ウズベキスタンとキルギスの伝統テキスタイルの工房や山間部にたたずむジョショル村を訪問し、シルクロードの伝統工芸と生活にふれる。民族の写真やスケッチが好きな方にもお薦め。
※募集は終了いたしました。来シーズンの発表をお待ちください。魅惑のウズベキスタン
Facinating Uzbekistan
シルクロードの古都をめぐる
4つの古都から歴史をさぐる
1991年のソビエト連邦崩壊後、トルクメニスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタンと共に5つの共和国のひとつとして中央アジアに誕生したウズベキスタン。アムダリア川とシルダリア川の間に位置し、古くから中国とペルシャ、メソポタミア、インド等を網の目のように結んだシルクロードの中継地として、様々な文明・王朝・帝国の勃興の舞台となり多くの史跡群が残っています。この国に流れる歴史とその魅力を今に伝えるウズベキスタンの4つの古都をご紹介します。
シャーヒ・ジンダ廟群/サマルカンド
「シャーヒ・ジンダ」=「永遠に生きる王」を意味する聖地で、もともとは預言者マホメットの従兄にあたるイスラムの聖人クサム・イブン・アッバースの廟がある場所でした。後年、周辺にティムールの親族の廟が建てられ、美しいタイルで装飾された数々の建物が立ち並びます。
青の都 サマルカンド
サマルカンドは古くはマラカンダという名で呼ばれたシルクロード最古の都市のひとつです。2500年もの歴史があり、紀元前4世紀にはアレキサンダー大王が東方遠征の途中に訪れた地として記録されています。1220年のチンギス・ハーンの征西の際に市は徹底的に破壊され、当時のサマルカンドは今はアフラシアブの丘の下に眠っています。一度は死の街と化したサマルカンドに、現在まで残る壮麗な建築物を建て、再びシルクロードの一大都市に変えたのが、14世紀の末に現れた中央アジアの覇者・ティムールです。彼はこの地を帝国の首都と定め各地の技術を駆使した建築物を建造し、サマルカンドは「青の都」と呼ばれるようになりました。ティムールの死後、彼の建築を引き継いだのが孫のウルグベクです。支配者の顔の他、天文学者でもあった彼は、天体観測のためにサマルカンドの高台に天文台を建設しました。またレギスタン広場にメドレセ(神学校)を建設し、17世紀に建設された2つのメドレセと合わせた3つのメドレセとともに、サマルカンドを代表する建築群となっています。「青の都」サマルカンドは、現在も中央アジアを代表する街として、世界各国の人々を引き付けてやみません。
レギスタン広場/サマルカンド
ティムールの孫、ウルグベクの時代以降、ここには3つのメドレセ(神学校)が建てられました。「ウルグベクのメドレセ」(左)は天文学者でもあった彼のデザインで、星の文様が描かれています。 「シェルドル・メドレセ」(右)は、黄鹿を追うライオンの動物争闘図が。最後に造られた「ティラカリ・メドレセ」(中央)は、内部が金で覆われた美しいメドレセです。
ブハラのスパイスショップ
古くから隊商都市として栄えたブハラ。ラクダの背に乗り、海のシルクロード「南海路」を越え、様々な品が遠方から運ばれました。中でも貴重な品のひとつがスパイスです。モルッカ諸島のナツメグやクローブ。また、インドやスマトラ島特産の胡椒は「天国の種子」と呼ばれるほど価値が高く、貨幣の代わりとして用いられることもありました。
隊商都市 ブハラ
ブハラはソグディアナの東に位置するオアシスで、サンスクリット語で「僧院」を意味します。5世紀の唐の文書に「不花刺」と記されたソグド人の街で、古来から交易の中継地として栄えました。ソグド人は中央アジア一帯の隊商として名を馳せた民族で、ペンジケント、サマルカンド、ブハラなどの小規模な都市国家しか形成しなかったにも関わらず、シルクロードの歴史に深く係り、中国やアラビアの史書にも登場します。隊商を組んで活動していたソグド人は、このブハラにも拠点を置き、各地からの様々な品物を商っていました。
当時の面影をそのまま残すブハラの旧市街には、古くからの建築物が数多く残っています。13世紀のチンギス・ハーン襲来の際に破壊を免れたサーマーン朝の王イスマイル・サマニの廟は、現存する中央アジア最古の建物です。また、隊商が交易品を売買した「タキ」と呼ばれる商業施設には、現在も店が軒を連ね様々な物が売られています。そして、砂漠を行く隊商の灯台の役割をした巨大なカリヤン・ミナレットが、今もブハラの街を見下ろすようにそびえ立っています。
シルクロードの商人「ソグド人」ウズベキスタン東部、ザラフシャン川流域のソグディアナを故郷に持つソグド人。はるばる中国からアラビアまでを股にかけ東西貿易を担った民族です。彼らの一部は商いで赴いた国に定住し、コミュニティーを形成して各地にソグド人のネットワークを張り巡らせました。例えば、中国に定住したソグド人は「胡人」と呼ばれ、中国姓を名乗りました。姓は出身地によって分かれており、サマルカンド出身ならば「康」、ブハラ出身は「安」、タシケント出身は「石」となります。唐で中国史最大の反乱と言われる「安史の乱」を起こした安禄山もブハラ出身のソグド人でした。「胡人」と呼ばれた彼らがもたらしたものの名前には「胡」から始まるものが多く、胡瓜、胡桃、胡麻などは当時の名前のままで親しまれています。また、彼らは長身で長い手足を持つアーリア系の民族であったため、正座をする習慣がなく足を組んであぐらをかいていました。あぐらも漢字で書くと、胡人が座る、すなわち「胡坐」と書きます。
駱駝に乗る西方人
唐代に作られた唐三彩のソグド人像。白・緑・褐色などの色彩が用いられた鉛釉陶器・唐三彩は、盛唐時代に貴族の墳墓の副葬品として盛んに作られました。主に人物、動物、器物を模したものがあり、当時のシルクロードを通した東西文化交流を象徴する国際色豊なモチーフも数多く見られます。
華麗なる王都 ヒヴァ
ティムール朝、シャイバニ朝の支配の後、16世紀のウズベキスタンには3つの王国が興りました。ブハラ・ハーン、コーカンド・ハーン、ヒヴァ・ハーン国です。ソビエトが侵攻し、中央アジア最後の王国となるこれらの王国は、中央アジアの文化、生活様式を体現した最後の王朝となります。
ヒヴァは、1920年にソビエト政権が樹立されるまで王国の首都として栄えました。外敵の侵略を防ぐための城壁で守られた内城イチャン・カラは、内城そのものが世界遺産に指定されています。王の栄華を誇った宮殿「クニャ・アルク」からは、壮麗な建築物が玉手箱の中に密集する様な街の全景を見渡すことができます。また、王の宰相・イスラム・ホッジャが建てたイスラム・ホッジャのミナレットからも、街全体を見渡すことができます。イチャン・カラの内部を徒歩で歩くと、強大だったヒヴァ・ハーン国の国力と当時の建築職人の技術の高さに驚くことでしょう。
ヒヴァの西門オタ・ダルヴァザ
約2.2㎞の城壁に囲まれたヒヴァの町、東西南北に城門があります。「父の門」を意味する西門オタ・ダルヴァザをくぐりイチャン・カラ(内城)へと進むと、最初に目に入ってくるのが高さ26mの巨大なミナレット「カリタ・ミナル」、そして、壮麗な建築物が次々と現れます。
ファヤズ・テパから出土した三尊像
この仏像は、ほぼ完全な姿で出土したと言われています。ウズベキスタン南部、テルメズ郊外にあるファヤズ・テパの遺跡。ここにはかつて巨大なストゥーパと、僧院、厨房、そして儀式を執り行った池がありました。石灰岩製の三尊仏像は、うつぶせの状態で繊細な彫刻部分を欠くことなくこの場所に眠っていました。そして現在は、中央アジア最高の仏教美術品として、タシケント歴史博物館に展示されています。
仏教伝来の玄関口 テルメズ
大河アムダリヤに面したスルハンダリヤ州の州都テルメズ。アムダリヤ川の対岸はアフガニスタンのため、ソビエト時代は外国人の立ち入りが禁止されていました。アレキサンダー大王は東方遠征の際、アフガニスタンからアムダリヤを渡ってウズベキスタンに入りました。テルメズ近郊に残るカンプル・テパは、まさに大王が渡河した場所で、アレキサンドリア・オクシアーナ(アムダリヤのアレキサンドリア)であったという説があります。紀元1世紀のクシャン朝の時代、インドで興った仏教は同じくアムダリヤを渡って中央アジアに伝播しました。そしてこのルートを逆行して唐からインドヘと向かったのが玄笑三蔵でした。彼はテルメズのことを「大唐西域記」に坦蜜国の名で「伽藍十余ヶ所、僧徒千余人」と記載しています。現在のテルメズには、仏教文化が花開いた時代の史跡が数多く残っています。ウズベキスタンのダルベルジン・テパの発掘に生涯を捧げた加藤九詐博士が調査したカラ・テパからは2世紀初期の仏教寺院と僧院の複合建築が出土しており、ファヤズ・テパには、現代の新しいストゥーパにまるまる包み込まれて保護されたかつてのストゥーパや、僧院、食堂跡などが残っています。
ファヤズ・テパのストゥーパ
紀元前1世紀、最初にこの地に円形の仏塔が建立され、その後クシャン朝の治世に矩形の大規模な地上僧院が建てられました。ファヤズ・テパを世界的に有名にした三尊像は、真ん中部分の祠堂内から発掘されました。
トプラク・カラ
キジル・クム砂漠に残る古代ホラズム王国の都城跡。2世紀には王国の首都として隆盛を極めました。現在見ることのできる遺跡はほんの一部ですが、広大な城壁跡からは当時ホラズム王国が強大な力を持っていたことが伺われます。
ソグド人の壁画
サマルカンド北部に位置するアフラシアブの丘から出土したフレスコ画。元前7世紀頃のサーマーン朝の宮殿の玉座の間を飾っていたもので、当時の様子伝える非常に貴重な資料です。
シャフリサブス
ザラフシャン山脈を遠望するティムールの故郷。 「緑の街」という意味のシャフリサブスには、アクサライ宮殿、ティムールの親族の廟やモスクなど、彼の残した建築群が残ります。
タシケントの独立広場
トルキスタン総督府が置かれた際は「大聖堂広場」、ウズベク・ソビエト社会主義共和国時代は「赤の広場」、1992年にソビエト連邦から独立を果たした現在は「独立広場」と呼ばれています。
ウズベキスタン年表
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古代
オアシス都市の興隆
古代ホラズム王国の繁栄アーリア系(ソグド人などイラン系)民族が定住
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紀元前4世紀
アレキサンダー大王の東征 -
紀元前250年頃
グレコ・バクトリア王国の成立ギリシア人によりヘレニズム文化が栄える
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1世紀~3世紀
クシャーン朝の支配インドからの仏教の伝播
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6世紀中頃~
突厥の侵入ソグド人による 東西交易が活性化
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8世紀~
アラブ勢力の侵入アラブの侵攻によりイスラーム化が始まる
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9世紀後半~10世紀
サーマーン朝の成立イスラーム文化の開花
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13世紀
モンゴル帝国の支配チンギス・ハーンにより、ブハラ、サマルカンドが壊滅
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14世紀後半~15世紀
ティムール帝国の成立首都サマルカンドの壮麗化
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15世紀末~16世紀
シャイバーン朝の成立遊牧ウズベク集団の侵入
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18世紀~19世紀
ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、
コーカンド・ハン国の支配 -
1860年~1870年代
ロシア帝国による征服 -
1918年
トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国成立 -
1920年
ブハラ人民ソビエト共和国成立 -
1924年
ホラズム人民ソビエト共和国成立
ウズベク・ソビエト社会主義共和国成立 -
1990年
共和国主権宣言ソビエト連邦の解体
イスラム建築を知る
かつての栄華を今に伝えるウズベキスタンの壮麗な建築群
ウズベキスタンの旅の魅力のひとつは、その美しい建築物にあります。14世紀、この地に大帝国を築きあげたティムールは、征服地から数多くの技術者を集め、都市の壮麗化に力を注ぎました。彩釉タイルなど装飾技術も発展を遂げ、サマルカンドをはじめとするオアシス都市には絢爛たる建築物が次々と誕生していきました。16世紀以降、喜望峰の発見によりシルクロードの隊商貿易が停滞していくなかも美しい建築物は作られ続け、いまも世界中の人々を魅了しています。
チャール・ミナルのミナレット(ブハラ)
1807年、トルクメニスタンの商人カリフ・ニヤズクルが彼の4人の娘をイメージし建てられた4本のミナレットを持つ珍しいメドレセ。ミナレットには異なる模様が施されており、それぞれ4人の娘の性格を表しているのだとか。
ティラカリ・メドレセの天井装飾(サマルカンド)
「ティラカリ・メドレセ」=「金箔を施した神学校」の名の通り、眩いばかりの精緻な金箔装飾で埋め尽くされた美しい礼拝所を持つメドレセです。植物文の天井装飾も息を呑む美しさ。
カリタ・ミナル(ヒヴァ)
ヒヴァの西門をくぐりイチャン・カラの中へと進むと、最初に目に入ってくるのが高さ26mの巨大なミナレット「カリタ・ミナル」、別名「未完のミナレット」です。建設を命じたムハンマド・アミン・ハーンがペルシャとの戦いで死亡したため工事は中断され、未完のまま残っています。
シェルドル・メドレセ(サマルカンド)
レギスタン広場の3つのメドレセのひとつシェルドル・メドレセ。アーチに描かれた獅子と太陽を模した人の顔は偶像崇拝が禁止されているイスラム教国では非常に珍しいもの。建築家が自分の権力を誇示するために描いたと言われています。しかし信者たちの強い批判を受け、建築家は自殺したという伝説が残されています。
タシュ・ハウリ宮殿のアイワーン
歴代のハーン(王)の暮らした宮殿アルク。内部は美しいタイルで装飾され、テラスのような吹き抜けのあるアイワーンと呼ばれる中央アジア独特の建築様式になっています。アイワーンの柱は一本のニレの木で作られ、美しい彫刻が施されています。
シャーヒジンダ廟のタイル装飾(サマルカンド)
多様な装飾とその美しさで中央アジア屈指と言われるシャーヒ・ジンダ廟群。11世紀から19世紀にわたって建てられた巨大な霊廟が立ち並ぶ様は圧巻です。
中央アジアのイスラム建築史
7世紀、アラブ軍がアラビア半島から北アフリカ、西アジアから更に東へと勢力を拡大していくとともに、支配階級や都市民の間から中央アジアのイスラム化が始まりました。一般民衆の間で続いていたゾロアスター教の信仰も、10 世紀中頃にはほぼ完全にイスラム化されていきました。
アラブ軍との闘いによって廃墟と化した都市は、その後、中世封建都市として復興していきます。防衛と政治の拠点であった都市は、徐々に経済活動の中心としての性格も強め、城や宮殿、バザール、キャラバンサライ、そしてモスクやメドレセなどの宗教建築が次第に重要な役割を担うようになりました。そして、初期イスラム建築としてサーマーン朝、カラ・ハン朝、セルジューク朝を経て、中世末期ホラズム・シャー朝の時代には中央アジアのひとつの繁栄期として美しい建築物が次々と生まれました。そんな中、全てを消し去ったのが1221年のモンゴル軍による侵略でした。徹底的な破壊活動により、都市は再び廃墟と化すことになります。
しかし、ティムールの登場と共に、中央アジアのイスラム建築は突如として黄金時代を迎えます。東はインドの一部から西はシリアやアナトリアの一部にまで及ぶ広大な大帝国を築き上げたティムールは、征服地から数多くの技術者を捕虜として連行。その労働力を駆使して首都サマルカンドの壮麗化に力を注ぎました。それは、帝国の成立と共にシルクロード上の東西通商貿易が活発化し、その利益が中央アジアのオアシス都市に蓄積されていった結果でもありました。
イスラム建築は、モスクやメドレセ、霊廟などの宗教建築と、宮殿やキャラバンサライなどの世俗建築に大きく分けられます。いずれも歴史的事実の生き証人として、当時の人々の宗教生活や宮廷生活、商業生活を現在の私たちに垣間見せてくれます。
本来イスラムでは特定の死者を崇拝したり墓石を立てたりすることは禁じられていましたが、聖者信仰の習慣や権力者の墓廟建設によって次第に一般化し、特に東方イスラム圏において廟建築が高度に発展しました。方形また正多角形の集中式プランを基本とし、その上にドームがかけられるのが一般的で、参詣を考慮した構造になっています。中央アジアでは、サマルカンドのグル・エミル廟や霊廟建築のアンサンブルと呼ばれるシャーヒー・ジンダ廟が代表的。また、ブハラには初期の墓廟建築として貴重なイスマイル・サマニ廟が残っています。
高等教育を受けるための学校にあたる施設。2階には教授と学生が寄宿するための小部屋が並んでいます。回廊に囲まれた中庭に向かって高い天井を持つ開放的な空間が配置され、これが教室として利用されていました。中央アジアでは多くのメドレセが建設されれおり、最大のものはヒヴァにあるムハンマド・アミン・メドレセ。このほか、ブハラのナディール・ディヴァンベキ・メドレセやサマルカンドのウルグベク・メドレセなど、各地で美しいタイル装飾の残るメドレセを見ることができます。
ムハンマドがメディナに建てた「預言者の家」がモスクの規範となっており、地域の特性を帯びたプランに発展していきました。ウズベキスタンでは、ヒヴァのジュマ・モスクやブハラのボロ・ハウズ・モスクなど、建物の正面や側面に非常に高い天井を持つ箱型のテラスをつけるアイヴァン式のモスクも見ることができます。中央アジア最大のモスクはサマルカンドにある「ビビ・ハニム・モスク」で1万人以上の礼拝者を収容できたとされています。
イスラムは、北アフリカから中央アジアに至る広大な地域を舞台に拡大を続けるにつれ、様々な地域性を帯びつつも共通性のある構造を確立していきました。大人数で同時に同じ方向を向いて礼拝するための多柱式プランやメッカの方向を定めるためのミフラーブ、より高く見せるための二重殻のドームや礼拝時間を知らせるアザーンを遠くまで響かせるためのミナレットなど…ここでは中央アジアのイスラム建築を読み解くために役立つ代表的な構造の一部をご紹介します。
ミナレットは、信者に礼拝の時間を呼びかけるアザーンが行われる塔を指します。しかしながら、この機能はのちの時代に付与されたもので、当初はイスラムの存在を広く視覚的に示す象徴としての役割が主であったのではないかと考えられています。中央アジアでは、オアシスを目指して砂漠からやってくるキャラバンの目印になるように、さらには周辺を見渡し、監視する見張り塔としての目的があったとも言われています。
イスラム建築の象徴とも言えるドーム天井は、柱に妨げられることのない大空間を形成できることが特徴で、高貴なものの象徴とされました。宇宙を想起させる大空間は、墓廟などモスク以外の建築にも用いられるようになり、徐々に象徴的意味を強めていきました。その結果、より高くより美しく見せるためにドームを内側と外側の二重構造にする方法が生まれました。中央アジアでは多くの二重殻ドームを目にすることができます。
鍾乳石飾りと呼ばれる技法で、ドームや玄関上部の装飾として用いられます。凹状の立体を積み重ねた複雑な形状で、多色のタイルで覆われています。これはイスラム特有の技法で13世紀後半から流行したスクィンチ(※)の装飾的処理が由来とされますが、ムハマンドが啓示を受けたヒラー山の洞窟を象徴しているという説もあります。
※スクィンチ:四角形のプランの上に円形のドームを作る時、小さなアーチを斜めに渡して四角形から八角形の上部プランを作って徐々に円に近づけていく構造。
イスラム建築の魅力のひとつは連続性のある文様を中心として、さまざまな技法で飾られた色鮮やかな壁面装飾です。偶像崇拝を禁止とするイスラムにおいて特別な進化を遂げたそれらは、隙間ないほどに空間を埋め尽くし、見るものを不思議と捉えてはなさない魅力を持っています。イスラムの装飾文様は、文字文、幾何学文、植物文の3種が主要なモチーフとなっています。それぞれは歴史と意味を持ち、建築だけでなく工芸品や写本芸術にも生きています。
技法としては、日干し煉瓦を材料として厚く塗り上げたスタッコの上に浮彫や彩色を施す方法が主流でしたが、それらは時代と共に進化していきました。浮彫テラコッタの登場や焼き煉瓦の使用を経て、窯業の貢献がさらに高まると12世紀には表面に釉薬をかけた彩釉煉瓦や釉薬タイル、彩釉浮彫テラコッタなど光沢と色彩をもつ仕上げ材料が現われます。青と白の2種にすぎなかった彩釉煉瓦も14世紀の黄金期にはその種類も増え、モザイク技術も誕生、装飾の技法も多彩に発展を遂げていきました。
イスラムにとってアラビア語は神聖なる宗教語。特定のメッセージを伝える媒体でありつつ図案化されて装飾要素のひとつとなりました。内容は主にコーランの引用や信仰告白、持ち主への祝福や詩の引用などです。
イスラム地域で発展した数学的作図を用いてデザインされており、無限に続くパターンは神が創造した完璧な世界を暗示するものとなります。なんらかの具像物を極度に図案化したのではなく、純粋な抽象文です。
蔓草模様、いわゆる「アラベスク文様」。連続性と非現実的な造形がイスラムの楽園思想と結びついていると考えられます。イスラム装飾において唯一の有機物由来の文様で、葉・花・蔓などが流麗に組み合わされます。





建物の壁や床をタイルで覆う建築装飾は13世紀後半よりイラン・中 央アジアを中心に発展しました。釉薬がかけられているものは色を失わず当時の色を今に伝えます。1枚で完結して図柄を示すものもあればパネルやフリーズを形成し何枚かでひとつの大きな構図を描くものもあります。
壁面を覆う漆喰を型押し、彫刻したり、石版や木版のパネルを彫刻して浮彫を施します。浮彫のテラコッタは耐久性に優れ外壁の装飾に用いられました。多くの浮彫はさらに着色され、14世紀には釉薬がかけられるようになります。
ウズベキスタンの英雄
ティムール/ ウルグベク/ ナヴォイ/ バーブル/ ジャラルッディーン

ティムール
Timur / 1336-1405
軍事指導者、ティムール朝の建国者
出生地: キシュ(現在のシャフリサブス/ウズベキスタン)
1370年~1507年にかけて中央アジアを支配し、軍事的天才と言われたティムール朝の始祖。東はインドの一部から西はシリアやアナトリアの一部にまで及ぶ広大な大帝国を築き上げ、その首都をサマルカンドに制定。新たな政治的秩序をもたらしました。ティムールは、征服地から数多くの技術者を捕虜として連行。その労働力を駆使してサマルカンドの壮麗化に力を注いだことでも知られています。

ウルグベク
Ulughbek / 1394-1449
ティムール朝第4代君主、天文学者、数学者
出生地:スルターニーヤ(現在のザンジャーン州東部/イラン)
ティムールの孫で天文学者であるウルグベクは聡明な学者肌の人物で、詩や音楽の鑑賞を好み、学問、芸術を奨励しました。1420年頃サマルカンドに天文台を建設。優秀な学術者達を率いて天文学、数学、暦学などの分野で多くの成果を挙げ、当時のサマルカンドは最先端の学術都市として名を馳せました。幼名はムハンマド・タラガイ。後にティムールの意向によりテュルク語で「偉大な指揮官」を意味するウルグベクと改名しました。

バーブル
Babur / 1483-1530
ティムール朝サマルカンド政権の君主、ムガル帝国初代皇帝、詩人
出生地: フェルガナ地方(現在のウズベキスタン東部)
ティムール朝の王子として生まれたバーブル。父親はティムールの血、母親はモンゴル帝国のチンギス・ハーンの血を継ぐ輝かしい出自であったと言えます。諸勢力のサマルカンド獲得を巡る攻防の中で3度にわたるサマルカンド支配に失敗したバーブルですが、その後、アフガニスタンのカーブルからインドのパンジャーブへと進軍し、ついにはサファヴィー朝やオスマン帝国からの援助を受けパーニーパットにてローディー朝を破り、デリー、アグラヘ入城。1526年にムガル帝国の建立に至りました。

ジャラルッディーン・マングベルディ
Jalal al-Din Manguberdi / 1199-1231
ホラズム・シャー朝第8代君主
出生地:不明(ホラズム)
現在のイラン、ウズベキスタン、アフガニスタンを中心に栄えたホラズムシャー朝の最後の皇帝。チンギス・ハーンの侵略によって故郷を追われ、モンゴル帝国への抵抗に生涯を費やしました。破竹の勢いで押し寄せるモンゴル軍に勇猛果敢に立ち向かったジャラルッディーンは、今でも中央アジアの人々から英雄視されています。
伝統のテキスタイル
伝統文化をつなぐ手仕事に出会う
アジアとヨーロッパを繋ぐこの地には、東西を行き交う旅人や物資と共に、各地から染色・刺繍などの手仕事の技術が伝えられました。乾燥した大地にひときわ映える、鮮やかで大胆な色柄の絣と刺繍の布をご紹介します。
手紡ぎで絹糸を作る女性
かつて大苑国と呼ばれたウズベキスタンのフェルガナ地方。古来より血の汗を流す名馬「汗血馬」の産地であり、養蚕の産地として知られるこの地には、今も伝統の技が引き継がれています。
絣布アトラス
ウズベキスタンをはじめ、タジキスタンやキルギスなどでよく見られる布アトラス。「王の絹」を意味する「汗の朱子=ハン・アトラス」とも呼ばれるこの布は、艶のあるシルクの絣布で、日本の矢絣に似た大胆な柄が鮮やかな色使い織られます100%絹で織られたものがアトラスで、絹と綿が半々のものはアドラスと呼ばれます。
絹は5世紀ごろホータンから中央アジアにもたらされました。そして、11世紀はじめには経絣の製品が作られ、18世紀には染色街区が生まれました。染色街区では、デザインや糸紡ぎ、染色、仕上げなどの各工程を専門の男性職人が分業で受け持ちました。染色に使う色は、西洋茜やザクロの皮、インド藍など。19世紀~20世紀初頭ごろからは、人口染料も使われるようになりました。染色街区では、藍を釜で煮出して染めるのはブハラの職人、常温で染めるのはユダヤ人の職人といったように、職人が民族で分かれており、それぞれがその方法を秘伝としていました。
アトラスやアドラスでできたワンピースやズボン、帽子を身に着けて、眉毛を一本につなげる化粧をし、細い三つ編みを何本も垂らす伝統的な女性のスタイルは、都会では最近なかなか見かけられなくなりました。しかしながら、現在も国内外のアトラスへの関心は高く、最先端のファッションにも取り入れられています。アトラスの大胆な柄は、花や蛇、月など、生活の身近にあるものや、魔除けの意味を持つものをモチーフにしています。 柄には毎年流行があり、近年は孔雀の羽や麦の柄、経糸の一部に金を使ったもの、ラメやラインストーンを取り付けたものなど、新しいアトラスが次々に生まれています。
日本では少し派手かなと思ってしまうアトラスの柄ですが、中央アジアの厳しい自然を背景にすると、まるで美しい花のように映えます。少しでも生活に色彩を加えたいと、人々は明るく鮮やかな色のアトラスを纏うのです。
織機にかかった色鮮やかなハン・アトラス
絣(かすり)の技法で図案に従ってあらかじめ染め分けた絹糸を織り上げる、ハン・アトラス。他のテキスタイルと同じく、ソビエト時代の生産制限により一時生産技術が廃れることとなったアトラスですが、独立後にかつての技法により一貫して手作業で生産する工房ができました。
天然染料
玉葱やザクロの皮を用いた天然染料。天然染料で染めた天然のシルクは、通気性に富みとても丈夫です。
アトラス
タシケントのウズベキスタン工芸博物館では、様々なバリエーションのアトラスを見ることができます。
刺繍布スザニ
風景を彩るのがアトラスならば、家の中を彩るのが手刺繍のスザニです。スザニはペルシャ語の「針」を示すスザンから派生した名前で「布を刺す」という意味があり、地の布が見えなくなるほどびっしりと刺されるのが特徴です。かぎ針を用いるチェーンステッチのほか、サテンステッチやクロスステッチのものもあり、国や地域ごとにデザインや色使いに特徴があります。刺繍の模様は月や星、花などのモチーフのほか、多産を表すザクロの柄も多く見られます。
家に女の子が産まれると、母親は娘の嫁入りのためにスザニを準備し始めます。娘自身も嫁入り前には母親から刺繍を習います。スザニは住居の内側一面に掛けられ、家の中を彩ると同時に嫁ぎ先の娘を見守ります。使われる色は赤やオレンジなどの明るい色が好まれます。これは、薄暗い家の中を少しでも明るく見せるためだといわれています。
スザニ
嫁入り道具として17~18世紀頃から好まれるようになりました。母から娘へと未完成のスザニが手渡され、2代にわたって完成させる習わしもありました。
赤い花のモチーフ
大輪の赤い花を描いたブハラのアンティーク・スザニ。
街角にて
ブハラの露店に並ぶスザニ。オリエントな異国情緒が漂います。
ウズベキスタンの食を楽しむ
シルクロードを感じる食文化
多様なルーツが混ざり合ったウズベク料理を味わう
シルクロードの中継地として栄え様々な文化が行き交う中で食文化が形成されてきたウズベキスタンは、美味しい料理が楽しめる国でもあります。メインディッシュのプロフは、シルクロードの炊き込みご飯、いわゆるピラフです。各地方でプロフの味が異なりますので味比べも楽しいでしょう。麺料理ラグメン、串焼きのシャシュリクも美味です。サマルカンドはノン(ナン)も有名です。サマルカンドに行ったら是非トライしてみてください。料理が運ばれる順番はロシア式で、前菜、スープ、メイン、デザートとなります。ウズベキスタン料理は日本人の口によく合いますが、少し油っぽいので、食事と一緒に出される熱いお茶と一緒に召し上がってください。お茶には脂肪分を分解し消化を助けてくれるタンニンが含まれています。是非、食でもシルクロードを感じてみてください。
前菜
ナッツやサラダ、水切りヨーグルト「スズマ」や、牛の脂肪を固めた「カイマック」などの乳製品とノン。続いてサムサやマントゥ(餃子)が並びます。
プロフ
ウズベキスタンの国民食。炊き込みご飯のメインディッシュです。米、マトンまたはビーフ、ニンジン、タマネギを用いたものを基本に、1000を超えるレシピがあると言われます。
ラグマン
中国から伝わった、シルクロードのソウルフードとも言えるうどん。ウズベキスタンのラグマンは、野菜と肉の入ったトマトベースのスープがたっぷり入ったものがスタンダードです。
ドライフルーツ
ウズベキスタンの特産品のひとつです。ステップ気候の特性から糖度の高い果物が豊富で、アプリコットやブドウをはじめ美味しいドライフルーツが揃います。干しメロンも人気。
ショールヴァ
野菜や肉の入った具だくさんのスープ。ウズベキスタンの人々はスープ好きで、種類は様々。写真は壺焼きにしたスープ「クザ・ショールヴァ」。
キーマ・ザラフシャン
クレープの肉包み。スパイスが香る挽肉を棒状に伸ばし、薄焼き卵で巻いてオーブンで焼いたもの。マッシュポテトとライスを添えて。
アッチク・チュチュク(シャキャロップ)
キュウリ、トマト、タマネギを塩で味付けしたポピュラーなサラダ。シンプルながらウズベキスタンの野菜の美味しさを感じるひと品です。
ウグラ
そうめん程度に細切りにしたヌードル入りのスープ。スズマ(ヨーグルトソース)を入れてさっぱりといただきます。
チャイ
コク・チャイ(緑茶)とカラ・チャイ(紅茶)があり、どちらもストレートでいただきます。 朝起きて、食事やおやつとともに、休憩に、お客様を迎える時に、一日を通して楽しみます。
マンティ
中央アジアの蒸し餃子。ウズベキスタンではヨーグルトソースやトマトやコリアンダーのソースをかけていただきます。
ディムラマ
肉と野菜を煮込んだ中央アジア風の肉じゃが。ポピュラーな家庭料理で、ジラ(クミン)の香りが食欲をそそります。
シャシリク
串焼きバーベキュー。酢をかけた玉ねぎを添えていただきます。牛、羊、鶏肉のほか、魚や野菜のシャシリクもあります。
スパイス
フレッシュなスパイスが揃います。ウズベキスタン料理に良く使われるジラ(クミン)は、日本で一般的に売られているものとは品種が異なります。お土産に持ち帰り、日本でもウズベキスタンの味を再現してはいかがでしょうか。
シュビト・オシュ
ホラズム地方のラグマンの一種。ディルを練り込んだ麺に、野菜と肉の入ったトマトソースと、ヨーグルトをかけていただきます。
ノン(ナン)
ずっしりとした円形のパン。ウズベキスタンの主食です。表面にふられたブラッククミンが香ります。ノンの王様と言われるサマルカンド・ノンは大きく厚みがあって、もちっとした食感がやみつきになります。
パフラヴァ
発祥はオスマン帝国時代まで遡る伝統の焼き菓子。何層にも重ねたフィロ生地にナッツやドライフルーツを挟み、シロップをたっぷりとかけた濃厚な味わいのデザートです。
基本情報
旅立つ前に知っておきたい基本情報
| 国名 | ウズベキスタン共和国 Republic of Uzbekistan |
|---|---|
| 面積 | 44万7,400平方キロメートル ※日本(378,000km2)の約1.2倍の面積 |
| 時差 | 日本との時差 -4時間 |
| 首都 | タシケント |
| 人口 | 3,440万人(2022年) |
| 民族 | ウズベク系(84.4%)、タジク系(4.9%)、カザフ系(2.4%)、カラカルパク系(2.2%)、ロシア系(2.1%)等 (2021年) |
| 言語 | 公用語はウズベク語(テュルク諸語南東語群)。タシケント、サマルカンド、ブハラ等ではペルシャ語の影響が強く、また、ロシア語も広く使用されています。 |
| 宗教 | 主にイスラム教スンニ派 |
| 通貨 | ウズベキスタン・スム |
| 主要産業 | 綿繊維産業、食品加工、機械製作、金、石油、天然ガス |
| 国土 | 古来より東西交易路シルクロードの中継地となってきた中央アジアの中心「トランスオクシアナ地域」の大部分を占めるのがウズベキスタンです。アムダリア川(ギリシャ語で「オクサス」)とシルダリア川の間に位置し、西部から中央部にかけて国土の7割以上がキジルクム砂漠に覆われ、東部から南部はフェルガナ盆地と、パミール高原へと続く天山山脈の支脈・パミール・アライ山脈やギッサール山脈が迫ります。カザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタンの中央アジアの全ての国、およびアフガニスタンと国境を接しており、海に出るために2つ以上の国を通過しなければならない、二重内陸国です。 |
| 地方行政区画 | 以下の12の州と、1つの共和国、1つの特別市に分けられます。 |
| 旅のシーズン | ベストシーズンは春(3月~4月)、秋(9~10月)。湿度が低く過ごしやすいため旅行に適しています。日中は日本の春・秋と変わらないくらいの気温ですが、朝晩は急に気温が下がることがあります。
5~8月は一番熱い時期で、日中は40℃近くまで気温が上がりますが、乾燥しているため日本の夏のような不快感はあまりありません。
11月以降の冬場は、内陸気候のため-10℃近くまで気温が下がりますが、雪が大量に降ることはありません。 |
民族帽を被った男性
帽子文化が発達してきた中央アジア。写真の民族帽は、ウズベク語でドゥッピ、タジク語でトキ、カザフ語でテベテイと呼ばれる、テュルク系の人々の伝統衣装です。男性用は黒地に白で刺繍が施されたもの、女性用は色鮮やかなものが主流です。
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