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夢二

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日本

夢二

 

監督:鈴木清順
公開:1991年

2021.7.21

極彩色の紅葉―北陸の風土が彩る 画家・竹久夢二の迷宮的世界観

大正6年、石川県金沢。竹久夢二は悪夢に取り憑かれていた。駆け落ちを約束した恋人・彦乃とは、湖畔で落ち合う事になっていた。そこへ、隣の村で殺人事件があったという知らせを聞く。妻を寝取られた男が殺人鬼と化して、山へ逃げ込んだという。
女たちの間を行ったり、来たりする夢二。紅葉の金沢の湖はいつしか血に染まっていく・・・

「幻想的な」というキャッチフレーズがぴったりの『夢二』は、紅葉やススキがみたいとき(紅葉やススキをどのように撮ればいいのか考えを練るとき)に、私が折にふれて参考にする作品です。実在の画家・詩人の竹久夢二をモデルにした物語ですが、原作はなく、いくらかの史実をもとにして鈴木清順監督特有の映画言語が物語が展開されていきます。

物語の筋は途中何度も見失うタイプの観念的な作品ですが、紅葉の色彩の素晴らしさや、山水画のような浮遊感は唯一無二です。耳に残る不可思議さをもつサウンドトラックは、金沢とも竹久夢二とも全く関係ないけれども詩的なことで有名な香港映画『花様年華』(ウォン・カーウァイ監督)に全編に引用されました。

主なロケ地となった金沢の湯桶温泉についてですが、西遊旅行の国内ツアーの見出し写真の多くを見たときのように「日本にはこんな場所があったのか」と思わせてくれる光景の場所です(20年前の作品ですが 調べた限りでは今も景観が保全されていてそこまで変わっていないようです)。

北陸には3回行ったことがあり、毎回金沢を拠点にしましたが、一番昔ですが一番強く記憶に残っているのが、20年ほど前に真冬に金沢を旅したときのことです。東京で生まれ育った私にとって、その寒さは桁違いで、「横殴り」という言葉がぴったりの凍てつく風もかなり堪えて、完全に油断していた私は震えて観光もままなりませんでした(並んで入ったお寿司さんで生タコがとてつもなく美味しく、「タコ感」が覆されたときだけ寒さによる震えが止まったのをよく覚えています)。

テキスタイルや和紙など、北陸が誇る伝統工芸が劇中でどこまで使われているかは専門外でわからないのですが、「北陸」と聞くとまず最初に思い出すのがこの『夢二』です。ほかにも、鈴木清順監督の作品には鎌倉を中心に独特な世界観が展開される『ツィゴイネルワイゼン』(現在は立入禁止の釈迦堂切通がこの世とあの世の境目として使われています)や松田優作が出演を懇願したという『陽炎座』(琴弾橋という鮮やかな赤で飾られた欄干を持つ短い橋が 異界への入り口に化けます)もオススメなので、ぜひ『夢二』とあわせてご覧ください(大正三部作と呼ばれています)。

東京干潟/蟹の惑星

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日本

東京干潟/蟹の惑星

 

監督:村上浩康
公開:2019年

2021.7.13

満ち引きする小宇宙ー多摩川河口の干潟という秘境から望む、大都会・東京の眺望

しばらく海外の作品紹介が続きましたが、ふたたび邦画の紹介に戻ります。今回は多摩川河口という極めて限定された範囲を深く掘り下げた、同一監督による2作品です。

『東京干潟』
多摩川の河口で暮らす80代のホームレスの老人は、捨てられた十数匹の猫を殺処分から救うために日々世話をしながら、干潟を臨む小屋で10年以上生活している。生計の柱はシジミだが、近年は乱獲や環境変化によってシジミの数が減少してきているという。変わりゆく東京の姿を、老人は複雑な思いで干潟から日々眺めている。

『蟹の惑星』
多摩川河口の干潟で、15年にわたって独自にカニの観察を続けている吉田さんは、定年退職後にカニというライフテーマを自らの人生に添えた。干潟には狭い範囲に様々な種類のカニが生息しており、吉田さんはカニの生態記録に余念がない。その研究成果からは激変する東京にも適応ししっかりと生き残っているカニたちの、生命の神秘が明らかになる。

コロナ禍という状況がなければ、「旅」や「秘境旅行」というのは、多くの場合「遠くに行くこと」と関連深いと思います。ひとたび移動が制限されると、「近くて遠い旅」が注目されるようになりました。すぐ近くにあるけれども今まで自分が目を向けてこなかった、いわば「身近にある秘境」を旅することです。

『東京干潟』と『蟹の惑星』はまさにその「身近にある秘境」に一歩一歩深く踏み入っていく体験ができるドキュメンタリー映画です。そして、多摩川の河口で日々考えを巡らせながら探求者・探索者として生きる被写体は、西遊旅行のお客さまを想起させました(リピーターの皆様はきっと主人公たちに感情移入できるはずです)。

2020年にアカデミー賞・作品賞を受賞した『パラサイト 半地下の家族』でポン・ジュノ監督は格差社会に関する様々なシンボルを作中に点在させていましたが、本2作はそれとは全く違う形で、日本社会の現状をシンボルとして表現しています。最も強いシンボルは「干潟」「河口」です。

東京オリンピックに向けて干潟には橋がかかり、沿岸には高層ホテルが建てられていく。しかし、河口に現れては消える干潟に立ってみると、格差社会・環境破壊・高齢化問題・ペット遺棄など、現代日本が抱えるさまざまな問題が見えてくる。私は東京で生まれ育ち多摩川を毎日渡って10代の多くの時間を過ごしましたが、このように東京を眺めることができる場所があることは完全に盲点でした。知られざる多摩川河口のルポルタージュであるだけでなく、「身近にある秘境」を探そうという意志(既に見つけられている方は もっと掘り下げようと思わせてくれる力)を観客に与えてくれる一作です。

大地と白い雲

c22748c9a7c94242(C)2019 Authrule (Shanghai) Digital Media Co.,Ltd, Youth Film Studio All Rights Reserved.

中国(内モンゴル)

大地と白い雲

 

Chaogtu with Sarula

監督:ワン・ルイ
出演:ジリムトゥ、タナ、ゲリルナスン ほか
日本公開:2021年

2021.7.7

モンゴルの果てしない大地と空―その「果て」が見えてしまった若い夫婦の選択

内モンゴルの草原に、ある若い夫婦が暮らしている。夫のチョクトは馬ではなく車を乗り回すような都会での生活に憧れているが、妻のサロールは昔ながらの暮らしに満足している。

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しかし、そんな2人の気持ちは、大小さまざまな出来事が要因で段々とすれ違うようになっていく・・・

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本作は大きく分けて2つの場、草原(雪に覆われているときもあるので、タイトルにある通り「大地」が妥当かもしれません)と都会で物語が展開されます。

近代化・グローバル資本主義の潮流の中で、伝統と革新の両方を知っている若い夫婦がどのような未来を選択をしていくかというのが物語の大枠ですが、序盤の草原のシーンを観ながら、私は森のことを考えていました。

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映画の中に森は一切出てこないのですが、タイを代表する映画監督 アピチャッポン・ウィーラセタクン(作品の多くを森の中で撮っている監督)に関する評論を思い出していたからです。誰がどこに書いた評論かは忘れてしまったのですが、それはだいたいこのような内容でした。

森というのは、どっちの方向を向いても森だ。方角・方向の表現は限られ、画としてはやや単調になってしまう。しかし、森のカットが積み重なっていくと「森が森である」という事実は薄らいでくる。そして、唯一無二の「場」ができあがる。アピチャッポン・ウィーラセタクンの映画は、そのようなキャンバス上に描かれている。

なぜこの評論を思い出していたかというと、物語のある時点で、雄大なはずのモンゴルの空が窮屈に思えてきたからです。評論の言葉を借りると、草原・空のカットが積み重なるにつれて「草原が草原で、空が空である」という事実が薄らいでくる感覚を味わったということです。

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これは、都会に憧れているチョクトの感覚に近いのではと思います。実際、物語がどちらかというとサロール側に傾いているときは、大地や空は広く感じました。

ちょうどその「狭さ」の感覚がピークに達しようかという頃に、チョクトとサロールは都会へと繰り出します。チョクトとサロールは別行動になり、チョクトは男友達とつるんでカラオケに行くのですが、そこで選曲されるのは大草原の雄大さがテーマの定番曲らしきナンバーで、大合唱となります。

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カラオケという閉鎖的・都会的空間と行為の団体性を以って、大草原(大地)と都会のどちらにも自身の所在を見出せないという葛藤は、チョクトだけではなく彼の世代全体のものなのだということが映像的に表現されているのですが、物語の本筋とは別に、このような社会的背景がしっかりと設定されている点が本作の見所のひとつだと思います。

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秘境を旅するにあたって、その旅先の人々が「伝統と革新」や「ローカルとグローバル」の狭間に立たされていることは、もはや前提条件といってもよいでしょう。

まるでVR作品かのように、秘境・モンゴルの若者たちが立っている「現在地」を体験させてくれる『大地と白い雲』は、8/21(土)より岩波ホールほか全国順次ロードショー。詳細は公式サイトからご確認ください。

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名もなき生涯

9086a7d0352e25a3(C)2019 Twentieth Century Fox

オーストリア

名もなき生涯

 

A Hidden Life

監督: テレンス・マリック
出演:アウグスト・ディール、バレリー・パフナーほか
日本公開:2020年

2021.6.16

大自然の中で育った頑固者フランツ・イェーガーシュテッターの「良心的兵役拒否」

第2次世界大戦時のオーストリアで、ヒトラーへの忠誠を拒んで信念を貫く「良心的兵役拒否」をしたことで知られているフランツ・イェーガーシュテッターの人生に基づいた作品。
ドイツの国境と接しているザンクト・ラーデグントという美しい山村で、フランツは妻・フランチスカと3人の娘と暮らしていた。やがて、フランツは激化する戦争へと狩り出されるが、ヒトラーへの忠誠を頑なに拒んだことで収監されてしまう。裁判を待つフランツをフランチスカは手紙で励ますが、彼女自身もまた、裏切り者の妻として村人たちから酷い仕打ちを受ける・・・

本作の撮影は、フランツ・イェーガーシュテッターが暮らしたオーストリアのザンクト・ラーデグントや、係争地の歴史を持つイタリア・南チロルで行われています。
監督はテレンス・マリック。マジックアワー時間帯の撮影ににこだわりぬいた『天国の日々』、太平洋戦争のガダルカナル戦を描いた『シン・レッド・ライン』、白人入植者とネイティブ・アメリカンの戦いを描いた『ニュー・ワールド』、1900年代後半のアメリカ暮らす家族の一世代分をまるごと描いた『ツリー・オブ・ライフ』、宇宙と生命の神秘を描いた『ボヤージュ・オブ・タイム』など、いままでの多様な作品群で得た叡智と洞察が結集したような作品です。

本作の大きな見所のひとつは、ザンクト・ラーデグントや南チロルの自然や景観です。景観というよりも、景観のなかに流れる「瞬間」や「時」と言うべきかもしれません。光は原則的に自然光しか使われておらず、計算して準備を整えたうえで、その場でキャッチした光と一緒に各シーンが展開されています。そのため、1940年代の話ではあるのですが、まるで目の前で出来事が起こっているかのような錯覚に陥ります。風や草のそよぎも、扇風機やCGは使われていないかと思うのですが、ストーリー本筋よりもその場その場の臨場感が映画の流れを掴んでいます(テレンス・マリックの他作品も同様の独特なリズムの作品が多いです)。

そうした美しさがゆえに、ロケ地の係争地としての苦難の歴史が際立ちます。特に南チロル(イタリア)は、世界史において様々な争いの舞台になってきました。調べたところ、南チロルを巡る議論はシリア紛争後に再浮上してきて、オーストリア・イタリアの国境・ブレンナー峠の閉鎖が主張されたり、ドイツ語圏のオーストリアへの返還も検討されているそうです。

暗めの話が多くなりましたが、教会の神父さえも神への忠誠心を脇に置かざるを得なかった状況下で、頑なに自分の信念を貫いた農夫フランツ・イェーガーシュテッターの信念がオーストリア・イタリアの山々によって育まれたことは、環境・開発・人権など依然多くの倫理的問題を抱えた現代人への示唆を多く含んでいると思います。また、もしこの地に旅することができたならば、のびのびした大自然の中で、燻し銀のように自分の心を熟成させることができるに違いないと憧れさせてくれます。

オーストリア・チロルを歩く
花咲くインスブルック・イタリア国境トレイルを行く

オーストリア・チロルの中でも旅行者に知られていないインスブルック南部のトレイルに特化した企画。他のトレッカーにほとんど出会わない静かなアルプスの田舎の山歩きを満喫できます。

わたしはダフネ

190c7237c229bf3d(C)2019, Vivo film – tutti i diritti riservati

イタリア

わたしはダフネ

 

Dafne

監督:フェデリコ・ボンディ
出演: カロリーナ・ラスパンティ、アントニオ・ピオヴァネッリほか
日本公開:2021年

2021.6.2

母亡き後も人生は続く ― イタリア人父娘の、切なくも万事快調な巡礼の旅

いつも明るくまわりの人々に慕われているなダウン症のイタリア人女性・ダフネは、都市部にあるスーパーで働きながら両親と平穏に暮らしていた。しかし、母・マリアが亡くなったことで生活が一変。年老いた父ルイジは自分が死んだら娘がひとり残されてしまうという不安にかられ、ふさぎ込んでしまう。そんな父にダフネは、一緒にトスカーナ地方にある母の故郷を訪ねてみようと提案する。その旅は、母であり妻であった愛する人の死を乗り越え、父と娘が互いを理解しあうための、かけがえのない時間になっていく・・・

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コロナ以前に制作された映画に意図せずしてコロナ以降の意味合いが生まれた例をいくつか知っていますが、本作で描かれている「”なんてことなさ”の尊さ」はその最たる例だと思います。

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ダウン症という設定の主人公・ダフネを演じるカロリーナは、自身もダウン症で、監督は脚本を一切カロリーナに見せないまま撮影を進めたそうです。シナリオのあるフィクションでありつつも日常をありのままに記録したドキュメンタリーのようなタッチで、静かな湖面に吹くそよ風のようなストーリーが観客を包み込みます。

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ダフネはまるで子どものように「あれは何?」「これは何?」「なんで?」と身の回りの物事に興味を持ち、父・ルイジに尋ねます。煩わしさを感じながら接していたルイジが、だんだんとダフネのペースにまきこまれていく様子は、コロナ禍以降の観客にとっては「身の回りのありふれた物事の素晴らしさに、もっと目を向けてみたら?」という投げかけにも思えることでしょう。

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私が好きなシーンは、ダフネが旅の途中で出会う若き森林警備員との別れのシーンです。彼らは爽やかに「チャオ、アリベデルチ、ボン・ビアッジョ」(「じゃ、さよなら、良い旅を」というような感じかと思います)という3つの言葉でダフネたちを見守ります。この瞬間は、ダフネの陽気さに魅入られて、挨拶の言葉を思わず3つも重ねてしまったかのような表情と声のトーンが記録されています。

「自分がした旅でもこんなふうに見送られたことがあったなぁ」と、一瞬の仕草とセリフでしたが懐かしい気持ちにさせられるとともに、自分が見送られるときは決して見ることができない、見送る側の表情をじっくりと見させてくれました。

人とは違うところに気が付き思いもよらぬ心の引き出しを開けるダフネから、幸福のパワーをもらえる『わたしはダフネ』は、7/3(土)より岩波ホールほか全国順次公開。その他詳細は公式ホームページをご確認ください。

ハニーランド 永遠の谷

0fb58262ff6fbfe6(C)2019, Trice Films & Apollo Media

北マケドニア

ハニーランド 永遠の谷

 

Honeyland

監督: リューボ・ステファノフ、タマラ・コテフスカ
日本公開:2020年

2021.5.26

北マケドニアの養蜂家の小さな小さな生活圏と、大きな大きなグローバル化の波

北マケドニアの首都・スコピエから20キロほど離れた、電気も水道もない谷で、目が不自由で寝たきりの老母と暮らす自然養蜂家の女性は、持続可能な生活と自然を守るため「半分は自分に、半分は蜂に」を信条に、養蜂を続けていた。3年の歳月をかけた撮影を通して、彼女が暮らす谷に突然やってきた見知らぬ家族や子どもたちとの交流、病気や自然破壊など、人間と自然の存在の美しさや希望が描き出されていく・・・

北マケドニアの映画はフィクション作品の『ペトルーニャに祝福を』を紹介したばかりですが、この『ハニーランド 永遠の谷』はドキュメンタリー作品です。

どこの国のどんな場所に主人公の女性が暮らしているかについての説明的なナレーションや図示は一切なく、彼女の行動を以って所在や都市との距離感が表現されていきます。

手間ひまと人生をかけて採取された(もちろん無添加の)ハチミツは、市場経済というフィルターを通すと、一瓶せいぜい数十ユーロの「商品」として扱われます。マーケットの気さくな商人たちは彼女の老いた母親を心配するなど、まだ市場経済に人情を吸い取られていないことも描かれます。彼女は「オシャレしたいときもある」と髪染めを買います。こうした行動や、やりとりの総体によって、彼女の存在の輪郭が描きされていきます。

映画自体は86分と、劇場公開映画としては短めな部類かと思います。撮影期間は3年、フッテージの累計時間は400時間(ずっと見続けても17日弱)だそうなので、86分の中にかなりな時間の流れが凝縮されています。そのため、タイムワープしているかのような錯覚を鑑賞中に感じます。おそらくかなりの時間を被写体と一緒に過ごしているため、カメラはさながら透明人間のように、女性の生活を見守ります。

女性はハチの巣からハチミツを採取しているわけですが、制作クルーもまた、彼女の巣からハチミツを採取するように、「感情の結晶」ともいえる瞬間を次々と映し出していきます。「知られざる北マケドニアの、知られざる人生」とストーリーを眺めることもできますが、彼女にとってのハチミツのような存在が誰にとってもあるのかもしれないという意味で、「この映画で描かれている人生は、自分の人生のことかもしれない」とハッとさせられる瞬間があります。国内であれ海外であれ、旅の途中に車や電車で通り過ぎる一軒一軒の家やすれ違う一人ひとりに、人生というドラマが流れていることを想起させてくれる一作です。

古代マケドニアと南バルカンの自然

マケドニア、ギリシャ、ブルガリアの3ヶ国を巡り、各地で数々の歴史遺産を見学。かつてアジアまでの東方遠征を行い歴史に燦然とその名を残したマケドニア王・アレキサンダー大王を輩出したペラ(ギリシャ)や、その父王で強国マケドニアの礎を築いたフィリッポス2世の墳墓が発見されたヴェルギナなど、古代マケドニアに残る史跡を訪ねます。

ジャッリカットゥ 牛の怒り

08d82edcec37e216配給:ダゲレオ出版

(C)2019 Jallikattu

インド

ジャッリカットゥ 牛の怒り

Jallikattu

監督:リジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ
出演:アントニ・バルギース、チャンバン・ビノード・ジョーズほか
日本公開:2021年

2021.5.19

追いつ追われつ―暴れ牛が描く 南インド村社会のエスノグラフィー

南インド・ケララ州にある小さな村で巨大な水牛が逃げ出し、人々はパニックになる。町の男たちは、泥にまみれ罵り合いながら牛を追いかけ回す。牛の存在は巨大な台風のように村社会を吹き荒らし、権力構造や矛盾を暴き出していく・・・

SABUMON FACING THE CAMERA Jallikattu / Lijo Jose Pellissery

「旅と映画」でご紹介している映画にオススメでないものはないですが、本作は特に特に観ていただきたい一作です。なぜかというと、僕がプログラマーとして関わってきたアジアフォーカス福岡国際映画祭(残念ながら昨年度で30年の歴史に幕を下ろしました)で「この作品だけは絶対したい!」という熱量をもって推薦した作品だからです。ついついこの作品について話すと、劇中の迫力が乗り移って熱がこもってしまうのですが、なるべく冷静にご紹介します。

まずは背景知識です。タイトルの「ジャッリカットゥ」という怪獣のような名前は、南インドのタミル・ナードゥ州で行われてきた牛追い競技の名称です。2000年代に入って動物愛護の観点から開催の妥当性が議論されてきました。

そんな現実世界から映画のフィクショナルな世界に引っ越しした水牛とむさ苦しい男たち約1000人は、思う存分追いかけ合いを繰り広げます。10分以上1ショット(カットを切らない)でつづく大迫力のチェイスや、数十人(しかも大半がアマチュア)がものすごい剣幕で罵り叫び合うシーンは、映画制作者でなくても「一体どうやって撮影しただろう」と疑問に思うこと請け合いです。

本作をオランダ・ロッテルダム映画祭で鑑賞した際は英語字幕バージョンでした。英語字幕を読むのはかなり慣れているのですが、本作のスピードについていけず、途中から字幕はちらっと見る程度にして映画のリズムに没入しました。ですが、(もちろん何を言っているか分かるに越したことはないですが)鑑賞後に内容理解が欠けているとは感じず、「巨大台風が過ぎ去りつつある空をボーッと見つめる、飛来物満載・湿度ムンムンの深い水たまり」のような心地になりました。

下部にリンクでご紹介している西遊旅行のツアーで訪れるケララ州の秘祭も、実際のジャッリカットゥもそうですが、大人数が集まる祭りや催しを堂々と行えるのは、世界中どの場所においてもしばらく先になることでしょう。そして、1000人の男たちが牛を追いかけ回す映画の撮影も、同じくらいの期間、撮影困難になります。

この2020年代においてとても貴重(ちなみに本国インドでのリリースはコロナ前の2019年です)で、あたかも西遊旅行の秘祭ツアーに訪れたかのような気分を味わえる『ジャッリカットゥ 牛の怒り』は、7/17(土)よりシアター・イメージフォーラム他でロードショー。その他詳細は公式HPをご確認ください。

ケララ北部の秘祭を撮る テイヤムの神と女神たち
知られざる南インドへ

秘祭テイヤムが行われるカヌールとバダカラの都市を訪問し、4日間に渡りたっぷりと祭りを見学。ヒンドゥーの神々と古代からの土着の宗教が相まった、インドの他地域とは異なる独自の文化をご覧いただきます。また、祭りの合間には郊外の村も訪問します。

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ケララ

44の河をもつ、緑豊かな「楽園」のイメージの土地です。 紀元前3世紀頃からすでにこの地では交易が盛んに行われており、エジプト、フェニキア、中国、バビロニアなどの地方からの人々で賑わいを見せ ていました。その後、大航海時代の1498年にポルトガル人が訪れ拠点を築き、続いてオランダ、イギリス、フランスからも相次いで上陸し、象 牙、チーク材、香辛料などを求めてヨーロッパ人の交易が開始されました。1956年、ケララ州はトラヴァンコール藩王国、コーチン藩王国な どのマラヤーラム語圏をもとに成立しました。 ケララは非常に緑が多く、車窓からは常にヤシ、バナナ、ゴムなどが植樹されているのを見ることができます。また、識字率がほぼ100%と高いことも特徴です。

砂の女

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日本(静岡)

砂の女

 

監督:勅使河原宏
出演: 岡田英次、岸田今日子ほか
日本公開:1964年

2021.5.12

静岡・浜岡砂丘の「脈動」と人間の欲

八月のある日、一人の男性教師が砂地に棲む昆虫を求めて砂丘地帯にやって来る。やがて夕暮れとなり、砂丘の集落のある家で一夜を過ごすことになる。蟻地獄のような穴の底には砂に蝕まれた家があり、そこには謎めかしい三十前後の女性が住んでいる。女によると、集落の人々は、砂という同一の敵によって固く団結していると聞かされる。空白感に耐えられずどうにかして逃げようとする男と、砂かきの世界に安住する女の、奇妙な共同生活がはじまる・・・

今年が没後20周年で特集上映も組まれている勅使河原宏の代表作『砂の女』(原作:安部公房)を今回はご紹介します。英題は”Woman in the Dunes”で、”dune”というのは砂丘を意味しますが、劇中ほとんどの場面は砂漠の中で展開されます。ロケ地は静岡県の浜岡砂丘。この場所は鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』のロケ地でもあり、もう15年ほど前になりますが実際に行ってみたことがあります。

JR東海の菊川駅からバスでたしか20分か30分だったかと思いますが、浜岡砂丘の入り口にたどり着くと、太平洋側最大級の砂丘である石碑があったのをよく覚えています。また、古くから飛砂に人々が悩まされた旨も書いてありましたが、僕が訪れた日も本当に飛砂がひどく、その頃は砂がカメラの天敵であるという知識もなかったため、ジャリジャリになったコンパクトデジタルカメラを掃除するのに苦労した思い出があります(その教訓をいかして、数年後訪れた中国の敦煌ではキッチリとした防備体制で臨むことができました)。

話が思い出話にそれてしまいましたが、本作を観ると、「砂漠」というものが日本人にとって、どのような存在なのかについて考えることができます。

僕は「砂漠の民」と言われるような人々はモロッコのサハラ砂漠でしか会ったことがありませんが、この世の中には、砂漠(砂)と日々共に暮らす人々がいます。一方、日本人のほとんどにとって砂漠は非日常でしょう。

風や光で刻々と姿が変化していき、粒子の細かさで人の足元をすくい、うねるような地形や風が作りだす波紋のフォルムで人の心を攪乱する砂漠。その中で、主人公は虚無感に襲われて、我を失っていきます。

非日常の象徴ともいえる砂漠を構成する(数える気にもなりませんが)何千億か何兆もの砂の粒子が、四方八方から自分をめがけて滑り落ちてくる・・・そんなふうになってしまうのは勘弁ですが、砂の一粒一粒に流れや連関を見出せば、逆にその砂漠は自分の城と化す。非日常の砂漠から、何か学びを日常の世界に持ち帰るならば、そういった「脈動」なのだろうと僕は本作を定期的に鑑賞する度に思います(しかし本作の主人公はどちらかというと、その満ち潮のような「脈動」を一度発見しかけるも、満ち潮によってグンと強まった引き潮にさらわれて、虚無に満ちた遠海にさらわれていくような運命を辿ってしまい、鑑賞し終わった後なんとも言えないどんよりとした気分になります・・・)

浮草

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日本(三重)

浮草

 

監督:小津安二郎
出演: 中村鴈治郎、京マチ子、若尾文子ほか
日本公開:1959年

2021.5.5

志摩半島の最果て・波切で揺れうごく、歌舞伎座一団の人間関係

三重・志摩半島の港町の歌舞伎座に、知多半島一帯を廻って来た嵐駒十郎一座が訪れる。そこには三十代の頃に駒十郎の子どもを生んだお芳が移り住んで、駒十郎を待っていた。その子・清は郵便局に勤めていて、お芳は清に、駒十郎のことを伯父だと言い聞かせている。駒十郎が清と交流を持つ内に、連れ合いのすみ子が背後にひそむ関係に勘づき始める・・・

映画のロケ地巡りは、秘境・辺境など、言ってみれば「なかなか行かない場所」に足を伸ばすにもってこいの理由付けです。本作は三重県志摩市大王町の波切という場所がロケ地の中心地になっていますが、この地に住む人以外にとっては(東海や紀伊在住の方であっても)なかなかここまで足を伸ばす機会ないのではと思います。

というのも、波切は伊勢神宮よりもさらにさらに先。伊勢志摩サミットが行われた賢島よりもさらに先。真珠の養殖とリアス式海岸で有名な英虞湾をぐるりとまわる最中にあります。

なぜここまで詳しく知っているかというと、波切まで行こうと何度か試みたことがあるからです。青春18切符と公共交通機関を使って日本各地を旅したことが何度もありますが、紀伊半島を反時計まわりにまわってくる際や、近鉄線で関西から三重方面に移動する際には、『浮草』のロケ地を見てみたいということで毎回チャンスを伺っていました。しかし、小津安二郎が10代を過ごした松坂を訪問して「小津巡り」は満足してしまったり、賢島にさしかかったあたりで天気が悪化したりして、いまだに訪れられないでいます。

小津安二郎の作品には映画の本筋とは直接関係ない景観や町並みの様子が映される、通称「枕ショット」が随所に挿入されますが、堤防の灯台と黒いビール瓶の対比や、おそらく今もそう変わっていないであろう波切の石畳の坂道・石垣・防風林で囲まれた住居群の光景はとても旅情をかきたてられます。数々の画家が訪れた「絵描きの町」とも言われているそうです。

あらすじにも書いてある通り、歌舞伎団の一座は知多半島(ここもまた東海にでも住んでいたりしないとなかなか訪れる機会がない場所ではないかと思います)を経て志摩に来るわけですが、映画には直接描かれていない一座の旅の動線が、ストーリー中の登場人物の感情にしっかり反映されています。カメラマンがいつもと違い(定番タッグの厚田雄春ではなく、黒澤明・溝口健二とのタッグで有名な宮川一夫)、生い立ちに縁がある地での撮影のためか、小津安二郎の監督作品の中でも特異な演出が見れる一作です。

少年

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日本

少年

 

監督:大島渚
出演: 阿部哲夫、小山明子ほか
公開:1969年

2021.4.28

「風土の力」をフル活用した、大島渚監督の感性と作家性

戦争で傷を負ったことで定職につかない男とその先妻の息子・少年。男の同棲相手と彼女との間に生まれた子・チビ。一家は、車にひかれたふりをしてお金をだまし取る「当たり屋」で生計を立てている。一箇所で仕事を続けると商売がバレるため、一家は次々と場所を変えて旅をする・・・

2021年4月3日、本作に「少年」役で出演した渡辺文雄さんが渋谷の映画館で行われた大島渚監督作品特集に同席し、52年ぶりに公の場でトークイベントを行ったというニュースがありました。残念ながら私は福岡在住のため上映にかけつけることができませんでしたが、上映のレポートを読んでいると、50年以上前の物事をまさに「昨日のように」振り返るやりとりを目の当たりにできるイベントだったようです。

大島渚監督作品は『戦場のメリークリスマス』等をはじめデジタルリマスター化作業が進められており、作品を振り返る機会が多くなりました。大島作品の中で最も低予算な部類の作品であるがゆえに最もリアルな「旅」を描いているのが、この『少年』です。

低予算映画というのは様々な面で「借り物」をしなければなりません。1969年当時はまだスタジオ・システム全盛の時代でしたが、社会派の大島監督は町に飛び出し、全国各地の風土を巧みに借りながら、いびつでリアルな家族の絆を描きました。Wikipediaによるとロケ地は、高知・尾道・倉敷・北九州・松江・ 豊岡・天橋立・福井・高崎・山形・秋田・小樽・北海道(歌志内・札幌・小樽・稚内)で、まさに「列島縦断ロケ」です。

西遊旅行のツアーには、横断・縦断・峠越えなどというダイナミックさを示す言葉や、最高峰・最南端といった地点を示す言葉が入ったツアーが少なからずあります。私は、自分の作品のロケで枕崎に行ったとき「日本最南端の始発・終着駅」という看板があるのを見て「やはり僕はこういう西遊旅行のツアータイトルのような場所に惹かれるのだな」と思ったことがありますが、横断・縦断したり、山や海の向こうを目指したり、一番端まで行ってみたいという旅のモチベーションというのは、最も素朴で原初的なのではないでしょうか。

「少年」の家族が追い詰められて向かう先は、日本の最北端・宗谷岬。季節は冬です。うまいなぁと、思わず感嘆してしまいます。旅の理由は悲しいですが、フィクション映画のシナリオとしては、ベストシーズンにベストプレイスで追い詰められています。「あの山や海を越えた先に何があるかを見てみたい」「端から端まで全部行まわってみたい」というような思いを一度でも抱いたことのある方は、間違いなくドキドキハラハラできる作品です。