タグ別アーカイブ: イラン

熊は、いない

(C)JP Film Production, 2021

イラン

熊は、いない

 

Khers nist

監督:ジャファル・パナヒ
出演:ジャファル・パナヒ、ナセル・ハシェミ、バヒド・モバセリほか
日本公開:2023年

2023.9.6

「張子の熊」はどこにいる?―架空と現実をあべこべにさせるイラン映画の世界観

ジャファル・パナヒ監督は、トルコで偽造パスポートを使って国外逃亡しようとしている若い男女を主人公にした映画を撮影するため、イランの国境近くの小さな村からリモートで助監督レザに指示を出す。

そんな中、イランの滞在先の村では古い掟のせいで愛し合うことが許されない恋人たちをめぐるトラブルが大事件へと発展し、パナヒ監督も巻き込まれていく。

架空のカップルと本当のカップル、2組の物語が不思議な形で絡み合い、イラン・トルコ、そしてさらにはヨーロッパの社会問題までを、限られたロケーションから浮き彫りにしていく。

イランの監督たちは「一体どうやってこの話を思いついたのだろう」「一体どうやってこの人たちに撮影交渉をしたのだろう」と、観る人に思わせるような映画を撮る名人たちが集結しています。それには映画をめぐる検閲・法律が関係しています。

専門家ではないのでトルコとイランの政治体制や、イスラーム法に関する詳述はここではしませんが、本作の冒頭で「ビールを飲む(EFESという銘柄)」というシーンがあります。これだけで「ああ、ここはイランではないな」とわかります。逆に、パナヒ監督が滞在するイランの村で出されるのは、「これは◯◯に効く」というエピソード付きの伝統的な飲食物です。

一方、パナヒ監督の滞在先のホテルは土壁で、典型的な「中東」というイメージに反しない、土埃舞うゴツゴツした岩がならぶ道を車が行きます。

こうした対比で幕を開ける本作ですが、イラン側(本当のカップル側)では「映らないもの・こと」(例えばタイトルにも入っている「熊」など)が多く、段々とそれがトルコ側(架空のカップル側)に伝染していくような構成になっています。

検閲・政治的理由でたどり着いた表現ですが、これは図らずも(あるいは図っているのかもしれません)、「映っていることが全て(映っていないことは読み取れない)」というファスト消費状態のメディア・コンテンツのあり方に対する強烈なアンチテーゼになっていると感じました。

また、映画監督はコミュニケーションが大事なのですが、イランの村で多くのアマチュアキャストに演出する上で、きっと監督は「映らないこと」まで詳しく説明したのだと思います。村のしきたりについて、村人たちが大揉めに揉める迫真の演技が収録されています。

パナヒ監督の不思議で魔法のような旅に同行して、「じゃあ自分はどう考え、どう行動を起こすか」と考えさせてくれる、普遍的な一作です。

『熊は、いない』は9/15(金)より新宿武蔵野館ほか全国順次上映。そのほか詳細は公式HPをご確認ください。

イラン北西部周遊

ザグロス山脈とアララト山の山岳風景、ウルミエ湖とカスピ海が広がる肥沃な大地。
荒々しくも変化に富んだ雄大な自然を満喫する陸路の旅。

君は行く先を知らない

(C)JP Film Production, 2021

イラン

君は行く先を知らない

 

Hit the Road

監督:パナー・パナヒ
出演:モハマド・ハッサン・マージュニ、パンテア・パナヒハほか
日本公開:2023年

2023.6.28

俳句・短歌のような世界観―イラン社会の葛藤をごった煮にした御伽噺

イランとトルコの国境近く。車で旅をしている4人家族と1匹の犬。大はしゃぎする幼い弟を尻目に、兄、父と母は口には出せない何かを心に抱えている。

湖の半分以上が干上がってしまっているウルミエ湖の周縁を走る車中で煮えきらない互いの思いを吐露しながら、「曖昧な目的地」へ向けて旅は進んでいく・・・

本コラムで以前にイラン映画『白い風船』『ある女優の不在』『人生タクシー』をご紹介しましたが、本作はそれら3作を監督したジャファル・パナヒ氏の息子さんの初長編作品です。ファンタジー感と皮肉が同居する本作から、最近僕が感じ続けてきたあるモヤモヤを連想しました。それは、「現代社会では比喩表現が通じにくい」ということです。

僕の比喩表現が熟練していないのもあるかもしれませんが、比喩的な映像表現を行政・企業のPRや企画に取り入れると「もうすこし直接的な表現を」ということになり、結局かなり説明的な表現に着地するということをしばしば経験してきました。

一方で場所を変えて、対話やファシリテーションについて人に教える際、「古池や蛙飛びこむ水の音」という俳句は蛙のことを話しているわけではない(その情景全体について話している)、という点から「意見の引き出し方」や「話の流れの作り方」を論じると「なるほどそう考えたことはなかった」と発見してもらえることも多く経験してきました。効率性・生産性を重視すると、対話・意見交換だけでなく普段抱く感情までもが表層的になりがちだということです。

本作では、俳句ないしは短歌のような表現が連続します。景観・地形的特色まで、画面全体をひっくるめて「映っていることを語っているわけではない」という表現が続きます。

父のジャファル・パナヒ監督をはじめとしたイランの名監督たちの影響もあるでしょうし、イランの検閲の影響もあるでしょうけれども、パナー・パナヒ監督固有のオフビートなテンポとファンタジー感で比喩表現が展開していきます。特に、「霧」の表現に注目いただきたいです。

ふつうに考えると変なシーンが多く、クラシック音楽もイランの歌謡曲も混然となっている本作は、「映っているのとは違うことを言っている」という前提に立つと物語が積乱雲のようにモクモクとふくらんでいく瞬間が訪れるのではと思います。

冒頭に言及されるウルミエ湖が半分干上がっていること、主人公たちが進む方向をずっと抜けた先にはアナトリア(小アジア)が広がっていることなども想像しながら、俳句・短歌のような世界観にぜひ浸ってみてください。

『君は行く先を知らない』は8/25(金)より新宿武蔵野館・ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次上映。そのほか詳細は公式HPをご確認ください。

ペルシャからアナトリアへ

古来より様々な民族や王朝が行き交い、民族の興亡が盛んだったペルシャ西部とアナトリア東部。この地に残る史跡、ウルミエ湖・ヴァン湖・アララト山といった自然を訪ねます。

白い牛のバラッド

イラン

白い牛のバラッド

 

Ghasideyeh gave sefid

監督:マリヤム・モガッダム、 ベタシュ・サナイハ
出演:マリヤム・モガッダム、アリレザ・サニファルほか
日本公開:2022年

2023.6.21

ご法度破りから知る、イラン・イスラム共和国の社会構造

テヘラン郊外の牛乳工場に勤めるシングルマザー・ミナ。夫・ババクは殺人罪で逮捕され、1年ほど前に死刑に処された。

深い喪失感を抱え続ける彼女は喪服を着続け、聴覚障害で口のきけない7歳の娘・ビタを心の拠りどころにしている。

ある日、裁判所に呼び出されたミナは、夫の事件の真犯人が他にいたことを知らされる。理不尽な現実を受け入れられず、謝罪を求めて繰り返し裁判所に足を運ぶミナだったが、夫に死刑を宣告した担当判事に会うことさえかなわない。

そこに、夫にお金を借りていたという中年男性・レザが訪ねてくる。妙に親切なレザに警戒心をさほど頂くこともなく、ミナは心を開き、しだいに関係は親密になっていく・・・

イランの厳格な法制度を背景にした本作では、イラン社会における、いわゆる「ご法度」が描かれています。法制度に対する問いかけの映画とはいえ、こんなご法度破りなシーンが描かれている作品を国内で公開できたのだろうかと思ったら、やはり上映禁止措置がされていました。

いくつか「ご法度」な描写やセリフはあるのですが、一番はスカーフ取る(厳密にいうと、スカーフを取ろうとしながら移動して取れる瞬間にフレームアウトする)というシーンです。イランでは満9歳以上の女性が、ヘジャブと呼ばれる頭髪を隠すためのスカーフと、身体のラインを隠すためのコートの着用が法律上義務付けられています(7歳の娘・ビタその義務がまだ無いのは、下の抜粋写真でも表現されています)。

その他さまざまな法律・慣習の上を、登場人物が綱渡りするように本作のは進んでいくのですが、「決まり」がどう個人(特に女性)の人生を「決めてしまう」あるいは「決めつけてしまう」かということがストーリーの核になっています。

ミナの夫は「決まり」により死刑になってしまい、親切心で来訪した男性・レザがよからぬ理由でミナの自宅を訪問したのだろうという「決めつけ」によってトラブルが生じ、その「決めつけ」は元をたどればイラン社会の「決まり」によって生じている。じゃあその「決まり」というのは何によって成り立っているのか? というように、螺旋階段を行き来するような気分になる点が、見どころの作品です。

ちなみにタイトルに入っている「白い牛」に関しては、映画冒頭にも引用される、コーランの一節に由来しています。モーセが民に「神は牛を犠牲せよと命じた」と言うと民は「我々を嘲るのですか」と返したというものです。これがどんな比喩表現なのかがぜひ鑑賞しながらあれこれ想像してみてください。地下鉄等、大都会・テヘランの日々の様子も映っている本作は「イランに行ってみたい!」となるというより「イランというのは一体どんな国なんだろう」と、一風違った角度から興味を持たせてくれる一作です。

ペルシャ歴史紀行

メソポタミア文明最高のジグラット“チョガザンビル”、ゾロアスター教の聖地ヤズドも訪問。

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テヘラン

イランの北西部に位置する同国の首都。エルブルース山脈の麓に広がるこの街は、全人口の10%に当たる人々が生活する大都市です。近代的な建物やモスク、道路に溢れかえる車の数、バザールなどの人々の活気など満ち溢れたエネルギーを肌で感じることが出来る街です。

オリーブの林を抜けて

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イラン

オリーブの林をぬけて

 

Zir-e derakhtan-e zeytoon

監督: アッバス・キアロスタミ
出演: ホセイン・レザイほか
日本公開:1994年

2022.6.22

「映画のようなこと」を求めて、フィクションとリアルの間を旅する

1990年、大地震がイラン北部を襲った。石工の青年・ホセインはひょんなきっかけから、都心からやって来た映画クルーの撮影に、俳優として参加することとなる。

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カメラがまわっていないときに、地震で家族を亡くしたタヘレという女性にホセインはプロポーズをする。貧しく読み書きができないホセインからの求婚を、タヘレの家族は反対する。しかし、そうした状況下でタヘレは映画の中でホセインと共演しなければならず、戸惑う。撮影クルーも徐々に異変に気づいていき、映画の枠を越えて2人に関与していく・・・

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この2-3年の間、コロナ禍によって「映画のようなこと」が次々と起こっていき、映画を生業にしている身にしても「現実のほうが映画っぽい」と感じるような光景にしばしば遭遇してきました。ですが、ようやく元通りに国内外を旅できる兆しが見えてきて、旅という「非日常」を日常生活が受け止められるバランス感覚が社会の中に戻ってきているように思えます。

そんな今だからこそ観たくなる(観ていただきたい)作品が、本コラムで度々ご紹介しているアッバス・キアロスタミ監督作品です。本作は2019年にご紹介した『そして人生はつづく』とセットのような作品なのですが、片方だけ観ても、(2本観る場合であっても)どちらを先に観ても楽しめるセット作品です。

フランスでもリメイクがなされた邦画『カメラを止めるな』のように「映画を撮る映画」というのは、映画史において恒常的にあり続けていますが、『オリーブの林をぬけて』に関しては、「映画が撮られているのか撮られていないのか、わからなくなってくる映画」と言えるかと思います。

上記のあらすじにも紹介したように、主要登場人物の2人は「映画内映画」で演じているときに話すことと、「映画外」で話すことがゴチャゴチャになってきます。

さらに映画鑑賞者(私たち)にとって良い意味でややこしいのは、2人を演じているのは地元で暮らしを営むアマチュア俳優であるという点です。そのため、彼らが演じているのか演じていないのかがわからなくなってきます。

また、「映画内映画のカメラ」はまわっていないけれども、「映画のカメラ」はまわっているというシーンのとき話されていることが、筋書きに書かれたまぎれもない「映画」なのか、自然の流れの中で立ち起こってきた「映画のようなこと」なのかわからなくなってきます。

と、書いている私自身もなかなかこんがらがってくるような構造をしている本作ですが、結果的に観客がこのような映画を観てこそ受け取れるのは「自分の今見聞きしている世界は映画のようだ」と思える感覚です。旅という非日常をよりビビッドにとらえることが可能になる「映画のようなことセンサー」を、ぜひキアロスタミ監督作品から感覚に取り入れてみてください。

友だちのうちはどこ?

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イラン

友だちのうちはどこ?

 

Where Is the Friend’s House?

監督: アッバス・キアロスタミ
出演: ババク・アハマッドプール、アハマッド・アハマッドプールほか
日本公開:1987年

2021.11.3

イラン版『はじめてのおつかい』―宿題ノート一冊に宿る「全世界」

イラン北部にあるコケール村の小学校。モハマッドは宿題をノートではなく紙に書いてきたため先生からきつく叱られ、「今度同じことをしたら退学だ」と告げられる。しかし隣の席に座る親友アハマッドが、間違ってモハマッドのノートを自宅に持ち帰ってしまう。ノートがないとモハマッドが退学になると焦ったアハマッドは、ノートを返すため、遠い隣村に住む彼の家を探し回るが、なかなか見つけることができず、ジグザグ道や入り組んだ路地を右往左往する・・・

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「旅と映画」で既に何作かご紹介したイラン映画界の巨匠アッバス・キアロスタミ監督作品のデジタル・リマスター版特集上映が、2021年10月から全国で順次おこなわれています。キアロスタミ監督の代表作である本作はまだご紹介していなかったので、この機会に書きたいと思います。

子育ての経験があってもなくても、テレビ番組『はじめてのおつかい』で、主人公の子どもを応援したくなってしまう気持ちは万人共通かと思います。

本作の主人公・ババク少年は、“はじめて”どころか、大人の頼み事や先生の厳しい言葉をしたたかに受け止めていく「大人びた子ども」なのですが、ついつい劇中の要所要所で「頑張れ!」「負けるな!」と応援してしまいたくなる作品です。

ババク少年はたかが(しかし少年にとっては「全世界」のような)宿題ノート一冊のために違う村まで山を越えていき、土砂降りの雨に降られて、友だちの学校生活のためにあくせくするのですが、平凡な彼がノート一冊のために惑う姿を見ていると、非常に不思議なのですが「自分の見ている“世界”というのは一体どれだけのものだろうか?(きっと思っているほど大したものではないんだろう)」というような、心が洗われる気分にさせられます。

実はごく最近、本作のことを連想した日常の光景がありました。僕の住まいのから数駅行ったところに昔からの商店街があるのですが、夜は日本酒の角打ちをやっているお店の前で、オーナーの方が持っている畑でできたという4色ほどのトマトがバスケットに入って売られていて、おそらく6歳ぐらいの娘さんが客引きやお会計をかなり立派にこなしていました。

なんというか、お店の切り盛りが彼女にとっての「全世界」のような感じがお店一帯に漂っていてババク少年の有様を思い出しましたし、どこか秘境に旅行して、交通の要所の売店で店の手伝いをする子どもに出会ったような心地になりました。まだまだ遠くに気軽に行きにくい日々が続きそうですが、日本にも、近所にも、秘境旅行を味わえる場はたくさんあるのだと思わされた光景でした。

『友だちのうちはどこ?』も含むアッバス・キアロスタミ監督作品7作がデジタル・リマスターで観れる特集上映「そしてキアロスタミはつづく」は、2021年10月16日からユーロスペースほか全国順次上映中です。詳細は公式ホームページをご確認ください。

ある女優の不在

3b3a5731d2386790(C)Jafar Panahi Film Production

イラン

ある女優の不在

 

3 Faces

監督: ジャファル・パナヒ
出演: ジャファル・パナヒ、ベーナーズ・ジャファリ、マルズィエ・レザイほか
日本公開:2019年

2020.12.2

名匠ジャファル・パナヒが添乗する、イラン北西部・村文化ツアー

イランの人気女優ベーナーズ・ジャファリのもとに、見知らぬ少女から動画メッセージが届く。その少女マルズィエは女優を目指して芸術大学に合格したが、家族の裏切りによって夢を砕かれ自殺を決意。動画は彼女が首にロープをかけ、カメラが地面に落下したところで途切れていた。ジャファリは、友人である映画監督ジャファル・パナヒが運転する車でマルズィエが住むイラン北西部の村を訪れる・・・

本作は文化人類学的ともいえるアプローチのストーリーです。筋書きは単純で、都会から来た映画人が人探しをする中で、田舎の慣習が織りなす世界に入り込んでいくというものです。

ロケ地はイラン北西部。イランの公用語であるペルシャ語はあまり通じず、トルコ語かアゼルバイジャン語のほうがよく通じるという山岳地域です。男性優位の様々な慣習がまだ残っており、女優志望の若者は変人扱いされ、役者は「芸人」と人々に揶揄されるような場所です。

車一台分しか通れない道でクラクションを鳴らしてコミュニケーションをとるシーンがあり、このシーンは西遊旅行のリピーターの皆様はおもわず「こういうこと よくある!」とニヤリとしてしまうのではないかと思います。フィクションとドキュメンタリーを巧みにミックスさせるのはイラン映画のお家芸のようなものですが、車のクラクションがモールス信号のように言語と化すというのは、おそらく実際どおりなのでしょう。

このように人々の中に息づいていて、つかもうとしても簡単につかめないものが真の伝統・歴史・文化なのだと、本作を観ると気付かされます。監督ジャファル・パナヒ自身が添乗する「映画ツアー」によって、観客は人里離れた村の時間・空間の中に、文化人類学者のように深く潜り込むことができるのです。

本作とよく似たアプローチの作品に、同じくイラン人監督のアッバス・キアロスタミ作『風が吹くまま』があるので、ぜひあわせてご覧ください。

ホテルニュームーン

9d1cb61f1744bd9d(C)Small Talk Inc.

イラン・日本

ホテルニュームーン

 

Hotel New Moon

監督:筒井武文
出演:ラレ・マルズバン、マーナズ・アフシャル、永瀬正敏ほか
日本公開:2020年

2020.7.29

From バブル時代の日本 to 現代イラン ― 未来を自らつかみ取る  たくましきイランのミレニアル世代

生まれる前に父を亡くし、教師の母・ヌシンと2人でイランの首都・テヘランに暮らす女子大生・モナ。過保護なヌシンは1人娘に厳しい門限を課して交友関係にも目を光らせ、ボーイフレンドもいるモナはそんな母にうんざりしていた。ある日、ヌシンがホテルで見知らぬ日本人男性と会っている姿を目撃したモナは、自身の出生を巡る母の話に疑念を抱き始める・・・

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日本・イラン国交樹立90周年を記念してつくられた本作は、ここ数十年の国際交流の軌跡がストーリーに織り交ぜられています。

海外を旅をしている最中に「トヨタ!カワサキ!スズキ!」となぜかカーメーカーの名前で呼びかけられた経験がある方は多いのではないかと思いますが、イランの町を歩いていて日本人だということがわかると(特に中高年以上の方は)かなり高い確率でNHKドラマ『おしん』の話を出してきます。
(私は1986年生まれでリアルタイムでは観ていなかったので、イランと映画制作で関わるようになってから、話を合わせられるように数話だけ『おしん』を鑑賞しました)

『ホテルニュームーン』の重要な出演者の一人は、おしん役の小林綾子が演じています。もしかするとイランの観客は、日本の観客よりもこのキャスティングに喜ぶかもしれませんね。

逆に、日本でイランの話題を出すと(特に中高年以上の方から)かなり高い確率で「上野公園でたくさんのイラン人がテレホンカードを売っていた」というエピソードが挙がります。当時はイラン・イラク戦争後のイランでの不景気と、バブル景気に沸く日本という状況が掛け合わさり、多くのイラン人が稼ぎの場を求めて日本にやってきました。

『ホテルニュームーン』のストーリーは、現代イラン(モナは大学生)と、ヌシンがモナを身ごもりつつも日本の町工場で働いていた過去を往復しながら進んでいきます。

現代のシーンでは大都会テヘランの様々な光景が映し出されます。2007年に建てられた高さ435mのミラードタワーの壮観さや、モナの行きつけのカフェのモダンさや、4000-5000m級の山に囲まれた活気ある都市の様子は、「上野公園でたくさんのイラン人がテレホンカードを売っていた」という印象でイランのイメージが止まっている方が観たら、かなりビックリされるのではないかと思います。

ホテルニュームーン_外景_001

私自身、映画祭や編集作業のためにイランに何度も足を運んでいますが、知人や友人に「イランなんて 行って危なくないのか?」と聞かれることが多いです。その度に「そんなことはない」とイランの様々な魅力を説明するのですが、おそらく今後は本作を鑑賞することが、日本人にとって最も手軽かつ深くイランを知れる方法になるのではないかと思います。

筒井武文監督の手腕と永瀬正敏の好演が光る『ホテルニュームーン』は、9月18日(金)よりアップリンク吉祥寺ほか、全国ロードショー。その他詳細は公式HPをご確認ください。

ペルシャ歴史紀行

メソポタミア文明最高のジグラット“チョガザンビル”、ゾロアスター教の聖地ヤズドも訪問。

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テヘラン

イランの北西部に位置する同国の首都。エルブルース山脈の麓に広がるこの街は、全人口の10%に当たる人々が生活する大都市です。近代的な建物やモスク、道路に溢れかえる車の数、バザールなどの人々の活気など満ち溢れたエネルギーを肌で感じることが出来る街です。

風が吹くまま

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イラン

風が吹くまま

 

Le vent nous emportera

監督: アッバス・キアロスタミ
出演: ベーザード・ドーラニー ほか
日本公開:1999年

2019.8.7

イラン式 ケセラセラ精神―「なるようになる」と思えない都会人

テヘランから、クルド系の小さな村を訪れたテレビ・クルーたち。彼らは村独自の珍しい風習のもと執り行われる葬儀の様子を取材しに来たのだが、村を案内する少年ファザードには自分たちの目的を秘密にするよう話して聞かせる。男たちは危篤状態のファザードの祖母の様子をうかがいながら、「そろそろ死ぬか」と撮影の準備をこっそりと進める。

数日間の撮影スケジュールだったものの、数週間経っても老婆の死は訪れず、ディレクターのべーザードやスタッフたちは苛立ちを募らせる。テヘランかにいるプロデューサーから毎日のように電話がかかってくるが、村は電波が悪くて通話するためにはわざわざ車で5分かかる丘の上に出なければいけない。都会と田舎、生と死。美しい麦畑は、そんな人間が繰り広げるドタバタ劇を気に留めることもなく風にそよいでいる。

本作は以前ご紹介した『そして人生は続く』『ホームワーク』と同じく近年デジタルリマスターされた、イランの巨匠アッバス・キアロスタミ監督作品のうちの1本です(撮影場所が『そして人生は続く』と同じです)。

仕事の都合で「早く死なないかなぁ」とお婆さんの死を待つというストーリーは、死という重いテーマを扱いながらもどこかおもしろおかしく、意図的に不謹慎な演出をしているのでドリフのコントを見ているようにくすっと笑ってしまうようなシーンが多くあります。

大好きな作品で機会がある度に観ていましたが、デジタル・リマスターされたということで久しぶりに鑑賞し、西遊旅行でお祭り見学ツアーの添乗や営業・企画をしたときのことを思い出しました。

私が担当していたインドやブータンのお祭りは、直前まで日にちが決まらなかったり、占い(神学者の判断?)や暦によって急に日にちが数日ずれたりすることがあります。それはそういうものなので仕方がないのですが、ツアーに添乗したり企画する側としては「仕方ない」で済ますわけにはいきません。そんなときは必死で元の旅程と合わせるように現地で奔走したり、手配での調整を試みました。

本作でお婆ちゃんの死を今か今かと待っている撮影スタッフたちが抱える「なす術なさ」というのは、現代社会ではとても稀なものです。経済・効率が重視される都会では、あらゆることをなんとかしようとして、不便・不自由が排除されていきます。

この映画では、「どうにもならなさ」と対峙する時間の豊かさに着目しています。それゆえに本作の鑑賞体験は、自分の力ではどうにもならないことがしばしば起きる旅という時間に似ていて、都会生活から田舎に旅に出たような感覚を味わえます。イランの地方に広がる美しい景観とともに、ぜひ豊かな時間の流れに身を任せてみてください。

ホームワーク

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イラン

ホームワーク

 

Mashgh-shab

監督: アッバス・キアロスタミ
出演: テヘランの小学生たち
日本公開:1995年

2019.6.26

「なぜ宿題をしてこなかったの?」という問いから、イランの社会問題を考える

1987年、テヘランのジャヒッド・マスミ小学校。学校内の一室で、監督が次々と子どもたちや彼らの親にインタビューをしていく。親がペルシャ語を読むことができず子どもの宿題をみれないこと、1979年のイスラム革命で教育システムが変わってしまって勉強を教えようとすると混乱すること、家庭内で体罰が横行していること、宿題の量が多く子供たちの負担になっていることなどが明らかになっていく・・・

本作は以前ご紹介した『そして人生は続く』と同じく、2016年に亡くなったアッバス・キアロスタミ監督の作品で、デジタルリマスターされたソフトが発売されたことによって、観る機会が得やすくなった一作です。

イランでは映画に対する検閲があり、宗教的・政治的に問題がある作品は製作・上映が認められません。それが理由で多くの作家が活動を禁じられたり、イランを去ったりしましたが、アッバス・キアロスタミ監督は日本を含む海外での作品製作も行いつつも、ずっとイランを拠点に活動していました。

本作は、製作時にどこまで監督がそこを計算したのかはわかりませんが、検閲のギリギリラインを攻めた作品といえるかもしれません。

自身の息子がしている宿題に疑問を抱いたことがきっかけで、監督は自ら映画に出演して、「なぜ宿題をしなかったのか?」と子どもたちに尋ねていきます。ストーリーはそれだけといえばそれだけなのですが、DVDジャケット写真の右下の方を見ていただければわかる通り、質問を続ける内に泣き出してしまう子もいます。かと思えば、あっけらかんと答える子もいて、十人十色の反応を見ることができます。

宿題の内容に疑問を持つことは、教育方針を策定している政府を批判することとも捉えられる可能性があります。しかし、インタビューという手法によって、インタビュー対象者が「主体的に」言ったことが「撮れてしまった」という形で、監督の意志からいくつかクッションを挟むことによって、直接的な政府批判であると捉えられるのを避けています。国民にとって検閲はないほうが好ましいかもしれませんが、結果的には、検閲があることによってこのユニークな表現が生まれたと言われています。

チベット・ブータンの仏教学校、ラダック、バングラデシュなど、ツアー中に様々な学校に訪れる機会がありましたが、生徒たちの生活の様子が見れるだけでなく、彼らが大人になった未来を想像することができて私はとても学校訪問が好きでした。本作に出演した子どもたちも、今では現在30〜40代になっていることを思い浮かべながら観ていただくと、映画の中に流れる時間が豊かになって、本作をより楽しむことができるはずです。

そして人生は続く

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イラン

そして人生は続く

 

And Life Goes on…

監督: アッバス・キアロスタミ
出演: ファルハッド・ケラドマンほか
日本公開:1993年

2019.1.30

人生という旅、映画という旅・・・旅の真髄、ここに極まれり

1990年、大地震がイラン北部を襲った。アッバス・キアロスタミ監督作『友だちのうちはどこ?』の撮影地は震源地のすぐ近くだ。『友だちの〜』の主役・ババク・アハマッドプールやその友人たちの安否を気遣い、地震の五日後、監督(キアロスタミ監督を演じる役者)は息子・プーヤとともに撮影の行われたコケール村に向かう。道中、多くの人々が壊滅した町で瓦礫を片づけている様子を目の当たりにしつつ、監督はコケール村へ向かっていく・・・

本作は、「旅と映画」の連載が始まった当初から書きたかった作品だったのですが、入手困難なため書くことができませんでした。近年、名作のデジタルリマスターが進み、2016年に亡くなったアッバス・キアロスタミ監督の作品もリマスター版がソフト化されました。

なぜ本作について書きたかったかというと、「旅」の真髄が映画に映っているからです。あらすじにも書いてある通り、映画は監督の実際の境遇をフィクション化しています。フィクションなのですが、物語の出発点はドキュメンタリーなのです(と、説明することが無謀なほど、フィクションとドキュメンタリーが入り混じっています)。

本作を見ると、日本とイランの自然観があまりに似通っていることに驚きます。それは、地震の後という状況によってより顕著になります。自然は人間の喜怒哀楽を知らないと言わんばかりに、大地震の後にもその荘厳さを変えません。そして、人間はただその前に立ち尽くすしかないのです。

人生と自然、どちらにも共通している要素を挙げるとすれば、それは「続く」ということでしょう。映画はいつか終わりますが、その余韻は心の中で続きます。人生もいつか終わりますが、それは自然というより大きな懐の中で続きます。そうした自然観は、車で目的地に近づいていく「旅」という最小限の設定の中で、力強く示されます。監督の旅は、映画が進むにつれて「終わり」の気配がしてくるからです。

本作の映像で特に記憶に残るのは、ジグザグな道を行く監督の車を、途方も無く遠くに置いたカメラから撮ったシーンです。インド・パキスタン・ブータンの崖っぷち、チベットの荒野、バングラデシュのマングローブ林・・・ツアー中にバスで様々な場所を走りながら、私は頻繁にカメラを遠くに置いたら、自分たちのバスがどう見えるか想像していました(遠くから撮ることを、映画用語で「ロングショット」といいます)。本作を見て、皆さんの旅にもロングショットのカメラの視点を取り入れてみてはいかがでしょうか。