ツアーのポイント
ポイント 後醍醐天皇と南朝・後南朝ゆかりの地
後醍醐天皇の波瀾万丈の生涯のゆかりの地を訪れ、「異形の王」の真の姿に迫ります。京都から大阪そして奥大和へと続くこの旅は倒幕の火蓋を切った後醍醐天皇の執念と、再興を信じた忠臣、そして歴史の終焉を見届けた皇子たちの足跡を辿る旅です。
ポイント後醍醐天皇陵がある如意輪寺で後醍醐天皇の御忌法要に参列し、御心にふれる
後醍醐天皇御忌では、普段は非公開の本堂に参拝をして、秘仏の御本尊如意輪観音菩薩(後醍醐天皇念持仏)と後醍醐天皇御自作の木像を拝むことができます。
ポイント忠義を尽くした武将と皇子たちのゆかりの地
後醍醐天皇に仕えた楠木正成や北畠親房のゆかりの地、そして、護良親王に仕えた村上義光のお墓などを巡り、後醍醐天皇と共に活躍した忠臣たちに想いを馳せます。
ポイント南北両朝から旅のテーマを見つめる
南朝の史跡群のみならず、北朝を擁立した足利尊氏など足利将軍家の菩提寺・等持院や、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔う為に建立した天龍寺も見学します。
COLUMN同行添乗員 金子貴一さんからのメッセージ
「吉野に燃ゆ、執念の炎:後醍醐天皇と南朝・後南朝百年のロマン」
後醍醐天皇と、その遺志を継いだ南朝・後南朝は、日本史のなかでも熱狂的ファンが多い時代です。それは、「滅びの美学」を体現する悲劇の英雄たちが活躍する、哀愁漂う物語に溢れているからです。
後醍醐天皇は、既存の秩序を破壊し、理想の王土を築こうとすると共に、自ら密教修行をして高僧阿闍梨となった「異形の王」でした。 二度の倒幕計画に失敗し、隠岐の島へ流されてもなお、彼の瞳から再起の光が消えることはありませんでした。絶海を脱出し、ついに鎌倉幕府を灰燼に帰したそのエネルギーは、まさに嵐そのものです。その後、建武の新政の最中、足利尊氏に追われ、身一つで吉野の霧の中に消えてもなお、「朕のいる場所こそが朝廷である」と言い放ったその絶対的な自己肯定感と不屈の精神。その強烈なカリスマ性は、魔力に満ちています。
後醍醐天皇は政治家としてだけでなく、多分野で才能を発揮した「万能の文化人」でもありました。宋学(新儒学である朱子学)をいち早く取り入れ、禅宗の僧・夢窓疎石や宗峰妙超(大徳寺)を厚遇しました。また、神道に関しては、それまでの本地垂迹説に基づく「仏教に従属する神道」ではなく、「神本仏従」を主張する伊勢神道を保護しました。優れた書家でもあり、4件もの直筆書跡が国宝に指定されています。その伊勢神道の理論を深化させて後醍醐天皇と南朝の正統性を主張したのが、北畠親房の『神皇正統記』です。「大日本は神国なり」という有名な一文から始まる本書は、現代に至るまでの天皇観に決定的な影響を与えました。
さて、私たち日本人の魂を揺さぶるのは、常に「正義を抱いて散っていく者」の姿です。 南朝と後南朝の歴史は、まさに「滅びの美学」の結晶でした。後醍醐天皇に仕えた楠木正成は、勝ち目のない戦いと知りながら、恩義ある帝のために湊川で散った武将です。彼の「七生報国(七度人間に生まれ変わって朝敵を滅ぼす)」の精神は、後の日本における「忠義」の理想像となりました。また、村上義光・義隆親子は、後醍醐天皇の子、護良親王の身代わりとなって壮絶な最期を遂げます。彼ら「負けると分かっていても戦う者たち」の哀愁が、南朝という存在に、他の時代にはない「判官贔屓(ほうがんびいき)」の熱狂をもたらしているのです。
後醍醐天皇という規格外の天皇が登場し、楠木正成という規格外の武将が戦い、北畠親房という規格外の知性が伊勢神道という新しい理論で裏付ける。南朝が数十年もの間、圧倒的な勢力を誇る室町幕府に対抗し続けられたのは、これらの規格外の大指導者たちのエネルギーの賜物でした。
[金子貴一さんプロフィール]
1962年、栃木県生まれ。栃木県立宇都宮高校在学中、アメリカ・アイダホ州に1年間留学。大学時代はエジプトの首都カイロに7年間在住し、1988年、カイロ・アメリカン大学文化人類学科卒。在学中よりテレビ朝日カイロ支局員を経てフリージャーナリスト、帰国後は西遊旅行の添乗員としても活躍。中東・イスラーム世界、インド、シルクロード、中国、アフリカなどの世界各地域や、イスラーム教や仏教などの世界諸宗教への造詣も深く、雑誌や新聞などへの執筆や講演会も多数行っている。特に、日本の歴史と宗教に関しては、東京新聞紙上に4年間連載記事を執筆した経験を持つ。
COLUMN 後醍醐天皇と南北朝の動乱:理想に生きた帝と奥吉野に遺る記憶
後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒して天皇中心の政治を取り戻そうとした、日本史上でも極めて型破りで個性的でエネルギッシュな天皇でした。その情熱は「南北朝時代」という大きな動乱を生み、その火種は「後南朝」として100年以上にわたって奥吉野の山々に燃え続けました。
1.「建武の新政」と南北朝の始まり
鎌倉時代末期、後醍醐天皇は「天皇自らが政治を行う」という理想を掲げ、足利尊氏や新田義貞、楠木正成らの協力を得て鎌倉幕府を滅ぼしました。これが1333年の「建武の新政」の始まりです。しかし、武士の不満や政治の混乱から、後ろ盾であった足利尊氏が離反します。尊氏は京都に「北朝(光明天皇)」を立てますが、後醍醐天皇は「自分が持っている三種の神器こそが本物である」と主張し、険しい山々に囲まれた吉野(奈良県)に逃れて「南朝」を開きました。ここに、京都の「北朝」と吉野の「南朝」が並立する、約60年にわたる南北朝時代が幕を開けたのです。
2.聖地・吉野と「再起」の象徴
吉野は古来より、権力争いに敗れた人々が再起を期して身を寄せる場所でした。源義経や古人大兄皇子などもこの地を訪れています。後醍醐天皇もまた、この険しくも豊かな自然に守られた吉野を拠点に、再び京都へ戻る日を夢見ました。天皇は吉野に入ってわずか3年で崩御(1339年)しますが、その遺志は子や孫、そして忠義を尽くす武将たちに引き継がれ、南朝の歴史は長く続くことになります。
3.「後南朝」の悲劇と執念
1392年、南北両朝は合体(明徳の和約)し、表向きは平和が訪れました。しかし、「北朝と南朝で交互に天皇を出す」という約束が守られなかったため、不満を抱いた南朝の末裔たちは再び立ち上がります。これが「後南朝」と呼ばれる時代です。1443年には、南朝側が御所から三種の神器の一部を奪う「禁闕(きんけつ)の変」が起こりました。後南朝の皇子たちは奈良の奥地(川上村・上北山村付近)に拠点を築き抵抗を続けましたが、1457年、神器を奪い返そうとした室町幕府側の赤松家家臣らによって自天王など皇子たちが殺害され、南朝の再興という夢は事実上断絶しました。そして、1499年、後南朝の末裔の記録は、ついに史書から姿を消します。
4.現代に息づく後南朝の魂:御朝拝式
後南朝の悲劇の舞台となった奈良県川上村の金剛寺には、殺害された自天王の首が葬られたと伝えられています。地元の人々は若くして命を落とした王を「自天王」と呼び慕い、殺害の2年後(1459年)から現在に至るまで、560年以上にわたり「御朝拝式(おちょうはいしき)」という儀式を欠かさず続けています。毎年2月5日、王が愛用した兜などの宝物が開帳され、かつての後南朝の廷臣の末裔たちが、亡き王への忠義を捧げます。この儀式は、国家の歴史からは消え去った後南朝が、地域の信仰や文化として今も生き続けている証でもあります。
5.なぜ南朝は「正統」とされるのか
明治時代以降、日本の歴史教育において南朝こそが「正統」であると定められました。その最大の根拠は、後醍醐天皇が吉野へ持ち出した「三種の神器」を南朝が保持し続けていたことにあります。後醍醐天皇の戦いは、単なる権力争いではなく、自らの信じる理想と伝統(正統性)を最後まで守り抜こうとした執念の記録だったと言えるでしょう。
後醍醐天皇の行在所遺址(笠置寺)
𠮷水神社後醍醐天皇玉座
如意輪寺後醍醐天皇御霊殿
吉野山金峯山寺の蔵王堂
丹生川上神社上社
天龍寺HOTEL 吉野のこだわりの宿に2連泊
今回の旅では、世界的格付けの権威ミシュランガイドで選ばれた老舗旅館の「竹林院群芳園(3つ星)」に2連泊します。聖徳太子の創建と伝わる由緒ある宿坊旅館で、南朝の歴史にも深く関わり、後醍醐天皇や豊臣秀吉、文人墨客たちに愛されてきた場所です。大和三庭園の一つ群芳園、池泉回遊式庭園の散策もゆっくり楽しめるのは連泊ならではです。
竹林院群芳園の夕食(一例)
竹林院群芳園に保存される、豊臣秀吉ゆかりの屏風出発日と料金
| 2026年 出発日~帰着日 |
日数 | 旅行代金 | 催行状況 |
|---|---|---|---|
09月25日(金) ~ |
5日間 | 218,000円 | ![]() |
| 発着地 | 現地発着 (JR京都駅(京都)発/橿原神宮前駅(奈良)解散) |
最少催行人員 | 8名(15名様限定)・添乗員同行 |
|---|---|---|---|
| 一人部屋追加代金 | 40,000円 | ||
- 全行程添乗員として金子貴一さんが同行します。
- 国内旅行のため、再利用割引・特別割引はありません。
- 現地集合解散となります。現地までの交通機関はご自身でお手配ください。
- 相部屋ご希望の場合でもご出発時点で相部屋の方がいらっしゃらない場合は、一人部屋追加代金が必要となります。予めご了承ください。
ツアー日程表
| 地名 | 時刻 | スケジュール | |
|---|---|---|---|
| 1 | 京都駅 |
09:50発 18:00着 |
朝9:50、京都駅に集合。最初に京都御所を見学して、若き日の後醍醐天皇に想いを馳せます。次に、足利尊氏像と尊氏之墓がある足利将軍家菩提寺・等持院を見学します。その後、後醍醐天皇の菩提を弔うために足利尊氏により創建された天龍寺を訪問。後醍醐天皇の尊像が祀られた多宝殿などを見学します。 京都・相楽郡:けいはんなプラザ泊|食事:朝× 昼× 夜○
|
| 2 | 京都・相楽郡 |
08:00発 |
朝、元弘の乱(1331年)の際、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕を企てて、京都を脱出して立てこもり、幕府軍との戦乱の舞台となった笠置寺を見学します。その後、河内長野市へ。後醍醐天皇に呼応した武将楠木正成が戦勝祈願を依頼し、2代の南朝天皇が行宮を置いて南朝の拠点となった金剛寺、また楠木正成が最終防御拠点として築城した山城・千早城を見学します。千早城へは山道を30分ほど登ります。その後、吉野へ
。 ※聖徳太子建立の寺と伝えられ、宿坊として多くの偉人・文人に利用された竹林院群芳園に2連泊します。 奈良・吉野郡:竹林院群芳園|食事:朝○ 昼× 夜○
|
| 3 | 吉野 |
|
早朝、ご希望の方は大和三庭園の一つ群芳園へご案内いたします。 終日、徒歩にて吉野山に点在する南朝の旧跡を訪問します。後醍醐天皇玉座が残る南朝皇居・𠮷水神社を参拝後、後醍醐天皇陵がある如意輪寺にて、後醍醐天皇御忌法要に参列します。午後は、吉野朝皇居跡で、現在は南朝四帝を祀る金峯山修験本宗総本山金峯山寺・南朝妙法殿、後醍醐天皇の皇子・護良親王の忠臣・村上義光の墓などを巡ります。 奈良・吉野郡:竹林院群芳園|食事:朝○ 昼○ 夜○ |
| 4 | 吉野 川上村 上北山村 |
08:30発 17:00着 |
吉野から奈良の南部に位置する川上山、上北山村へ。険しい山々に囲まれた場所で、歴史の表舞台から消えた後南朝ゆかりの地を巡ります。南朝の天皇たちが祈りをささげたと言われる丹生川上神社上社と、後南朝菩提所となった金剛寺を見学。上北山村では、後南朝の自天王が潜匿され、自天王のお墓がある瀧川寺や、自天王の魂を祀った北山宮を巡ります。
奈良・上北山村:フォレストかみきた 食事:朝○ 昼× 夜○ |
| 5 | 上北山村 |
08:00発 14:00解散 |
半日、南朝ゆかりの地を巡ります。上北山村から吉野へ。天武天皇創建で吉野修験の仏像群が安置された櫻本坊と、明治天皇により創建され、後醍醐天皇を祭神として祀る吉野神宮を参拝。その後、五條へ。三代の南朝天皇が皇居とされた賀名生行宮跡と、南朝の重臣であった北畠親房の墓を見学します。その後、橿原神宮前駅にて解散。
食事:朝○ 昼× 夜× |
- 道路事情や天候により日程は変更となる場合があります。予めご了承ください。
- 食事回数:朝4/昼1/夜4 (日程に含まれていないお食事は、各自でお召し上がりください。)
- 利用予定運輸事業者:利用予定運輸事業者:notte、佐原自動車
ご案内とご注意
| 気候・服装 | 全行程夏服が基本です。念のため、雨具もお持ちください。 往復1時間程度のハイキングがありますので、ウォーキングシューズなどの しっかりとした靴でご参加ください。 |
|---|---|
| 利用予定ホテル | 日程をご覧ください。 |
| 客室の種類 | 1泊目:洋室 バス、トイレ付 2~3泊目:和室 バス、トイレ共同 4泊目:洋室 バス・トイレ付 |
| 千早城跡について | 日程2日目の千早城跡へは山道を片道30分ほど登ります。 |
| 吉野での見学について | 日程3日目の吉野は終日徒歩での見学となります。 |
| その他のご注意 | 各寺院の見学は宗教行事によって内容が変更される場合がございます。その場合は代替の観光をご案内いたします。京都御所は公式事業で突然閉門する場合がございます。あらかじめご了承ください。 |
| 旅行条件について | 取引条件はこちらの 国内旅行 旅行条件書を、事前に確認の上お申し込みください。 |
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世界遺産
古都京都の文化財(天龍寺)、紀伊山地の霊場と参詣道(金峯山寺、𠮷水神社)