中原の歴史探訪 雲崗と龍門
- 中国
2025.06.12 update

雲崗石窟 第20窟 曇曜五窟の如来坐像
敦煌の莫高窟とともに中国三大石窟に数えられる雲崗石窟と龍門石窟。どちらも北魏時代から建造が始まりました。魏から唐のこの時期、中国の仏像様式は、袈裟が肩にかかり耳たぶが長くなるなど、西域風から中国風に変化し、時代ごとに異なる石窟や仏像を楽しむことができます。当時の栄華を物語る石窟群の規模と素晴らしさは圧巻です。
雲崗石窟を訪ね大同へ

遼金時代の伽藍がほぼ完全な形で残る善化寺
大同の町は山西省の北部、万里の長城の内側50kmの地点にあり、北方防衛の重要な拠点でした。漠民族対北方の遊牧民族の争いがこの地で繰り返されてきました。398年に鮮卑族の拓跛氏が北魏を建て、その都は大同(当時平城)に置かれ、大同は中国北部の政治・経済・文化の中心地として栄えました。やがて495年、孝文帝の時代に洛陽に遷都しますが、その間の100年間繁栄を極めました。
雲崗石窟
雲崗石窟は、武州川の北岸の断崖につくられた石窟寺院。大小合わせて254の洞窟が東西約1㎞にわたって続き、内部には51,000体以上の仏像が刻まれています。中国仏教美術最大の遺産で、2001年に世界遺産に登録されました。
北魏では太武帝の廃仏の後、文成帝が仏教を復興させました。文成帝は僧曇曜を総監督に命じ、460年から494年の孝文帝の遷都までの間、雲崗石窟の建造が行われました。背景には、廃仏の憂き目を再び味わうことがないよう、容易に破壊されない仏像、つまり石仏を作ろうという曇曜の提案があったといいます。

第5窟 高さ17mの黄金の釈迦牟尼坐像
初期の5窟(第16~20窟)が完成したのは465年頃で、これらは曇曜五窟とよばれています。それぞれの石窟に北魏の皇帝5人を模した5体の大仏が鎮座しています。仏像には、インドのガンダーラ美術・グプタ様式美術の影響も色濃く見られ、ガンダーラ美術の伝搬を伝える重要な史跡となっています。

第18窟 千仏袈裟 袈裟には小さな仏像が多数彫りこまれている

第20窟 曇曜五窟の如来坐像
明代の城郭都市平遙古城
城壁に囲まれた城郭都市がほぼ完全な形で残る、中国でも稀有な古都、平遙。古い民家や邸宅など明代・清代の街並が当時のまま残り、古き良き時代の風情が色濃く漂います。清代末期、平遥は金融都市として繁栄し、「晋商」といわれる山西商人はここを拠点として中国全土や海外に進出していきました。中国で最初の銀行「日昇昌」も平遥で誕生しました。徒歩での散策で、飾らない庶民の暮らしぶりや、昔と変わらぬ活気ある町の雰囲気を実感できます。

平遙古城を散策
平遙より洛陽へ
平遙より黄河を渡り、洛陽へ。華北を統ーした北朝の北魏ははじめ平城を都としていましたが、漢化政策を進めた孝文帝は 中原を抑えるため494年に 洛陽に遷都しました。これにより龍門石窟の造営が本格化しました。

黄河を渡り洛陽へ
龍門石窟
河南省洛陽市の南にある伊河沿いに位置する石窟。北魏時代から唐にわたり400年以上の歳月をかけて完成されました。石灰岩の岸壁に全長7kmの長さにわたり 石仏が刻まれています。石窟の数は2345、仏像数は11万を超えます。代表的な石仏である奉先寺洞の盧舎那仏は高さ約17mにもおよびます。

南北1kmにわたって掘られた龍門石窟

西山石窟 小さな穴1つ1つにも仏像が彫られています。

盧舎那大仏を擁する奉先寺洞
龍門石窟のハイライトである盧舎那仏は675年に完成。後に奈良・東大寺の大仏の手本になったともいわれています。盧舎那仏の左右には、釈迦の弟子である迦葉と阿難、さらに文殊菩薩、普賢菩薩、力士像が配置されています。

高さ約17mの盧舎那仏
雲崗と龍門、2つの石窟に刻まれた仏像たちは、時代の変遷を映し出しながら、今なおその姿を保ち続けています。悠久の歴史の中で紡がれてきた遺跡を肌で感じ、その荘厳な景色には圧倒されるばかりでした。如来坐像や盧舎那仏の美しい表情が、今も心に焼き付いています。