異色の世界遺産:カジュラホ寺院群②

ナマステ!西遊インディアです。
今回は、カジュラホの寺院群について西群、東群、南群とそれぞれエリア毎に詳しくご紹介します。

■カジュラホの寺院群①西群のヒンドゥー教寺院

カジュラホのメインとなるのはここ、西群の寺院群です。入場ゲートを通ってまず左手に見えるのはラクシュマナ寺院。チャンデーラ朝のヤショーヴァルマン王によって8世紀中ごろに建設されたもので、ヴィシュヌ神に捧げるものとされています。中央の本殿と左右の小祠堂から成り、南北の面のミトゥナ像、また基壇部分に一列の帯状に施された長大な彫刻群が際立っています。

 

ラクシュマナ寺院
ラクシュマナ寺院

 

ラクシュマナ寺院基壇部の彫刻
ラクシュマナ寺院基壇部の彫刻

ラクシュマナ寺院の向かいにはヴァラーハ寺院が建設されています。こちらはヴィシュヌ神の2つ目の化身とされるヴァラーハ(野猪)を祀ったもので、大きな野猪の彫像が安置されています。

 

ヴァラーハ(野猪)寺院
ヴァラーハ(野猪)寺院

 

カジュラホ最大の寺院は、西群エリアの最も奥にあるカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院。11世紀初頭、チャンデーラ朝の最盛期のヴィデヤダーラ王の治世で建設されたものです。奥行33m、幅18m、高さ35mの壮大な寺院はシヴァ神に捧げられたもので、シヴァ神が住むとされるカイラス山の姿を模して建設されています。このカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院だけでも870以上の彫像が施されており、そのうちの10%ほどをミトゥナ像が占めています。

 

カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院
カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院 近寄ると凄い迫力です
カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院南壁のミトゥナ像
カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院南壁のミトゥナ像

 

また、カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院と同じ基壇上に、ジャガダンビー寺院と小さなシヴァ祠堂も建設されています。こちらはカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院より古く、一代前のダンガ王によって建設されたもの。ダンガ王の時代には、同様に西群のチトラグプタ寺院ヴィシュワナータ寺院、そして東群のジャイナ教寺院:パールシュワナータ寺院も建設されています。

 

左からカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院、シヴァ小祠堂、チトラグプタ寺院
左からカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院、シヴァ小祠堂、ジャガダンビー寺院

 

 

■カジュラホの寺院群②東群のジャイナ教寺院群

東群は主にジャイナ教の寺院群が並んでいます。西群と比べると規模は小さいものの、こちらでも精緻な彫刻群を見ることができます。ミトゥナ像はジャイナ教寺院群ではあまり顕著には施されていません。

 

東群で目を引くのはパールシュワナータ寺院。ジャイナ教の寺院ではありますが、西郡のヒンドゥー教寺院と同時期に建てられたものであるため、基本的な構造やデザインは共通するものが多くあります。しかし彫刻のモチーフはジャイナ教寺院では男女が寄り添うものの彫像が多く、穏やかな雰囲気です。

 

パールシュワナータ寺院の壁面彫刻
パールシュワナータ寺院の壁面彫刻。最下段の中央の像は「アイシャドウを塗る女性」として、その造形の素晴らしさが知られています。

 

「アイシャドウを塗る女性」

 

また、東群のシャーンティナータ寺院は現在でも信仰の場として利用されているジャイナ教寺院です。タイミングが合えば、信者の方がお祈りをしているところを見ることができます。寺院内ではジャイナ教の祖師(ティールタンカラ)たちの彫像が安置されている他、ジャイナ教徒が使用するクジャクの羽製のほうきなども展示されています。

 

シャーンティナータ寺院
シャーンティナータ寺院
寺院内のティールタンカラ像
シャーンティナータ寺院内のティールタンカラ像

 

 

■カジュラホの寺院群③南群 ヒンドゥー教寺院

南群の2寺院は点在する形となっており、カジュラホでの寺院建設の最後期となる12世紀前半に建設されたものです。南群の寺院群では、西群とは異なりミトゥナ像が見られなくなったり、他の彫像の陰になったりしており、寺院彫刻の中での主要度が低くなっていることがわかります。

 

ドゥーラーデオ寺院
シヴァ神に捧げられたドゥーラーデオ寺院

 

ヴィシュヌ神に捧げられたチャトルブジャ寺院
ヴィシュヌ神に捧げられたチャトルブジャ寺院
チャトルブジャ寺院のミトゥナ像
チャトルブジャ寺院のミトゥナ像。他の彫像と比べて奥の陰になる部分に施されており、寺院におけるミトゥナ像の主要度が減じていることがわかります。

 

■カジュラホのライトアップと祭り

カジュラホでは、夜になると西郡の主要寺院のライトアップが行われ、ヒンディー語と英語でカジュラホの歴史を開設するライトアップショーが開かれています。日中の観光を終えたうえで鑑賞すれば、より深くストーリーを理解することができます。

 

また、毎年2月20日から26日の一週間は、カジュラホ・ダンスフェスティバルが開催されています。西群の寺院群のそばに作られるステージでは、カタック、バラタナティヤム、オディッシー、クチプディ、マニプリ、カターカリ等インド各地の伝統舞踊の公演が行われます。ちょうど晴天の続く乾季のベストシーズンにあたりますので、お祭りにあわせて訪問するのも面白いかもしれません!

 

khajurahodancefestival.comより、2019年のフェスティバルの様子

 

 

 

カジュラホの遺跡は半日あればメイン所は見ることはできます。ですが、なかなかアクセスも容易ではない場所なので、ぜひ1泊して、ガイドの解説に耳を傾けつつゆっくり見学されることをお勧めします!

 

また、一点ご注意ですが、カジュラホは本当に遺跡以外何もない村です。そのため遺跡周辺で観光客が来るのを待ち構えている物売りの人たちのガッツが、他の観光地とは比べ物にならないくらい凄いです…。要らないものを押し売りされそうになった時は、はっきりと、「要らない!」と言いましょう(絶対に彼らは一度では諦めませんが…)。

 

Text by Okada

 

 

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異色の世界遺産:カジュラホ寺院群①

ナマステ!!!西遊インディアです。

今回は、インドの世界遺産の中でも異彩を放つ、カジュラホの寺院遺跡群をご紹介します。

 

カジュラホ最大の寺院:カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院
カジュラホ最大の寺院:カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院

 

■カジュラホの位置と概要

カジュラホはインド中央部のマディヤ・プラデーシュ州の北西部、デリーからは南東に約650kmに位置する町です。規模としては非常に小さな田舎の村、という具合ですが、そのユニークな遺跡群の存在のために世界的に有名です。

 

デリーからカジュラホへ行くには、乾期のシーズン中であれば、国内線が運航されますが、1日1,2便のみの運航です。もし国内線の運航がない・もしくはスケジュールが合わなければデリーから特急列車でジャンシーという街まで行き、そこから車両で約4時間程移動すると、カジュラホに到着します(長い道のりですが…)。

または、バラナシ、アグラ、ジャイプル等からカジュラホ行の列車も運行されていますので、カジュラホのみ単体で行くのではなく、周辺の観光地と一緒に組み合わせて行かれると良いかと思います。

 

 

 

カジュラホの遺跡群は東・西・南の3群に分かれており、そのうち西・南の2群がヒンドゥー教、東群はジャイナ教の寺院が残っています。最も人気があるのはメインとなる大規模な寺院が集中する西群のエリアです。それぞれのエリアは車で5分ほどの距離に位置しています。

 

巨大な寺院の壁面を覆うように施された精緻な彫刻群はまさに圧巻の迫力があり、特に男女の性行為の様子を表現したミトゥナ像と呼ばれるユニークな彫刻を見るため、多くの旅行者が訪れます。

 

 

カジュラホ
一瞬ぎょっとするカジュラホのミトゥナ像

 

これらの寺院は10世紀初頭から12世紀末までの間にこの地で栄えたチャンデーラ朝が建設したものです。チャンデーラ朝は5世紀ごろから北方の遊牧系の民族が定住化・ヒンドゥー教化して古代クシャトリヤの末裔を自称し、各地に王国を建設したラージプート族の一派です。当時は全部で85もの寺院を建設したと言われていますが、現在はそのうちの25の寺院が残されております。

 

現存する寺院の多くは970~1030年の間に建設されたもので、主要なものではヤショヴァルマン王の治世のラクシュマナ寺院ダンガ王の治世のヴィシュワナータ寺院、そしてヴィリダダーラ王の治世の建設であり現存する最大の寺院・カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院などです。また、東群のジャイナ教寺院も同時期に建設・利用されたことが分かっており、当時のカジュラホでヒンドゥー教徒とジャイナ教徒が平和的に併存していたことがわかります。

 

 

寺院群は12世紀後半までは実際の信仰の場として利用されていましたが、13世紀からはデリー・スルタン朝の支配下に入り、その後のイスラム系王朝の支配の下でもヒンドゥー教寺院の破壊が進められ、多くの寺院がそのまま放棄されました。

 

その後、19世紀に英国の測量士がカジュラホを発見するまでは寺院群はジャングルに覆われていました。カジュラホは1986年に世界遺産に登録され、柵の設置や公園内の整備、また街に空港を建設するなど観光地としての整備も進められています。

 

カジュラホ
美しく整備された公園。時期によってはブーゲンビリアが綺麗に咲きます

 

■ミトゥナ像とシャクティ信仰

カジュラホの際立った特徴はミトゥナ像と呼ばれる、男女の性行為の場面を描いた彫刻です。ミトゥナは「性的合一」を指すサンスクリット語で、カジュラホでは2人あるいはそれ以上の男女、また時には動物が交わった像が寺院の壁面に数多く彫刻されています。カジュラホのこの様なユニークな彫刻群はただ単に性行為の場面を描いたものではなく、実はヒンドゥー教のシャクティと呼ばれる独特の信仰の表現によるものです。

 

カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院南壁のミトゥナ像
カンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院南壁のミトゥナ像

 

ヒンドゥー教ではシヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーの男性神3柱が主神とされていますが、現在ではブラフマーの人気が低くなり、それに代わって女神信仰がもう一つの主な一派となっています。現在のヒンドゥー教における女神には、もともとはヒンドゥー教由来ではない土着の地母神が多く存在します。ヒンドゥー教はそれらの地母神を男性神の伴侶の女神、またその女神の化身として設定することで、土着の信仰集団をヒンドゥー教に取り込み、勢力を拡大していきました。ヒンドゥー教の主な神々が多くの化身を持っているのも、このような宗教としての発展の歴史に由来しているものです。

 

シャクティとは「」あるいは「性力」と訳されますが、単に性的な力を指すものではなく、もともとは神の内部に宿る神聖なエネルギーを指す概念です。そして、そのシャクティは男性神としては現れず、女性の姿で顕現すると考えられました。つまり、例えばシヴァのシャクティ(神の力)は妻のパールヴァティ、あるいはその化身のドゥルガーやカーリーの姿で現れる、という考えです。

 

そこからヒンドゥー教では、男女が一つとなって初めて完全なものとなるという思想が生じます。顕著な例がシヴァ神とその妻パールヴァティが一体となったというアルダーナリシュヴァラと呼ばれる姿。右半身がシヴァ、左半身がパールヴァティのこの神の姿は、まさに男女の性的合一、完全な状態を表しています。

 

アルダーナリシュヴァラ
アルダーナリシュヴァラ

 

女神信仰はシャクティ派と呼ばれ、各地で様々な女神がシャクティの顕現として信仰されています。現在ではシヴァ派、ヴィシュヌ派に並ぶ勢力となっており、ブラフマー神に代わって新たなトリムルティを形成しているとも言えます。またシャクティ信仰の思想はシヴァ派・ヴィシュヌ派にも影響を与えており、シヴァ、ヴィシュヌのシャクティはそれぞれの妻となる神の姿で顕現すると考えられています。

 

そのようなシャクティ信仰が彫像として具体化する際には、時として特に性的な部分が強調され、非常にエロティックな像として現れます。カジュラホの寺院を装飾するミトゥナ像や天女の像はこのようなシャクティ信仰に基づくものと考えられ、カジュラホの寺院を特徴づけています。

 

 

カジュラホその②へと続きます!

 

 

 

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ジャイプル③ ジャイプルの観光スポット!

ナマステ! 西遊インディアです。

今回は、人気の観光スポット・ジャイプルのみどころを詳しく紹介します。

 

▮アンベール城

 

山上の砦:アンベール城
山上の砦:アンベール城。左奥にはさらに古い都であるジャイガルが見えている。

アンベール城は、1727年にジャイプルの建設が始まるまでアンベール王国の都として利用されていた城。ジャイプル市街から約11㎞北東に位置し、平野部から40mほど標高の高い丘の上に建設され、周囲は堅牢な城壁で囲われています。

 

ここでは、入り口から城内部へ象のタクシーに乗ることができます。当時は象での入場は一部の上流階級にのみに限られていましたが、現在では一般の観光客もマハラジャ気分で象に乗ることができます!人の視点よりはるかに高い像の背からの景色は格別です。

 

象のタクシーに乗ってアンベール城へ
象のタクシーに乗ってアンベール城へ
象の背からの眺め
象の背からの眺め

入り口の広場で像を降り階段を上ると、広場を見下ろす場所にあるのが一般謁見所ディワニ・アームです。貴族向けではなく一般民衆に開かれた謁見所ですが、柱や欄干の細かな装飾の美しさが光ります。

 

一般謁見所(ディワニ・アーム)

 

ここからガネーシャ門をくぐると、王族のエリアとなります。細やかな装飾で彩られた門はアンベールでも最も有名なスポットのひとつ。麓から見上げると堅牢な城壁のイメージが強い城ですが、ガネーシャ門の内側へ足を踏み入れると繊細で豪奢な装飾に彩られた建築が並んでおり、当時の様子を偲ばせます。

 

ガネーシャ門
ガネーシャ門

 

鏡による装飾が美しい「鏡の間」
鏡による装飾が美しい来賓謁見所ディワニ・カースは、「鏡の間」としても知られます。

 

最奥部に位置するハーレム。壁面にはいたるところにフレスコ画の装飾が施されています。
最奥部に位置するハーレム。壁面にはいたるところにフレスコ画の装飾が施されています。

▮シティ・パレス

 

シティ・パレス 中央の建物に旗が掲げられている
中央の建物(チャンドラ・マハル)に、王族が滞在していることを示す旗が掲げられている

シティ・パレスは、1733年に完成したジャイプルの宮殿。現在でも一部で王族が暮らしており、王族が滞在しているときには、王宮にそれを示す旗が掲げられています。

 

まず中央に位置するのが貴賓謁見所のディワニ・カース。謁見の間には銀製の巨大な甕が置かれており、これは1902年に当時の王がイギリス国王へ謁見に向かう際、ガンジス川の水をこの甕に入れて運び、船の上で沐浴をしたものです、高さ1.6mのこの甕は世界最大の銀製品としても知られています。

 

シティ・パレスの一般謁見所と銀の壺
シティ・パレスの貴賓謁見所と銀の甕

このディワニ・カースの広場の周りに各施設が隣接しており、西側にはピタム・ニワス・チョークと呼ばれる中庭が広がっています。この回廊部分にクジャクの扉をはじめとする4つの装飾扉が設置されています。

 

ピタム・ニワス・ チョウクのクジャクの扉 上部の装飾
ピタム・ニワス・ チョウクのクジャクの扉 上部の装飾

また、迎賓館ムバラク・マハル、一般謁見所ディワニ・アームは現在はどちらも展示室として公開されています。残念ながら施設内の写真撮影は禁止されていますが、当時の王族が身に着けた豪奢な衣服やテキスタイル、またジャイプルの諸王の肖像画等を見学することができます。

 

 

ジャンタル・マンタル天文台

ジャイプルの街を建設したジャイ・シン2世は天文学に造詣が深く、インド各地に天文台を建設しました。ジャイプルのほかにもデリー、ウジャイン、バラナシ、マトゥラーと計5箇所に天文台が建造されましたが、ジャイプルのものが最大規模を誇ります。

 

敷地内には様々な天体観測機器が並んでいますが、最大の機器がサムラート・ヤントラと呼ばれる日時計です。基本的に日時計は高さが高くなるほど計測精度が上がるものですが、高さ27.4mのこの日時計は2秒単位の時間を計測できます。

 

ジャンタル・マンタルの巨大な日時計:サムラート・ヤントラ
ジャンタル・マンタルの巨大な日時計:サムラート・ヤントラ

インドでは占星術が非常に重視されていたため、正確な時刻や天体の位置を観測するために各地にこのような天文台が作られました。ジャイプルではラーシ・ヴァラヤ・ヤントラと呼ばれる観測器が12星座のそれぞれの方向に向かって設置されており、併設された機器と併用することで非常に正確な星座の観測を可能にしていました。

 

ラーシ・ヴァラヤ・ヤントラ
12星座を観測するラーシ・ヴァラヤ・ヤントラ。同様の小型の機器が12基並んでいます。

ジャイプルのジャンタル・マンタルには全部で16の観測儀があり、それぞれ時刻や天体の位置、日の出と日没の方向、赤道座標…など様々な観測を担っており、またそれぞれの観測結果を補正データとすることでより正確な観測が可能でした。マハラジャはこれらの機器をもとに暦の製作や天候予測を行い、政治や祭儀に活用していたといわれています。

 

天体の赤道座標と地平座標をはかるジャイ・プラカーシュ・ヤントラ
天体の赤道座標と地平座標をはかるジャイ・プラカーシュ・ヤントラ

ジャンタル・マンタルは1901年に修復が行われ、現在も正確に観測がつづけられています。イギリスの統治が始まってから欧米由来の高性能な観測機器が持ち込まれたためにその後の拡大がされることはありませんでしたが、ジャイプルの天文台は現在でも十分に機能しており、実際にその様子を見学することができる数少ない場所です。

 

ラグ・サムナート・ヤントラ
小型の日時計であるラグ・サムナート・ヤントラでは、影から実際の時刻を確認することができます。

 

 

▮風の宮殿 ハワー・マハル

1799年にジャイ・シン2世の孫:プラテープ・シンによって建設。シティ・パレスのそばの大通りに面して作られており、宮廷の女性たちが外から姿を見られずに街の様子を見られるように窓がつけられています。どの窓からも風が入るような設計から、風の宮殿と称されます。

 

風の宮殿:ハワー・マハル
風の宮殿:ハワー・マハル

前面からの姿が非常に印象的な建築ですが、背後へ回ってみると意外と奥行きの無い建物であることがわかります。出窓部分には鮮やかなステンドグラスが施されており、町の様子を一望することができます。また反対側には上述のシティ・パレスやジャンタル・マンタル、さらにアンベール城へと続く岩山まで見通すことができ、市内の絶好の展望スポットにもなっています。

 

背面から見た風の宮殿
背面から見た風の宮殿

 

出窓部分のステンドグラス
出窓部分のステンドグラス

また、ジャイプルは宝石や彫金、象牙細工、絨毯、陶器、手織物などの手工業が盛んなことでも知られています。特にブロックプリントと呼ばれる独特な手法で装飾される更紗は世界的に評価が高く、これを買うためにジャイプルを訪れる人も少なくありません。

 

ジャイプルの手芸店。美しい糸が一面に並びます。
ジャイプルの手芸店。美しい糸が一面に並びます。

 

ブロックプリントについてはこちらの記事で特集しています!ぜひ併せてご覧ください。

■ジャイプル ブロックプリント編

 

 

 

Text by Okada

 

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ジャイプル② ラジャスタン州とラージプート族

ナマステ、西遊インディアです!

今回はラージャスターン州とこの地で長い定住の歴史を持つラージプート族について、ご紹介します。

■ラージャスターン州とラージプート族

 

前回ご紹介した通り、ジャイプルはインド北西部、ラジャスタン州に位置しています。ラジャスタン州はインド最大の土地面積を有する州であり、その名は「王(Raja)の土地(Sthan)」を意味します。もともと古代インドのサンスクリット語で「部族の長」を意味する語だった「ラージャン」は後に「王」の意に転じ、インドの支配者たちが長く用いてきました。そして、「王の子」を意味するサンスクリット語の「ラージプトラ」の俗語形がラージプートです。

 

ラージプート族は自らの部族を古代インドの栄誉ある戦士階級とされるクシャトリヤの正統な末裔であると主張します。クシャトリヤは、5世紀頃に中央アジアからインドへ入ったエフタルに伴ってインドへやってきた中央アジア系の民族や、土着の諸部族にルーツを持つと考えられています。

 

インドの歴史的な身分制度:ヴァルナ制ではバラモン(祭司)・クシャトリヤ(戦士)・ヴァイシャ(平民・商人)とシュードラ(労働者・隷属民)の4つに分けられることはよく知られています。インドの王権社会では、政治的権力をつかさどるクシャトリヤ階級、そして宗教的権力を司るバラモン階級がお互いに協力して支配者階級としての特権を維持しようとしていました。これは王権の偉大さを主張したいクシャトリヤはバラモンにクシャトリヤの宗教的な正しさを示してもらい、バラモンはクシャトリヤに宗教的な権威を与えることで自らの庇護を求める、という互助関係です。

 

あくまでバラモンは司祭階級である自分たちが最高権力であるという立場でしたが、実際には王権をもつクシャトリヤの力は強大であり、クシャトリヤとバラモンの関係も完全な協力体制ではなく微妙なバランスの上に成り立つものでした。2階級間の争いも多く、ヴィシュヌの6番目の化身・パラシュラーマの物語にもみられるように、ヒンドゥー教の神話の中でもその軋轢が描かれています。

 

クシャトリヤを殲滅したパラシュラーマ(右)
クシャトリヤを殲滅したパラシュラーマ(右) (画像出典:長谷川 明  著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

 

ラージプート族も自らの宗教的な権威を民衆に示すためにバラモンを利用しました。8~12世紀の北西インドはラージプート時代と呼ばれ、ラージプート族がバラモンの協力を受けて神話上の英雄にまで遡る系統図を作っています。自らが英雄的な神の子孫であることを示すことで、王権の正当性を築いたというものです。

 

ラージプート族はクシャトリヤの戦士の末裔としての自負を持ち、強い結束を持った誇り高い戦士として知られています。封建的な社会で上下関係と騎士道を重んじ、女性には貞淑が求められました。独立勢力としての誇りが高かったためにラージプート族全体で団結することはありませんでしたが、その後の度重なるイスラム勢力の侵入に対しても個々に抵抗し、インドにイスラム政権が成立した後も政権に服従しながらも地方勢力として存続し、たびたび離反・独立してイスラム勢力に対抗しています。

 

ムガル帝国の弱体化した後はインドの他勢力と同様にイギリスの侵略を受け、19世紀初めまでにその多くが藩王国としてイギリスに吸収されていきます。その後、インド独立後にラージプートの諸藩王国はラジャスタン州として併合されていきました。

 

ジャイプルからは少し離れますが、同じラジャスタン州のチットールガルを舞台にした映画『パドマーワト 女神の誕生』が2018年インドで作成・公開されました。インド映画史上最高の製作費約36.4億円をかけて作成されたというこの映画は、日本でも話題となり2019年に公開されています。

13世紀のラジャスタンを舞台にした本作では、ジャイプルのジャイガル城(アンベール城の奥に控える要塞)でもロケが行われました。

 

(C)Viacom 18 Motion Pictures (C)Bhansali Productions
(C)Viacom 18 Motion Pictures (C)Bhansali Productions

 

脚本や映画の時代考証等でインド国内で大きな論争を引き起こした映画ですが、インド映画史上最も興行的に成功した映画の一つでもあり、当時のラジャスタンの雰囲気を体感できる映画です。

 

詳しくは神保監督のブログをご覧ください!

 

■パドマーワト 女神の誕生 | 700年の時を越え現代に甦る、伝説の王妃 ラーニー・パドミニー

 

 

今回は文字ばかり多くなってしまいましたが、次回は写真をジャイプルの街の見どころを写真をたっぷり使ってご紹介します!

 

 

Text by Okada

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ジャイプル① ジャイプルと名君ジャイ・シン2世

ナマステ、西遊インディアです。

インド北部の観光名所といえば首都のデリー、そしてタージマハルを擁するアグラが人気ですが、その2都市にジャイプルを加えたルートが「ゴールデン・トライアングル」という名でよく知られています。今回はデリーからのアクセスも容易で見どころ盛りだくさんのスポット・ジャイプルについて、町の歴史、ラジャスタン州、ラージプート族についてご紹介します。

 

■ラジャスタン州の州都ジャイプル

 

ジャイプルはインドの首都デリーから南西に約260kmの距離に位置し、幹線道路や鉄道によってデリー、そして東に約240㎞離れたアグラと繋がれています。この3都市を巡るルートだけで多くの世界遺産を巡ることができることから、インド観光の”ゴールデントライアングル“とも呼ばれます。

 

 

ラジャスタン州の中では、ジャイプルは州の中部に位置し、同州の州都となっています。現在の都市は平野部に広がっていますが、18世紀以前は現在のジャイプル中心部から8㎞ほど北東の丘陵地帯に位置するアンベールに、さらに1600年以前はアンベールよりさらに山岳部へ入ったジャイガルに都が築かれていました。旧都はどちらも岩山の上に作られた都であり、人口の増加や水不足のためにジャイガルからアンベールへ、そしてアンベールから平野部のジャイプルへと新たに都を造成しています。

 

アンベール城から眺めるジャイガル要塞
アンベール城から眺めるジャイガル要塞

 

山麓から眺めるアンベール城
アンベール城

■名君ジャイ・シン2世とジャイプル建設

1728年にジャイプルの建設を行ったのが、18世紀のインドで最も啓蒙的な王と称されるジャイ・シン2世です。1688年にアンベールで生まれたジャイ・シン2世は、1699年に父王ビジャン・シンが亡くなった時から11歳でアンベール王国の王となりました。

 

ジャイ・シング2世
ジャイ・シン2世
(画像出典:The British Museum-Portrait of Maharaja Sawai Jai Singh II

 

この頃、インドではデカン戦争(又はムガル・マラーター戦争)の渦中にありました。第6代皇帝アウラングゼーブは17世紀前半からデカン高原への介入を強め、1650年代からシヴァージーを中心としたマラーター王国と、周辺の諸勢力を巻き込んだ超長期の戦争を繰り広げます。1707年のアウラングゼーブ帝の死をもって終焉したデカン戦争でしたが、ジャイ・シン2世はこの戦争の最終期にアンベール王として参戦しています。アウラングゼーブ帝のもとでマラーター王国に対して武功を治めたジャイ・シン2世は、皇帝より”Sawai(サワーイー)”の称号を与えられています。これは「4分の1」を意味する言葉で、他の者より4分の1人分優れていることを示します。

 

アウラングゼーブ帝
アウラングゼーブ帝(画像出典:The British Museum – Álamgír,ie Awrangzíb)

 

軍事や外交で手腕を振るったジャイ・シン2世は、内政でも数々の功績を遺していますが、その一つがジャイプルの新都建設です。アンベールでの人口の増加と水不足を解消するために平野部に建設された新都は、彼の名にヒンディー語で「城壁に囲まれた街」を意味する「プル」を足し”ジャイプル”と呼ばれるようになりました。

 

実際にジャイプルの中心部(現在の旧市街)は高さ6m、総延長10㎞に及ぶ堅牢な城壁で囲まれています。街は綿密な建設計画のもとに建てられており、碁盤の目状の構造を基本に整然とした街並みが建設されています。このジャイプルの市街は世界文化遺産にも指定されています。

 

航空写真で見たジャイプル中心地(シティ・パレス周辺)。
航空写真で見たジャイプル中心地(シティ・パレス周辺)。
(画像出典:Yahoo Map)

 

内政に関しては改革者としても知られ、ジャイ・シン2世は女性の人権侵害に関わる改革を行っています。夫に先立たれた妻が焼身自殺するサティー、花嫁に多額の結婚持参金を求めるダヘーズ、そして女児が生まれた際に(主に金銭的な理由で)嬰児を殺害する女児殺しの風習等、現代のインド社会においても通じる巨大な問題として残されているこれらの慣習ついて、ジャイ・シン2世は廃止のための立法を試み、撤廃のために尽力した人でした。

 

 

また、科学者・天文学者としても非凡の才を表しています。ジャイ・シン2世は海外の科学書を入手してサンスクリット語訳し、インド各地に多くの天文台を設置しました。

ジャンタル・マンタルと呼ばれるこの天文台はジャイプルの他にデリー、ウッジャイン、ヴァーラーナシー、マトゥラーにも設置され、特にジャイプルの天文台は最大のもので、後にイギリスの観測機器が持ち込まれるまではインドで最も正確な観測器として機能しました。ここは現在でも十分に観測器としての機能を保っており、実際に見学することも可能です。

 

ジャンタル・マンタルの観測器のひとつ(日時計)
ジャンタル・マンタルの観測器のひとつ(日時計)

 

ジャイ・シン2世の築いたジャイプルの街は、現在では街並みが淡い桃色で統一されていることから、”ピンク・シティ”とも呼ばれます。これは1876年にイギリスのヴィクトリア女王の息子・アルバート王子がジャイプルを訪れた際、歓迎の意を示すために市街をピンク色に飾ったことに由来しており、現在でも慣習的にピンク色の街並みの維持が続けられています。華やかな桃色の街並みを巡るのもジャイプル観光の魅力の一つです。

 

ジャイプル市街地。一般の建物もピンク色に塗られています
ジャイプル市街地。一般の建物もピンク色に塗られています

 

今回は、今もジャイプルの人々に愛され慕われているジャイ・シン2世について紹介いたしました。

次回は、ラジャスタン州とラージプート族についてご紹介します!

 

Text by Okada

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デリー イスラム王朝の3つの世界遺産

Namaste!! 西遊インディアの岡田です。
今回はインドの首都・デリーで見ることのできる3つの世界遺産をご紹介します。

 

India Gate
第一次世界大戦や第三次アフガン戦争で戦死した兵士たちの慰霊碑であるインド門。現在はデリーのランドマークでありたくさんの方が写真スポットとして訪れます
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デリー中心部、コンノート・プレイス周辺。休日・平日の区別なく常にたくさんの人が往来しているエリアです。 デリー市内はたくさんの木々が植えられており緑あふれる都市です。

 

デリーはヒンドゥー教の2大叙事詩の一つ、マハーバーラタでも登場する歴史の深い都市。ヤムナー川河畔の肥沃な土地で、イスラム勢力の到達以前より、ヒンドゥー諸勢力の王都として利用されてきました。

 

12世紀以降はイスラームによる征服を受け、16世紀以降はムガル帝国の支配下となり、19世紀末以降は1947年の独立までイギリスの占領下におかれます。イギリスは当初コルカタに植民地支配の拠点を置いていましたが、コルカタでインドの民族運動が隆盛したこと、そしてインド全土の拠点とするためにはあまりにも東に位置していることから、デリーが1911年にイギリス領インドの首都となりました。

 

デリーの3つの世界遺産はいずれもイスラーム時代に建設されたものです。クトゥブ・ミナールは13世紀の奴隷王朝、フマユーン廟とラール・キラーはムガル帝国時代にそれぞれ建設され、現在まで非常に良好な状態で保存されています。

 

 

■クトゥブ・ミーナール

奴隷王朝の創始者:クトゥブッディン・アイバクがイスラム王朝のヒンドゥー教王朝への勝利を記念して建てた塔。ミーナールはイスラム教のミナレットを指し、「クトゥブッディン・アイバクのミナレット」という意味となります。

 

インド最大のミナレットとして知られますが、本来のイスラムにおけるミナレットとは違い記念塔としての意味を持つものです。クトゥブ・ミナールはイスラームによるインド支配を示すその象徴として建設されており、そのためにもともと存在していたヒンドゥー教寺院を破壊し、建設にはその石材が利用されています。

 

クトゥブ・ミナール
クトゥブ・ミナール

 

塔は高さ72.5mの5層から構成されており、公園内から見上げた姿は圧巻。近づいてよく見ると外面はコーランの文章を図案化した彫刻で装飾されており、繊細な美しさにまた驚かされます。

 

クトゥブ・ミナールの壁面装飾
クトゥブ・ミナールの壁面装飾

 

塔の周りには破壊されたヒンドゥー教寺院の跡が残るほか、この塔よりさらに巨大な塔を建てようとした跡が残されています。アライ・ミーナールと呼ばれるこの塔は建設に着手した後に資金不足等が原因で放棄されてしまい、現在見ることができるのはその巨大な基壇のみです。

 

アライ・ミーナールの基壇
アライ・ミーナールの基壇

 

また園内のもうひとつの名所が「デリーの鉄柱」と呼ばれるグプタ朝時代の3~4世紀に建立された鉄柱。建立から約1500以上を経ているにも関わらず錆びていない鉄柱として知られていますが、なぜ錆びが生じないのかは現在でも判明していないというミステリアスな遺物です。

 

デリーの鉄柱
デリーの鉄柱

 

■フマユーン廟

ムガル帝国第2代皇帝:フマユーンの霊廟。1530年に2代目皇帝となったフマユーンですが、1540年にはアフガン系のシェール・ハンにデリーを奪われシンド地方、またその後にイランへと逃れます。亡命生活の中でイラン系のハミーダ・バーヌー・ベーグムと結婚し、後の第3代皇帝、賢帝として知られるアクバルが生まれています。

 

フマユーン廟外観
フマユーン廟外観

シェール・ハンの死後フマユーンはインド方面へ進軍を続け、1555年に遂にデリーを奪還。しかしその翌年、礼拝に向かう途中の階段で転倒した際の怪我であっけなく亡くなってしまいます。その後、1565年に彼の妻ハミーダ・バーヌー・ベーグムの命によって廟の建設が始まりました。

 

廟の天井装飾
廟の天井装飾

廟はムガル帝国最初のペルシャ系イスラム建築様式の墓廟であり、赤砂岩と白い大理石で建設されています。赤砂岩は権力を、白大理石は清浄さを表すものとしてムガル帝国時代のインド建築では権力者に好まれた素材です。特にシャー・ジャハーンはこれを好み、亡くなった妻:ムムターズのために総白大理石製の白亜の宮殿:タージマハルを建設したことはよく知られています。

前後左右どこから見ても同じ形を見せるフマユーン廟の美しい廟建築は、後にタージ・マハルの建築様式にも影響を与えたといわれています。

 

 

■赤い城:ラール・キラー

ディワニ・アーム
ディワ―ネ・アーム(一般謁見所)

ムガル帝国第5代皇帝:シャー・ジャハーンがアグラからデリーヘと遷都して造営した要塞。新たな都は彼の名をとって「シャージャハナバード」と呼ばれ、これが現在のオールドデリーの基礎となっています。赤砂岩でできているため、ラール(=赤い)・キラー(=城)と呼ばれており、強固な外壁の印象とは対照的に、内部には華麗な装飾の施された豪華な建築が並んでいます。

 

 

シャー・ジャハーンはタージ・マハルを建設した皇帝。園内には彼の妻ムムターズ・マハルの暮らした宮殿をはじめ、かつては数々の宝石で飾られた「孔雀の玉座」を擁する謁見の間など、数々の美しい建築群が立ち並んでいます。

 

左からディワニ・カース(来賓用謁見所)、カース・マハル(ムムターズ宮殿)、ラング・マハル(ハーレム)
白大理石の建築群。左からディワーネ・カース(来賓用謁見所)、カース・マハル(ムムターズ宮殿)、ラング・マハル(ハーレム)

 

ディワニ・カースの内部装飾
ディワーネ・カースの内部装飾

タージ・マハルをはじめとする建築による巨額の出費、また版図拡大やマラーター同盟との戦闘などによりムガル帝国はその力を失い、第6代皇帝アウラングゼーブの死後は急激に弱体化していきます。広大だった支配領域もデリー周辺に限られたものとなり、近隣の王国やイギリスの侵略によって皇帝の権威も名目的なものとなっていきました。

 

1857年のセポイの反乱の際にはムガル帝国皇帝を擁立してインドの諸勢力が挙兵しますが、英軍の圧倒的な軍事力によって制圧され、最後の皇帝:バハドゥール・シャー2世の追放をもってムガル帝国は解体されました。その後はイギリス領インドとしての歴史を歩んでいきます。

 

 

当時は、ここラールキラーはムガル文化の中心地として様々な芸術、文学が栄えました。現在は、一部が軍施設として利用されていますが、ほとんどは美しく整備され広い庭は市民の憩いの場所になっています。

また、毎年8月15日の独立記念日はラールキラーにて首相演説が行われ、1月26日の共和国記念日にはパレードが行われる等、国家規模の主要な行事の舞台となっています。

 

 

今回、デリーの世界遺産3か所を紹介しましたが、歴史的建造物以外にもデリーには見どころが盛りだくさん。その内容はまた追ってご紹介させていただきます!

 

カテゴリ:■インド北部
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インドの宝となった「妻への愛」 タージ・マハル

インドを代表する世界遺産・タージマハル。誰もが一度は目にしたことがあると思います。ムガール帝国の5代皇帝シャー・ジャハーンが亡き妻を偲び1632年に着工し、1653年に完成させた巨大な霊廟です。

 

Taj Mahal
タージマハル

シャー・ジャハーンの寵愛を受けた妻ムムターズ・マハルは彼との間に14人もの子供をもうけ、最後の14人目の息子のお産中に36歳の若さで亡くなりました(ちなみに、ムムターズ・マハルの14人の子供のうち、成人したのは男子4人と女子2人のみでした)。
シャー・ジャハーンは彼女を戦にまで連れて行く愛しようで、一説では彼女の死を悼んで、一晩で黒々とした髪が真っ白になったと言われています。
ムムターズが亡くなった翌年にタージマハルの着工が始まり、ラジャスタン地方から約10,000頭もの象で運んだ白大理石、世界各地から運んだ数々の宝石。建設にかかった費用は明らかではありませんが、国の財政を傾けるほどだったと言われています。

 

Taj Mahal
タージマハル 中央

白大理石の壁面は赤サンゴやオニキス、ひすいなどを用いて装飾されています。下から見上げると太陽光を反射した宝石がきらきらと光り大変美しいです。

 

タージマハル完成からわずか4年後、シャー・ジャハーンは病床に臥します。その後、息子たちの間で皇位継承の争いが行われ、勝ち取ったのは第3皇子アウラングゼーブ。彼は成人した兄弟全てを殺害し、その座を奪取しました。
更には実父のシャー・ジャハーンを1658年、タージマハルからほど近くに建つアグラ城に幽閉。亡くなるまでの約8年間、シャー・ジャハーンは幽閉された部屋の窓から明けても暮れてもタージマハルを眺め、妻を偲ぶ余生を送ることになりました。

 

Taj Mahal
アグラ城から望むタージマハル

現在、世界遺産に指定されているアグラ城。シャー・ジャハーンが幽閉されていた小部屋(テラス)も見学することができます。ムガール様式のアーチ状の小窓を覗くと、タージマハルとその傍をゆっくり流れるヤムナー川の風景。シャー・ジャハーンの時代から変わっていないだろうこの風景は、王の悲しみと王妃への強い気持ちを今も伝えてきます。

 

ちなみにタージマハルは、 2015年秋より大規模な修復&クリーニング作業が行われ、ドーム、ミナレット(尖塔)の周りに木組みの作業台が設置されている状態が約4年程続いていました。現在はほぼ完了しておりますので、大気汚染等の影響を受けやや黄ばんでいたタージマハルは今は白くピカピカです。

 

Taj Mahal

 

夕方のタージマハルもおすすめ。こちらは、ヤムナー川を挟んでタージマハルの反対側に位置するマターブ・バーグからの撮影です。夕刻はタージマハルがピンク色に染まります。マターブ・バーグはもともとはシャー・ジャハーン自身の墓・「黒いタージ」の建設予定地でした。三男に皇帝の座を奪われてしまったことで実現には至りませんでしたが、現在は庭園として整備され憩いの場所となっております。

 

Taj Mahal
夕方、マターブ・バーグから眺めるタージマハル

現在、タージマハルには観光シーズンの週末ですと1日6~7万人程が訪れています。今後政府は混雑緩和と施設保護の観点から、1人当たりの観覧時間を最長3時間、インド国民の入場者数を1日4万人に制限することを発表しました(外国人観光客にはこの制限は適用されません)。

 

インドを代表する遺産であり、ムガール帝国時代の栄華を象徴するタージマハル。時間帯によってもその見え方、輝き方が異なります。ぜひ一度と言わず何度か足を運んでいただきたいです。

 

Taj Mahal

 

※この記事は2012年1月のものを修正・加筆して再アップしたものです。

カテゴリ:■インド北部 , アグラ , ウッタル・プラデーシュ州 , タージマハル
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