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添乗員ツアーレポート  中国・日本・極東ロシア

キトラ古墳と箸墓古墳【桜井編】

  • 日本

2021.04.08 update

「キトラ古墳と箸墓古墳」のツアーは、桜井市で1泊します。桜井市立埋蔵文化財センターを見学し、翌日は桜井市に残る史跡を見学します。桜井市内には、西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国東の候補地として知られる纒向遺跡と、卑弥呼の墓と比定される箸墓古墳が残りますが、ツアーではもう一つ日本史の中で重要な場所を訪ねました。

 

桜井市にあったは「石柘榴市(つばいち)」は、難波津(現在の大阪市中央区高麗橋)から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使者が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。日本書紀に「欽明天皇十三年冬十月」に、仏教を伝来させた百済の聖明王の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされており、この地が仏教が始めて日本に送られた記念すべき地と考えられています。また、遣隋使として有名な小野妹子が、隋の使者・裴世清としもべ12人を伴って帰国した時、朝廷はこの地で飾り馬75頭を仕立てて、盛大に迎えたそうです。ここには、「仏教伝来の碑」と「飾り馬の像」がありました。

仏教伝来の碑

仏教伝来の碑

飾り馬の像

飾り馬の像

現在の大和川

現在の大和川

さて、纏向遺跡は日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも考えられています。それは発掘調査により、ここが広大な面積を有する事、他地域からの搬入土器の出土比率が全体の15%前後を占め、かつその範囲が九州から関東にいたる広範囲な地域からである事、箸墓古墳を代表として、纏向石塚古墳、矢塚古墳、勝山古墳、東田大塚古墳、ホケノ山古墳、南飛塚古墳、前方後方墳であるメクリ1号墳などの発生期古墳が日本で最初に築かれている事、農耕具が殆ど出土せず土木工事用の工具が圧倒的に多い事等の理由です。ただ、調査面積は南北約1.5km、東西約2kmにもおよぶ広大な面積の2%にも足りず、未だ不明な部分も多く残されています。ツアーでは、箸墓古墳の他6つの小さな古墳と、辻地区において発掘調査がなされた「大型建物跡」という建物群を見学しました。

東田大塚古墳

東田大塚古墳

墳丘全長120mの前方後円墳。纏向遺跡では箸墓古墳に次ぐ墳丘規模を持っています。埋葬施設の内容は不明ですが、古墳築造前後の遺構が確認されており、箸墓古墳とほぼ同時期である3世紀後半頃に築造されたと考えられています。纏向遺跡では、ホケノ山古墳とともに、築造時期が限定できる数少ない古墳の一つです。             

矢塚古墳

矢塚古墳

全長約93mの前方後円型の墳丘を持つ大型墳墓。発掘調査により、後円部は南北約56m、東西約64mとやや東西に長い形態であることが判明しました。周濠状遺構より出土した土器などから、定型化した前方後円墳が出現する以前の3世紀中頃の築造と考えられています。後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纏向型前方後円墳」の一例であり、石塚古墳とともに、前方後円墳の出現を考える上で重要な墳墓と言えます。

勝山古墳

勝山古墳

3世紀に築造されたと考えられる大型墳墓で、前方後円型の墳丘は全長115mを測ります。石塚古墳と同様に、定型化した前方後円墳が出現する以前に築造された可能性が考えられます。埋葬施設の内容は不明ですが、墳丘の周囲をめぐる周濠状の遺構からは、土器や木製品が多数出土しており、なかには建築部材やU字型木製品など特異なものも含まれていました。これらの遺物は、古墳出現期における墳墓祭祀を知る上で重要な資料となっています。

石塚古墳

石塚古墳

全長約96mの前方後円型の墳丘を持つ大型墳墓。後円部径と前方部長の比率が2:1となる「纏向型前方後円墳」の典型的な例とされています。箸墓古墳などの定型化した前方後円墳が出現する以前の3世紀前半~中頃の築造と考えられ、後の大型古墳に見られるような葺石や埴輪は存在しません。このため古墳時代初頭の「古墳」とする考え方がある一方で、弥生時代終末期の「墳丘墓」とする意見もあり、古墳時代の始まりを議論する上で注目される資料となっています。第二次大戦中は、高射砲を陣地の設営を目的として、墳丘の上部が大きく削平されてしまっています。

大型建物跡

大型建物跡

建物D横の土坑から出た桃の種(桜井市立埋蔵文化財センター)

建物D横の土坑から出た桃の種(桜井市立埋蔵文化財センター)

辻地区において検出された、掘立柱建物と柱列からなる建物群で、纒向遺跡の居館域にあたると考えられています。建物群は庄内式期の前半頃(3世紀前半)に建てられたとみられますが、庄内3式期(3世紀中頃)を含めてそれ以前には柱材の抜き取りが行われ、廃絶したと考えられています。このうち、中心的な位置を占める大型の掘立柱建物は4間(約19.2m)×4間(約12.4m)の規模に復元できるもので、当時としては国内最大の規模を誇ります。近年実施された纒向遺跡第168次調査では建物群の廃絶時に掘削されたとみられる4.3m×2.2mの大型土坑が検出され、意図的に壊された多くの土器や木製品のほか、多量の動植物の遺存体などが出土しており、王権中枢部における祭祀の様相を鮮明にするものとして注目されています。また、建物D横の土坑からは2700個以上の桃の種が出土しました。

箸墓古墳「大市墓」

箸墓古墳「大市墓」

箸墓古墳の拝所

箸墓古墳の拝所

陵墓「大市墓」。奈良盆地の東南部、箸中微高地上に築造された全長約276mの前方後円墳。墳丘の詳細な調査は行なわれてませんが、後円部径約156m・高さ約26m、前方部幅約130m・高さ約17m、後円部5段・前方部4段築成と考えられています。墳丘周辺部では桜井市教育委員会や奈良県立橿原考古学研究所などによる発掘調査が行われており、周濠や外堤、墳丘と外堤を結ぶ渡り堤が確認されています。採集された埴輪や周濠部で出土した土器などから、前方後円墳としては最古級にあたる3世紀中頃~後半の築造と推定されています。孝霊天皇の娘・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が埋葬された陵墓として宮内庁が管理していますが、邪馬台国の女王・卑弥呼又はその後継者・台与が埋葬されていると考える研究者も多くいます。

ホケノ山古墳

ホケノ山古墳

ホケノ山古墳は、後の定型化した前方後円墳の成立につながるいくつかの要素を内包した初期的な古墳で、纏向遺跡に所在するそれら「纏向型前方後円墳」と呼ばれる古墳の中では唯一その全体像が発掘調査により判明していることから、古墳の出現過程を考える上で貴重な例です。全長は約80m、前方部長径約25mで、埴輪は持たず、二段以上の段築と葺石も確認されています。後円部の中央からは、「石囲い木槨」と呼ばれる木材で作られた槨の周囲に、河原石を積み上げて石囲いを作るという二重構造を持った埋蔵施設が確認され、中には舟型木棺が置かれていたと推測されています。埋葬施設の構造やこれらの副葬品などから、古墳の築造の時期は3世紀中頃と考えられています。

茅原大墓古墳

茅原大墓古墳

盾持人埴輪

盾持人埴輪

茅原大墓古墳は、奈良盆地東南部の三輪山麓に位置しています。後円部が現状で高さ9メートル前後を測り、その北側に高さ1~2メートルの低平な前方部が存在した、後円部に対して前方部の規模が著しく小さい「帆立貝式古墳」です。後円部の各段の平坦面では埴輪列が検出されました。このほか墳丘上において、埴輪を転用してつくられた埋葬施設である埴輪棺が計3基見つかっています。ここから出土した「盾持人埴輪」は、頭部から盾部上半にかけての高さ67.6センチメートル分と、径33.8センチメートルの円筒形の基部付近が残存していました。4世紀末頃の茅原大墓古墳で出土した盾持人埴輪は、現状で知られている盾持人埴輪の中で最も古く位置付けることができます。これにより6世紀後半まで続く盾持人埴輪が、4世紀末頃に登場していることが明らかとなりました。埴輪祭祀の変遷を考えるうえで貴重な資料であるということができるでしょう。

 

古代のヤマト政権発祥の地とされ、様々な史跡が残る桜井市を訪ねる「キトラ古墳と箸墓古墳」のツアー。是非古代史のロマンに触れてみてください。

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