に到着するのがこの奉献塔群区。南の主塔院区と北の僧院区の間にある一画で35基の奉献ストゥーパが並んでいました。今は基壇部のみが残されています。基壇部にはギリシャ風の柱が装飾されています。

 

奉献塔群区

35基の奉献ストゥーパのうち2基が円形基壇で残りは方形基壇です。

 

僧院区です。中庭を囲んで15の小房があり、各房にはランプを置いた壁龕があり、一部は2階建てだったことがわかります。中庭の端には台所跡もあります。

 

主塔院区(メインストゥーパ)です。階段を上ったら広場がありそこにメインストゥーパの6.2m平方の方形基壇があります。このストゥーパの3面も祠堂が並び、龕室にはストゥッコの彫像が置かれていました。

 

主塔院区への階段の近くの祠堂。3面に壁龕が施されています。ストゥッコ(化粧漆喰)の彫像で覆われていたのでしょう。

 

瞑想室と考えられる地下室。小房は真っ暗ですが、明るい広場へもつながっています。

 

そしてここは、管理人さんの部屋。奉献塔区の一部を保存もしながら生活をしていました。

 

管理人さんの暮らす奉献塔区の基壇部。ストゥッコのアカンサスの葉の柱頭。ところどころ彩色が残っていました。

 

さらに山を登るとタフティバイの遺跡とその下に町を見下ろす展望台へ出ます。周りにはまだたくさんの建築物の跡が見られ、タフティバーイが巨大な仏教寺院であったことが想像されます。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

Location : Takht-i-Bhai, Mardan, Khyber-Pakhtunkhwa

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タキシラ – モーラモラドゥ

タキシラ仏教遺跡のひとつ、モーラモラドゥ。不思議な響きの名前ですが、付近の村の名前 Mohra Moradu に由来するガンダーラの僧院とストゥーパが残る遺跡です。

この写真はメインストゥーパの方形基壇ですが、高さがなんと4.75mもあります。

 

モーラモラドゥには2基の仏塔があります。ここにはメインストゥーパとその南に小型のストゥーパがあり、腰壁に仏陀象などのストゥッコ像(化粧漆喰)が残っています。

 

僧院には方形の庭の四周に27の小房があり、一部には階段が残されていることから2階建てだったことがわかります。庭の中央部は窪んでいて、おそらく儀式用の沐浴場であったと考えられます。

 

僧院に残されたストゥッコ(化粧漆器)の仏像。彩色のあとが残っています。

 

モーラモラドゥのマスターピースはこの高さ4mの奉献塔。僧院の小房で見つかったもので、円形基壇の上に半球形の覆鉢、その上に箱型の平頭(へいとう・ひょうず、舎利容器を収める場所と考えられる)、その上に7重にもなる傘蓋(さんがい)があります。

この傘蓋(さんがい)、これだけ重なると傘にさえ見えないのですが、お釈迦さまの時代、王や貴族が外出の際に従者に傘をかざさせたもので、貴人の外出の必需品でした。それがお釈迦さまに敬意を表す象徴となり、信者たちが傘蓋を寄進し連ねて頂上にかざしたものです。

 

奉献塔の5層の円形基壇部分です。コリント式の柱壁で仕切られたパネルと壁龕には仏陀のレリーフが施されています。

そして一番下の層を支えているのはやはり、象とギリシャの神、”世界の西の果てで天空を背負う”アトラスです。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

(写真は2005年に撮影したものです)

参考図書:パキスタンのガンダーラ遺跡と博物館を訪問する方にお勧めの一冊!「ガンダーラ美術の見方」監修:奈良康明監修、著:山田樹人著、写真:高倉一太(里文出版)、「ガンダーラの美神と仏たち、その源流と本質」著:樋口隆康(NHKブックス)、「インド建築案内」著・写真:神谷武夫(TOTO出版)

カテゴリ:ガンダーラ遺跡 > タキシラ > ■パンジャブ州 > ◇ パキスタンの遺跡・世界遺産
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ダルマラージカー (タキシラ)

紀元前3世紀、マウリヤ朝のアショーカ王がガンダーラ地方で作ったストゥーパ(仏塔)が2基あります。1基はスワートにあるブトカラ遺跡にあるストゥーパ、もう1基がタキシラにダルマラージカー・ストゥーパです。

今日、全体の形が残っている最古のストゥーパはインドのサーンチーのものですが、ガンダーラ地方にも同型の、円形基壇に作られた巨大な仏塔があります。ただ、サーンチーの仏塔のように欄楯やトラナはなく、周りに祠堂や小ストゥーパ群が並んでいます。

 

基壇は径46m、その上に高さ14mの半球形の覆鉢がのるメインストゥーパ。

紀元前500年ごろ、クシナガラでお釈迦様が涅槃に入りました。7日後に荼毘にふされ、その遺骨(舎利)が8カ所の墳墓に舎利容器に入れて墳墓の中心部の底に納められました。これが最初のストゥーパ(仏塔)で、この舎利と舎利容器は崇拝の対象となりました。

紀元前3世紀になり、マウリヤ朝のアショーカ王が八舎利のうち七舎利を再発掘して8万4000塔に分納したそのうちの1つ、このダルマラージカー仏塔がそれにあたると言われています。

 

メインストゥーパをめぐる繞道があり、その周囲には紀元前1世紀から紀元後4世紀、ガンダーラを担ったクシャーナ朝時代に建てられた祠堂・小ストゥーパ(奉献塔)群があります。

小ストゥーパ群の方形基壇の壁面はコリント式の柱壁で仕切られたパネルや壁龕が施されたガンダーラ様式の建築が見られます。

 

小ストゥーパの基壇に施された装飾。象や人物像が基壇を支えています。この人物像、ギリシャの神アトラスなのです。

 

アトラスはギリシャ神話で世界の西の果てで天空を支える神。ガンダーラにおいては仏像の台座やストゥーパの基壇を支える役割として登場します。東西文化の融合の結果生まれた、ギリシャの神が支える仏教世界・・・なんともロマンチックです。

 

祠堂の中にはスタッコの仏像がありましたが残念ながら破壊されています。ストゥッコ(Stucco、化粧漆喰)像は粘土で作られた塑像で、ガンダーラでは紀元後3~4世紀に流行して作られました。

 

タキシラの観光では、タキシラ博物館・シルカップの都市遺跡・ジョウリアンの僧院というのが3点セットですが、ぜひダルマラージカーも訪問してみてください。

 

Photo & Text : Mariko SAWADA

Visit : Feb 2020 Dharmarajika Stupa, Taxila, Punjab (写真はドローン撮影を含みます。)

参考図書:パキスタンのガンダーラ遺跡と博物館を訪問する方にお勧めの一冊!「ガンダーラ美術の見方」監修:奈良康明監修、著:山田樹人著、写真:高倉一太(里文出版)、「ガンダーラの美神と仏たち、その源流と本質」著:樋口隆康(NHKブックス)

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シルカップ (タキシラ)

イスラマバードから北西約30キロ、かつてガンダーラ美術が花開いた地域の東の端に位置するのがタキシラ遺跡です。タキシラは都市遺跡、仏塔、僧院などが広範囲に広がる遺跡群ですが、その中でもシルカップ都市遺跡は観光客が必ず訪問する重要な遺跡です。

 

紀元前2世紀、北部アフガニスタンで栄えたバクトリアのギリシア人が最初に建築した都市をもとに発展しました。現在残っている町の遺跡はメインストリートを配置し碁盤の目状に広がっており、商店や仏教寺院、仏塔の跡が残されてます。

 

ガンダーラは東からインド文化の影響を受け、西からはギリシャやペルシャ(イラン)の影響を受けた文明の交差点。シルカップにはそれを象徴する建物が残されています。

シルカップに残る「双頭の鷲の寺院」です。方形基壇の正面の階段の両側の壁にアカンサスの柱頭をつけたコリント式壁柱によってわけられた3つのパネルがあります。

 

階段の右側、保存状態が良い方のパネルです。

 

一番左のパネルは三角形破風のギリシア神殿式の建物が見られます。

中央のパネルはインドのチャイティヤ堂の入り口のような形をしたアーチ形の建物があり、その先端に双頭の鷲のような鳥がとまっています。双頭の鷲はヒッタイトやバビロニアなど西アジアで見られる意匠です。

右のパネルにはインドのトラナ(インドのサンチー仏塔で見られる)のような建物がありその上にも鳥のようなものがとまっています。

 

タキシラの「双頭の鷲の寺院」は仏塔(ストゥーパ)の基壇に、インド、ギリシャ、西アジアの建築美術が見られる、なんともロマンある建物なのです。

 

ドローン空撮によるシルカップの写真ですが、メインストリートの左側に大きな前方後円形の建築物跡があります。チャイティヤ堂跡と考えられインドの石窟で見られるチャイティヤ堂と同じ構造だったと推測されます。

 

今回、久しぶりにシルカップを訪れたのですが、パキスタンの学生さんやピクニックにきた家族連れの姿が見られました。ガンダーラ遺跡は僧院など山の上にある遺跡が多いのですが、ここは平坦でラクチン、家族で楽しめるスポットです。

 

Photo & Text : Mariko SAWADA

Visit : Feb 2020, Sirkap, Taxila, Punjab(写真はドローン撮影を含みます)

参考資料:「ガンダーラの女神と仏たち – その源流と本質」樋口隆康著(NHKブックス)

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(お客様から届いたvlog) Safe? Discovering the heart of Pakistan!

今年の2月パキスタンを訪問したスイス&メキシコ人カップルのルーカスとパトリシア。グランドトランクロードに沿って旅したラホールからペシャワール、そしてイギリス領インド帝国時代に作られた鉄道の旅を紹介。スペイン語ナレーション・英語字幕ですが、ツーリストから見たパキスタンの旅、ご覧ください。

 

Safe? Discovering the heart of Pakistan!

 

ペシャワールからインダス河畔の町ローリまでの車窓風景、駅の様子は貴重な情報です。
ムガール時代、イギリス領インド帝国時代、そして現代までの「パキスタンの歴史とホスピタリティー」にふれるVlogです。

 

Text : Mariko SAWADA

Special Thanks to SUMMERMATTER DIAZ ENRIQUETA PATRICIA.
Please visit her web site : https://elpadiro.ch/

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”王の道” グランド・トランク・ロードの果て

首都イスラマバードからペシャワールへ向かうとき、「モーターウェイにする?GTロードにする?」と聞かれます。この“GTロード、グランド・トランク・ロード Grand Trunk Road”こそ、古のムガール帝国時代の大幹線、「王の道」。もちろん、いまや近代的な普通のアスファルト道ですが、実に深い歴史を持つ道です。

そもそも「王の道」=グランド・トランク・ロードは16世紀、一時的にムガル帝国に取って代わったアフガン系王朝のシェール・シャーが道を整備して作り始めた壮大な一大ネットワーク。スール朝の短い治世にはアグラから彼の出身地と言われるビハール(インド)までの道をまず完成させ、やがて東は現バングラデッシュに位置するソナルガオン、西はパキスタンのムルタンまで整備されました。その後、再びムガル帝国に引き継がれ、ムガール帝国全土、東は現バングラデッシュのチッタゴンの港から西はカイバル峠を越えてアフガニスタンのカブールまで拡張され広大な帝国を発展させました。
この「王の道」は英領インドの時代に再び整備されます。カルカッタからイギリスが三回の侵略占領で植民地化できなかったアフガニスタンの手前、ペシャワールまでの区間を含む、カルカッタ~ペシャワールの区間です。この時に“Grand Trunk Road グランド・トランク・ロード”と名づけられ、整備されていきました。

現在も“グランド・トランク・ロード”として栄えた時代の名残が各地に残されています。

 

ムガル帝国時代の石畳

イスラマバード郊外に残るムガル帝国時代の“王の道”の石畳。現代のGTロードの脇に保存されています。石畳にはここを行きかった馬車の車輪で磨り減った跡も。

 

ラホール城(世界遺産)

ムガル帝国の古都、ラホール。ムガル帝国時代にもともとあった城の上に多くの建物が建築されました。メインゲートとなるAlamgiri Gateの夜の写真です。シャー・ジャハーンの時代に作られた豪華絢爛なシャーシ・マハル<鏡の間>は当時のムガル帝国の繁栄が偲ばれます。

 

ロータス・フォート(世界遺産)

シェール・シャーが“王の道”上に作った砦。シェール・シャーにとってはペシャワール~ラホールへ至る道を守る重要な要塞でした。

 

キャラバンサライ

ペシャワールのオールド・バザールの中には隊商が行きかった時代のキャラバンサライが残されています。かつてこの道を多くの商人が行き来し、広大なムガル帝国、その後の植民地時代を支えました。ペシャワールは中央アジア・インドからの商品にあふれ栄えていたことでしょう。

 

カイバルゲート

ペシャワールからカイバル峠に向かう途中にあるゲートであり記念碑です。道路脇にはジャムルードフォートという砦があり、もともとあった古い要塞の上に1823年に侵攻してきたシク教徒によって建てられた城です。中央アジアと南アジアを分けるカイバル峠の手前で、さまざまの民族の攻防の歴史を見てきた場所です。そしてカイバル峠を越えると、トルハムの国境がありアフガニスタンへと「グランド・トランク・ロード」は続きます。

 

バーブルの墓

ムガル帝国の第一皇帝はバーブル。中央アジア出身で、カブールに最初の拠点を置き、ここからパンジャーブ平野へ、そしてインドを征服し1526年、アグラでムガル帝国初代皇帝に即位しました。そのわずか4年後、バーブルはアグラで亡くなっています。彼は愛したカブールの地に墓標を持つことを願い、その後の戦乱で遅れたものの、家族によってカブールに墓が作られました。(写真はバーブル庭園修復中の時のもので、今はムガル帝国当時の墓を再現した美しいものになっています)

 

アフガンの戦後、訪れたバーブルの墓は荒れ果ててまさにムガル帝国の戦乱の歴史を思い起こさせる状態でした。アガハーン財団のプロジェクトにより“バーブル庭園”の中に美しく再建され、“王の道”の始まりであり、“グランド・トランク・ロード”の終着の地であった町、カブールを見守っています。

 

冬のカブール、バーブル帝の墓のあるバーブル庭園より

 

Photo & text : Mariko SAWADA

※カブールとカイバルゲートの写真は2006年の撮影であり現状が異なっていることがあります。その他の写真は2018年~2020年のものです。

※この記事は2011年6月にupしたブログ「サラームパキスタン」を加筆・訂正したものです。

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モヘンジョダロの”神官王像”(カラチ・パキスタン国立博物館蔵)

モヘンジョダロの大発掘が進められたのは1922年から1931年のこと。1947年のパキスタン独立前の発掘品の多くは英国やインドの博物館に収蔵されていますが、パキスタン国内にもいくつか貴重な発掘品が保存されています。

そんなパキスタンに残る、“マスターピース”がこのモヘンジョダロの”神官王像 (Priest -King)”です。

 

 

モヘンジョダロはパキスタンの中部にある紀元前2500年から1800年頃に繁栄したインダス文明最大の都市遺跡です。インダス文明は、インダス川流域を中心にインド亜大陸西北部に展開した南アジア最古の文明です。インダス文明については、世界中の考古学者たちの努力により少しづつその実態が明らかになってきていますが、未だに多くの謎が残されています。

 

エジプト文明、メソポタミア文明、中国文明といった、ほかの3つの古代文明の文字が何らかの形で解読されているのにも関わらず、インダス文明の文字は未だに解読されていません。彼らの起源や信仰についても謎が残りますが、その衰退の経緯についても最も大きな謎として残っています。

 

カラチのパキスタン国立博物館に収蔵されているこの神官王像は、その姿形からメソポタミアとの関係を疑われるなど、インダス文明の謎を紐解くピースのひとつになるのではないかと言われています。

 

 

モヘンジョダロの神官王像 ”Priest King” – Mohenjodaro

 

白色の凍石(ソープストーン、Steatite) で作られ、1,000度以上の高熱で焼いて固くされています。大きさは高さ17.5cm、幅11cmと小さなものです。1927年の発掘調査中、DK地区の貴族の家と思われる大きな建物跡(DK-B)から出土しました。

 

 

特徴的なマントには三つ葉模様、一重丸、二重丸の模様が描かれ、赤色の着色があった痕跡があります。ヘッドバンドに三つ葉の模様をあしらったマントとその風格から「神官王」と名付けられました。

 

イギリス植民地(イギリス領インド帝国)時代、発掘品はラホールの博物館に送ら得てましたが、その後インド帝国の新首都になるデリーへ移送されていました。そして1947年の分離独立後に、モヘンジョダロからの収蔵品の多くがインドにある状態となりました。1972年、当時のパキスタン大統領だったズルフィカル・アリー・ブットーとインド首相インディラ・ガンジーを代表として”シムラー協定”が締結され、インドにあった発掘品12,000点の半分がパキスタンへと戻されました。

その際、「最も有名な2つの彫像」をめぐり、パキスタン当局は「神官王像 Priest – king」と「踊る少女 Dancing Girl」の返還を求めましたが、ガンジーはそれを拒み「神官王像」のみが返却され、「踊る少女」は現在もデリーの国立博物館で展示されています。

 

モヘンジョダロ博物館に展示されている「踊る少女 Dancing Girl」のレプリカ。

 

モヘンジョダロ遺跡の入り口にある、大きな神官王像のレプリカ。

 

モヘンジョダロ博物館入り口の売店に並ぶ「神官王像」のレプリカ。人気者です!

 

Photo & text : Mariko SAWADA

※博物館内の撮影は原則禁止されています。大きなかばんの持ち込みが制限されています。

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ミアンナシールモハンマドカルホロの墳墓群へ

Necropolis of Mian Nasir Mohammad Kalhoro

インダスハイウェイの旅の最中、村人の紹介で訪問したのが、シンド州で2番目に大きな墳墓群と言われるミアンナシールモハンマドカルホロの墳墓群(Necropolis of Mian Nasir Mohammad Kalhoro)です。

 

17世紀のシンディの氏族カルホロ王朝の墳墓で、王族の墓、聖者の墓、そして周りに村人のお墓がならぶ現在進行形の一大墳墓群でした。世界遺産マックリーヒルMakli Hillsの墳墓群が今も続いていたらこんな感じになるのかな?と思わせる場所です。

 

墳墓遺跡自体はそれなりの雰囲気のものでしたが、みなさまがもっと喜んだのはインダスハイウェイからこの墳墓までの道中の「シンド州内陸部」の景色でした。懐かしく温かいパキスタンの景色です。

 

小麦が入っているのでしょうか。車・トラックの間をロバ車が走り抜けていきます。

 

収穫の季節ならではの景色、わらを乗せたロバ車が続きます。

 

畑でも収穫作業。小麦の収穫に続き米の収穫が始まります。

 

奥の村へ向かう軽トラックは荷物も人も満載。

すれちがう私たちに笑顔で答えてくれる、シンド州の村人たちです。

 

Photo & Text : Mariko SAWADA

Visit :Nov 2019, Necropolis of Mian Nasir Mohammad Kalhoro, Dadu, Sindh

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