秘境ツアーのパイオニア 西遊旅行 / SINCE 1973

みなさまこんにちは。今回は、2020年秋に五島列島を訪問するツアーを添乗した際の様子をご紹介させていただきます。

西海国立公園九十九島ビジターセンターHPより

まずは五島列島とは…について。五島列島は、九州西方にある列島。長崎港から西に100kmに位置し、北東側から南西側に80km(男女群島まで含めると150km)にわたって大小あわせて152の島々から成ります。その中心となっているのは、最も大きな福江島と、2番目に大きな中通島、そしてその間にある若松島・奈留島・久賀島という五つの島です。

地図の上では、北東の中通島から南西の福江島(および、その周辺の小島)までの区域だけに「五島市(福江島・奈留島・久賀島)」や「五島町(中通島・若松島)」という名前が付けられていますが、一般的には中通島の北の小値賀島と野崎島、さらにその北にある宇久島も五島列島の一部として扱われています。

それでは、五島列島を北から順番にご紹介いたします!

 

 

  • 宇久島(うくじま)

五島列島最北の島、宇久島。190万年前の噴火によって誕生した玄武岩をはじめとする火山岩でできた自然豊かな島で、1187年壇ノ浦の戦いに敗れた平家盛が安住の地を求めて辿り着いた島という伝説が残っています。

宇久島の平港ターミナル前に建つ平(宇久)家盛の銅像。ちょうどこれから島に上陸!というシーン

平氏政権を打ち立てた平清盛一派は壇ノ浦の戦いで滅亡したといわれておりますが、実はその清盛の異母弟である家盛は、壇ノ浦の戦い以降も残党の追い打ちを逃れ、各地を経由しながら最終的に宇久にたどり着いたと言われています。

その家盛氏が宇久島にたどり着いた際に船を隠したといわれる場所が「船隠し」です。家盛は、上陸時あわび漁をしていた村民に助けられ、暖をとり食料を与えられました。そのため、この船隠しの場所は、「火焚崎」ともいわれています。

家盛は、その後性を宇久と名乗り、島にもともといた豪族を次々と制圧し、まとめ、五島藩の始祖として七代目まで、ここ宇久島にてその勢力を維持しました。その後五島氏は福江島へと移動し、福江島にてさらなる勢力・領土を拡大していったのです。まさに宇久島は「五島列島発祥の地」なのです。

 

城が岳の山頂から眺める五島列島宇久以南の島々

宇久のほぼ中心にある城が岳の展望台からは、宇久以南の五島列島の島全域が見渡せます。最北端にある宇久島のみ、五島の島全体を見渡せる唯一のポイントに立つことができます!

 

  • 小値賀島(おぢかしま)

小値賀の人類の歴史は、約2万5000年前後期旧石器時代にはじまったと言われています。五島列島の他の島々は、切り立った山々が連なる地形が多いですが、それに比べ小値賀島は、海底火山の溶岩が流れて作り出したなだらかな地形であり比較的島全体が平坦なため、古代から人々が住む事が出来たそうです。現在は人口2400人の二次離島ではありますが、古民家レストランや古民家宿、昔の小学校を改装し宿泊施設とする等、早くからツーリズム産業に着目し、様々な施策を展開している島でもあります。

 

小値賀町歴史資料館は、築250年の小田家の邸宅を新規増築させるかたちで開館しました。小田家は、江戸初期に壱岐から小値賀に移住し、捕鯨、新田開発や殖産振興、海産、酒造業を営み、地域の経済的な発展に貢献した豪商です。館内には小田家の事跡が紹介されているほか、町内の遺跡から出土した旧石器時代から近代までの考古資料、中世に行われた中国との貿易に関する資料、野崎島のキリシタン関連の展示も行われています。

小値賀島の赤浜海岸

赤浜海岸。砂も砂利も赤く、鉄分を多く含んだ火山島特有色がよく分かる海岸です。この赤色は火山礫によるもので、小値賀島が火山だったことを示しています。

 

地ノ神嶋神社

地ノ神嶋神社。前方湾に向かって立つ神社で、慶雲 元年(704)には対岸の野崎島に沖ノ神嶋神社が分祀されています。遣唐使船団の航路が五島列島経由の南東路に変更された大宝 2 年(702)と創建年が近い事、航海上の要衝に面していることから、遣唐使船団の航海の安全を祈って創建されたとも言われています。

 

神方古墳

神方(かみがた)古墳は前方郷相津と前方後目地区の境にある、ほぼ南に開口する横穴式石室墳です。天井石はほとんど持ち去られていますが、側壁は良好な状態で遺存し、その規模は奥行き約3.5m、幅約2m程度と推測されています。屋外にそのままの状況で置かれていたことにやや驚きましたが…古い遺構が間近で見ることのできるチャンスでもあります!

 

 

  • 野崎島(のざきじま)

野崎島は、小値賀島から町営船で約10分。かつては野崎・野首・舟森の三集落があり、多いときには島全体で650人前後の人々が暮らしていました。現在は宿泊施設の管理関係者以外、ほぼ無人状態の島となっています。

野崎島は、沖ノ神嶋神社周辺に広がる原生林や国指定天然記念物カラスバトなどの鳥類、 希少種蝶類、その他数多くの動植生物種の宝庫でもあります。 島内全域には、野生のニホンジカ400頭前後が生息し、自然のままの姿を観察することができます。

野崎島海岸火口跡

野崎集落跡を歩くと、家屋の土台が残っているだけの場所もあれば、まだ家内に家財道具が残っている箇所もあり、人々が生活をしていた様子がまだ漂っています。島を歩いているといたるところで目にする急斜面につくられた石積みの段々畑の跡からは、この切り立った島を切り開き生活の場としていた人々の知恵と努力を伺い知ることが出来ます。

 

野首集落

野崎集落。全て廃墟ですが、家屋のなかを覗くと昨日まで人がいたかのような雰囲気…

野崎島の旧野首教会は、野崎島のちょうど中心にあたる、小高い丘の上に残るレンガ造りの小さな教会です。教会が建つ「野首集落」は潜伏キリシタンが移り住んだと言われる集落で、野崎島にかつてあった3つの集落のうち、舟森集落と共に信仰が深かった地域とされています。

旧野首教会は、集落に住む17世帯の信者たちが貧しい暮らしを続け、力を合わせて費用を捻出し、数年をかけて建てた本格的なレンガづくりの教会です。教会は外部・内部ともに美しく整備され続け、土地の人々に本当に大切にされてきたことを実感しました。

 

旧野首教会

午後は、野崎島の南端に位置する集落跡・舟森(ふなもり)へトレッキング。急潮の瀬戸を望むその場所は、かつて信仰篤き人々がひっそりと暮らしを営んだ場所です。 今は急斜面に石垣が並ぶのみの、廃墟跡もない場所となりました。この舟森トレッキングのルートは、かつて舟森集落で生活していた小学生たちが通った道です。片道約1.5~2時間。照葉樹が美しい、時に歩くにはちょうど良い具合の行程ですが、子どもたちが毎日往復するにはちょっと大変かな、という印象。近代に入り舟森集落からは徐々に人が離れていったとのことですが、お子さまがいる家庭から集落を離れて行った、とのことでした。

舟森集落跡。今はうっすらと段々畑のあとが分かるくらい

野崎島は、島の持つ歴史もそうですがありのままの自然が残っており、本当に島のどこを切り取っても美しく、非常に印象に残る1日でした。

 

五島列島シリーズ②へ続きます!

 

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