カラーシャの春祭り・ジョシ祭の儀式

長い冬が終わり、その間にあつらえた新しい衣装を身に着け春の到来を祝う祭り、ジョシ。祭りの後に夏の放牧に行く家畜たちの安全を祈願し、祭りでは若い男女が出会う場所でもあります。

 

久しぶりにカラーシャの春祭りジョシへ行ってきました。この数年、パキスタンの辺境も「オーバーツーリズム」の様相で、いまや欧米だけでなくタイ、マレーシアなど東南アジアの観光客が押し寄せています。それに対してカラーシャの谷は圧倒的に欧米の観光客が多い場所。カラーシャの人々の外見と「アレキサンダー大王の軍隊の末裔説(DNA調査により関係ないと結論が出ているようですが)」で人気があるのかもしれません。

 

最近のパキスタン人観光客のSNSに上がる“Chilam Joshi Festival”の写真を見てその変化に驚いていました。昔のカラーシャを知っている方々にとっては「残念過ぎる状態」かもしれません。2024年の春に経験したカラーシャのジョシ祭の儀式の一部をご紹介したいと思います。なお、名前・スペルなど案内してくれた地元の方々の協力によるもので、文献などと異なる場合もありますが、現地で見聞きした通りで表現しています。ご容赦ください。

 

カラーシャの谷へ
クナール川を渡るつり橋がコンクリート橋に変わったものの、昔ながらのアユンの街並みが残っています。道を進めていくとヒンドゥークシュ最高峰ティリチミール(7,708m)を望む場所があり、さらに進めるとオーバーハングの崖もあるオフロードを川沿いに走ります。そしてつり橋を起点に左がボンボレット谷、右がランブール谷へと続きます。

 

カラーシャの谷へ

カラーシャのジョシ祭にはいくつかの儀式があります。

 

「ビシャの花摘み」プーシェンパリック Pushen Parik

子供たちが山に入り、神殿の飾り付けとチリクピピの儀式のために(ボンボレット谷の場合)ビシャの花を摘みます。ビシャは豆科の Piptantus Nepalensisで、カラーシャの人々にとってほかの花よりも早く咲き、「春の訪れを告げる花」です。

 

ビシャの花を摘んできた少女

 

神殿の飾り付け(プシ・ベヘック Pushi Behak)

家や神殿をビシャの花で飾り付けることを プシ・ベヘックPushi Behakと言います。ランブール谷では、夕方までにたくさんの花が集められ、8時ごろには飾り付けの時間まで一緒に過ごす子供たちが集まってきました。中にはブランケットを持ってきている子供も。9時ごろに太鼓をたたき、子供たちが踊り始めました。その様子はさながら“子供たちのジョシ”。30分ほど踊ると、子供たちはみんなで寝る場所へ移動していきました。早朝3時ごろ、ビシャの花とクルミの枝を持った子供たちがジャスタック・ハン神殿へ歩き始めました。神殿の入り口で昨年の花を落とし、みんなで新しい花を飾ります。外部が終わると中に入り、神殿の隅にある村の4つの氏族の祭壇へ。子供が一人代表で上がり、古い花を落とし新しい花を飾りました。そして広場に出て再び30分ほど踊りに興じました。

 

ビシャの花を持って神殿へ向かう子供たち
ジェスタク・ハン神殿の外壁を飾る女性たち。Jestakは家庭生活、家族・結婚の女神でこの女神の住まいがジェスタク・ハンです
ジェスタク・ハン神殿の内部。昨年のビシャの花を落とすと、バラングル村の4つの氏族の祭壇が現れました
祭壇は新しいビシャの花とクルミの枝で飾られます

 

ランブール谷の赤ちゃんの浄めの儀式(グルパリック Gul Parik)

ランブール谷のグルパリックは祭りと祭りの間の期間に生まれた赤ちゃんに対して行われます。ジョシ祭では、12月のチョウモス祭から5月のジョシ祭の間に生まれた赤ちゃんが対象です。この儀式をするまでのお母さんと子供は「不浄」と考えられ、お母さんと子供を浄めるのがグルパリックで、子供の健康を祈ります。儀式を行う男性は、自分自身も儀式のパンを焼く場所も浄め、この儀式のために浄められて用意された特別な小麦粉を、浄められた道具を使って神聖なクルミのパンを作ります。パンは最低でも男性用に5つ、女性用に5つ(それぞれ異なる粉です)、ふるまい用含めて20枚ほど焼かれます。

 

女性用、男性用の神聖なパンを焼くために用意された、浄められた小麦粉、クルミ、岩塩
クルミと岩塩を潰す男性
神聖なくるみのパン

くるみのパンが焼き終わると、お母さんと赤ちゃんが神殿へ現れ儀式が始まります。

 

グルパリック、赤ちゃんの浄めの儀式

神々しい空間、カラーシャの祈りの世界に圧倒されました。

 

ミルクの儀式(チリクピピ Chirik Pipi)

ボンボレット谷のチリクピピです。朝、女子たちがミルク容器と前日に集めたビシャの花とを持って集まります。儀式が始まると一斉に子供・女性たちが神聖な家畜小屋へ。村の人によると、5月1日から貯めた神聖なヤギの乳で、女性たちに配ります。本来なら、ここでチリクピピの歌(花の歌)が歌われるそうですがそれは聞きませんでした。家畜小屋は1か所ではなく何か所もあり、私たちは2か所回りました。そしてその後、村人が山を背景に踊っている美しい光景を見ることができました。

 

儀式の前に、集まり歌い、踊るカラーシャの人々
ミルクを入れる容器を手に集まった子供たち
清められた家畜の乳を配る。チリクピピの儀式
ミルクをもらい、ビシャの花で飾られた家畜小屋から出てくる女性たち
儀式の後、踊る女性たち

 

ボンボレット谷の赤ちゃんの浄めの儀式(グルパリック Gul Parik)

ボンボレット谷のグルパリックはランブール谷とは異なるスタイルの儀式です。昨年のジョシ祭以降、1年の間に生まれたすべての赤ちゃんとお母さんを浄め、赤ちゃんの健康を祈ります(実際には何回か清めの儀式があり、これが最終段階の浄めの儀式だそうです)。

赤ちゃんのいる家からクルミと乾燥した桑の実が入ったバスケットが村の広場へ届けられます。そして合図があると集まった村の女性たちと儀式を受けるお母さん・赤ちゃんが家畜小屋付近へ移動。そして、儀式をまかされた村の男性が集まった女性たちにミルクを投げて浄めます。

儀式が終わると再び広間に集まり、バスケットに入っているクルミと桑の実が分配されます(私たち、観光客にも!)。この日はボンボレットの小ジョシが行われるため、みんな準備のため家へ戻っていきました。

 

クルミと乾燥桑の実の入ったバスケットを運ぶ。村によってはチーズの場合もあります
浄めの儀式へ向かうお母さんと赤ちゃん
屋根の上にいるのがミルクで浄める男性(Chir histauチールヒスタウ)。この儀式をChirhistic チールヒィスティック(チリスティック)といいます。
クルミと桑の実を分配。写真に写っている犬は儀式の間もずっと一緒に行動していました。カラーシャの人々と犬はとても近い距離にあるようです。

 

ランブール谷のジョシ祭

一連の儀式が終わると、小ジョシ祭(サタック・ジョシ Satak Joshi)、 大ジョシ祭(ゴンナ・ジョシ Gonna Joshi)が持たれます。今は屋根のある会場で行われ、かなりの観光客でにぎわいます。

小ジョシはチャー(速いテンポの曲)やドゥーシャク(遅いテンポの曲)、より複雑なダライジャーラックといった太鼓と歌と踊りが繰り返されますが、大ジョシは最後に儀式的な踊りが組み込まれます。
カラーシャの曲は太鼓と歌からなる楽曲で、さらに限定された旋律の繰り返しです。歌詞は儀式にちなんだもの、カラーシャの神話や歴史にふれているもの、恋愛に関するものなど多様だそうです。基本は、「乳の豊穣を祈り、民族としてのアイデンティティを全員で確認」するための音楽です。

そしてジョシ祭の最後にはこの祭りの特別な曲「ガンドーリ」、「ダギナイ」が演じられます。

 

「ガンドーリ」枝を手にして投げる瞬間を待つ

ダギナイはジョシの最後を締めくくる歌で、チャーの旋律で歌われる「悲恋の歌」です。歌の間、紐や布でつながって鎖のようになって踊り(本来は柳の枝で編んだものだったそうです)、この鎖が切れると災いがあるとされ、みんな必死に紐を握っていました。最後は突然太鼓の音が止まり、一斉にこの布を投げて、ジョシが終了します。

 

紐でつながって踊る「ダギナイ」

「ダギナイ」の歌詞です。(季刊民族学 1991年”カフィリスタン・ムンムレット谷 カラーシャ交響曲 「ジョシ」 ”より)

 

ダギナイ かの偉大なる谷間の上に 
ウチャオ月に先し月のころわれ、山の牧にあり
おお、ダギナイ ダギナイ
白き柄の小剣 みぞおち深くささり
おお、ダギナイ

 

この歌の背景はカラーシャの誰もがしっている悲恋の物語です。

 

むかし、ある男その妻の妹と恋仲になりし
嫉妬した妻、放牧地に夫行きし間にヘビの毒もちいて妹を殺(あや)めし
男、戻りてみると、その恋びと、毒によりビーシャの花のごとく黄色くなりすでに息絶えて眠りし
男、悲しみ、「ダギナイ」を歌いしのち遺体に突き立てし刃の上に身を投げ、自害せり
男と恋びと、べつべつの柩に入れられしも翌朝にはひとつの柩のなかに眠りし驚きし人びと、ふたたびふたり引き離し
べつべつの柩に戻ししも、翌日またふたりひとつの柩のなかに収まりし
ふたりの愛、かくのごとく強し

 

この物語の歌を歌い、踊り、カップルが誕生していくんですね!

 

今どきのカラーシャの若者たち

ジョシ祭のもうひとつの意味は、男女の出会いの場所であることです。伝統的にはジョシ祭のあとに夏の放牧地に行くので、戻ってきた後に行われる8月下旬のウチャオ祭が恋愛の本番になります。ジョシと同じ舞台で、夜に若い男女だけが踊り、相手を探します。

 

「ガンドーリ」

25年以上カラーシャの春祭りに通っている男性に聞いたところ、カラーシャの衣装や若者の様子はかわってしまったけど、儀式は25年前と変わらないよ、と。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

参考文献・出展:季刊民族学1991年 小島令子著「カラーシャ交響曲「ジョシ」

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DISCOVER AFGHANISTAN : バンデアミール Band-e Amir

バーミヤンより西へ75km、標高約3,000m大地に忽然と現われる湖沼群がバンデアミール Band-e Amirです。 バンデアミールは「砂漠の真珠」とも例えられるほど美しい湖で、絶景の多いアフガニスタンでも随一のものです。

バーミヤンからバンデアミールへの道は、美しいシャヒダーンの渓谷と峠を越えて行きます。夏には、緑の草原に映える美しい高山植物や放牧の景色も見られます。今は湖の手前まで舗装され、ずいぶん簡単にアクセスできるようになりました。

 

ゴール朝時代の望楼

バーミヤンを出発し、アクラバト峠(Kotal Aqrabat)への検問所を過ぎてまもなく、正面にイスラム時代以降に作られた望楼が表れます。おそらくは12世紀のゴール朝時代に遡り、バーミヤン周辺の街道沿いに残されています。

 

シャヒダーン峠付近

シャヒダーンの峠を上がるとヒンドゥークシュの雪を抱いた山と滑らかな緑の草地、そこに放牧されている家畜たちの景色が表れます。

 

シャヒダーン峠付近

豊かな水、草に恵まれた健康的なヤギ・羊たち!

 

中世の建物跡 カラ・イ・シャヒダーン

シャヒダーンの村にある中世の城(要塞)の跡。昔から「シルクロード」の一部として人が行きかったしるしです。小さなバザールもあります。

 

学校へ駆け込む少女たち

学校もあり、ハザラの少女たちがちょうど授業に向かっていました。

 

燃料となる草を運ぶ少年

シャヒダーンより、景色の美しい道を走りシベルトゥ、カルガナトゥを経ていよいよバンデアミールへの道に入ります。最近、大きなゲートまで作られました。ここからは未舗装です。

 

バンデ・ズルフィカール

未舗装の道をゆっくり走っていくと正面に美しい湖面が表れます。これが最初に見るバンデアミールの景色です。これはバンデ・ズルフィカールの一部。荒涼とした風景の中に現れる「青」の美しさに驚きます。

この先にチケット売り場があり、さらに道を進めると中心となるバンデ・ハイバットの湖のビューポイントが表れます。

 

バンデ・ハイバット

このバンデ・ハイバットには第1駐車場、第2駐車場(週末は第3駐車場も・・・)があり、宿泊施設、食堂、そして遊園地的なものまで登場しました。新タリバン政権以降、これまでこの地域に来ることがなかった都市部からの観光客(特にパシュトゥーンの人々)が増え、訪問日が選べるなら「週末は避けた方がいい」くらいの賑わいを見せています。

 

バンデ・ハイバット

ボートライドが大人気。アフガン国内の観光客にとってバンデアミールのボートライドは Must to do アクテビティです。

 

バンデ・ハイバット

バンデ・ハイバットの高さ12mの天然のダム。バンデアミールの湖を隔てる壁(天然のダム)はトラバーチンという炭酸カルシウムで構成されています。岩だらけの地形にある断層や亀裂から染み出したミネラル豊富な水が長い時間を経て固まったトラバーチンの層を堆積させ、このような天然のダムを作り上げました。

 

バンデ・ハイバットの魚

バンデ・ハイバットの魚、種類はわかりません。バンデ・ハイバットは6つの湖の中で一番深く、ニュージーランドの潜水チームによる調査に深さ150mほどあるそうです。

 

バンデ・ハイバットからあふれ出る水

バンデアミールには全部で6つの湖があります。そのうち、バンデ・カムバールはほとんど干上がっています。

 

Band-e Zulfiqar  バンデ・ズルフィカール(アリーの剣の湖)

Band-e Haibat バンデ・ハイバット(おそれの湖)

Band-e Gholaman バンデ・グラマーン(奴隷たちの湖)

Band-e Qambar バンデ・カムバール(アリーの馬丁の湖)

Band-e Panir バンデ・パニール(チーズの湖)

Band-e Pudina バンデ・プディナ(はっかの湖)

 

バンデ・ハイバットのほとりにはハズラット・アリが一夜を過ごした場所として聖地になっている祠があり、昔から湖へ巡礼に訪れる人々がいました。巡礼地から一大観光地へ様変わりしました。

 

バンデ・ハイバットとバンデ・パニールの間の天然のダム

バンデ・ハイバット(左)とバンデ・パニール(右)、バンデ・プディナ(右中央上)の間にある天然のダム(トラバーチンの堆積物)。

 

バンデ・パニール、バンデ・プディナ

この写真は10年ほど前のバンデ・パニール、バンデ・プディナの写真です。今は地形が変わったように思われます。そして観光客用の施設も作られました。

 

湖の間の遊歩道

バンデ・パニール、バンデ・プディナの間にできた遊歩道。バンデ・ズルフィカールまで続きます。

 

バンデ・パニール

バンデ・パニール の周りに建てられたピクニック用の小屋。国内観光客にとってバンデアミールのピクニックは憧れです。

本当に美しいバンデアミール、週末ともなると大変にぎわう大観光地になりました。ただ、国内観光客の残すゴミや食べ物の残りを洗ったりする水質汚染が大変心配されます。

ところで、バンデアミールへの道では地元のハザラの人々が移動する様子など大変美しい光景に出会うことがあります。

 

ロバに乗って移動するハザラの家族。荒涼とした風景の中に赤色が映えます

 

燃料となる草を運ぶ

 

絶景バンデアミール、そこに生きるハザラの人々。アフガニスタンは常に大きな変化の中にありますが、アフガニスタンに暮らす全ての民族が平和に暮らせることを願います。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

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ブトカラⅠ – スワート渓谷のガンダーラ遺跡

ブトカラⅠはガンダーラの中心地のひとつであったスワート渓谷にある遺跡。紀元前3世紀に遡るマウリヤ朝時代アショーカ王の時代に遡る仏塔があること、その周りに272もの奉献塔があることで知られています。ブトカラⅠは仏塔群だけでなく僧院などの建築物もあるのですが、その部分は発掘されておらず、すでにその上に住宅が建てられています。

 

遺跡は1956年から1962年にかけて、イタリア考古学調査団とパキスタン政府考古学局によって発掘されました。この遺跡の歴史はマウリヤ朝時代紀元前3世紀にまでさかのぼり、紀元後11世紀ごろまで使用されていたと考えられています。

 

サンチ―型の円形基壇のメインストゥーパは、内部に一番古い部分にあたる紀元前3世紀のマウリヤ朝時代の仏塔があり、その上に覆いかぶせる形で何世紀にもわたり5回拡大されました。発掘現場の一部からその増築の過程が見えるようになっています。

 

メインストゥーパの周りは参拝者が右繞(うにょう)した繞道があります。参拝者は仏塔だけでなく胴部のレリーフも拝んだことでしょう。

 

ストゥーパの周囲の繞道には敷石が置かれ、一部にはガラスの装飾が残っています。

 

この座仏のレリーフは紀元前35~12年のインド・スキタイ王朝のアゼス2世のコインを含む層から出土したため、紀元前1世紀後期から紀元後初期のものとされているレリーフです。仏像の出現は紀元後とされているため、保守的な考古学者は紀元後1~2世紀ものと考えています。「仏像のはじまり」は常にガンダーラ美術の大きなテーマのひとつ。仏像の出現時期については議論が続いています。

 

メインストゥーパを取り囲む奉献塔(奉献ストゥーパ)を見て見ましょう。奉献塔は大きなストゥーパの周りに作られ小さなストゥーパ型のものです。当時の王侯貴族が寄進したものと考えられ、この奉献塔も崇拝の対象になりました。

 

奉献塔の方形基壇のレリーフの一部です。この図は「ブッダの一生」の出家のシーンのひとつで、愛馬カンタカがシッダールタの足をなめて別れを惜しんでいる図と思われます。奉献塔には寄進者の好むモチーフが描かれたのかもしれません。

 

奉献塔の葡萄のレリーフ

 

レリーフに表現された虎の頭です。右下には繊細に彫刻されたコリント式の柱頭。

 

パキスタンではトラは1900年ごろに絶滅したとされています。当時は豊かなスワートの森にベンガルタイガーが闊歩していたことでしょう。

 

仏鉢を持つ供養者のレリーフ

 

奉献塔のレリーフ、トリラトナ(三宝標)。法・仏・僧を現す3つのチャクラ(法輪)を崇拝の対象として描きました。

 

欠けた部分が多く、モチーフはわかりません。彫刻の素材には一般的に緑色千枚岩が使われています。

 

スワート博物館に展示されているブトカラⅠ出土品の一部を紹介します。スワートらしいものをピックアップしてみました。

 

ブトカラⅠ出土品:ブッダの一生のパネルのひとつ、「学校に通う太子」。ガンダーラではこの場面はなぜか「羊」に乗って通学する様子が描かれます。羊に直接乗っている場合もあれば、羊のカートに乗っている場合もあります。今のところこの理由について説明している学説はないようです。

 

ブトカラⅠ出土品:当時の貴族の女性像。大変豪華な髪飾りをしており、当時のスワートの風習を見ることができます。

 

ブトカラⅠ出土品:同じく、当時の貴族の女性を表現したと思われる彫像。蓮の花を片手に持つ女性の衣装・装飾が見事に描かれています。

 

ブトカラⅠ出土品:このレリーフは以前は遺跡にあったのですがスワート博物館に移設されました。シッダールタの「婚約」とされるシーンで、真ん中に立つのがシッダールタ太子、一番右端が恥ずかしそうにするヤショーダラーで、その横がヤショーダラーを紹介する祭祀。シッダールタの左側はひざまずくマーラとその周りはマーラの娘3人が描かれています。マーラは世俗の象徴でシッダールタの成道を阻止するものとして描かれています。

 

コリント式の柱頭。アカンサスの葉とともに寄進者と思われる女性が描かれています。

 

スワート博物館はバリコット、サイドゥシャリフストゥーパ、ブトカラⅠからの出土品展示室が設けられています。ぜひ、ゆっくり時間をとって見学してみてください。

 

↓↓ Butkara – Gandhara site of Pakistan

 

ブトカラⅠ – 今では周囲を住宅街に囲まれてしまいましたが、520年に中国の僧・宋雲が訪問した記録には大変豪華な寺院の姿が記されています。

 

Image & text: Mariko SAWADA

参考文献:栗田功著「仏陀の生涯」他

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DISCOVER AFGHANISTAN:キルギス族のブズカシ、ワハーン回廊 -Buzkashi in Wakhan Corridor

夏のワハーン回廊、チャクマクティン湖(Chaqmaqtin Lake)の湖畔で行われたブズカシです。ワハーン回廊のキルギス族の間では、イスラムのイード(犠牲祭)の時のほか、結婚式でも行われています。

 

>ワハーン回廊、アフガンパミールのキルギス族

 

ブズカシはアフガニスタンの国技で、2組の騎馬グループがヤギを奪い合います。ペルシャ語で「ヤギ=Buzを引っ張る、引きずる=kashi」と、そのままの意味です。ブズカシを見たのは、チャクマクティン湖畔のキルギス族のキャンプに3日滞在した最後の日、それまでキャンプで見てきた男性たちが馬に乗ったとたん、急にカッコよく見えた日です。正直、それまでは女性は朝から乳しぼりやクルト作りで働いているのに、男性は・・・と感じていました。

 

↑↑ ワハーン回廊の絶景の中で行われたキルギスのブズカシ

 

前タリバン(現在のタリバン政権ではありません)が支配していた1996年から2001年は多くの娯楽が「不道徳」なものとして禁止され、ブズカシも禁止されていました。その後、ブズカシは復活し、いまでは各州ごとのトーナメントが行われ国を挙げての一大行事になっています。大都市のブズカシはスポンサーのロゴをつけた衣装でスタジアムで行われたりしますが、地方のブズカシは純粋に人々が楽しむ伝統行事です。

 

結婚式へ向かう人々。

 

結婚式の祝い料理のため、羊が解体されていました。

 

羊の肉を運ぶキルギスの少女達。

 

お祝いとブズカシのために駆けつけた男性。

 

ブズカシの前に、一同が祈りをささげ、供食。ミルクティーと揚げパンがふるまわれました。

 

ブズカシが始まるまで遊びに興じる子供たち。

 

ブズカシをやってみたいという、キルギスの少年。

 

祈りと供食が終わり、ようやくブズカシが始まります。

 

頭を落としたヤギ。使われたのはこの日に殺したヤギではなく、ブズカシ用に村で用意されている詰め物になっているヤギでした。

 

頭を落としたヤギが大地に投げ落とされ、争奪戦が始まります。

 

このヤギを地面から片手で引き上げて、持ちながら走る力と技が必要です。この間、鞭は口に銜えます。

 

ヤギの争奪戦。

 

お茶を飲みながら観戦する家族。

 

参加者も休憩、ミルクティーを。

 

休憩の後、再びブズカシへ。

 

ワハーン回廊の山並みの絶景の中繰り広げられる、キルギス族のブズカシです。

 

Image & Text : Mariko SAWADA

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タルパンのアルターロック<祭壇の岩>、インダス河畔の岩刻画

タルパンのアルターロック(Alter Rock)「祭壇の岩」はインダス川北岸の砂地にあります。仏教モチーフより動物を中心としたモチーフが描かれた岩です。この古代シルクロードの魅力に満ちた岩刻画をご紹介します。

古来より多くの旅人が行き来したタルパン。最初にこの場所を選び彫刻をしたのは遊牧民でした。アルターロックの正面の岩面はさまざまな動物、屠殺シーンが描かれ、まさに「祭壇」として使われていたのかもしれません。

 

アルターロック、全景

このアルターロック(Alter Rock)の岩の岩刻画の中でも際立つのが、この「生贄を持つ戦士」の絵。生贄なのか狩猟した動物(多くの資料にはヤギとなっていますが動物好きの私にはアイベックスに見えます)を屠るシーンのようですが、大きなナイフを持つ中央アジア風の人物の姿が大変特徴的です。
この男性の服装は当時の騎馬遊牧民の衣装だと考えられ、紀元前3世紀から紀元後3世紀までイラン高原で栄えた王朝、パルティア(Parthian)の人物ではないかとされています。

パルティアは現在のトルクメニスタンで発祥し、イラン高原を中心に紀元前3世紀から広く西アジアを支配し、その治世末期の紀元20年頃分派し、ゴンドファルネス王によってインド・パルティア王国が建てられました。タキシラも一時都としたインド・パルティアはこのインダス河一帯でも活躍していたのでしょう。

この動物を生贄(または屠る)岩刻画のモチーフは殺生を禁ずる仏教の影響より、中央アジア民族の影響が強かったことが伺えます。

 

前足を45度にまげた、デザイン化された馬(また一角獣)の図です。
このポーズは”Knielauf”と呼ばれる表現で古代ギリシャで飛翔を描く際に見られた表現で、アケメネス朝ペルシャの芸術でも見られます。この馬はたてがみと尾が結ばれまるで弓のように見えます。

 

デザイン化したアイベックスでしょうか。目が円い、ことなるスタイルのイラン的な表現です。

 

角をデザイン化したシカのような生き物と、それを追う2つの尾を持つ生き物の図です。パキスタンで野生動物の観察をしている私には、崖にいるアイベックスを襲うユキヒョウに見えます。面白いのは崖のように見えるギザギザの線の先にヘビの頭があることです。
「これは前にはヘビがいて、後ろにはユキヒョウがいて、さらに狩人と猟犬がいて、行き場を失って困っているアイベックスの図です」と教えてくれた人がいました。
このような波状のようなデザインは南シベリアのアルタイ地方の芸術によく見られる特徴だそうです。

このアルターロックにおいて、イラン的な要素の岩刻画が見られることは、すでにアケメネス朝時代にガンダーラ、タキシラがサトラップであったことから驚くことはありませんが、世界でも有数の山脈地帯を越えた北にある南シベリアのアルタイ地方とこのインダス河畔地域に交流があったことは驚かされます。

 

光背持つ大きな仏陀座像と同じく光背を持つ4つの小さな仏陀座像の図です。どの仏陀像も定印 を結び、その衣装は両肩を隠し、衣紋が平行に優雅に描かれています。このような衣紋はインドでAD320~550年に栄えたグプタ朝で見られるデザインに似ています。同じ岩にアイベックスと思われる生き物が描かれていますが、その動きと方向から先にこのアイベックスが描かれ、その上に仏陀像が描かれたと考えられます。

このアルターロック岩刻画の製作年代ですが、仏教モチーフ以外のものは紀元前1千年期半ばごろのものと推測されています。

 

アルターロックの西側のパネルも岩刻画で覆われてます。

 

インダス河畔の岩刻画の中でもマスターピースとも言えるアルターロック。
繰り返し言い続けていますが、これらの岩絵がダムにより永久に失われることが残念でありません。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

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カテゴリ:インダス河畔の岩刻画 > ■ギルギット・バルティスタン州
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杏の花咲く、春の桃源郷フンザ

3月下旬、フンザの谷が淡いピンク色の杏の花に包まれました。畑には小麦の新芽の緑が。フンザは1947年の印パ分離独立後も1974年まで藩王が支配していました。ブルシャスキー語を話す、ブルショーの人々が暮らす谷です。

 

フンザは「桃源郷」と謳われ、「長寿の里」として知られています。この美しさ、果樹に支えられた村の暮らしが「長寿の秘訣」なのかもしれません。

ブルショー Brushoの人々が話す言葉、ブルシャスキー語 Burushaski は「孤立した言語」で他のいかなる言語とも関連性が見つかっていません。インド・アーリア系民族の到来以前にこの地に存在した言語集団の末裔ではないか、と言われています。フンザ谷、フンザ川をはさんで対岸のナガール谷、ワハーン回廊へ通じるヤスィーン谷、イシュコマン谷にもブルシャスキー語を話す人々が暮らしています。

 

バルティット村の中心地の景色です。昔は大きな建物というと、藩王の居城だったバルティットフォート Baltit FortとダルバールホテルDarbar Hotelくらいでしたが、今は大きな建物(ホテル)が目立つようになってきました。

 

バルティット村から望むラカポシ Rakaposhi (7,788m)。フンザ川対岸のナガール谷の山で、フンザのいたるところから展望できる名峰です。

 

同じくバルティット村から望むディラン峰 Diran  (7,266m)。

 

杏の花咲くアルティット村 Altit Village とドゥイカル Duikal の間を歩いてみました。

 

満開に咲き誇る杏。杏の実、その種、種から取る油がどんなに暮らしの中で大切かがわかります。

 

アルティット村はたくさんの杏の果樹に覆われていました。村歩きでは美しい村人との出会いが。フンザの人々、ブルショー人は見た目も色が白く、髪の毛の色が薄い人が多くいます。

 

可愛らしい子供たちとの出会いが。

 

この日のランチは、バルティット村のアミンさんの家でフンザの郷土料理を用意してもらいました。

 

ちょうど写真家・中西俊貴さんの撮影ツアーがフンザに来ており、郷土料理を作る様子を撮影。

 

フンザを代表するメニュー ドウドスープ Dowdo Soup を準備しています。

 

大変美味なチーズチャパティ(ブルシャスキー語でブルスシャピック Burus Sapik)を作っています。フンザのチーズ、ミント、トマト、ネギ、玉ねぎ、果実オイルが小麦のチャパティで巻かれています。とてもヘルシーで、パキスタンに来て食事に困っているベジタリアンの方にもおすすめです。

 

本日のランチ。果実油をたっぷり使った郷土料理、フンザの郷土ワインとの相性も抜群です。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

Visit : March 2023, Hunza, Gilgit-Baltistan

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DISCOVER AFGHANISTAN:ジャムのミナレット The Minaret of Jam

アフガニスタンにある2つの世界遺産のうちのひとつが「ジャムのミナレットと考古遺跡群 Minaret and Archaeological Remains of Jam」。ゴール州の山の中にあり、バーミヤンからもヘラートからもアクセスが容易でなく、悪路を延々と走らないと行けない場所にあります。

 

「ミナレットと考古遺跡群」と呼ばれていますが、実際にミナレットかどうかははっきりしていません。そこにはモスクはなく(もしかしたらオープンタイプのモスクがあったのかもしれません)、イスラム以前の異教の聖地の上に建てられた戦勝記念塔ではないか、など諸説があります。素敵な説のひとつに、「幻のフィローズコー(フィールーズクーフ)」説があります。ゴール朝には3つの主な都がありました。ガズニGhazni 、バーミヤン Bamiyan、フィローズコーFirozkohです。このうちフィローズコーのみ所在が明らかになっておらず、ミナレットのそばの遺跡群がその都跡なのではないかと推測されています。そういえば、ゴール州のチャグチャランChaghcharanは町の名を最近フィローズコーFirozkohに変え、バーミヤン側からジャムのミナレットを訪れる旅行者の玄関の町になっています。

 

ミナレットのそばの岩山に残る建築物の跡。見張り塔がはっきりとわかります。

ジャムのミナレットはアフガニスタン中央部の山岳地帯から興ったゴール朝がアフガンから北西インドまで支配した時代に作られました。1150年~1215年に栄えた王朝で12世紀の王、ギヤスウッディーンGhiyath al-Din Muhammad(1162年~1203年)とその弟ムイッズィディーンMu’izz ad-Din Muhammad (1203年~1206年)の時代が最盛期でした。王朝はこの兄弟の死後分裂し、1221年にはチンギスハーンの軍隊によりその都も滅ぼされました。その後、山奥に位置するため人目に触れることはありませんでしたが、1943年ヘラートの知事によりこの遺跡のことが公表され、1957年にアフガン歴史協会(Afghan Historical Society)とフランス考古学代表団(French Archaeological Delegation in Afghanistan)が訪問し、この貴重な遺跡が「発見」されました。

 

ジャムのミナレットは高さ65m、3層の構造になっている

この遺跡はハーリルード川とジャム川の合流地点にあることから土台が浸食され少し傾いています。ジャムのミナレットはゴール朝時代の残された唯一の建築物で中世のイスラム建築を知るために非常に重要であり、2002年に世界遺産に登録され「危機遺産」として遺跡の保護が叫ばれています。

ジャムのミナレットは3層構造になっていおり、各層は突き出たコーベルバルコニーで仕切られ最上部には6つのアーチの円形のアーケードがあります。

 

頂上部の6つのアーチのアーケード

37m付近までの第1層は型押しされた黄褐色のレンガのレリーフで精巧に装飾されています。

 

ミナレットの八角形の基礎部の直径は14.5mで高さは65m、先細りの塔で焼きレンガでできています。八角形の基壇に対応する8つの縦長のパネルは型押しのレンガで見事にされています。ブハラで発達したバラエティ豊かな幾何学模様、植物模様。素晴らしいのはアラビア語クーフィー体でコーラン第19章スーラ、マルヤム章の全文の碑文の帯が1つのパネルから別のパネルへと表現されているのです。

 

コーラン19章を現したクーフィー体のアラビア語がパネルを取り巻き延々と続きます。

最初のバルコニーのすぐ下に鮮やかなペルシャンブルーのクーフィー体の碑文、表面で唯一色のついた碑文があり、このミナレットの創建に関わった支配者の名が宣言されています。「サムの息子、ギャスウッディーン・モハマド、偉大なスルタン、王の中の王 Ghiyasuddin Mahammad ibn Sam, Sultan Magnificent! King of King!」この中に建築家の名前も「アリ、・・・の息子(・・・ Ali, son of ・・・)」と小さく刻まれています。

 

創健者ギヤスウッディーンの名を現す

インドのデリーにあるクトゥブ・ミナール Qutub Minarは1200年ごろデリー・スルタン朝時代に作られた、煉瓦で作られた世界一高いミナレット(72.5m)で、その建国者であるクトゥブッディーン・アイバクはゴール朝に仕えており、クトゥブ・ミナールはジャムのミナレットに影響され建設されたと言います。逆に、ガズナ朝時代のガズニに「ガズニのミナレット」があり、ジャムのミナレットはこれに影響されて建設されたようです。

 

ジャムのミナレットの影響を受けて建設されたというクトゥブミナ-ル(デリー)
ガズニのミナレットはジャムのミナレットの建築に影響を与えました

以前はミナレットの中のらせん状の階段を登ることができましたが、今はその出入り口は閉じられ入ることはできなくなっています。
長い悪路の旅の果てに見る「ジャムのミナレット」、その景色は圧巻で、遺跡ロマンたっぷりです。

 

Image & text : Mariko SAWADA

Reference :”An historical guide to Afghanistan ” Nancy Hatch Dupree

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デオサイ高原の5,000m峰、シャトゥン・ピーク登頂

2020年の夏に出発予定だった「デオサイ高原、シャトゥン・ピーク登頂」企画、コロナ禍でキャンセルとなって以来、念願のツアーを2023年夏に実現することができました。ガレ場続きのルートは大変でしたが、無事5名のメンバーと登頂を果たすことが出来ました。手厚いサポートをしてくれた登山ガイドやサトパラ村からのポーター達に感謝です。

 

山頂からの360度のパノラマビュー。気分は高所クライマー!

 

チラスからアストール渓谷を走りデオサイ高原へと上がります。途中、ナンガパルバットの圧巻の景色。デオサイ高原に上がると美しいショーサル湖畔でキャンプ。大変美しい場所ですが、標高4,200m近いキャンプ地で深夜まで騒々しい音楽で騒いでいるパキスタン国内観光客に驚きました。が、メイン道を外れると他に誰もいない秘境エリアに入り本来のデオサイ高原のが広がります。ベースキャンプからも世界第9位の高峰ナンガパルバット(8,126m)が見えます。

 

登山の序盤はのんびりしたルート、キンポウゲやサクラソウの群生に目を癒されながら歩いて行きます。後に困難なガレ場続きのルートが待っているとはつゆ知らず。

 

ルート上は山上湖が点在しています。とても美しい谷です。前方の雪山が今回目指すシャトゥン・ピーク!

 

サクラソウの群生地を歩きキャンプ1を目指します。楽なのはこの辺りまで。

 

ガレ場のキャンプ1に到着。さてどこにテントを張ろうか。

 

ガレ場の上で寝るよりは、雪の上がずっと快適です。雪渓が残っていてよかった、いよいよ明日早朝山頂アタックです!

 

キャンプ1から山頂までは95%がガレ場のルート。永遠に続くように思える急登をただひたすらに登ります。

 

立ち止まって振り替えると素晴らしい展望が広がります。

 

山の向こうはインド側のカシミール地方。シュリーナガルもすぐ近くです。インドヒマラヤの名峰ヌン峰・クン峰も見えました。

 

世界第9位峰ナンガパルバット8,126mも見えます。

 

ガレ場の急登もあと少し。稜線が近づいてきました。

 

稜線に出ると後は雪渓を登るだけです。日も高くなってきました。

 

5名のメンバーとガイド、ポーター達とシャトゥンピーク(5,260m)登頂に成功です!バックはナンガパルバット!

 

山頂からはK2をはじめバルトロ山群も展望する事が出来ました。つまりここからはパキスタンにある8,000峰5座、ナンガパルバット(8,126m)、K2(8,611m)、ブロードピーク(8,051m)、ガッシャーブルムⅠ(8,068m)、ガッシャーブルムⅡ(8,034m)のすべてを展望できるという事になります。天気に恵まれ、風もなく好天。この後、急なガレ場の下りが待っていることはとりあえず忘れて、約1時間近く山頂に滞在して至福の時を味わいました。

 

Image & text : Tomoaki TSUTSUMI

Tour conducted in July 2023, Deosai National Park, Gilgit-Baltistan

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DISCOVER AFGHANISTAN:ワハーン回廊、アフガンパミールのキルギス族

アフガニスタン、ワハーン回廊。秘境好きの旅人の間で“ラスト・フロンティア”と呼ばれてきたこの地も、チャクマクティン湖まで未舗装の自動車道が完成し、キルギス族の暮らすリトルパミールまで車で行けるようになりました。4日間のトレッキングが、4時間の4WDの旅になったのです。高原で暮らすキルギス族の暮らしにも変化が現れています。

ワハーン回廊

ワハーン回廊はアフガニスタンのバダフシャン州にあるタジキスタン、中国、パキスタンと接する細長い領土(回廊)。山岳高原地帯でアムダリヤの源流が発する場所であり、夏には豊かな水と草地が現れ「パミール」と飛ばれています。

この不思議な国境線は1873年にアフガニスタンとロシア帝国の間がパンジ川・パミール川沿いに国境がひかれ、1893年にアフガニスタンとイギリス領インド帝国(現在のパキスタン)の国境線(デュアランドライン)が引かれたことでできました。当時のロシアとイギリスの「グレートゲーム」の緩衝地帯となった場所です。

 

チャクマクティン湖 Chaqmaqtin Lake
キルギスの墓 Bozai Gumbaz アムダリヤ源流となるワフジール川とワハーン川の合流地点

ワハーン回廊のイシュカシムからサルハッドまではワヒ族が暮らし、そこから標高1,000mほど上がった「パミール」にはキルギス族が暮らしています。

チャクマクティン湖(Chaqmaqtin Lake)周辺は「リトルパミール」と呼ばれ、パミール川に沿ったタジキスタン国境からゾルクル湖にかけての高原は「ビッグパミール」と呼ばれています。いずれも標高4,000mを越える高原です。「リトルパミール」ではキルギス族は夏は湖の南で暮らし、冬は湖の北へと移動します。

 

チャクマクティン湖を背景に、キルギス族の家族

アフガンパミールのキルギス族

キルギス族はテュルク系の中央アジアに暮らす民族です。古くからアフガンパミールへ夏の放牧地を求めてやってくるキルギス族の小グループがいましたが、1917年のロシア革命時に多くのキルギス族がアフガンパミールへと移動してきました。そしてこの閉鎖的な地域で季節ごとの小移動を繰り返す生活を作り出しました。その後の1949年の中国の建国、1978年のアフガニスタンの共産主義政権の成立時に国境を越えた民族移動があり、現在は1,300~1,400人ほどのキルギス族がアフガンパミールに暮らしていると言われています。最近では2020年の新タリバン政権成立後にタリバンを恐れた人々が一時的にタジキスタン国境へと移動しましたが、自分たちの家畜・生活が守られると聞き戻ってきたそうです。

リトルパミールのアンダミン集落のシューラの責任者によると、2023年のリトルパミールには28の集落があり、従来はリトルパミールに500人、ビッグパミールに800人ほどが暮らしていたそうですが、3年ほど前からビッグパミールの方からリトルパミールに人が移動してきて、今はリトルパミールに1150人が暮らしているとのことでした。これは2020年の道路の完成が影響しているのかもしれません。

 

チャクマクティン湖周辺に暮らすキルギス族

厳しい高原での暮らし

イシュカシムからサルハッドへ移動の途中に、助けを求めるキルギスの男性に出会いました。男性によるとパミールで出産をした妻の体調が悪く、診療所でイシュカシムの病院へ行くように言われたとのことでした。「お金がない」、と。キルギス族の中にはパミールを訪れる商人と羊やヤギなどの家畜との交換で物を手に入れ、現金を持たない人もいます。「車に乗って病院へ行く」にはお金が必要なのです。この時はお金を渡し、この方の奥様の無事を祈ることしかできませんでした。

村でも子供を失った親、妻を失った男性にも出会いました。そして、老人の姿が少ないのです。厳しい環境に生きていることを実感しました。

 

キルギス族の少年

アフガンパミールのキルギス族は自給自足をしているわけではありません。家畜を育て乳製品を作り、パミールにやってくる商人<ワハーン回廊のワヒ族や南部から来るパシュトゥーン族>から必要なものを手に入れます。家畜や乳製品と交換したり、または売ることで生活に必要な商品や現金を手に入れています。羊との交換の場合は、今年の子羊を来年受け渡す約束で成立するケースも多々あります。

 

キルギス族の育てるヤギ・羊。羊はお尻に脂肪を蓄えたドンバ羊です
アフガンパミールのヤクは隣国パキスタンのヤクより大型です
乳製品<クルト>づくり

新タリバン政権(2020年)以前はパキスタンのチャプルソンと交易がありました。毎年500匹のヤク、夏の間に作った乳製品クルトが売られていきました。今は、カブールなどアフガニスタン南部から来る商人に羊・ヤギを売り、チャプルソンとの交易再開を心待ちにしていると言います。

キルギス族の女性の夏の暮らし

キルギス族は初夏に生まれた家畜の子の世話をし、乳を搾り乳製品を作り暮らしています。朝はそんなに早くなく、8~8時30分ごろに乳しぼりを開始します。その後は川で洗い物をしたりナンを焼いたり販売用の乳製品クルト作ったりします。ワハーン回廊や南部アフガニスタンから来る商人との交渉も楽しみの一つ。女性たちは競って派手な布を買い、行事の度に新しいものを身にまといます。商人たちも彼女たちの好みにあったものをしっかり把握しているようです。それに比べ、キルギスの男性は「古着」が中心で地味です。

 

ヤクの乳を搾る

美しすぎる、キルギス族の世界

リトルパミールへの旅ではキルギス族のある小グループの暮らす集落に4日滞在しました。私たちがユルトを訪問するだけでなく、キルギス族の子供や家族が我々のキャンプを訪問してくるようになりました。私たちの持っているものへの興味、食べているものへの興味。子供たちの中には好奇心旺盛で朝から晩まで私たちのキャンプにいる子もいれば、親と一緒にしか来れない子もいました。

朝のヤクの乳しぼり、洗濯、クルトづくり、ナン焼き、空いた時間に友人訪問。歩いて、そしてロバや馬に乗って一日が過ぎていきます。

 

クルト(乳製品)を作る傍らで髪を洗う女性。
髪を洗う女性
キルギス族の暮らすユルトの中
食器の片づけをする子供たち
キャンプ地を訪問する子供たち

パミールに20年以上やってきている商人は、「道路ができてから貧しくなった人たちがいる」「ヤクをたくさん売って車を買い、その車が故障して貧しくなった人がいた」と。車で来れるようになったことで以前より多くの商人が訪れるようになったのでしょう、現金でのやりとりが増え、貧しくなった人たちがいる一方、車も家畜も持つキルギスの家族は豊かになっているようにも見えました。

 

アフガンパミールのキルギス族は、想像していたよりずっと多くの経験をし、いろんな人と出会いながら暮らしていました。大変、魅力的で興味深いものでした。

 

Photo & Text : Mariko SAWADA

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捨身飼虎(しゃしんしこ)ジャータカ – チラスの岩刻画

インダス川にできる2つのダムのため、永久に失われることになる貴重なシルクロードの遺産、”インダス河畔の岩刻画”について記録しています。

 

「捨身飼虎(しゃしんしこ)」ジャータカをご存じでしょうか。日本では法隆寺所蔵の国宝「玉虫厨子(たまむしずし)」の側面に「捨身飼虎の物語」が描かれています。

チラスのインダス川沿いには、劣化はしているものの、その図を見ることができる岩刻画が残っています。

 

捨身飼虎(しゃしんしこ)ジャータカ Vyaghri-Jataka 

昔、インドに3人の兄弟王子を持つ王様がいました。ある日、王と3人の王子たちは竹林に遊びに行きました。そこで7匹の子虎を連れた母虎と出会いました。親子共々飢えてやせ衰え、餓死寸前でした。3人の王子は深く憐みの心を抱きましたが、二人の王子は「救うことはできない」とその場を立ち去りました。3番目の王子は、「菩薩は慈悲の心でわが身を捧げ、他人を救う。私はこの身を捧げ飢えている虎の親子の命を救おう」と決心しました。王子はその身をゆだね、虎は王子を食べました。この虎の親子の命を救った王子こそが、お釈迦様の前世であった、という物語です。

 

捨身飼虎(しゃしんしこ)ジャータカや法隆寺の「玉虫厨子(たまむしずし)」については各お寺様のホームページなどで詳しく紹介されています。

 

かなり薄くなっていてわかりにくいのですが、下記がこの岩刻画のスケッチ。

 

The Indus – Cradle and Crossroads of Civilizations (Pakistan-German Archeological Research)より

図はこの岩刻画をスケッチしたものですが、横たわる王子と王子を食べようとしている虎のトラの親子、その様子を岩の陰から見ている父王と二人の兄弟王子を現しています。

 

この図のそばに書かれているブラフミー文字の解読により、この図が捨身飼虎(しゃしんしこ)Vyaghri-Jatakaであることも証明されているそうです。

 

「捨身飼虎(しゃしんしこ)」ジャータカの描かれている岩の全面です。中心に大きなストゥーパが描かれています。方形基壇の上に半球状の伏鉢、仏舎利を収めた容器、傘蓋、旗などガンダーラ様式の特徴が伺えます。上部インダス川では5世紀ごろが仏教の最盛期だったと考えられます。

 

残念ながらこの、尊い岩刻画もダムの完成によって失われます。残念、という言葉で片づけられるものではありません。この岩刻画の破壊は1960年代のカラコルムハイウェイの建設から始まり、道の拡張工事の度に破壊されてきました。さらには、一時期仏教のモティーフを好まない人々により上にペンキや石灰が塗られて失われたものもあります。

 

カラコルムハイウェイ沿いのペンキを塗られた岩刻画。中央の「アイベックスを追うユキヒョウ」の図は2020年12月に洗い落としたものです。

 

今回もかぎられた時間の中で塗られた岩刻画を洗う作業をしました。

 

これが現在の岩刻画の状況。右から文殊菩薩、宝冠仏陀とその右横に香炉かランプを持つ信者、ストゥーパが描かれています。三つ葉形のアーチが仏陀の全身を囲んでおり、カシミール様式で描かれています。

 

下記の写真はペンキが塗られる前の図です。

 

The Indus – Cradle and Crossroads of Civilizations (Pakistan-German Archeological Research)より

このパネルのペンキの洗い落とし作業を続けていきます。

この素晴らしい仏教徒の遺産を、ダムに水没する前にぜひ見に来てください。

 

Photo & text : Mariko SAWADA

Site : Chilas, Gilgit-Baltitstan

※記事について:古い書籍をもとに記事を書いています。別の見解や説明も存在するかと思います。勉強したいので是非お知らせくださるとうれしいです。Reference:”Human records on Karakorum Highway” “The Indus, cradle and crossroads of Civilization”

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