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シルクロードみどころガイド

楼蘭

Loulan

「楼蘭」の名前が始めて歴史上に現れたのは、司馬遷の「史記」の「匈奴伝」。 紀元前176年、匈奴の冒頓単于が前漢の文帝に送った親書に「楼蘭以下二十六国を完全支配下に収めた」と記したことを伝えています。今から二千年以上も前のことです。 西域北道、西域南道の分岐点に位置していた楼蘭は、砂漠の中のオアシス都市として繁栄を極め、紀元前七十七年に漢に降伏し「ピチャン」と国名を変えた後も漢の「西域三十六国」を治める軍事拠点として栄えました。 中国の僧・法顕が仏典を求めてインドへ旅する途中、ちょうど400年前にこの楼蘭へ立ち寄り、当時は小乗仏教を篤く信仰し、4000人もの僧侶がいたことを伝えています。しかしその250年後、玄奘三蔵がインドから唐へと帰国する途中、644年に至った時には全くの廃墟となっていました。「城郭あれど、人煙なし」。「大唐西域記」において玄奘はこのように簡潔に記しています。これ以後、楼蘭は歴史から全く消え去り、幻の王国となりました。

楼蘭への道/ To Loulan

楼蘭遺跡へのルートは、コルラからや米蘭遺跡からなどいくつかルートがあります。 その中でも、西域へと通じる漢代に築かれた玉門関を出発し、楼蘭へ行くルートは、かつてシルクロードへと出発した商人や求法僧も辿った道です。道中には、砂ばかりの砂漠ではなく、変化に富んだ景観がご覧いただけます。

玉門関
漢の西端に位置した関所跡。ここから西は漢の支配の及ばない西域。冒険旅行のスタートです。
魔鬼城
玉門関の西北約100km。ヤルダン地形広がる景勝地。2003年に「敦煌ヤルダン国家地質公園」としてオープンしました。
白龍堆
白い岩塩の塊が点在するアルカリ地形。何千年もの歳月をかけて風によって侵食された独特の景観。
白龍堆
漢の西端に位置した関所跡。ここから西は漢の支配の及ばない西域。冒険旅行のスタートです。
龍城
ロプノールの北岸の高台に位置するヤルダン群。ヤルダンの大きさは6mから12m。
土根遺跡
ロプノールの北岸に位置する食糧貯蔵地、屯田地。1930年に中国人考古学者・黄によって発掘されました。
ロプノール湖 塩の採掘場
中国随一の採塩所。
砂漠専用車
砂漠専用仕様の4WD。車高が高く悪路もOKです。

楼蘭遺跡/ Loulan Kingdom

幻の王国といわれた楼蘭を再び蘇らせたのは、地理上の「空白地帯」へと向かった各国の探険家たちでした。1901年に楼蘭はヘディンによって発見され、その後もスタイン、大谷探検隊によって調査されました。当事の旅は、ラクダのキャラバン隊を組み、方位磁石を持って、時にはカラ・ブランと呼ばれる砂嵐に何日も閉じ込められ、時にはルートを失い水も枯渇して荒涼とした砂漠の中をすすむという厳しい旅でした。「砂漠の中はしばしば悪鬼、熱風現れ、これに遭えばみな死んで、一人も無事なものがいない。空には飛ぶ鳥もなく、地には走る獣もいない。見渡す限りの砂漠で行路を求めようとしても拠り所がなく、ただ死人の枯骨を標識とするのみである・・・」これは、法顕が楼蘭周辺について触れたくだりですが、20世紀初頭の探検家たちも同様に命がけの過酷な旅であったことが偲ばれます。

大仏塔
原形はスタインの計測により17m。風化で頂上部が破損、修復されています。仏塔の前は、高級住宅のあとで長さ218m、4室に分かれていたとされています。ここからは、漢文書、カロシュティ文書が発掘されており行政官の住居とされています。
三間房
日干しレンガをつみかさねた3つの小部屋が残ることから三間房と呼ばれています。ここからは大量の漢文書が発見され、役所跡とされています。有名な大谷探検隊発掘の「李柏文書」はここから発掘されたといわれています。
住居跡
乾燥した砂漠の中では、胡柳の木も腐ることなく残っています。
住居跡
一般人の住居あと。今もなおかつてを偲ばせる胡楊の柱など見ることができます。

旅の様子

楼蘭遺跡への旅の様子です。

キャンプ地の様子
キャンプ・ファイヤー
ダイニング・テント
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