天空のチベット ラダック第2弾:基本情報(暮らし・民族・食)

ナマステ!西遊インディアです。
今回は、ラダックエリアの気候、暮らしや食事などについて、ご紹介いたします。

■気候

夏は短く、冬は長いラダック地方。6月~9月頃がいわゆるラダックの夏です。日中は30度前後まで気温が上がり日差しも強烈ですが、朝晩は10度以下まで下がることもあり、特に天気が悪い日は冷え込みます。青い空と、緑、雪を被った白い山脈の組み合わせが非常に美しい時期です。

 

7月撮影のレーの街。晴天率も高く、過ごしやすい時期です

10月~4月上旬はラダックの冬。日中でも氷点下まで気温が下がり、時には-20℃を超える極寒の世界となります。積雪もあり、峠道は通行不可となってしまうことも多いです。レー・デリー間の国内線も、天候不良によるフライトキャンセルが頻発する時期です。

 

1月、レー郊外の道路の様子
ルンバク村の1月

一般的には、6~9月がラダックの観光シーズンとされており、この時期はレーの街や郊外の観光地は大変賑わいます。

また、季節の見どころとして4月中旬~5月上旬頃、標高の低いインダス川沿いの村々では、杏の花が咲きます。薄いピンク色の杏の花はとても可愛く、日本の桜を思い出します。日中はまだ寒いですが、4月頃に杏の花目当てで行くのもいいですね。

 

4月、満開の杏の花

ラダックは年間降水量が非常に少なく、一年を通し非常に乾燥しています。また天気も変わりやすいです。お出かけの際は、事前に現地の気候をチェックのうえ、日よけ・乾燥・暑さ・寒さ対策が必要です。

■暮らし

家畜の世話をする女性

伝統的なラダックの暮らしは、散らばった小さな村々での営みで、主な仕事は牛の飼育と耕作です。近年までほとんど完全な自給自足が成り立っていました。標高4000m前後の土地のため耕作できる土地は少なく、また作物が育つ時期は約4ヶ月間と極めて短いです。しかし、人糞と家畜の糞尿を肥料にし、氷河から溶け出した水を畑に引く複雑な灌漑のシステムを開発。集約的な農耕農業で、1年間に必要な小麦や大麦の生産を可能にしました。

 

初春、畑作業に勤しむ女性(ラマユル村にて)

もっとも重要なものは家畜で、特にヤクが重要視されています。ヤクは穀物を脱穀したり、土地を耕したり、荷物の運搬に利用され、糞は肥料や乾燥させてこの地方唯一の燃料になります。乳を採り、肉を食べたり、毛皮を衣服・カーペットなどの原料として使用します。

 

ラダックの夏の間は大変忙しいです。大麦、小麦、豆、杏やその他果樹の収穫、干しアンズなど長い冬を越すための保存食作り等、休む暇もなく作業をこなします。

 

8-9月は刈り入れ作業の時期です
ラダックの女性は働き者!

ちなみにラダックでは、厳しい環境下で、食料や資源が少ないため、人口増加を抑えるために兄弟で妻を共有する一妻多夫性が取り入れられてきました。現在は、インドの法律で禁じられ、一夫一妻制となっています。

■民族・言語

ラダックで暮らす人々の多くは、チベット系の民族であるラダック人(ラダクスパ)です。ほとんどの人はチベット仏教を信仰していて、服装や食事、風習など、チベットと共通する部分がたくさんあります。言語はチベット語の方言、ラダック語。チベット語と文字は同じですが、発音はかなり異なります。

 

ラダック北西部のダー・ハヌーには、頭に花を飾る華やかな風習で知られる、ドクパ(ブロクパ)と呼ばれる人々が住んでいます。アーリア系民族ですが、仏教徒です。ラダック語ともバルティ語とも異なる、ドクスカットという言語を使っています。ラダック東部のチャンタン高原には、チベット人の遊牧民たちが暮らしています。

 

ダー村の女性たち。頭の花飾りが特徴的です
ダー村の男性

■民族衣装

ラダックは標高が高く、紫外線を目いっぱい浴びる場所です。夏でも肌をあまり出さず、紫外線や乾燥から体を守っています。冬は凍てつく寒さから体を守るためにしっかりとした防寒が必要です。寒くなってくると、男女ともに着用するのは、ゴンチェというウールの上着です。

その他、帽子はティビ、靴はパブーといいます。

 

「ゴンチェ」と「パブー」
ラダックの山高帽「ティビ」

ペラクは主にザンスカール地方に伝わる、トルコ石がふんだんに使われた女性用の頭飾りです。母から娘へと受け継がれる、いわゆる家宝です。お祭りや、特別な行事のときに被ります。一度被らせてもらいましたが、トルコ石が隙間なく並べられているため被るとずしっととても重いです。

 

トルコ石をあしらったぺラク

伝統的な民族衣装を纏う人は近年減ってきているそうですが、レーを離れて郊外の村まで行けば、年配の方を中心に着用している人々はまだ目にします。民家訪問でお邪魔させてもらった時、試着させてもらえることもあります!

 

■食事

ラダック地方はチベット文化圏ですので、チベット料理が主流です。主に大麦、小麦を主食とし、ラーメンのようなトゥクパ、タントゥク(ワンタンメン)、モモ(餃子)などのチベット料理は、日本人にも食べやすいあっさりした味付けです。 「ツァンパ」と呼ばれる炒った大麦を粉にしたものをお碗の中でバター茶と練って作る「コラック」。ツァンパを大鍋で水から練って作る「パバ」。これらは自家製ヨーグルトなどと一緒に食べることが多いです。また、インド料理もポピュラーで、野菜カレーやチャパティなどもよく食べられています。大きな町やムスリムの多い町では、チキンやマトンを使った料理も食べることができます。

 

モモ
トゥクパ
ラダッキ・ブレッド。焼きたては特においしい!

 

 

ラダックシリーズ③へ続きます!
ラダック第3弾: チベット仏教の世界と仏教美術の宝庫アルチ僧院

 

 

 

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天空のチベット ラダック第1弾:ラダック地方の歴史

ナマステ!
西遊インディアです。

 

はためく五色の旗(タルチョ)を見ると、違う文化圏に来たという実感がよりわきます

インド北西部、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈に囲まれた、標高約3500メートルの地に広がるラダック地方。「峠を越えて」という意味のラダック(Ladakh)が使われるようになったのは17世紀頃からで、それまでは「低地の国」という意味のマルユル(Maryul)という名で呼ばれていました。荒涼とした山々に囲まれ、広大な大地に青い空、恵みをもたらすインダス川…。インドのイメージを覆す絶景デスティネーションとして、大変人気です。

 

色濃くチベット文化を残し、「小チベット」とも呼ばれるラダックについて紹介するシリーズ、第一弾です。

 

■基本情報

ラダック連邦直轄領
中心都市:レー (標高約3650m)

人口:約24万人
主な宗教 : 主に仏教 その他にイスラム教、ヒンドゥー教、シーク教など
主な言語 : ラダック語、ヒンディー語、ザンスカール語、バルティ語、ウルドゥー語など

(※英語もある程度通じる)

アクセス:首都デリーからレーまで、国内線が運航されております。所要約1時間。その他にも、夏の間はマナリやシュリーナガルから陸路移動も可能です。

 

ラダック・ザンスカール地方の地図
国内線移でデリーからレーへ
フライトは、ヒマラヤ山脈が見下ろせる迫力の山岳フライトです

 

■ラダック地方の歴史

8世紀頃、チベットの吐蕃王国がラダックを占領し、チベット系の民族がラダックに流入して住み着くようになったと言われています。ラダックを統一した最初の王であるラチェン・パルギゴンは、シェイを王都に定めてラチェン王朝を興しました。16世紀頃、タシ・ナムギャル王のナムギャル王朝は、シェイからレーに遷都。17世紀、センゲ・ナムギャル王の治世には、ラダック王国は全盛期を迎えます。レー王宮やヘミス・ゴンパなどを次々と建立し、さらには周辺のザンスカール王国やグゲ王国を併合するなど、領土を拡大していきました。

 

レー王宮跡

1640頃、センゲ・ナムギャル王は9階建ての王宮をレーに建設。このレー王宮は、ラサのポタラ宮のモデルになったとも言われています。中にはお堂が一つあり、王族の祈りをささげる場としての役割を果たしていました。現在は廃墟となっておりますが一部博物館として開放されています。

 

17世紀後半、ラダック王国とダライ・ラマ5世治下のチベットとの間で戦争が勃発します。ラダック王国はかろうじてチベットとの講和を締結しましたが、代償として多くの領土を失い衰退していきました。

1846年、イギリスが介入した第一次シク戦争の結果、イギリス植民地のジャンムー・カシミール藩王国が成立し、ラダック王国は他のカシミール諸侯とともに藩王国の一部として併合されました(その後もラダックの王家は藩王国内の一諸侯として一定の自治権は保持したとされています)。

 

第二次世界大戦後の1947年、インド・パキスタンが分離独立すると、各藩王国はインドかパキスタン、どちらかに帰属を求められました。時のカシミールの藩王ハリ・シンは自身がヒンドゥー教でしたが、対して住民の80%はムスリム(イスラム教徒)であり、住民はパキスタンへの帰属を望んでいたことから、帰属先の決定が先延ばしにされていました。

そんななか、パキスタンの民兵がカシミールに侵入。焦ったハリ・シン王は慌ててインドに武力介入を要請し、第一次印パ戦争へと展開していきました。その後第二次、第三次印パ戦争へと続くことになります。

 

結局カシミールの紛争地域は、1947年の第一次印パ戦争後の1949年に制定された国連停戦ラインによって2つの部分に分割され、1972年にそのまま管理ライン(LoC:Line of Control)として再定義されました。インドの地図をみると、この管理(停戦)ラインが、点線で示されています。

 

緑部分がパキスタン側カシミール、オレンジかインド側カシミール。点線が、Line of control のライン。

2019年、ジャンムー・カシミール州再編成法の規定により、ジャンムー・カシミール州は廃止され、ラダック連邦直轄領とジャンムー・カシミール連邦直轄領に分割されました。

 

なお、1947年からこのエリアは外国人の立ち入りが禁止されておりましたが、1974年、再び外国人の立ち入りが許可されるようになりました。軍事的理由により約30年もの間閉ざされていたため、レーを中心とするラダックエリアには、チベット本土では破壊され、失われてしまった本当のチベット仏教文化が残されています。中国のチベットよりも「チベットらしい」と言われる所以です。

 

 

シリーズ第2弾では、この地方の基本情報や、暮らしの様子などを紹介いたします!

ラダック第2弾:基本情報(暮らし・民族・食)

 

 

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ヴィシュヌの化身⑦仏陀とカルキ ヒンドゥー教の終末思想

ヴィシュヌの化身を紹介する第7回。最終回の今回は9番目・10番目の化身である仏陀カルキ、そしてそれと関連してヒンドゥー教の終末思想について紹介していきます。

 

■ヒンドゥー教における仏教の捉え方

仏陀は言わずと知れた仏教の祖ですが、ヴィシュヌの化身としてヒンドゥー教に受容されています。ヒンドゥー教としてはそもそも仏教もヒンドゥー教の一派であるという立場をとっているため、仏陀がヒンドゥー教の神として捉えられることにも特に不思議はありません。

 

仏陀立像(マトゥラー, 後5世紀)
仏陀立像(インド  マトゥラー, 後5世紀)

仏教徒の多い日本からすると捉え辛いものですが、確かに仏陀自身もヒンドゥー教の前身であるバラモン教が支配的な環境で育ったため、その思想の土台にはバラモン教な要素が多く見受けられます。これは仏教と同時期に成立したジャイナ教にも共通しており、ヒンドゥー教の考えではジャイナ教も仏教と共にヒンドゥー教の一派とされています。

 

ジャイナ教も同様ですが、仏教は祭祀とバラモンを極端に重視する教義主義的な当時のバラモン教への批判として成長し、信者を獲得してきた側面があります。逆にバラモン教側では、仏教やジャイナ教などの当時の言わば新興宗教の隆盛に対抗するために、バラモン教の宗教としての見直しや改革が盛んにおこなわれ、これがヒンドゥー教の成立・発展へと繋がっていきます。

 

ジャイナ教の指導者:ティールタンカラを表す像(インド、カジュラホ)
ジャイナ教の指導者:ティールタンカラを表す像(インド、カジュラホ)

 

■ヴィシュヌの化身としての仏陀

ヴィシュヌの化身として表される仏陀は、仏教という異教を魔族に教えることでヴェーダから遠ざけ、魔族を惑わせるという否定的な役割で登場します。仏陀をヴィシュヌの化身とすることで仏教を吸収しようとするというものですが、仏教自体はヴェーダに反する正しくない教えとして捉えられているところが面白い点です。

 

ヴィシュヌの化身として描かれた仏陀
ヴィシュヌの化身として描かれた仏陀 ©-The-Trustees-of-the-British-Museum

ヴィシュヌの化身としての仏陀の登場は、ヒンドゥー教における世界の終末期であるカリ・ユガの到来を意味します。このカリ・ユガの時代で登場する救世主がヴィシュヌの10番目の化身:カルキですが、カルキの紹介へ進む前にヒンドゥー教の世界観と終末思想をご紹介します。

 

 

■ヒンドゥー教の世界観と終末思想

インドでは紀元前8世紀頃に奥義書:ウパニシャッドが編まれ、このころに輪廻思想が成立したと考えられています。ヒンドゥー教の世界観は輪廻思想に基づいており、世界の創造と破壊が繰り返される形で現れます。

 

ヴィシュヌ派の神話では、世界が始まる前の原初の海では竜王アナンタに寝そべったヴィシュヌの臍から一本の蓮の花が咲き、そこからブラフマーが生まれ世界を創造するとされています。これはもともとはブラフマーの臍からヴィシュヌが生まれたという神話ですが、ヴィシュヌを至上の神とするヴィシュヌ派によってその役割が逆転したものです。

 

竜王の背に横たわるヴィシュヌ。臍から伸びた蓮の花にはブラフマーが乗っている。
竜王の背に横たわるヴィシュヌ。臍から伸びた蓮の花にはブラフマーが乗っている。© The Trustees of the British Museum

そして、世界はそのブラフマーの一日の始まりの際に作られ、一日の終わりに破壊される存在です。この「1日」はブラフマーの昼間の時間を差し、人間の時間に換算すると43億2千万年という長大な時間です。ヒンドゥー教の神々は人間とは異なる時間を生きており、ヒンドゥー教の世界観の時間的スケールの大きさを感じさせられます。

 

■ヒンドゥー教の時間感覚とユガ

ヒンドゥー教の時間を示す概念としては以下のようなものが存在します。

 

神年:360年。神々にとっての1日は人間の1年にあたり、人間の360年が神にとっての1年となる。

マハーユガ:12000神年(人間の時間で432万年)

カルパ:1000マハーユガ。ブラフマーの1日は昼間が1カルパ、夜1カルパの2カルパからなる。

 

創造神として、世界の創造(再生)を司るブラフマー神。
創造神として、世界の創造(再生)を司るブラフマー神。©-The-Trustees-of-the-British-Museum

ユガは12,000神年=432万年にあたるマハーユガを前から4:3:2:1の割合で分割した期間であり、それぞれのユガで時代の特徴が決まっており、始めから末期へかけて段々と悪い世界になっていきます。ヴェーダの法と正義もそれぞれの期間で4:3:2:1の比率で減っていき、その分悪がはびこるようになります。

 

クリタ・ユガ(4800神年):すべての法と正義が保たれ、人は病気にならず、400年の寿命を持つ。

トレター・ユガ(3600神年):法と正義が4分の3まで減った世界。人間の寿命は300年。

ドヴァーパラ・ユガ(2400神年):法と正義が半分になり、その分悪がはびこる世界。人間の寿命は200年。

カリ・ユガ(1200神年):法と正義が4分の1まで減った世界。人々は神から遠ざかり、悪が世界を支配する。人間の寿命は100年になる。

 

カリ・ユガは人間の時間では43万2千年続きます。カリ・ユガの時代では人々はヴェーダの教えから離れて宗教的に堕落し、神々は信仰されず、支配者は理性を失い、世界ではあらゆる悪が行わる…とされています。現在の私たちが生きる時代はこのカリ・ユガに当たります。

 

「カリ」は対立・不和・争いを意味し、またこの時代を支配し世界を悪で満たす悪魔:カリを指します。カリは悪の顕現であり、このカリを倒すために登場する救世主がヴィシュヌの化身:カルキです。

 

■救世主としてのカルキ

カリ・ユガの終末期、カルキは白馬に乗った騎士、又は馬頭の巨人として登場し、世界の悪を滅ぼすとされています。世界を救い指名を果たしたカルキが天界に帰るとカリ・ユガの時代は終わり、また法と正義で満たされたクリタ・ユガの時代が始まります。

 

カルキ。後ろにはカルキのシンボルでもある白馬を連れている。©-The-Trustees-of-the-British-Museum
カルキ。後ろにはカルキのシンボルでもある白馬を連れている。©-The-Trustees-of-the-British-Museum

こうしてひとつのマハーユガが終わりますが、ブラフマーの一日が終わるのは1000マハーユガが経った時です。ブラフマーの一日の終わりには地下・地上・天上の三界で生物が死に絶え、世界はヴィシュヌの炎によって焼き尽くされ、続いてやはりヴィシュヌが吐き出した雲から降る雨で水に沈められます。その後ヴィシュヌは雲を吹き払ってブラフマーを飲み込み、原初の海で竜王アナンタに寝そべります。こうして世界が始まる前の状態へと戻り、1カルパの眠りの後にまた新たな世界が始まります。

 

また、ブラフマーの一生はブラフマーの時間での100年(人間の時間で8640億年)とされており、ブラフマーの一生が終わる際には世界はより大きな規模で破壊され、最終的には宇宙の根本原質であるヴィシュヌ自身に飲み込まれることになります。そしてブラフマーは改めてヴィシュヌの臍から生まれなおし、世界の創造を始めていきます。

 

 

Text by Okada

 

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ヴィシュヌの化身⑥クリシュナ

ヴィシュヌの化身神話を紹介する第6回。今回は8番目の化身、クリシュナ神をご紹介します。

 

横笛を吹くクリシュナ©-The-Trustees-of-the-British-Museum.jpg
横笛を吹くクリシュナ©-The-Trustees-of-the-British-Museum.jpg

牧童の美少年として描かれるクリシュナは、ヒンドゥー教の神々の中でも最大の人気を誇る神の一つです。クリシュナ自体もヤーダヴァ族の英雄、ヴリシュニ族の一神教的な神、アービーラ族の牧童など様々な土着の神的存在がヒンドゥー教のもとで統合されて生まれた神でしたが、後にヴィシュヌの化身とされたことでヒンドゥー教、そしてヴィシュヌ派の拡大に大きく貢献しています。

 

「クリシュナ」の名は「黒」を意味します。肌が黒いことに由来する神名ですが、ここからもクリシュナがアーリア系由来ではなく土着の神に由来するものと分かります。絵画においては、シヴァ神と同様に青色の肌で描かれています。モチーフとしては横笛・バーンスリーを吹く姿が象徴的です。その音色を聞くと女性はみなクリシュナの虜になってしまうほどの笛の名手とされています。また光輪(チャクラ)、額のU字のモチーフはヴィシュヌ神を表すもので、こちらもクリシュナの重要なシンボルです。

 

様々な神話を持つクリシュナですが、その中でもクリシュナ自身の出生に関する神話をご紹介します。

 

■クリシュナ神の誕生譚

その昔、マトゥラーのヤーダヴァ族のヴァースデーヴァ王子デヴァーキーと結婚します。しかしその結婚式の際、デヴァーキーの従兄のカンサ王は「デヴァーキーの8番目の子どもがお前を殺すだろう」という何者かの声を聴きます。カンサ王はそれを恐れ、デヴァーキーを牢に監禁し、その子を全て殺すことを決めます。

 

ヴァスデーヴァとデヴァーキー©-The-Trustees-of-the-British-Museum.jpg
ヴァスデーヴァとデヴァーキー©-The-Trustees-of-the-British-Museum.jpg

カンサ王によってデヴァーキーの6人の息子が殺されます。その後デヴァーキーは7番目の子どもを妊娠しますが、その子はヴィシュヌの力によってヴァースデーヴァの別の妻であるロヒニーの胎内に移されます。この子が後にクリシュナの相棒となるバララーマとなります。そしてその後、第8子としてクリシュナが誕生します。

 

ヴィシュヌは自ら第8子としてデヴァーキーの胎内に入り誕生しますが、生まれてすぐに父のヴァースデーヴァに対して「牢を出て、村の羊飼いの子と自分を交換せよ」と命じます。神々の力によって牢は開き番人も眠っていたため、デヴァーキーは言われた通りに子供を交換しました。そのためクリシュナは村の羊飼いであるヤショダーとナンダの間の子として生まれ、牧童として成長していきます。カンサ王はデヴァーキーが新たな子を抱いているのに気づき殺そうとしますが、その子はヴィシュヌが生んだ幻影であり、カンサ王に対して「お前を殺す者は既に生まれている」と告げて光とともに消えていきます。

 

■幼少期・青年期のクリシュナ

クリシュナは幼少期から青年期へと、その成長の中で様々なエピソードを残しています。特に幼少期にヤムナー川の毒の竜・カーリヤを退治してからは、村の人々から神としてあがめられる存在になっています。

 

カーリヤ竜の上で踊るクリシュナ
カーリヤ竜の上で踊るクリシュナ(出典:長谷川 明 著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

クリシュナはバララーマと共にカンサ王を倒しますが、カンサ王の二人の妻たちの復讐として度重なる攻撃を受けたため、民と共にマトゥラーを出て西方のドヴァーラカーへ移り住んでいます。「マハーバーラタ」の中で活躍するクリシュナはこのドヴァーラカーに移った後の時代です。

 

クリシュナとバララーマ、カンサ王
カンサ王を殺すクリシュナ。左下には兄のバララーマ、右下にはクリシュナ達に倒されたアスラ(魔族)が描かれている。©-The-Trustees-of-the-British-Museum.jpg

■マハーバーラタの中でのクリシュナ

クリシュナはマハーバーラタでは主人公の5王子の一人・アルジュナの御者として活躍します。特にアルジュナが親族同士での争いに意義を見出せずに戦意を喪失した際にクリシュナが説いた教えは「神の詩(バガヴァット・ギーター)」として伝えられ、マハーバーラタから独立した聖典としても高く評価され、ヒンドゥー教の聖典とされています。

 

バガヴァット・ギーターを説くクリシュナ
バガヴァット・ギーターを説くクリシュナ(出典:長谷川 明 著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

 

アルジュナとクリシュナの問答の形をとって紡がれるバガヴァット・ギーターでは、クリシュナが「迷いを捨ててクシャトリヤの戦士としての務めを果たすこと」を説きます。その中で真理は神(ヴィシュヌ=クリシュナ)として表れ、またそれは自分自身でもある、と説いたこの教えは、梵我一如の思想を明確化したものとして受け入れられ、後に仏教思想にも取り入れられています。

 

数々の英雄譚を持つクリシュナですが、その死の場面はあっけないもので、クリシュナが死期を悟って天界へ帰ろうと瞑想している途中で、漁師が誤って放った矢が急所である足の裏に撃ち込まれたことで最期を迎えています。

 

■バクティ信仰

クリシュナ信仰の特徴はバクティ信仰と呼ばれるものです。バクティはサンスクリット語で「クリシュナ神への愛の奉仕」を意味し、これは神への絶対的な信愛、神に全てを委ねることを意味します。

特に南インドではクリシュナとその恋人ラーダーを象徴としてバクティ信仰が広がります。ラーダーは既婚の女性であり、またクリシュナも他に多くの妻を持っていますが、ラーダーのクリシュナへの愛は神への純粋な信愛であるとされ、バクティ信仰の象徴となりました。

 

クリシュナ(左)とラーダー(右)
クリシュナ(左)とラーダー(右) (出典:長谷川 明 著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

現在でもヒンドゥー教の神の中で随一の人気を持つクリシュナ神の姿はインドの様々な場所で目にすることができ、現代のインド映画の中でも度々登場します。クリシュナを自身の信仰として取り込んだヴィシュヌはさらに巨大な存在となりましたが、あまりにもクリシュナの占める割合が大きいため、むしろヴィシュヌ信仰というよりもクリシュナ信仰としての側面が強くなっていることも確かです。

 

Text by Okada

 

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ヴィシュヌの化身⑤ラーマとラーマーヤナの物語

ヴィシュヌ神の化身神話を紹介する第5回。今回は7番目の化身、ラーマの物語についてご紹介します。

 

ラーマ像。緑色の肌で描かれ、左手に弓、右手に三日月型の矢じりの矢、右肩には矢筒を携えている。 ©-The-Trustees-of-the-British-Museum

ラーマはインド2大叙事詩のひとつ「ラーマーヤナ」の主人公です。化身としてのラーマの物語はそのままラーマーヤナの物語となりますので、ここではラーマーヤナの簡単なあらすじや、ヴィシュヌ神話との関係についてご紹介します。

 

ラーマーヤナは一種の英雄物語。王子ラーマが魔王ラーヴァナに奪われた妻・シーターを取り戻すという、冒険物語の形をとっています。物語はサンスクリット語で伝えられており、文学ではなく、詠唱するための叙事詩として非常に美しい韻律で作られています。総行数は48,000行・全7巻で構成されており、聖仙ヴァールミーキによって編まれたとされています。

 

ラーマーヤナの物語は非常に長大なものですが、ここではざっくりとしたあらすじをご紹介します。

 

■ラーマーヤナのあらすじ

第1巻:少年編

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左からラクシュマナ、ラーマ、シーター。手前にはハヌマーンが描かれている。©-The-Trustees-of-the-British-Museum.jpg

コーサラ国のダシャラタ王は子に恵まれませんでしたが、神々に祈願して4人の子を設けます。この長男が物語の主人公ラーマ、そして3男が良き相棒として活躍するラクシュマナです。ラーマはヴィデーハ国の美しい王女シーターを妻にとります。

 

第2巻:アヨーディヤー編 ~ 第3巻:森林編

 

鹿を追うラーマ(左)とラクシュマナ(右)。©The Trustees of the British Museum
鹿を追うラーマ(左)とラクシュマナ(右)。鹿は魔王ラーヴァナが仕組んだもので、シーターから2人の目が離れた隙にラーヴァナがシーターをさらっていきます。©The Trustees of the British Museum

しかし王位を継ぐはずだったラーマは謀略により王位を奪われ、14年間の追放を受けることとなります。ラーマとシーターはラクシュマナと共に森での隠遁生活を始めますが、ラーマはランカ島の魔王・ラーヴァナにシーターを奪われてしまいます。

 

6シーターをさらうラーヴァナ(出典:長谷川 明 著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)
シーターをさらうラーヴァナ(出典:長谷川 明 著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

 

第4巻:キシュキンダー編 ~ 第5巻:美麗編 ~ 第6巻:戦闘編

 

シーター奪還を目指し、ラーマとラクシュマナは冒険の旅へ出ます。シーターの行方を知るために風神ヴァーユの息子で猿の大臣・ハヌマーン等の助けを借り、様々な困難を超えていよいよラーヴァナの本拠地ランカ島へ攻め込みます。ラーマ一行は巨人クンバカルナ、ラーヴァナの息子で妖術を操る強敵インドラジットとの戦いを経て遂にラーヴァナを倒し、シーターを奪還しました。

 

クンバカルナと戦うラーマ一行。左下にはその他のラクシャーサが描かれる。©-The-Trustees-of-the-British-Museum.jpg
クンバカルナと戦うラーマ一行。左下にはその他のラクシャーサが描かれる。©-The-Trustees-of-the-British-Museum

 

ラーヴァナと戦うラーマとラクシュマナ©-The-Trustees-of-the-British-Museum.jpg
ラーヴァナと戦うラーマとラクシュマナ©-The-Trustees-of-the-British-Museum

無事にシーターを助け出した一行でしたが、ラーマは長くラーヴァナのそばに身を置いたシーターの貞操を疑い、妻として受け入れることを拒んでしまいます。そこでシーターは自ら燃える薪の中に身を投じ、火神アグニの加護を受けて無傷のまま戻ることで自身の潔白を証明します。アグニ自身も姿を現し、シーターが貞節を守ったことを証言しました。

 

火中に身を投じるシーター©-The-Trustees-of-the-British-Museum
火中に身を投じるシーター©-The-Trustees-of-the-British-Museum

全ての問題を解決したラーマ一行は、都の兄弟たちや国民の歓迎を受けてコーサラ国の都アヨーディヤーへ凱旋し、ラーマは正式にコーサラ国の王位に就いたのでした。

 

ここで物語は一旦幕を閉じますが、さらにこの後に後日譚が存在します。

 

 

第7巻:最終編

ラーアヴァナのそばに長く身を置いたシーターが王妃の地位にいる、ということへの不満が国民の間にあることを知ったラーマはこれを気にかけ、なんとシーターを都から追放し、離婚を言い渡してしまいます。この時既にラーマとの子を妊娠していたシーターは嘆き悲しみ、聖仙ヴァールミーキの庵に身を置いて二人の子を産み育てます。

 

聖仙ヴァールミーキとシーター。シーターとラーマの息子ラヴァ、クシャがそれぞれゆりかごの中とシーターの腕に描かれている。©-The-Trustees-of-the-British-Museum
聖仙ヴァールミーキとシーター。シーターとラーマの息子ラヴァ、クシャがそれぞれゆりかごの中とシーターの腕に描かれている。©-The-Trustees-of-the-British-Museum

その後、ラーマのもとに聖仙ヴァールミーキが現れ、2人の子どもに「ラーマーヤナ」を詠わせました。その2人が自分とシーターの子であることに気づいたラーマはシーターを追放したことを深く悔やみ、シーターとの再会を望みます。

 

聖仙ヴァールミーキの計らいで都へ戻ったシーターでしたが、改めてシーターの貞淑を尋ねるラーマに対してシーターが「もし自分が本当に潔白であれば、大地の神が私を受け入れるはずだ」と宣誓すると、大地が口を開けてシーターを地中へと飲み込んでしまったのでした。

 

深く悲しんだラーマはその後王位を息子たちに譲り、ほどなくしてその生涯を終え、天へと昇っていきます。ラーマーヤナの物語はここで完結します。

 

 

■現代に残るラーマーヤナ

物語の核心部は紀元前5~4世紀に形成された2~6巻の部分です。1・7巻はラーマがヴィシュヌ神の化身であることを示すために後世に後付けされたものと考えられています。特にラーマの英雄性を貶める第7巻は音韻や構成も優れていないとして人気が悪く、一般向けのダイジェスト版の物語では省かれることも多いようです。

 

ラーマは現代でも非常に人気があり、ヒンドゥー教の理想的な人物・君主像とされています。またラーマがヴィシュヌの化身ということで、その妻のシーターもヴィシュヌの妻・パールヴァティーと同一視されています。

 

 

ラーマーヤナの物語の原型がどこにあるのかということについては明確にされていませんが、現代の形になるまでの間に、時代や文化に応じて相当な数のバリエーションの物語が存在します。そもそも魔王ラーヴァナが登場しない、登場人物がジャイナ教徒、女神信仰としてシーター自身がラーヴァナを倒すもの…など様々な派生形の物語がありますが、徐々にヒンドゥー教の正統なストーリーとしてラーマ=ヴィシュヌ信仰としての現代の物語が定着していったようです。

 

特に1980年代以降はヒンドゥー教至上主義の動きが高まり、ラーマーヤナの物語の統一化が進むとともにヒンドゥー教のシンボルとして利用されていきました。そのひとつの到達点となってしまったのが1992年のバーブリマスジッド倒壊事件です。

 

バーブリ・マスジッド破壊事件©The-Indian-Express.jpg
バーブリ・マスジッド倒壊事件 ©The-Indian-Express.jpg

古くはコーサラ国の都であったアヨーディヤーはラーマの生誕地とされており、ラーマを祀る神殿がありましたが、ムガル帝国期にイスラム教徒がこれを破壊し、バーブリマスジッドというモスクを建設していました。1992年にヒンドゥー教至上主義者がこのモスクを破壊し、それを突端として全国でイスラム教徒とヒンドゥー教徒が衝突し数日間で1100人の死者を出すという痛ましい暴動に発展しています。また、その後もこの事件を巡る判決は世界の注目を浴びています。

 

 

■インドを出たラーマーヤナ

ラーマーヤナはヒンドゥー教と同様に広く東南アジアにも広がっています。そもそもラーヴァナの本拠地ランカ島は現在のスリランカがモデルと考えられており、またインドネシアの影絵劇「ワヤン・クリ」、カンボジアの影絵劇「スバエク・トーイ」の題材となっていることはよく知られています。

 

他にもタイの民族叙事詩「ラーマキエン」がラーマーヤナを起源に持っていたり、カンボジアのアンコールワット、インドネシアのプランバナン寺院群にもラーマーヤナのレリーフが残されていたりと、インドのみならず近隣諸国の文化に強い影響を与えています。またこれは憶測の域を出ませんが、日本の「桃太郎」の物語の起源をラーマーヤナに求める考えも存在します。

 

 

現代でも映画や文学のモチーフとして頻繁に引用され、最近では新型コロナウイルス対策の呼びかけの際にインドのモディ首相がラーマーヤナの一説を引用し、自らをラクシュマナに、国民をシーターに例えて自宅での自粛を呼びかけたことが話題となりました。これをヒンドゥー教至上主義的だという批判もありますが、ラーマーヤナはインドの文化を考えるうえで欠かせない物語として現代に生き続けていることを示すものでもあります。

 

 

Text by Okada

 

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ヴィシュヌの化身④パラシュラーマ

ヴィシュヌの化身神話を紹介する4回目、今回は6番目の化身であるパラシュラーマのお話です。
(前回お話:ヴィシュヌの化身③ダイティヤ族の神話 ヴァラーハ、ナラシンハ、ヴァーマナ

 

パラシュラーマはマハーバーラタラーマーヤナの2大叙事詩にも登場します。「パラシュ」とはシヴァの持つ斧で、パラシュラーマの名は「斧を持つラーマ」といった意味を持ちます。数あるヴィシュヌの化身の中でも最も血気盛んで、強力な戦士の姿で描かれるキャラクターです。

 

斧(パラシュ)を持ち戦うパラシュラーマ
斧(パラシュ)を持ち戦うパラシュラーマ(画像出典 :Paraśurāma-The British Museum)
パラシュラーマ像
パラシュラーマ像 (出典:長谷川 明 著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)

 

パラシュラーマの物語は、権力を増大させていたクシャトリヤ(戦士階級)からバラモン(祭祀階級)や一般民衆を救うものとされています。自らの王権に宗教的権威を与えたいクシャトリヤと、宗教的な力を保持することで特権階級を維持しようとするバラモン。インドの諸王国において、その王権と宗教的権威は、この2つの上位階級の協力関係が成り立つことで守られていました。しかしそのバランスは非常に危うい場合も多く、クシャトリヤとバラモンの間には軋轢が生じることも多々あったようです。パラシュラーマの物語は、このような争いを描いたものと考えられています。

 

パラシュラーマにまつわる物語は、パラシュラーマが生まれる前、その祖父の時代から始まります。

■パラシュラーマ(斧を持ったラーマ)

カーニヤクブジャ国の王・ガーディが引退して森で隠遁生活を送っていた時、ガーディに娘サティヤヴァティが生まれた。大聖仙ブリグの子孫・リーチカ聖仙はこれを妻にしようとしてガーディに持ち掛けますが、これに対してガーディは「耳が黒く地は茶色の騎馬を千頭用意すれば、サティヤヴァティを花嫁として与えよう」と応えます。

 

リーチカ聖仙は風神ヴァーユにこれを頼み、望み通りの騎馬千頭を用意してガーディに贈ります。晴れてサティヤヴァティと結婚したリーチカ聖仙ですが、ここに大聖仙ブリグが現れ、「サティヤヴァティの願いを何でもかなえてやろう」と伝えます。

 

大聖仙ブリグ
(出典: The Bhrigu Samhita)

大聖仙ブリグは7聖仙の一人。ヴィシュヌに助けられて大洪水を乗り越えたマヌと同時代を生きたとされ、占星術の最初期の本・ブリグサムヒタを著しました。そのほか、ブラフマー、シヴァ、ヴィシュヌの誰が最も優れているかを確かめヴィシュヌを最高位とした説話でも知られる聖仙です。神的な存在として、様々な神話に登場します。

 

サティヤヴァティは、大聖仙ブリグに「自分と、自分の母に素晴らしい息子を恵んでください」と願います。大聖仙ブリグはこれを聞き入れますが、サティヤヴァティとその母は沐浴の後にそれぞれ異なる種類の樹を抱き、異なる料理を食べなければならないと条件を加えます。しかし、サティヤヴァティとその母はその儀式の際に、お互いの樹と料理を取り違えてしまうのでした。

 

サティヤヴァティが誤った儀式を行ったことを知った大聖仙ブリグは彼女のもとに現れ、儀式を誤った結果として「二人には息子が生まれるが、サティヤヴァティのもとにはバラモンではあるがクシャトリヤの資質を持った子が、母のもとにはクシャトリヤではあるがバラモンの資質を持つ子が生まれるだろう」と予言します。サティヤヴァティはせめてそれは孫にして欲しいと嘆願し、大聖仙ブリグはこれを受け入れます。

 

果たしてサティヤヴァティのもとに生まれた子はジャマドアグニと名付けられ、後にヴェーダに通じる賢者となりました。ジャマドアグニは妻との間に5人の息子を設け、その末子がパラシュラーマでした。パラシュラーマは生まれる前から「バラモンではあるがクシャトリヤの資質を持つ」ことを運命づけられた者だったのです。

 

斧を持つパラシュラーマ像(出典:The British Museum)

そしてそのころ、千の腕と強大な7つの武器を持つハイハヤ国の王・カールタヴィリヤ・アルジュナは圧政のもとに世界の富を独占しており、神々もこれに手を焼いていました。そこでインドラヴィシュヌはカールタヴィリヤ・アルジュナを殺すことを決め、ヴィシュヌはパラシュラーマを化身として顕現することになります。ヴィシュヌはジャマドアグニの妻の胎内に入り込み、末子パラシュラーマとして誕生します。

 

パラシュラーマが成長した後のある時、パラシュラーマが不在の際にカールタヴィリヤ・アルジュナがジャマドアグニを訪ねます。ジャマドアグニは願ったものを与えてくれる聖なる牝牛・カーマデーヌで歓待しますが、カールタヴィリヤ・アルジュナはこれを気に入り、強引に奪っていってしまいます。

 

カーマデーヌ。神々とアスラによる乳海攪拌の際に生まれたとされ、他にも様々な神話に登場する。女性の頭と胸、鳥の翼、クジャクの尻尾を持つ白い牛、又は体内に様々な神を宿す牛として描かれる。

これを知ったパラシュラーマは激怒し、斧でカールタヴィリヤ・アルジュナの千本の腕を切り落として殺してしまいました。ジャマドアグニはこれを知ってその罪を咎め、パラシュラーマに修行に出ることを勧めます。しかしパラシュラーマが家を留守にしている間に、カールタヴィリヤ・アルジュナの弟たちが報復としてジャマドアグニを殺してしまうのでした。

 

(出典:長谷川 明  著「インド神話入門 (とんぼの本)」新潮社)
カールタヴィリヤ・アルジュナを殺すパラシュラーマ
出典:The British Museum

上の2つのイラストはどちらもこの場面を写したものです。斧を持ったパラシュラーマ(右)が千の腕を持つクシャトリヤの王・カールタヴィリヤ・アルジュナを倒すシーンで、右上には聖なる牝牛・カーマデーヌが描かれています。下のイラストでは左側には倒れたジャマドアグニとその妻が描かれています。

 

 

父親を殺されたパラシュラーマは再び激怒し、ハイハヤ国に攻め入ってカールタヴィリヤ・アルジュナの親族や配下のクシャトリヤたちを殺していきます。クシャトリヤの殲滅を誓ったパラシュラーマは、その後も21世代に渡ってクシャトリヤを滅ぼす戦いを行いました。

 

その後、パラシュラーマは巨大な黄金の祭壇を作って聖仙カシュヤパに捧げます。カシュヤパはその黄金を分割し、バラモンへと分け与えました。パラシュラーマ自身はその後マヘンドラ山へ修行に入り、これがこの物語の区切りとなります。

 

パラシュラーマのキャラクター

パラシュラーマは非常に強い力を持つ人物として描かれ、その斧パラシュは若くしてアスラ(魔族)を倒したことへの称賛としてシヴァ神より授けられたという聖なる武器です。パラシュラーマはシヴァ神を崇拝し、またシヴァ神に教えを乞う身でしたが、実際に21日間にわたってシヴァと力試しをし、シヴァの額に傷をつけたというエピソードも残されています。ヴィシュヌの化身でありながらシヴァを崇拝するというのには違和感もありますが、パラシュラーマはヴィシュヌの化身とされる前はもともとシヴァ神話の登場人物だったのではないかとも考えられています。

 

ラーマーヤナでは、同じくヴィシュヌの化身であるラーマを挑発し、結果としてラーマの絶大な力を認めてその偉大さを讃える、という役回りで登場しています。またもう一つの叙事詩であるマハーバーラタにおいては、主人公の5王子や悪役のドゥルヨーダナ王子の共通の師であるドローナに武器を与えていたり、5王子の長兄でありながらドゥルヨーダナ陣営として戦うカルナの師を務めたり…と、非常に重要なキャラクターとして何度も登場しています。

 

カルナの膝で眠るパラシュラーマ
カルナの膝で眠っているパラシュラーマ。パラシュラーマはクシャトリヤを憎んでいたため、クシャトリヤであるカルナは身分をバラモンと偽ってパラシュラーマの教えを受けます。後にこれを知って怒ったパラシュラーマはカルナに呪いをかけますが、すぐにを悔いて償いとしてカルナに武器を与え、彼の運命に祝福を与えました。(出典:indian-mythology)

 

クライマックスのクル平原での18日間の戦争で利用された強力な武器・ブラフマーストラも元々はパラシュラーマのものでした。ブラフマーストラは土地の全ての資源を破壊し、その地では12年間の間雨が降らず、草木も育たせない、全てを破壊する武器として描かれ、核兵器を彷彿とさせるような武器として知られています。

 

 

6番目の化身となると、化身に関するエピソードも豊富になってきます。今まで魚や動物、矮人だった化身から考えると、パラシュラーマ以降は一人前の人間として描かれており、この後に続くラーマは大叙事詩の主人公、またクリシュナにおいては既に独立した神として広く信仰を集める神々をヴィシュヌの化身としてその体系に組み込んでいます。絶大な人気を持つこの2神はヴィシュヌ勢力の拡大に大きく寄与したと考えられており、また現代においてもこの2神は時にヴィシュヌ以上に人気のある神として称えられています。

 

Text by Okada

 

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ウダイプル④ チットールガル城に伝わる悲劇の女王パドマーワト

ナマステ!

西遊インディアの橋本です。
前回、ウダイプル郊外に建つチットールガル城について、紹介しました(記事はこちら)。ウダイプル4回目となる今記事では、チットールガル城を舞台として起こったイスラム王朝との攻防と、その戦に巻き込まれた悲劇の王妃・パドミニ―の伝説についてご紹介します。

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グーマルのシーンのため、ディーピカーはラージャスターンの踊りのトレーニングを毎日3時間、計12日間続けた。指先足先まで繊細な動きが要求されるこのダンスで身に着けた衣装や装飾品の重さが30キロ!彼女はこのダンスで66回も回ることになったという🌀💦
#パドマーワト

映画「パドマーワト 女神の誕生」さんの投稿 2019年5月20日月曜日

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メーワール王国と、北インドの猛威・ハルジー朝との攻防

1303年、ラージプートの国として代々繁栄してきたメーワ―ル王国にて、ラタン・シン王が即位します。その王妃として、スリランカからパドミニ―が迎えられました。
同じ時、北インドではハルジー朝の第3代スルターン(王)であるアラーウッディーンが即位します。野心に満ちた彼は、第二のアレクサンダー大王と自称し、インド各地に次々と遠征し、その勢力を広げていきました。

 

アラーウッディーンは、グジャラート侵攻に向けメーワ―ル王国内の通過を求めましたが、王のラタン・シンはこれを拒否します。その結果1303年、アラーウッディーンは、チットールガル城を包囲。メーワ―ル王国は約8か月にわたり籠城し激しい攻撃に耐えつつ応戦しましたが、最終的には陥落してしまいます。

 

 

ラージプートの風習ジョーハル

武勇と名誉を何よりも重んじていた誇り高きラージプート族の戦士たちは、最後まで戦い抜き、非業の死を遂げました。残された女性たちも、捉えられることを拒み、自ら、火の中に身を投じたといいます(このような、戦局において敗北が確実となったとき、女性たちが侵略・略奪されないように子どもや金目のものを持って集団焼身自殺を行うことを、ジョーハルといいます。この風習は、ラージプート諸王朝間の内紛に起源をもつとされています)。

 

チットールガル城は16世紀までに度重なる周辺国からの侵略を受けたことで、合計13000人を越える女性がなくなりました。15世紀に建てられた勝利の塔の周囲には、ジョーハルにより亡くなった女性たちの墓石があります。また、このエリアでは、一族の武勲をたたえジョーハルで落命した人々を悼むジョーハル・メーラ(Jauhar Mela)という追悼祭が年中行事として行われています。

 

 

悲劇の王妃パドミニーとインド映画の超大作「Padmaavat」

1540年に描かれた叙事詩「パドマーワト」は、多くのインド人が知る古典文学ですが、2017年12月、この悲劇の王妃パドミニーを主人公にした映画、その名も「Padmaavat」がインドをはじめ全世界で公開されました。

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グーマルのダンスシーンの撮影にあたっては、100人のラージャスターン職人がムンバイの撮影所に40日かけてセットを制作、照明等の撮影準備にさらに2日かかった😯バックダンサーはラージャスターンからムンバイに呼ばれ、4日間かけて撮影された。
#パドマーワト

映画「パドマーワト 女神の誕生」さんの投稿 2019年5月19日日曜日

 

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王妃パドミニ―は実在の人物ですが、その詳細については史実は残っておらず、分からない部分も多いです。叙事詩と映画は、パドミニ―を絶世の美女とし、美と愛を巡る義の戦いの物語にしたものといわれています。
しかし、「パドマーワト」の中では絶世の美女とされ、女性の尊厳を守るため悲劇的な最期も遂げたことから、インド歴史上の女傑のひとりとして、ラージャスターン地方では女神のように信仰されています(映画「パドマーワト 女神の誕生」http://padmaavat.jp/ プロダクションノートより一部抜粋)。

 

・―・―・―・―・― 簡単なあらすじ ・―・―・―・―・

 

女王・パドミニー(Padmini, Padmavati)は、その美貌ゆえにインド国全体で大変な評判になっていた。また、パドミニーは、美しさだけでなく、賢く聡明でもあった。北インド・デリーに構えるハルジー朝の王・アラーウッディーンは、メーワール王にパドミニーの姿を一目見せてくれたらメーワールへの侵略を諦めて撤退すると言った。メーワール王は水面に映るパドミニーの姿をさらに鏡に映してアラーウッディーンに見せたが、鏡に映る姿でもパドミニ―の美しさを確認したアラーウッディーンは、その美しさをどうしても自分のものにしたいと考え、猛攻を仕掛ける。応戦しつつも苦境に立たされるメーワ―ル王国のその後と、パドミニーの判断とは…。

 

・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・

 

この映画、インド映画史上最高額の制作費がかけられ人々の期待も最高潮のなか公開が待たれていましたが、直前に上映禁止を求めて大規模な反対運動が起こりました。パドミニーとアラーウッディーンのロマンスが描かれているとの噂が流れ、「夫の為に殉死したパドミニーのイメージを汚す」と行った意見が起こり、また他方イスラム指導者側からは「アラーウッディーンの描写が誤っている」として映画の上映中止を求め監督の家の前でデモがおこったり、主演女優に危害を加えるといった脅迫や、映画館が襲撃を受けたり等などが起こったためです…(実際、当時映画館の周辺に警備の人や警官が配置されていたのを見ました…)。

 

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ラタン・シン役のシャーヒド・カプールは、これまで演じてきた役とは異なり得意のダンスシーンが無かったものの、「身体的・精神的に最も挑戦的な役のひとつでありキャリアのターニングポイントになった」とインタビューで答えている👍✨

映画「パドマーワト 女神の誕生」さんの投稿 2019年5月11日土曜日

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そんな上映までに一波乱あった映画ですが、タイトルが変更されたうえで無事公開となりました(以前は、「Padmaavati」というタイトルでした)。日本でも上映されたのでご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。当時の城塞の様子や人々の衣装などがものすごく豪華で、映画の宣伝文句のとおり、まさに「究極の映像美」!(衣装やジュエリーの制作には、時代や地方の伝統を徹底的にリサーチのうえ、約2年程をかけて作成されたそうです)。

 

#パドマーワト の豪華な衣装制作には何人もの職人が携わり、メインキャストの衣装だけで150着近くを制作👗装身具もパドマーワティとラタンはラージャスターン風、アラーウッディーンはアフガニスタン風のデザインに仕上げられた✨

映画「パドマーワト 女神の誕生」さんの投稿 2019年5月14日火曜日

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内容的に一部の州では上映禁止となったそうですが、最終的には興行収入は58億ルピー越えを記録しており、最終的にはインド映画史上最も興行的に成功した映画の一つとなりました。

 

ちなみに絶世の美女・パドミニーを演じたのは「恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム」に出演、最近ではハリウッドにも活躍の場を広げている、ディーピカー・パドゥコーンです。パドミニー役の彼女は美しすぎて直視できないほどでした…!!

映画は既にDVD化もされていますので、ぜひご覧になってみて下さい。

 

 

映画の撮影自体は他の城塞ならびにセットで行われ、チットールガル城での撮影は行われなかったそうですが、ウダイプルならびにチットールガル城訪問予定の方は、この映画をご覧になったうえで訪問いただくと、より旅の面白さが増すこと間違いなしです!

 

 

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ウダイプル③ かつての難攻不落の城・世界遺産チットールガルフォートへ!

ナマステ! 西遊インディアの橋本です。
今回は、ウダイプル郊外に建つチットールガル城について、紹介します。
(前回:ウダイプル市内観光とラナクプルのジャイナ教寺院の紹介はこちら

 

チットールガルは、ウダイプル中心部から東に約110㎞行った場所にある小さな村です。ウダイプルから車両で行くと片道2時間程かかり、往復すると結構大変ですが、チットールガル城はウダイプル観光と併せ、ぜひ訪れていただきたい名所のひとつです。

 

チットールガル城全景(ビューポイントから撮影)

 

▮誇り高き勇敢な戦士ラージプートとラージャスターンの丘陵城塞群

まずはラージプート族のおさらいです。過去、こちらの記事でも詳しく紹介しました。
ラージプート族は、インド西部のラージャスターン州を拠点としており、誇り高き勇敢な戦士として知られています。ラージプートの起源は定かではありませんが、5〜6世紀ごろ中央アジアからやって来た騎馬遊牧民という説が濃厚です。

 

かつて西インドにはラージプートによる様々な王朝が栄えました。街ごとに堅牢な城塞が建てられ、今でもその城塞群は健在です。2013年にはこれらのうち6つの城が「ラージャスターンの丘陵城塞群」として世界遺産登録されました。ジャイプルのアンベール城、ジャイサルメール城、ランタンボール城、クンバルガール城、ガグロン城、そしてチットールガル城です。

 

ジャイサルメール城
ランタンボール城

これらはそれぞれ、8世紀から18世紀までのラージプート諸王国の繁栄を伝える建物であり、その建築様式や文化的伝統上の意義が見出されての登録でした。

 

 

▮メーワ―ル王国の難攻不落の城・チットールガル城

チットールガル城は、かつてメーワール王国というラージプート族の王国の首都として栄えていました。難攻不落の城としてその名を轟かせており、ラージャスターンの城塞のなかでも最強といわれていました。

 

チットールガル城は1303年にデリーのイスラム王朝のアラーウディーン・ハールジー、1535年にグジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャーによって侵攻され一時占領されますが、その度に奪回します。

しかし1567年、ムガル帝国のアクバルへの服従を拒否したことで攻め入られ、長期に渡る包囲戦にしばらくは耐えたものの、落城。メーワール国王ウダイ・シング2世はチットールガル城を去りウダイプルへ都を移しました。この時、武勇と名誉を何よりも重んじるラージプートの兵士たちは死兵となって殉死し、多くの女性たちは自害したとされています。

 

チットールガル城は長年メーワール王国の首都であったと同時に、ラージプートとイスラム王朝との度重なる戦いの舞台でもあった場所なのです。

 

チットールガル城の訪問は、オートリキシャでの移動がおすすめ!
城内へ!

チットールガル城は標高180mの丘の上に建ち、城内に入るには7つの城門をくぐります。42 の宮殿、84 の貯水池、113の寺院(ヒンドゥー教、ジャイナ教)があり、建築的に価値の非常に高い2つの塔も残っています。

 

▮クンバパレス (Kumbha Palace)

15世紀に建てられたクンバ王の王宮は、非常に大規模で多くの建物跡が残り、当時の王の権力の強さを感じさせます。宮殿の建築様式や装飾は、ラージプート様式の最初期のものと言われています。

今は廃墟化していますが、写真映えするスポットとして、最近では若い人達にも大変人気のスポットだそうです。ここからは城下町を見渡すことができます。

 

クンバパレス

 

▮パドミニー宮殿 (Padmini Palace)

城内の南側に残る、王妃パドミニーのために建てられた宮殿です。ゴームク(牛の口の意味)という名前の貯水池と中庭も有しています。

 

パドミニパレス
水の宮殿

ラーニー・パドミニーは、ラーワル・ラタン・シンの妻で、叙事詩に残るように、非常に美しく聡明であったと伝えられています。池の中央には、3階建ての通称・水の宮殿(Jal Mahal)が建ち、ここでパドミニ妃が沐浴していたそうです。

 

▮勝利の塔 (Kirti Stambha)  、名誉の塔 (Jaya Stambha)  

 

勝利の塔 中に入って登ることもできます

勝利の塔は、1448年ラーナー・クンバ王がムスリム軍に勝利したことを記念して建てられました。高さ37m、9階建ての塔で、イスラーム建築であるミナレットがインドで建てられ始める前に出来た塔としては非常に珍しい例です。

 

名誉の塔とジャイナ教寺院

12 世紀に造られた 22mの「名誉の塔」は、1301年にジャイナ教の始祖アディナートにささげて建てられたものです。こちらは24m、7階建。隣にはジャイナ教の寺院が建っています。ヒンドゥー教寺院に形が似ていますが、その当時は建築家が宗教にかかわらず同じだったので、似たような建築になってしまったのだそうです。

 

メーワ―ル王国は代々ヒンドゥー教を信仰しておりましたが、チットールガル城内にあるジャイナ教寺院をみても分かる通り、宗教に非常に寛容的であったことが分かります。

 

次回は、チットールガル城にて伝説となっている悲劇の王妃パドミニについてご紹介します。

ウダイプル④ チットールガル城に伝わる悲劇の女王パドマーワト

 

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デリー イスラム王朝の3つの世界遺産

Namaste!! 西遊インディアの岡田です。
今回はインドの首都・デリーで見ることのできる3つの世界遺産をご紹介します。

 

India Gate
第一次世界大戦や第三次アフガン戦争で戦死した兵士たちの慰霊碑であるインド門。現在はデリーのランドマークでありたくさんの方が写真スポットとして訪れます
CP
デリー中心部、コンノート・プレイス周辺。休日・平日の区別なく常にたくさんの人が往来しているエリアです。 デリー市内はたくさんの木々が植えられており緑あふれる都市です。

 

デリーはヒンドゥー教の2大叙事詩の一つ、マハーバーラタでも登場する歴史の深い都市。ヤムナー川河畔の肥沃な土地で、イスラム勢力の到達以前より、ヒンドゥー諸勢力の王都として利用されてきました。

 

12世紀以降はイスラームによる征服を受け、16世紀以降はムガル帝国の支配下となり、19世紀末以降は1947年の独立までイギリスの占領下におかれます。イギリスは当初コルカタに植民地支配の拠点を置いていましたが、コルカタでインドの民族運動が隆盛したこと、そしてインド全土の拠点とするためにはあまりにも東に位置していることから、デリーが1911年にイギリス領インドの首都となりました。

 

デリーの3つの世界遺産はいずれもイスラーム時代に建設されたものです。クトゥブ・ミナールは13世紀の奴隷王朝、フマユーン廟とラール・キラーはムガル帝国時代にそれぞれ建設され、現在まで非常に良好な状態で保存されています。

 

 

■クトゥブ・ミーナール

奴隷王朝の創始者:クトゥブッディン・アイバクがイスラム王朝のヒンドゥー教王朝への勝利を記念して建てた塔。ミーナールはイスラム教のミナレットを指し、「クトゥブッディン・アイバクのミナレット」という意味となります。

 

インド最大のミナレットとして知られますが、本来のイスラムにおけるミナレットとは違い記念塔としての意味を持つものです。クトゥブ・ミナールはイスラームによるインド支配を示すその象徴として建設されており、そのためにもともと存在していたヒンドゥー教寺院を破壊し、建設にはその石材が利用されています。

 

クトゥブ・ミナール
クトゥブ・ミナール

 

塔は高さ72.5mの5層から構成されており、公園内から見上げた姿は圧巻。近づいてよく見ると外面はコーランの文章を図案化した彫刻で装飾されており、繊細な美しさにまた驚かされます。

 

クトゥブ・ミナールの壁面装飾
クトゥブ・ミナールの壁面装飾

 

塔の周りには破壊されたヒンドゥー教寺院の跡が残るほか、この塔よりさらに巨大な塔を建てようとした跡が残されています。アライ・ミーナールと呼ばれるこの塔は建設に着手した後に資金不足等が原因で放棄されてしまい、現在見ることができるのはその巨大な基壇のみです。

 

アライ・ミーナールの基壇
アライ・ミーナールの基壇

 

また園内のもうひとつの名所が「デリーの鉄柱」と呼ばれるグプタ朝時代の3~4世紀に建立された鉄柱。建立から約1500以上を経ているにも関わらず錆びていない鉄柱として知られていますが、なぜ錆びが生じないのかは現在でも判明していないというミステリアスな遺物です。

 

デリーの鉄柱
デリーの鉄柱

 

■フマユーン廟

ムガル帝国第2代皇帝:フマユーンの霊廟。1530年に2代目皇帝となったフマユーンですが、1540年にはアフガン系のシェール・ハンにデリーを奪われシンド地方、またその後にイランへと逃れます。亡命生活の中でイラン系のハミーダ・バーヌー・ベーグムと結婚し、後の第3代皇帝、賢帝として知られるアクバルが生まれています。

 

フマユーン廟外観
フマユーン廟外観

シェール・ハンの死後フマユーンはインド方面へ進軍を続け、1555年に遂にデリーを奪還。しかしその翌年、礼拝に向かう途中の階段で転倒した際の怪我であっけなく亡くなってしまいます。その後、1565年に彼の妻ハミーダ・バーヌー・ベーグムの命によって廟の建設が始まりました。

 

廟の天井装飾
廟の天井装飾

廟はムガル帝国最初のペルシャ系イスラム建築様式の墓廟であり、赤砂岩と白い大理石で建設されています。赤砂岩は権力を、白大理石は清浄さを表すものとしてムガル帝国時代のインド建築では権力者に好まれた素材です。特にシャー・ジャハーンはこれを好み、亡くなった妻:ムムターズのために総白大理石製の白亜の宮殿:タージマハルを建設したことはよく知られています。

前後左右どこから見ても同じ形を見せるフマユーン廟の美しい廟建築は、後にタージ・マハルの建築様式にも影響を与えたといわれています。

 

 

■赤い城:ラール・キラー

ディワニ・アーム
ディワ―ネ・アーム(一般謁見所)

ムガル帝国第5代皇帝:シャー・ジャハーンがアグラからデリーヘと遷都して造営した要塞。新たな都は彼の名をとって「シャージャハナバード」と呼ばれ、これが現在のオールドデリーの基礎となっています。赤砂岩でできているため、ラール(=赤い)・キラー(=城)と呼ばれており、強固な外壁の印象とは対照的に、内部には華麗な装飾の施された豪華な建築が並んでいます。

 

 

シャー・ジャハーンはタージ・マハルを建設した皇帝。園内には彼の妻ムムターズ・マハルの暮らした宮殿をはじめ、かつては数々の宝石で飾られた「孔雀の玉座」を擁する謁見の間など、数々の美しい建築群が立ち並んでいます。

 

左からディワニ・カース(来賓用謁見所)、カース・マハル(ムムターズ宮殿)、ラング・マハル(ハーレム)
白大理石の建築群。左からディワーネ・カース(来賓用謁見所)、カース・マハル(ムムターズ宮殿)、ラング・マハル(ハーレム)

 

ディワニ・カースの内部装飾
ディワーネ・カースの内部装飾

タージ・マハルをはじめとする建築による巨額の出費、また版図拡大やマラーター同盟との戦闘などによりムガル帝国はその力を失い、第6代皇帝アウラングゼーブの死後は急激に弱体化していきます。広大だった支配領域もデリー周辺に限られたものとなり、近隣の王国やイギリスの侵略によって皇帝の権威も名目的なものとなっていきました。

 

1857年のセポイの反乱の際にはムガル帝国皇帝を擁立してインドの諸勢力が挙兵しますが、英軍の圧倒的な軍事力によって制圧され、最後の皇帝:バハドゥール・シャー2世の追放をもってムガル帝国は解体されました。その後はイギリス領インドとしての歴史を歩んでいきます。

 

 

当時は、ここラールキラーはムガル文化の中心地として様々な芸術、文学が栄えました。現在は、一部が軍施設として利用されていますが、ほとんどは美しく整備され広い庭は市民の憩いの場所になっています。

また、毎年8月15日の独立記念日はラールキラーにて首相演説が行われ、1月26日の共和国記念日にはパレードが行われる等、国家規模の主要な行事の舞台となっています。

 

 

今回、デリーの世界遺産3か所を紹介しましたが、歴史的建造物以外にもデリーには見どころが盛りだくさん。その内容はまた追ってご紹介させていただきます!

 

カテゴリ:■インド北部
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インドの宝となった「妻への愛」 タージ・マハル

インドを代表する世界遺産・タージマハル。誰もが一度は目にしたことがあると思います。ムガール帝国の5代皇帝シャー・ジャハーンが亡き妻を偲び1632年に着工し、1653年に完成させた巨大な霊廟です。

 

Taj Mahal
タージマハル

シャー・ジャハーンの寵愛を受けた妻ムムターズ・マハルは彼との間に14人もの子供をもうけ、最後の14人目の息子のお産中に36歳の若さで亡くなりました(ちなみに、ムムターズ・マハルの14人の子供のうち、成人したのは男子4人と女子2人のみでした)。
シャー・ジャハーンは彼女を戦にまで連れて行く愛しようで、一説では彼女の死を悼んで、一晩で黒々とした髪が真っ白になったと言われています。
ムムターズが亡くなった翌年にタージマハルの着工が始まり、ラジャスタン地方から約10,000頭もの象で運んだ白大理石、世界各地から運んだ数々の宝石。建設にかかった費用は明らかではありませんが、国の財政を傾けるほどだったと言われています。

 

Taj Mahal
タージマハル 中央

白大理石の壁面は赤サンゴやオニキス、ひすいなどを用いて装飾されています。下から見上げると太陽光を反射した宝石がきらきらと光り大変美しいです。

 

タージマハル完成からわずか4年後、シャー・ジャハーンは病床に臥します。その後、息子たちの間で皇位継承の争いが行われ、勝ち取ったのは第3皇子アウラングゼーブ。彼は成人した兄弟全てを殺害し、その座を奪取しました。
更には実父のシャー・ジャハーンを1658年、タージマハルからほど近くに建つアグラ城に幽閉。亡くなるまでの約8年間、シャー・ジャハーンは幽閉された部屋の窓から明けても暮れてもタージマハルを眺め、妻を偲ぶ余生を送ることになりました。

 

Taj Mahal
アグラ城から望むタージマハル

現在、世界遺産に指定されているアグラ城。シャー・ジャハーンが幽閉されていた小部屋(テラス)も見学することができます。ムガール様式のアーチ状の小窓を覗くと、タージマハルとその傍をゆっくり流れるヤムナー川の風景。シャー・ジャハーンの時代から変わっていないだろうこの風景は、王の悲しみと王妃への強い気持ちを今も伝えてきます。

 

ちなみにタージマハルは、 2015年秋より大規模な修復&クリーニング作業が行われ、ドーム、ミナレット(尖塔)の周りに木組みの作業台が設置されている状態が約4年程続いていました。現在はほぼ完了しておりますので、大気汚染等の影響を受けやや黄ばんでいたタージマハルは今は白くピカピカです。

 

Taj Mahal

 

夕方のタージマハルもおすすめ。こちらは、ヤムナー川を挟んでタージマハルの反対側に位置するマターブ・バーグからの撮影です。夕刻はタージマハルがピンク色に染まります。マターブ・バーグはもともとはシャー・ジャハーン自身の墓・「黒いタージ」の建設予定地でした。三男に皇帝の座を奪われてしまったことで実現には至りませんでしたが、現在は庭園として整備され憩いの場所となっております。

 

Taj Mahal
夕方、マターブ・バーグから眺めるタージマハル

現在、タージマハルには観光シーズンの週末ですと1日6~7万人程が訪れています。今後政府は混雑緩和と施設保護の観点から、1人当たりの観覧時間を最長3時間、インド国民の入場者数を1日4万人に制限することを発表しました(外国人観光客にはこの制限は適用されません)。

 

インドを代表する遺産であり、ムガール帝国時代の栄華を象徴するタージマハル。時間帯によってもその見え方、輝き方が異なります。ぜひ一度と言わず何度か足を運んでいただきたいです。

 

Taj Mahal

 

※この記事は2012年1月のものを修正・加筆して再アップしたものです。

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